お笑い『私の「戦争論」』――吉本隆明の戦争観


吉本隆明といえば戦後思想家の巨人といわれ、いまなおカリスマと仰ぐ者がいるような存在である。まるで吉本のいうことなすことがすべて「無謬」であるかのように思っている信者たちまでいて、その発言の影響力は非常に大きい。かくいう私も一時期吉本主義者だったことがあるが、オウム事件あたりからだんだん離脱して、いまではまったく評価していない。
ここでは、小林よしのりの「戦争論」や「新しい歴史教科書をつくる会」が出てきたことを受けて、それに対抗して出版された『私の「戦争論」』(ぶんか社)における吉本の戦争観について検討してみたい。ただし、小林よしのりや保守知識人への批判の部分はさしあたり無視して、戦争一般についての言及を主に取り挙げる。

第五章「人類は「戦争」を克服できるか」を見ていくが、初っ端から吉本は「戦争自体がダメだ」とぶちあげている。「日本の戦後左翼、市民主義者、進歩主義者たち」も「戦争はダメだ」と言ってきたが、それは吉本のいう「戦争自体がダメだ」とは違うそうである。どこがどう違うのか一見わからないが、要するに彼らは反核運動の時には米国だけに反対してソ連には反対しなかったこと、資本主義国の戦争には反対するが、社会主義国の戦争には賛成することがいけないらしい。これは事実関係としても間違っている。なるほど「左翼」にはそういう人種もいたであろうが、その一方「社会主義国は戦争をしない」という妄想を信じ込んで、中ソ紛争や中越戦争、はたまたソ連のアフガン介入などに目を白黒させて動揺したひとたちもいる。吉本はこのように自分の批判対象をひとからげにまとめてしまう癖がある。だいたい「俺は他の左翼連中とは違うんだ」という根拠のない優越感を持つのは左翼共通の態度で、吉本も典型的な左翼思考の持ち主だということを示しているに過ぎない。
吉本はヴェーユを持ち上げて次のように言う。

「戦争なんか全部ダメだ」っていうのがヴェーユの戦争で、これは理念としてはギリギリのことをいっちゃったわけです。もうここまでいい切ってしまえば、終わりなんです。僕自身の考えも、本音の本音でいっちゃうと、やっぱり、「戦争自体がダメだ」ということになります。
(私の「戦争論」、p214)

ずいぶんたいそうな言い方だが、正直いって、「戦争自体がダメだ」という理念がなぜそんなに素晴らしいのやらさっぱりわからない。そもそも「戦争なんか全部ダメだ」なぞという見解は、ヴェーユをぎょうぎょうしく持ち出すまでもなく、子供の頃にみな思うことではなかろうか。ギリギリもなにも、ものごころついて「戦争」について考えた時に、一番はじめに容易にとびつく「理念」ではないかと思われる。そして、成長するにつれて、現実がそんなに甘いものではないのを知り、「戦争自体がダメだ」という考えはダメだ、と思うに至るものではないだろうか。
吉本はこうした単純で幼稚な思いつきをさも最高の理念であるかのように揚言して、そこから彼以外の「左翼」あるいは「右翼」と決めつけた論者たちを批判している。なんとも恥知らずの傲慢さであり、吉本は「戦争」全部を否定しない人たちを、とりたてて理由もなしに、勝手に馬鹿扱いしているに過ぎない。
いちおう吉本もこの理念が空想的に過ぎると自覚しているようで、「一番いい理念だと思いますが、僕自身はあまり声を大にしてそれをいいたくないよってところがあるんです」「「声を大にしてそれをいうと、自分にはあまりできそうにないことをいっていることになるな」っていう気がする」(p215)などとフォローしている。それならば、「戦争自体がダメだ」というようなけったいな理念をぶちあげるでなく、なぜ戦争が起きるのか、どうすれば防げるのかについて、緻密な議論をしていけばいいのだ。吉本はたんにかっこをつけて自分が最先端の思想を言っているかのように装い、それでもって自分と違う考え方を罵倒し、そのくせ自分の言葉に最後まで責任を持とうとしない。いったい、なぜこんなでたらめな人物に陶酔して疑わず追従しつづける人たちがいるのかまったく不思議である。それにしても、吉本の態度は「反戦」をファッション感覚でやる連中と、実のところ同じ精神と思える。言葉の実効性などはなから期待しておらず、いかに周囲によく写るかだけに心をくだいているとしか見えない。

では吉本はどうやって戦争をなくすことができるというのか。吉本は「国家」が戦争を起こすのであって、軍隊が村の自警団のようなものになればよいと説く。

武装集団が、村の自警団のように、村人が集まって、村を集団で守るというものであれば、その武装集団が戦う場合、戦争とはいわないんです。自警団というのは、村人が自発的に編成し、村人が自分の意志で動かせる武装集団のことです、つまり、民衆が自分の意志で動かせる武装集団が、自警団なんです。
では、何をもって戦争というかというと、部族連合国家や近代国家が持っている国家の武装集団ーーそれは、国家の首脳が兵隊を募集して、民衆の意志とは別個に編成し、そして、民衆の意志にかかわりなく、国家の首脳の意志だけで動かせる武装集団ですが、その武装集団が相手国の同じような武装集団と戦うとき、それを戦争というんです。

(同上、pp218-219)

この吉本隆明という男は、どうも戦争・軍事におそろしく無知らしく、手前勝手な「定義」を積み重ねていく。例えば別の場所でも「侵略」を「戦争をしている国同士があって、相手国の領土内で行われた戦闘行為があった場合、それはやはり、その相手国への「侵略」である」とキテレツな「定義」を下している。これを文字通り受け取るならば、ドイツに侵入しベルリンを陥落させたソ連、米国、英国はドイツに「侵略」したことになる。吉本はドイツ国境で全軍ストップせよ、とでもいうのかねえ(笑)。
話を戻して、吉本の定義によれば、自警団がやる戦いは「戦争」ではなく、国家が行うものが「戦争」となるらしい。もちろん、戦時国際法でも主権国家を前提にして「戦争」が考えられているのは事実である。しかし、民兵のような集団が戦闘行為を行う場合も戦時法規は適用され、国家の正規兵に準じる扱いをされることからいえば、吉本の「戦争」の定義は異様に狭いことになる。
要するに吉本は「民衆が自分の意志で動かせる武装集団(自警団)」なら戦争は可であり、国家は不可だと言っているに過ぎない。
しかし、国家の軍隊は「民衆の意志」とはまったく無関係といえるだろうか? 自衛隊は募集制であるし、英米の軍隊は多くは「志願」による。それでなくとも、近代国家は議会制度によって「民衆の意志」をじゅうぶん汲み上げているはずで、徴兵制度とて、まったく「民衆の意志」と無関係とはいえまい。だいたい「民衆の意志」がそのようなものなら、とっくに自衛隊は解体されていてもいいのではないか? アンケートなどによれば少なくとも六割の「民衆」は自衛隊存置に賛成なのだが。
吉本は「国家」を嫌うあまり、人類が共同生活を営むために国家を作り上げてきた歴史を無造作に全否定している。かつて吉本は、原子力研究すら否定する「反核運動」に対して、科学の進歩を否定する「暗黒主義」であると、まったくまっとうな批判をしているが、社会制度の「進歩」は認めないらしい。結局吉本もエンゲルスの想定した「原始共産制」というユートピアを夢見ているのではないか。

戦争をなくすための吉本の具体的提案はどんどんばかばかしくなっていく。

戦争とは国家間の争いであるというふうに見なせば、それは夢物語じゃなく、今だって戦争をなくす方向に近づくことはできるんです。日本でいえば、自衛隊を本当の意味でのシビリアン・コントロールの下に置けばいいんです。各職業、各階層から、たとえば一〇〇人なら一〇〇人ずつ日本の民衆を任意に委員として選んで、その委員たちの同意がなければ自衛隊を動かせないという条項を、憲法、もしくは、その他の国法に盛り込めばいいんです。そうすれば、自衛隊は自警団に割合近い形になって、今だって戦争をなくす方向に一歩近づきうるわけです。今は、政府が勝手に自衛隊を動かしている。そこには、民衆の直接の意志はちっとも反映されていません。
(同上、pp220-221)

もうコメントする気力もなくなる無内容な発言である。吉本は社共や進歩的文化人の平和主義をえらそうに批判するが、言ってることは五十歩百歩である。
そもそも軍隊が「民衆」の直接のコントロール下にあるかいなかは戦争の起きやすさとは無関係である。民衆が戦争に参加するようになったのは、近代国民国家の出現からといえるが、民衆が熱狂的に戦争を支持する例は枚挙に暇がない。「民衆の意志」が反映されれば戦争をなくす方向に近づくという保証はまったくない。
吉本にしろ「平和主義者」にしろ、悪なのは日本であり、日本が戦争を起こさなければ、世界は平和なままだ、という「東京裁判史観」をそっくり鵜呑みにしているようだ。これは「戦争は悪人が起こす」という幼稚な考えの変奏で、実際には客観的な戦争観からもっとも遠いものである。それがわからないから民衆にさえ軍隊の支配権をわたせばよいと思ってしまうのだろう。
また、これは日本の「平和主義者」らと共通のことだが、吉本の論はまるで内むきである。つまり、外から侵略を受けた時のことをまじめに考えていない。いったい、一〇〇人委員会をつくったとして、緊急事態に対応できるかどうか考えてみたらいい。常に首都に在中させて、すぐに集合できるようにしておかなければならないが、それで本当に危急に間に合うのだろうか。しかも、よりによって「全員同意」とはまったく非現実的な話だ。一人でも反対すれば軍隊は動かせず、侵略者は悠々と日本を占領してしまうだろう。国連ですら五ヶ国の常任理事国に拒否権を与えているために、ほとんど機能せず、それを不満に思う国も少なくないのに。本当に必要不可欠な時に動いてくれない軍隊など、何の役に立つだろうか。

吉本は侵略された場合は個人で戦うと述べている。

北朝鮮でも中国でもアメリカでも、どこかの国が戦争を仕掛けてきて、日本国を勝手に占領しちゃった、そして僕の家族なり知人なりを殺しちゃったという場合、それでも我慢するか、「いや、やっぱり我慢できねえ」と思って戦うかは、僕の勝手ですからね。それは僕の自由であって、誰も否定することができないものです。日本国憲法がどうであろうと、それは僕の勝手です。それは法律問題とはなんの関係もないことです。
(同上、p222)

かつて「非武装中立論」なる奇態な論を弁じたひとは、侵略されたら民衆蜂起してゲリラ戦をすればよいと楽観論を述べていたが、吉本も同レベルである。簡単に「戦う」と勇ましく宣言しているが、武器を取り扱ったこともない人間が戦争法規も知らずに正規軍と戦ったところで、すぐさま皆殺しにあうのがオチである。だいいち、常備軍があれば水際で追い落とすことだって可能であるのに、なぜ占領されるまで無抵抗でなくてはならないのか。真剣に戦争の様相を想像していないとしかいいようがない。
吉本には「為政者」の視点というのがまるでない。もし、国民の安全と秩序を預かる人間の立場で考えたならば、吉本のごとく、民衆がひとりひとり戦うのにまかせるなどといった無責任な発想はできまい。なにしろ侵略された場合は、女子供が虐殺されることもありうるわけで、まずそういう弱者を助けるために組織的抵抗をしようとするのは一井の民衆であっても当然のことではなかろうか。国家が常備軍を持ち、常に侵略者を撃退する準備を怠らないのは、民衆の利益にもかなっている。家族や知人が殺されたら戦うというのは倒錯的であり、家族や知人が殺されないために戦うというのがまっとうな大人の精神である。

以上、わずかではあるが「戦後思想界の巨人」・吉本隆明の「戦争観」を見てきたが、これで十分であろう。吉本は保守派知識人の「戦争観」を素人の見方などと罵倒しているが、戦争・軍事にドシロートなのは吉本の方だとおわかりいただけたであろう。吉本の考えは、平和をとなえていれば平和でいられるという「平和主義者」の宗教的妄念とたいして違いがない。ただ、観念語を多く使うことで高尚に見せかけているだけであり、その内容は子供の思いつきを出ていないのである。
吉本信者もそろそろ騙されていたことに気づくべきだろう。

(橘鬼竹斎:2003年12月7日記)

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極私的戦争論