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7.
五島は科学言語について、結局は自明に過ぎないことを千鳥足で漠然と解説したのち、それは一般の散文にも言えることだとして、次のように続けている。

もっとも、このことは何も物理学に限ったことではない。日常会話を含めたすべての散文的言表に当てはまる。つまり、散文によって自然現象を記述するということは、言語によって自然現象を抽象化しているに過ぎず、却って自然現象の本性である無限定性から目をそらすものである。
(五島高資「俳句という創造(1)」)

ここには特別大きなまちがいはないと言ってもよい。「却って」以下が気になるくらいである。すでに先述したとおり「無限定性」を「自然現象の本質」とするのは、ひとつの独断的な哲学的主張である(どうやって五島はそのことが真であると知ったのか?)。また「目をそらす」というのは、論拠なしの乱暴な価値判断である。散文的言表、というよりも、(先取りして言えば)「韻文」も含めた言語表現というものは、一般的に言って、そもそもなんらかの事象についての抽象にほかならないのではあるまいか。そうであるならば、散文をことさらに「自然現象の本性」から「目をそらす」ものだとしておとしめる意味はなくなる。
しかし、きりがないのでここは目をつぶろう。
五島は、このあと、「雪は白い」という発言を例にして、これは雪の実際の色彩の多様性をあらわさないといった、もっともではあるがありふれた言語学談義を一席ぶったあと、いよいよ本題に入ってゆく。重要なポイントなので、節を改めて引用しよう。

8.
それでは、言葉で以て物事の本性あるいは真実といったものを伝達することはできないのだろうか。答えはもちろん「可能」であ ると言いたい。しかし、正確に言うならば、真実は伝達されるものではなくて、言葉のなかに立ち現れるといった方がいいかもしれない。それを可能ならしめるのがまさに言葉によって言葉を超えうる「詩」における直感的真実の顕現なのではないだろうか。そのために特に重要な役割を果たすものが、散文に欠けているところの韻律というシステムなのだと思う。
(五島高資「俳句という創造(1)」)

前に引用したものとは別の意味で、わけのわからない文章だが、読者に請け負ってもよいが、これがつまり五島の俳論のアルファでありオメガなのである。五島の話は常にこの周りをだらだらとしまりなく徘徊している。しかし、決して五島はここで言われていることを論証しえていない。むしろ常に、決して疑われることも検証されることもない前提としている。散文表現とは違って、韻文表現の代表であるところの「俳句」は絶対的真実を現す。これが五島ご自慢のテーゼ、あるいはドグマである。注意しておきたいのは、ここで「散文」と「韻文」が、ある価値判断を伴って対立させられていることだ。五島はいつも(西洋のものだというわけのわからぬ形容つきで)「二項対立」を目の仇にしているが、自分に都合の良い「二項対立」は、このように自己の論述の核心にさえ、臆面もなく引き入れているのだ。これはたかだか例の一つでしかなく、五島好みの「二項対立」はほかにもあるだろう。「二項対立の克服」などと言うなら、五島はまずおのれの二項対立的思考をなんとかせねば話にならないのではあるまいか?
ここで「常識」に立ち帰って考えてみたいのだが、例えば散文において「雪は白い」と言うことが「自然現象の本質」から「目をそらす」ことだとして、なぜそこに韻律がさしはさむやいなや、魔法のように「自然現象の本質」を立ち現すことになるのだろうか? 読者諸賢にはわかるだろうか? 私にはわからない。私ならもっと穏健で多くのひとに受け入れてもらえそうなテーゼ、例えば、文学表現(散文も韻文も含む)は科学言語とは別の仕方で自然をとらえている、あるいはもっと一般的に、文芸は科学とは別の価値がある、と言ってすませたいところだ。韻律を一種の表現の効果としてとらえる、ということではいけないのだろうか? なにゆえ、それは(絶対的)「真実」などという重荷を背負わされねばならないのだろうか?
どうにも私はここで、ある種の呪術的おとぎ話を相手にしているような気がして仕方がない。むろん、それならそれで望むところともいえるが、実際には五島は、おのれのドグマを科学の装いで正当化しようと躍起なのだ。
それではつづけて、韻律の担う「重要な役割」とやらを見ていこう。

9.
つぎはちょっと眩暈を起こしそうな文章だ。

日常における散文的言表が、韻律を持ったときそれは詩歌になる。古来、歌うという行為は、舞う、唱えるといった行為とともに神々とのコミュニケーションの手段であった。それは魂と魂を結びつけ共振させるものであり、本来の言葉が持つ波動的作用の姿がそこにはある。もっとも、宇宙開闢がビッグ・バンであるとするならば、最初に生成された素粒子における波動性が、全宇宙のすべての物象における様々な性質に深く関わっていることは容易に推測される。
(五島高資「俳句という創造(1)」)

ここでは、詩歌の「韻律」、魂間の「共振」(これは比喩だろう)、「本来の言葉が持つ波動的作用」(韻律を意味したいのだろうか?)、素粒子の「波動性」という、それぞれ意味の異なる語が、あたかも同一のことをあらわすかのように使われている。「もっとも」以下の叙述を文字通りに読むかぎり、五島は素粒子(の波動性)が「韻律」を(どのようにしてかは知らないが)形成しているのだと言っていることになる。もちろん、本気で言っているのではないのかもしれない(そう願いたい)。しかし、のちに五島は同様にして、遺伝子が長歌や短歌を生成しているかのような論述もしている。いずれにせよ、だれもまじめにとることのできない馬鹿話だ。
どうでもよろしい感想を言えば、なんだか「要素還元主義」的だ。それにしても、こんにちでは物質の究極的単位は素粒子ではなく、「ひも」だか「膜」だからしいのだが、その場合、五島はどういうまことしやかな話をしてくれるのだろうか(とはいえ、振動する「ひも」らしいから大勢に影響はなさそうだ)。つけくわえると、素粒子の粒子性は韻律にどうからむのだろうか? ともあれ文字通りに読むかぎりは、なんだか韻律よりも素粒子(の波動性)がより基礎的な地位にありそうに見える。ところで、かりに俳句で「素粒子」を詠むとするならば、それは素粒子自らが素粒子の絶対的「真実」を立ち現したということになるのだろうか?

10.
  五島は以下のような文章をつづけている。

近年、宇宙にあまねく存在するリズムの変動幅を表す「1/f(振動数)ゆらぎ」というものが存在することが知られている。それは、原子の運動から、リラックス状態の脳波・心拍・クラシック音楽、さらには星の瞬きに至るまで全宇宙に遍在しており、私たちが心地良いと感じる普遍的な律動と考えられている。ちなみに、M・ルターは「音楽は聖書の言葉に生命を与える」と述べたというが、キリストによる救霊の宣教として単なる言葉を超えた「神の力」のことを「福音」と呼ぶのもそのせいかもしれない。もっとも、古神道やその他のシャーマニズムにおいても、託宣における人語から神語への転換に琴や太鼓などによる音楽が重要であることは言うまでもない。
(五島高資「俳句という創造(1)」)

少々長く引用したが、五島の文章の支離滅裂ぶりをじっくり味わってほしい。一文づつはさほどおかしく見えないが、相互に関連のないただの「思いつき」をずらずら並べているだけである。こういうものにつきあわされるのが一番つらい。
ルターを引合に出しているが、意図不明である。だいいち、「福音」Gospelとは「良き知らせ」good newsのことで、この場合「音」は「音楽」の意味ではない。しかも五島は失敬にも「福音」宣教をシャーマニズムとごっちゃにしている。イエス・キリストが笛を吹いたり、太鼓を叩いたりしながら教えを説いたシーンが、聖書の何処に書かれているのか、ぜひともご教示ねがいたいものである。
しかし、この文章に対しては一言ですむだろう。つまるところ、「1/fゆらぎ」と「韻律」とに、なんの関係があるのだ?

11.
次は不適切なアナロジーの典型例だろう。五島はまず原子と分子の関係について記述し、言語に関連づけようとしているが、成功しているようには見えない。

例えば、水分子の生成の場合、酸素原子に二つの水素原子が結合する際に、その原子価角は一〇五度となり、これが水素や酸素の属性からは予想も出来ない特殊な水の性質を表すことになる。
このことを言語にも当てはめてみると、言語もやはりシニフィアンとして音素を伴っているかぎり、言語どうしにおいても、それらが韻文として結合するとき、言語Aと言語Bの結合はA+Bという単なる総和を超えて、Cという新しいシニフィエつまり意味内容が獲得されるという「言葉の化合」が期待される。しかし、それはほとんど予測不可能なものに違いない。予測とは、あくまで既知のAとBの属性から経験的に類推されるものであるかぎり、それによって示されるものは単なる組み合わせに過ぎず、既知の範疇を超えるものではない。
(五島高資「俳句という創造(1)」)

「シニフィアン」と「シニフィエ」をずいぶん乱暴に扱っている。だいいち、「シニフィアン」=音素としているが、そんな説があるのだろうか? 「シニフィエ」=意味内容なら、シニフィアン=「意味表現」としなければつじつまが合わない。それに通常、記号論ではシニフィアン=「記号表現」・シニフィエ=「記号内容」とし、二つがコインの裏表のように統合されたものをシーニュ=「記号」と見なす。「意味表現」「意味内容」ではシーニュが「意味」ということになるが、これは変ではないだろうか? しかし、ここは重要でないので先に進もう(そもそも文章の語のつながりがわかりにくすぎるのだ)。
まず言っておかなければならないが、言語は、例えば音素ー単語ー文というような階層構造を成しているから、原子ー分子のような階層構造をもつもの(この場合は物質)とのアナロジー的な関係にあることは事実である。もちろん、それがわかったからいってどうなるわけでもないが、五島はそうした容易で可能なアナロジーを行っているのではなく、どう見ても無理な重ね合わせを強引にしている。原子の結合による分子の生成は、いったん分析され知識として集積されたのちは、予測可能である。酸素や水素自体をいくら調べても水の特性がわからないとしても、われわれはみな、水素と酸素を合わせれば水になることを知っている。ひいき目に見ても、言葉と言葉の結合による新たな意味の創造についてのたとえとして、「水」を例に出すのは失敗だろう。
ここで五島が念頭においているのは、おそらく俳句の世界で言う「二物配合」あるいは「取り合わせ」と思われる。それならそれで、水の原子ー分子構造のような不適切なたとえを持ち出すことなく、直接その話をすればよいだけの話だ。こういうもってまわった言い方をしたあげく、読者になんら明快な像を与えない文章こそ、知的テロルと呼ぶにふさわしい。最後の
「予測とは、あくまで既知のAとBの属性から経験的に類推されるものであるかぎり、それによって示されるものは単なる組み合わせに過ぎず、既知の範疇を超えるものではない」
という文に至っては、まったくちんぷんかんぷんである。いいおとなが書く文章ではない。五島の評論の類を読んだひとの中には、難解そうに見えるので、理解できないのは自分の知力が足らないせいだと思っている方々もいるだろうが、心配せずとも大丈夫である。あなたに落ち度があるわけではない。

12.
次は、先に五島のドグマとして取り上げた箇所の繰り返しである。

「詩」の機能は、言葉が韻律を獲得することによって、「もの」の本性を隠蔽している言葉に付随する固定観念を振り解いて、新しい言葉と言葉の関係性のなかに普遍的真実を発見することを可能にする。定義上どうしても超えることの出来ない近代科学や散文における言語の壁を超えうる方法の一つとして「詩」があり、それは「真実」のみならず私たち自身の真の存在をも確認することができるのである。
(五島高資「俳句という創造(1)」)

ここまで私の論考を読んできた方には解説は不要だろう。韻律の獲得によって言葉が「普遍的真実」を発見することが可能になる、ということを、論証しえていないことを再度確認すれば足りる。ひとつ、記憶にとどめてほしいのは、最後の文で
「それは「真実」のみならず私たち自身の真の存在をも確認する」
と言われていることだ。この「真の自己実現」という理念は、「俳句は絶対的真実を現す」というドグマの系として、五島の文章に頻繁に出てくるものなのである。標語風にいうなら「俳句で本当の自分を見つけよう!」とでもなるだろうか(この程度ならほほえましいのだが・・)。
さて、これまでは、「現代思想と現代俳句 俳句という創造」の連載すべての序文にあたる「はじめに」の部分を分析してきた。この「はじめに」の末尾において、五島は次のようにまとめている。

今回のシリーズでは、最も進化した詩形式の一つとしての「俳句」という韻文の詩的メカニズムについて現代の「知」を通して考察していきたいと思う。
(五島高資「俳句という創造(1)」)

「現代の「知」を通して」と言っているが、当てになりそうもない、ということはこれまでの私の指摘で確認できたと思う。
余談になるが、あるいは「俳句評論なのだから、五島の科学知識におかしなところが多少あってもよいのではないか。それをあげつらう必要はないのではないか」と思われる方もいるだろう。しかし、五島は「現代の「知」を通して」俳句を考察するのだと宣言しているのであるから、その五島の「知」の内実が問われるのは当然だろう。これを、人間なのだから間違うこともある、などという一般論に還元することはできない。私は評論がぜひとも持つべき知的規範を問題にしているのだ。あらかじめ「批評」の対象になることを拒むなら、評論の執筆者として無責任であるし、書くことに自信がないようなことは、そもそも書くべきではない。例えばインターネット上のBBSのようなラフな場面とは異なる条件下にあることを自覚すべきだろう。


(以下つづく・・Tachibana Kichikusai)


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