マリア崇敬についての誤解は多々あるが、431年のエフェソス公会議におけるマリアの尊称「神の母」の決定を、あたかもマリア「崇拝」がおおっぴらに容認されたのだ、というような解釈を目にすることは稀ではない。しかもこれが、マリア崇敬に批判的なプロテスタントに見られるだけでなく、非クリスチャンの学者の記述にもよくあらわれていることは、実に驚くべきことである。教理史や教会史についての無知と無関心から来ているとしか思えない。次は典型的な例だろう。
第一の教義は、四三一年、小アジアのエフェソス公会議で、マリアを「神の母=テオトコス(Theotokos)」としたものだ。エフェソスは古代地中海世界でアレクサンドリアにつぐ第二の都市で、女神信仰アルテミスの信仰の本拠地だった。「使徒行伝(一九)」の中では、パウロがキリスト教を布教に来て、エフェソス人の人々がアルテミス神殿の模型などを作っているのを偶像崇拝だと批判したので、人々は「大いなるかな、エペソ人のアルテミス」と叫んで暴動を起こしたという記録がある。
キリスト教は結局、聖母マリアのイメージをアルテミスに置きかえることで何とか布教に成功した。すると、エフェソス人たちは、今度はマリアを絶対崇拝しはじめた。
ここで聖ヨハネは福音書を書いた。エフェソスは、エルサレムとアンチオキアに次ぐ初期キリスト教第三の拠点になった。マリアに捧げる最初の教会も建てられた。
その教会で、四三一年に公会議が開かれた。マリア崇拝に絶対反対していたネストリウス(コンスタンティノープル総大司教)一派を締めだして、エフェソス人にたきつけられたキリウス(アレクサンドリア総大司教)一派だけで強引にマリア礼拝を決議してしまった。エフェソスには今もこの教会堂が残っている。マリア信仰は、その第一教義の時からすでに波乱を含んでいたわけである。
(竹下節子「聖母マリア <異端>から<女王>へ」(講談社選書メチエ、1998、pp119-120)
これはひどい出鱈目である。それは言いすぎにせよ、誇張に満ちた表現と乱暴な推論によって作られた空想非科学小説のごときである。
【エフェソス公会議】431年、テオドシウス2世によって第3回公会議が召集される。「テオトコス」というマリアの称号に関するネストリオスの発言に起因するが、その背景にはアレクサンドリアとアンティオキアのキリスト理解の相違があった。アンティオキアの主教団の到着の遅延のため、アレクサンドリアのキュリロスの指導で会議は開催された。キュリロスのネストリオスに宛てた第2書簡が承認され、ネストリオスは断罪された。遅れて到着したアンティオキアの主教団も会議を開き、キュリロスとエフェソスの主教メムノンを断罪。皇帝が介入して3者の罷免・逮捕を発令。しかしキュリロスは凱旋のうちに帰国、ネストリオスは修道院に幽閉された。(小高毅)
まず「マリア崇拝」だの「マリア礼拝」だのと平然と述べているのが目につく。カトリックでは神に対しては「礼拝」、マリアや聖人に対しては「崇敬」と明確に使いわけている。竹下は「カトリック史」が専門であるとプロフィールにあるが、基本用語すら修得していないようだ。
またエフェソスがアルテミス信仰の中心地であったことを、なにやら意味ありげに叙述したのちに、
「キリスト教は結局、聖母マリアのイメージをアルテミスに置きかえることで何とか布教に成功した。すると、エフェソス人たちは、今度はマリアを絶対崇拝しはじめた」
などということをまったく考証抜きに記すとは、いったいどういうつもりなのか。竹下が持ち出している使徒行伝の記事を読めばわかるが、パウロ宣教以前にすでにキリスト教のグループがいて、若干ながらも「布教に成功」していたことがわかるし、暴動についてはアルテミス神殿の模型を作っていた銀細工職人たちが商売の邪魔をされそうになったことに起因するものであり、たきつけられた群衆が女神をほんとうに<絶対崇拝>していたかどうかまでは不明である。というのも、
「さて、群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった」(使19:32)
とあるように、暴動につきものの「野次馬」的な人々も多数参加していたと見られるからである。また、町の書記官が群衆をなだめようとして、
「諸君がここへ連れてきた者たちは、神殿を荒らしたのでも、我々の女神を冒涜したのでもない」(使19:37)
と言っていることからすれば、パウロがここで異教徒の「偶像崇拝」を直接批判したかどうかも怪しい。確実なことは言えないが、これは新興宗教と地元住民との、双方の誤解に基づくよくあるトラブルといった類のものに近いのではないだろうか。なるほど突発的な暴動のようなものはあったにせよ、キリスト教徒と異教徒は基本的には相互に干渉せずに共存していたのではないかと思われる。本格的な迫害以前においてはローマ当局もキリスト教徒をそれほど危険視していなかった。
このように冷静に資料を観察するかぎり、エフェソス人がみなアルテミス崇拝からマリア「崇拝」に一斉に乗り換えたかのごとくにいう竹下の描出の仕方は、あまりに平板で悪い意味でマンガ的空想の産物でしかない。なにより、この暴動からエフェソス公会議までは300年を越える時間の開きがある。この間にキリスト教の布教が徐々に進み、それとともにアルテミス崇拝は自然に廃れていったのだと考えても、少しもおかしいところはない。
竹下の演出過剰の下手な空想がもっとも発揮されているのは、
「マリア崇拝に絶対反対していたネストリウス(コンスタンティノープル総大司教)一派を締めだして、エフェソス人にたきつけられたキリウス(アレクサンドリア総大司教)一派だけで強引にマリア礼拝を決議してしまった」
という箇所だろう。竹下は何を根拠にこんな非現実的なことを書いているのか。とくに「エフェソス人にたきつけられた」という箇所は、まさに「見てきたような嘘」と言うしかない。これはマリア崇敬を民衆の迷信と決めてかかって、その実相を知る気がさらさらない竹下の知的傲慢と怠惰を表しているに過ぎない。
まず「エフェソス公会議」がどういうものだったか、客観的な歴史を見ておこう。「岩波キリスト教辞典」によれば、
(「岩波キリスト教辞典」<エフェソ>の項、岩波書店、2002年)
ということである。「エフェソス人にたきつけられて」などという話は影も形も見えない。もちろん、言及がないからそういうことはなかったとは断定できない。しかし、上のような歴史の流れを見ると、「エフェソス人にたきつけられて」などというのはいかにも不自然であり、この中に入れる余地はあまりありそうにない。「マリア礼拝を決議してしまった」に至っては馬鹿々々しくて話にならない。カトリックにおいて「マリア礼拝」は公式に禁じられていることを「カトリック史」を修めた竹下節子はご存じないのだろうか?
エフェソ公会議(四三一年)以降、古代教会はマリアのことを単にイエスの母ではなく、神の母と呼び始めた。それはマリアの宿した子イエスが、真に人になった神であることを、異端を排して公に宣言したことから、イエスの母を神の母とも呼んで、マリアの選びの恵みを賛えたのである。
さて、エフェソス公会議でのマリアの称号「神の母」の決定について、歴史的文脈をもう少し概観しておこう。「岩波キリスト教辞典」に「その背景にはアレクサンドリアとアンティオキアのキリスト理解の相違があった」とあるように、教理的背景も見落とせない。こうした視点を確保することなしには、「神の母」決定=マリア「崇拝」容認などという頓珍漢な理解は避けられない。
まず、「神の母」という尊称自体は4世紀にはアレクサンドリアの教父によって使われており、その後一般にも広まっていたようである。428年、配下の司祭アナスタシオスが「神の母」(テオトコス)という尊称を異端的と非難したことをネストリオスが支持し、「キリストの母」(クリストトコス)と呼ぶべきだと主張したことから論争ははじまる。429年、アレクサンドリア主教キュリロスがネストリオスに激しく反論。両サイドともローマに提訴するが、430年、時の教皇ケレスティヌス1世はネストリオス説を論難し、キュリロスも「12の呪祖宣告」という文書で彼を弾劾した。この分裂を収拾すべく開催されたのが431年のエフェソス公会議で、結果的にネストリオスは排斥され、435年にはその著作も異端とされ、翌年エジプト奥地へ追放、そこで没したということだ。
ここで強調しておかなければならないのは、ネストリオスの「神の母」という称号への批判は、なにもマリア「崇拝」の批判といった動機から発したものではない、ということだ。この「神の母」論争において主題となったのはマリアではなく、あくまでキリストである。キリストの人性と神性の関係が焦点であった。
ネストリオス属するアンティオキア学派と、キュリロス属するアレクサンドリア学派(ただし、「キリスト教史 2」(平凡社ライブラリー、原書1963年、訳書改訂文庫版1996年)pp245-246では、同学派はキュリロスによって創始されたとしている)は、ともに「両性説」を支持していたが、前者がその区別を重視したのに対して後者はその統合に関心が向いていた。ネストリオスは、のちの単性説につながるアポリナリオス(381年コンスタンティノープル公会議で排斥)のキリストの人性を神性に還元するごとき考えに反対する延長上で、キリストのまったき人性を強調した。ネストリオスが「人性のみ」を主張したという誤解が広まっているが、それは正しくない。また、「二つの本性ではなく二つの人格がキリストにおいて並存する」という主張も誤ってネストリオスに帰せられているが、これも正しくない。のちのいわゆる「ネストリオス派」もネストリオスの思想そのままを受け継いだわけではないので注意が必要である。
ネストリオスは、アポリナリオス流解釈は受肉したキリストのまったき人性を毀損するものであり、「神の母」という尊称はそうした誤謬を助長すると考えて批判したわけである。ネストリオスが「人間の母」ではなく「キリストの母」という呼称を代案として出していることからも分かる通り、彼はキリストの神性も無視してはいなかった。その一方で、両性の統一性も肯定していたので、総じて見て、ネストリオスは決して理のないことを言っていたわけではない。キュリロスは、ネストリオスの主張では「二人のキリストがいることになる」と論難したが、これは論敵を陥れるためのある種の誇張ではないかと思われる。
ネストリオスの悲劇は、当時のアレクアンドリア、アンティオキア両学派の思想伝統と神学用語の違いや、彼の激しい気性とキュリロスの政治的巧智などの複雑な要因からなるものである。そういうことを踏まえて竹下の文章をもう一度とっくり読んでみてほしい。
「マリア崇拝に絶対反対していたネストリウス(コンスタンティノープル総大司教)一派を締めだして、エフェソス人にたきつけられたキリウス(アレクサンドリア総大司教)一派だけで強引にマリア礼拝を決議してしまった」
ここに1パーセントでも、なにか真正に歴史的な客観性の跡を読者はお感じになることができるだろうか? そもそもキュリロスは、別に「エフェソス人にたきつけられ」るまでもなく、会議の2年前からネストリオスと激しい論戦を繰り広げていたのだ。あたりまえのことながら、それは「マリアは女神かどうか」といった争いでは全然なかった。
エフェソス公会議でのネストリオス排斥後、キリスト両性説は451年のカルケドン公会議で完全な定式を生む。それはアレクサンドリア、アンティオキア両学派の思潮間のバランスをうまくとったものである。すなわちそこでは、
「唯一かつ同一の」イエス・キリストは「真の神であり、真の人間」であり、「神性において父と同一本質の者(ホモウーシオス)であり、かつまた人性においては我々と同一本質の者(ホモウーシオス)」であり、「2つの本性において混合されることなく、変化することなく、分割されることなく、分離されることがない」と宣言される。(小高毅)(「岩波キリスト教辞典」<カルケドン公会議>の項)
この後も反カルケドン派(単性論等)が登場してどたばたは続くが、これすべてキリストの「2性1位格」をめぐる論争であり、マリアの尊称「神の母」も、それに付随した話でしかない。
たしかに、「神の母」という称号はマリア崇敬から来ており、エフェソ公会議はそれを公に承認したと言えなくはない。その点でマリア崇敬への象徴的意味は間違いなくある。しかし、この公認の理由は、くわしく見てきたとおり、マリアがどうのこうのというよりも、キリストがまさしく神にほかならないから、というところにある。それゆえ、Dave Armstrongの言い方を借りれば、「神の母」という称号は、「マリア中心的」な名なのではなく、むしろ「キリスト中心的」な名なのである。
実際、宗教改革の創始者たちも「神の母」という呼び名を否定していない。例えばルター派の「和協信条」でも、やはりキリストの「2性1位格」の教義を述べる中でマリアを「神の母」と呼ぶのは正しいと明言している。これがカルケドン信条を踏まえたものであることはいうまでもない。
しめくくりに、カトリック神学者吉山登の堅実で建設的な意見を引用しておこう。
このような呼び名に対して、マリアを神格化する恐れありとして、現在多くのプロテスタントは反対しているようであるが、神が無名の一人の女性に神である救い主を宿すという恵みを与えたことに、神の人類に対する人間にははかり知れない愛をできるだけ深く考えてみたいと思うのである。
人間が偉人や聖者を神のように敬い、畏れるということはよくあるが、神が人間に神の子を宿させるほど深く関わるということは、人間にはどれほど考えても思い及ぶことではない。
神の全く自由なイニシアチーブによる行いと考える以外ないので、マリアを御子の母として選ばれた父なる神という方の人類に対する限りない愛を思わなければならないのである。
このような考えによれば、マリアを神の母と呼んでも、子であるイエスの神性までマリアが創造したかの如くに考えるというような、母性神話の類いの発想は完全に避けられるのである。
神の母マリアの呼び名を、人間マリアの受けた神の恵みの限りなさを賛える以外の意向をもって呼ぶことは聖書と原始教会の忠実な伝承から生まれてくることではない。マリア信心が、母性神話などを基にした通俗的、神話的信仰表現になる危険は常にあったが、教会はそれらを常に警戒し、行き過ぎを批判してきた。現代のように西欧の神学、文化人類史などの専門的研究は、あらゆるマリア信仰の通俗と教会の一貫したマリア神学との区別なども明らかにすることができる。マリア、特に神の母マリアという信仰を、女神崇拝神話のようにとらえて解明しようとする啓蒙主義的研究や主張は、教会の一貫した信仰と相容れないものである。
(吉山登「マリア」(人と思想 142)、清水書院、1998年、pp123-124)
身びいきに思えるところがあるのも否めないが、ろくな資料批判も考証も経ていない竹下節子のポンチ絵のごとき下品なマリア観に比べれば、思想的深さの差は歴然としていよう。つまるところ、神のキリストによる救いの計画の中で、いかに適切にマリアを位置づけるかが(カトリックの)信仰において肝要なのであり、マリアをめぐる神学的思考の基礎もそこにあるのだろう。これはマリア崇敬を地母神崇拝へと還元するような研究の端的なつまらなさに対して、思想的魅力があることも認めざるをえない。
<補遺>
テオトコスTheotokosは直訳では「神を産んだひと」である。正教会では直訳に近い「生神女(しょうしんじょ)」という訳語を採用してる。この方が「女神」と誤解されずにすみそうだが、別の誤解を生むかも知れない。結局、どんな語も歴史的文脈抜きに勝手に解釈すると、とんでもない法螺話を信じてしまう危険があるということだ。
(20030518:Tachibana Kichikusai)
<参考文献>
竹下節子「聖母マリア <異端>から<女王>へ」、講談社選書メチエ137、1998年
吉山登「マリア」(人と思想 142)、清水書院、1998年
小田垣雅也「キリスト教の歴史」、講談社学術文庫、1995年
松本宣郎「ガリラヤからローマヘ 地中海世界をかえたキリスト教」、山川出版社、1994年
H.R.ボーア「初代教会史」、教文館、原書1976年、訳書1977年
上智大学中世思想研究所編訳/監修「キリスト教史」1・2巻、平凡社ライブラリー、原書1963年、訳書(改訂文庫版)1996年
岩波キリスト教辞典、岩波書店、2002年
現代カトリック事典、エンデルレ書店、1982年
キリスト教人名辞典、日本基督教団出版局、1986年
新共同訳聖書、日本聖書協会、1987年
<後記>
さて、「神の母」という呼称の起源は今もって曖昧を極めている。フーゴ・ラーナーほかの精力的な研究、あるいは近年のニューマンの明確な主張ーー「テオトコスという呼称はキリスト発生のごく初期からキリスト教徒にとっては馴染みだった」ーーにもかかわらず、この呼称が四世紀以前に使われていた絶対の証拠は皆無である。この呼称の初出例はアタナシウスの町アレクサンドリアである。アタナシウスの庇護者で前任司教のアレクサンドル司教がアリウス派の異説に対する三一九年頃の通達文書でマリアに「神の母」と言及している。それから数十年後「背教者」ユリアヌス帝は呼称「神の母」を嘲笑するが、これを含むさまざまな証拠からこの呼称はアレクサンドリアを中心にキリスト教徒の間でかなり普及していたと考えられる。近年以降はマリアをギリシア/ローマの異教の「女神」になぞらえる説がしきりに唱えられているが、歴史はこの説に必ずしも有利に働くとは限らない。テオトコス、すなわち「神の母」という用語は明らかにキリストの風土から発生したもので、聖なる救世主の母親マリアに対する信仰から生まれ、後にその神学上の正当性を教会から「お墨付き」の形で得たものだった。(前掲書、p80 *太字強調は引用者による)
ちなみにこの書の翻訳には問題が多い、ということを付け加えておく。
(20030520:Tachibana Kichikusai)
その後、ヤロスラフ・ペリカン「聖母マリア」(青土社、原書1996年、訳書1998年)を読む機会に恵まれた。読みやすく手頃でありながら、最新の研究をふまえた堅実で見識の高い書であると思う。急いで消化することはできないので、今回の論考に反映することはできなかった。参考になる箇所を引用するにとどめる。