「神の母」は女神ではない(続)


(はじめての方は先に 「神の母」は女神ではない をお読み下さい)

前回竹下節子の本を批判的に取り上げたが、上には上があるというか、世の中になんとかの種はつきないというか、一読唖然としてしまう想像を絶する本にまみえた。中丸明の「聖母マリア伝承」(文春新書)なる本であるが、全編キリスト教(とりわけカトリック)への嘲弄にみちた粗野で下品で知的良心のかけらもないゴミクズである。よくもこんな節度を欠いた有害書を平然と世に送り出したものだと感嘆する。
中丸は、マリアについてよく知りもしないで口出しする連中がかならずやるように、例によってエフェソス公会議における「神の母」について叙述せずにはいられなかったようだ。その箇所を引用してみよう。

が、四三一年、ギリシア神話の女神アルテミス信仰のさかんなエフェソスで公会議が開かれたとき、「女神アルテミス=聖母マリア」と喚きたてるエフェソス人に焚きつけられたキリウス(アレキサンドリア総大司教)一派はネストリウス一派を締め出し、「マリアをテオトコス(神の母)と呼ぶことを信徒のすべてに義務づける。聖マリアを神の母と認めぬ者がいるなら、その者も破門する」と恫喝し、この会議でマリアが正式に「神の母」として認知された。マリア信仰はその第一教義制定のときから、すでに大いなる波乱を内臓していたのである。
(中丸明「聖母マリア伝承」(文春新書061)、文藝春秋社、1999年、p136)

竹下の描写について「見てきたような嘘」と評したが、ここまでくるともう針小棒大というほかない。白昼夢の錯乱した頭でお書きになったのでもあろうか。
キュリロス(キリウス)の発言部分(ここはペリカン「聖母マリア」p78からツギハギして挿入している)以外は、竹下の「聖母マリア <異端>から<女王>へ」pp119-120を下敷きにしていることはすぐわかろう。ところが、中丸は竹下の空想をさらに押しすすめて、できるだけ大げさでドギツイ印象を与えるよう腐心している。
竹下本では、

第一の教義は、四三一年、小アジアのエフェソス公会議で、マリアを「神の母=テオトコス(Theotokos)」としたものだ。エフェソスは古代地中海世界でアレクサンドリアにつぐ第二の都市で、女神信仰アルテミスの信仰の本拠地だった。「使徒行伝(一九)」の中では、パウロがキリスト教を布教に来て、エフェソス人の人々がアルテミス神殿の模型などを作っているのを偶像崇拝だと批判したので、人々は「大いなるかな、エペソ人のアルテミス」と叫んで暴動を起こしたという記録がある。
キリスト教は結局、聖母マリアのイメージをアルテミスに置きかえることで何とか布教に成功した。すると、エフェソス人たちは、今度はマリアを絶対崇拝しはじめた。

と、考証ぬきの推論ではあるが、アルテミス崇拝していた連中がその対象をマリアに置きかえたというにとどめているのに、中丸は途中の推論すらすっとばしている。

が、四三一年、ギリシア神話の女神アルテミス信仰のさかんなエフェソスで公会議が開かれたとき、「女神アルテミス=聖母マリア」と喚きたてるエフェソス人に焚きつけられたキリウスは(・・)

なんと使徒行伝の記事に出てくるエフェソス人らが、数百年の時間を超えてこの公会議で暴動を起こしたことになっている!!!! しかも「女神アルテミス=聖母マリア」と、なんのことわりもなく完全に同一化している。これはさしもの竹下でさえもできなかったことだ。それにしても、タイムマシンに乗ってきたエフェソスの民は「めがみあるてみす・いこおる・せいぼまりあぁぁぁぁぁ」とでもさけんでいたのだろうか? 謎である。
中丸はわざわざ「叫んで」(竹下)を「喚きたて」と激しい調子の語に変え、「たきつけられた」(竹下)はご丁寧にも「焚きつけられた」と漢字に直している。隠微な小細工で、よりスキャンダルらしさを出しているつもりなのだろうが、なんとも浅ましい根性である。
後半部。

キリウス(アレキサンドリア総大司教)一派は、ネストリウス一派を締め出し、「マリアをテオトコス(神の母)と呼ぶことを信徒のすべてに義務づける。聖マリアを神の母と認めぬ者がいるなら、その者を破門する」と恫喝し、この会議でマリアが正式に「神の母」として認知された。マリア信仰はその第一教義制定のときから、すでに大いなる波乱を内臓していたのである。

まずキリウス(キュリロス)派の宣言であるが、ペリカン「聖母マリア」によれば、「マリアをテオトコス(神の母)と呼ぶことを信徒のすべてに義務づける。」の部分は、実際には司教一同による布告であり、後半はキュリロスによる演説からだが、本来この直前に「インマニュエルは真の神である。したがって、」がついている。要するに中丸は不必要な部分はカットして、いかにもマリア「崇拝」を強要しているかのような下手な演出をしているわけだ。まったくご苦労なことだ。
参考までにシルヴィ・バルネイ「聖母マリア」(創元社、2001年、pp124-125)から引用しておく。

インマヌエルが確かに神であり、したがって聖母マリアも神の母であるということを認めない者は、破門に処す。なぜなら彼女は受肉した神の御言葉であるイエス・キリストを肉体的に生んだからである。
「キュリロスからネストリウスへの第2の手紙」H.デンツィンガー『カトリック教会文書資料集』(251)

前回、マリアの「神の母」という呼称は、キリストの2性1位格との関係から見られる必要があるとくどくど言ってきたが、上の文はそのことをはっきり言いあらわしていることがわかろう。
中丸はこの宣言を「恫喝」などといかにもおどろおどろしい形容をしている。おそらく「その者を破門する」という文句からの邪推であろうが、これは異端排斥の際に一般に使われた「決まり文句」に過ぎない。いわゆる「アナテマ」だ。たしかに現代感覚だときつく見えるかもしれないが、特別ネストリウス一派の「恫喝」のために使われたわけではない。
最後の「すでに大いなる波乱を内蔵していたのである」は、竹下本では「すでに波乱を含んでいたわけである」と短め。いかに中丸が竹下の文の書き替えの際に誇張して小事を大事に見せかけているかが、よくおわかりになることだろう。
中丸はのちのページでもこんなことを書き散らしている。

マリア崇拝に断固反対していたのが、コンスタンティノープルの総大司教ネストリウスであったが、アレキサンドリア総大司教キリウス一派が、これを総会屋の手口よろしく強引に封じ込め、マリアを「聖母」に仕立て上げてしまった。
(中丸明「聖母マリア伝承」、p173)

「総会屋の手口よろしく」とはなんとも下劣な筆法である。たしかにキュリロスはネストリオスに比べてしたたかで、政治的手腕も上であったようだが、この公会議の開催のために、時の皇帝テオドシウス2世に働きかけたのはネストリオスである。教皇からの意見撤回の「最後通牒」を受け取ったネストリオスは、いわば教会外の力を借りて、キュリロス派に対抗しようとしていたのだ。それは甘い見込みだったことがのちにわかるが・・。
「マリアを『聖母』に仕立てあげてしまった」というのも中丸の一人合点な妄想である。「神の母」という呼称はすでに一般的に使用されていた。会議はただそれをあらためて追認したに過ぎない。
ともあれ、竹下本もそうとうだが、それを底本にして輪をかけてろくでもない本を出した中丸は、ほとんど「犯罪的」とすら言い得る。
中丸は第二章「処女懐胎の謎」において、バーバラ・スィーリング「イエスのミステリー」(NHK出版/高尾利数訳)をもっともらしく利用しているが、これはいわゆるトンデモ本であり、学会ではほとんどまともに扱われていない。資料批判と考証の無さにおいても、竹下より100倍ひどい。


中丸明は初期キリスト教徒を、人間でしかない者を神に祭りあげる狂人集団だと見なしている。これ自体はさして珍しくもないありふれた見解に過ぎないが、中丸の叙述を読んでいると、むしろお前さんの方が精神をやられているのではござんせんか、といらぬ心配をしたくなる。
既出部分だけで全体の調子を想像するに十分かと思うが、ついでにもう一箇所取り上げておこう。

ユダヤ教徒としてのイエスは、アブラハムやモーセ、ダビデと同じように、ひとりの預言者、一個の人間にすぎなかった。
ところが、宗教界のチャンピオンになることを心に誓った使徒たちは、ここで「三位一体」trinidadーーすなわち、「父なる神、神の子、聖霊」は本来同一のものであって、時と場合によって現れかたが異なるだけという、常人にはとうてい理解できないような摩訶不思議な教義をひねくり出して、大工の子イエスを、預言者から神へ仕立てあげてしまった。
三二五年、ニカイアで開かれた公会議でのことである。
かくして、イエスを神として前面に押し出すことで、肝腎の「父なるエホバ神」は人事権、代表権を持たない名誉会長のようなものになり果て、キリスト教は、ユダヤ教とは比較にならない大発展をとげるのだ。
イエスの”出世”によって、マリアもまた”出世”することになる。つまりは、「神の母」「聖母」への変身ということであるが、これはイエスとの釣合いの問題であろう。
(中丸明「聖母マリア伝承」、pp132-133 *引用者により傍点を太字に変更)

「宗教界のチャンピオンになることを心に誓った使徒たち」とは、おそれいる。中丸はまたもやタイムマシンを操って当時の使徒と寝起きをともにでもしたのだろうか。初期キリスト教徒は、迫害するユダヤ人や、それこそ暴動を起こす異教徒にとりまかれて過ごしていた。「宗教界のチャンピオンになることを心に誓」うような余裕などなかったであろうことは、わざわざタイムマシンを借りるまでもなく、新約聖書をごく普通に読めば誰でも理解できることだ。あたりまえのことだが、いま現在三大宗教の一つになったキリスト教をそのまま過去のキリスト教徒の置かれた状況と思ってはならない。

ここで「三位一体」trinidadーーすなわち、「父なる神、神の子、聖霊」は本来同一のものであって、時と場合によって現れかたが異なるだけという、常人にはとうてい理解できないような摩訶不思議な教義をひねくり出し

これは「三位一体」の説明になっていない。まるでサベリウス異端の様態的モナルキア主義のようだ。「三位一体」にふれるなら、せめても「位格」(ヒュポスタシス)と「本質」(ウーシア)というキイタームくらいは使ってほしい。中丸は自分を棚にあげて、「三位一体」の教義を作った人々が「常人」ではない、すなわち「狂人」だと決めつけているが、いちいちいうまでもなく、この教義の結実に至るまでにあれこれ論じていた初期ギリシャ教父たちは、ギリシャ哲学を修得した当時最高の知性である。わからないものを前にして、それを狂人の戯言と決めつけるのは愚人にありがちな反応だが、わからないのはそもそも誰のせいかもとっくり考えてみたらどうだろう。

かくして、イエスを神として前面に押し出すことで、肝腎の「父なるエホバ神」は人事権、代表権を持たない名誉会長のようなものになり果て

「父なるエホバ神」とはなんじゃらほい。エホバを名前とでも思っているのか。「人事権、代表権を持たない名誉会長」に至っては常人はもちろんのこと狂人でも理解できまい。直前で「三位一体」を出したところではないか。キリスト教徒はみな「御父、御子、聖霊」の三位一体の神を礼拝しているのだ。礼拝の際に、イエスだけが営業で出ばってきて、御父はのんびりゴルフを楽しんでいるとでも思っているのか? とんまなことも休み休み言いなさい。

イエスの”出世”によって、マリアもまた”出世”することになる。つまりは、「神の母」「聖母」への変身ということであるが、これはイエスとの釣合いの問題であろう。

「イエスとの釣合いの問題」とは、再びなんの話なのか? 「釣合い」もへったくれもない。マリア崇敬にもっとも熱心なローマ・カトリックでも、マリアはあいかわらず被造物のままだ。というよりも、マリアはキリストの人性を生む者として、絶対的に人間であらねばならない。そして、一から十まで人間でありながら、神の救いの計画の中で、受肉のための唯一の器として選ばれたからこそ、マリアは人類の中でもっとも「恵まれた女」なのである。


というわけで、一事が万事この調子で、全編どこを取っても、筆者の精神構造を本気で疑わしめる文章のオンパレードである。普通のひとなら、とても最後まで読み通す忍耐はあるまい。いったいこの中丸明なる男は、どういうつもりでこんなゴミクズを世に出す気になったのだろう。たいした勇気ではないか!
キリスト教批判という意図ではなかろう。中丸のキリスト教への揶揄は下品きわまりなく知性のかけらも見あたらない。誹謗中傷ではあっても、少しも批判にはなりえていない。中丸はちょっとした読者へのおつまみ気分で、そうした毒舌を繰り出しているつもりなのだが、その実自らの品性下劣さを衆目にさらしているに過ぎない。ニーチェを見よ! テルトリアヌスを見よ! 激越な口調で他人を攻撃するならば、それを上まわるだけの知性と教養と高潔な精神をもっていなければならない。キリスト教を理解できないのは、あわれなことだが、これすべて中丸のおつむの問題でしかない。
最後に一言。文藝春秋社には、いますぐこの有害図書を絶版することをすすめる。そうしなければ、貴社の築き上げた信頼と名声を一夜にして失うやも知れぬからだ。老婆心ながらの忠告である。

<補遺>
サベリウス異端(様態的モナルキアニズム)について。
「これは唯一の神がさまざまな様態を取って現れたとするものである。つまり、父なる神が処女マリアから生まれ、十字架で死んだのである。これによれば、父と子と聖霊は同一のものであり、単に現れ方が異なり、名称のみが異なるにすぎない。これはキリスト教信仰の中心的秘義である神の三一性を否定するものである」
(「中世思想原典集成1 初期ギリシャ教父」、平凡社、1995年、p17)
父が十字架にかかったことになるので「御父受難説」とも呼ばれる。「『父なる神、神の子、聖霊』は本来同一のものであって、時と場合によって現れかたが異なるだけ」という中丸明の解説はまさにこうなってしまっている。
といっても、クリスチャンの中にも、三位一体をサベリウス的に理解しているひとは少なくないだろう。かりに理解していたとしても、他人に(特に非クリスチャンに)説明する場合にサベリウス的になることを避けえないひとはいるのではなかろうか。そう思うと初期教父が正統信仰を正確に表現すべく傾注した努力は、決して軽々しいものではない。

(20030523:Tachibana Kichikusai)

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