タイトル未定
| ぼくの席は、南に面した窓際で、後ろから二番目という絶好の場所だった。ぼくの前に座っているやつは肥満体で、ぼくの姿は先生からぜんぜん見えない。ぼくも黒板がぜんぜん見えないけれど、たいしたことはない。見えても見えなくても、ぼくには黒板に書かれている文字の意味がまるっきりわからないんだから。 ぼくの教室は四階にあって、窓から見える景色は学校の中庭と、どこまでも続いている高層マンションや青っぽいガラス張りのビル群だ。空をかすめるのは雲とカラスと名前も分からない鳥たち。変わったことといえば、ときどきスーパーの袋が風船みたいに飛んでいくの見えるくらいだ。 そんな代わり映えのしない景色を眺めているのがぼくは好きだった。ゆっくり流れる雲を見ていると、自然に、本当に自然に、ぼくの物語のなかに入っていける。主人公は勇気があって、友達思いで、ものすごく頭が良くて、運動神経も良くて、他人をグズとか、バカとか、うざいとか、絶対に言わないいいやつだ。ぼくはリョウが大好きだ。 リョウは、刃渡り一メートルほどの剣を、いつもたずさえていた。剣の名前は斬風剣。リョウの父が三年前に殺されたとき、握り締めていた剣だ。リョウは父を殺した敵を探して世界中を旅をしている。暗殺者の名前はウルガと言うらしいが、それも噂にしか過ぎず、本当の名前なのかどうかも定かでなかった。 母は、リョウが物心ついたときからいなかった。死んだのか、いなくなったのか、リョウには分からない。父は母のことを一度もリョウに教えなかったが、リョウは決して寂しくはなかった。隣近所の子どもたちの母親が、いつもうるさく身だしなみを注意したり、小言をいったりしているのを見ていると、母親がいなくて良かったと思えるときの方が多かったからだ。 リョウの旅が始まってから半年ほどたったとき、シュクバという町にたどり着いた。そこは交易が盛んな町で、近隣の村や町から商人がたくさん集まってきていた。リョウはウルガの情報を求めて市場へ出向いた。 露天で果物を売っている老婆がいた。リョウはきれいに磨かれたリンゴを一つ手にとった。 「87エンダーですよ」 老婆は、歯のない笑顔を見せて、もにょもにょ言った。 「おいしそうですね」 リョウは腰につけた皮袋から100エンダーを出し、老婆に渡した。そばに置いてある竹篭をまさぐって釣銭を探している老婆に、リョウは、 「おつりはいらないよ。それより、お婆さん、ウルガと言う男を知らないですか? どこかでそんな名前を聞いたことはないですか?」 と訊ねた。老婆は、さっきまでのあいそ笑いとは打って変わり、たちまち顔を曇らせて、そんな名前は聞いたことがない言った。 ウルガの情報を得ようとすると、いつも同じ壁にぶち当たる。誰もが顔をこわばらせ、関わりになることを避けるかのように口を閉ざしてしまうのだ。たぶん、ウルガの噂を聞いたことがあるのだろうが、密告の代償に、自分や自分の家族の命を奪われるのではないかと恐れているのだろう。リョウは皺とシミだらけの老婆の手を見て気の毒に思い、これ以上ウルガについて訊くことをあきらめた。老婆はあまりに無力で、自分自身を守ることも家族を守ることもできそうにない。 「そうですか。ありがとうございました」 リョウは老婆にお礼を言うと、果物店から離れた。往路の真ん中にたって、他の店を見回してみる。自分も家族も守れそうな、屈強な男ならばウルガについて話してくれるかもしれない。 右手の方から、金属を叩く威勢のいい音が聞こえた。たぶん、鍛冶屋だろう。鍛冶屋ならば、方々から腕っ節のいい男たちが集まる。ウルガの情報をいくらか知っているのではないか。リョウは、リンゴをかじりながら、鍛冶屋まで歩いた。 鍛冶屋の主人は、金床に真っ赤に燃えた鉄の塊を置いて、ハンマーで伸ばしている最中だった。リズミカルに打ち付けるたびに、火の粉が踊った。リョウは鍛冶屋が鉄を水桶につけるまで待った。そうでないと、うるさくて話し声が聞こえそうになかったからだ。主人が冷やした鉄をもう一度、炉にくべたのを見計らって、訊ねた。 「ちょっとお聞きしたいことがあるんですが、いいですか?」 リョウはいつも礼儀正しい。父は、人にものを訊くときは礼儀正しくするようにするようにと、口癖のように言っていたからだ。横柄な口をきくやつとは、誰も話したくないものだ。リョウは旅をするようになってから、そういうことがよく分かった。 「なんだい?」 鍛冶屋の主人は、リョウの腰に差している斬風剣をチラリと見やりながら答えた。仕事の依頼だと思ったのだろう。 「ウルガという男を探しているんですが、どこかで名前を聞いたことはありませんか?」 主人は、さっと顔そむけて、ふいごを押しはじめた。石炭が赤く燃え、主人の顔も赤く染まった。変なことを訊いて怒っているのかもしれない。リョウは気がとがめた。主人は黙ったまま、何度もやっとこで鉄塊を返していたが、ようやく答えた。 「さあね、知らないね」 それだけ言うと、主人は鉄塊を金床に置いて、ハンマーで叩きはじめた。「帰ってくれ」ということだろう。リョウは丁寧にお辞儀をして、鍛冶屋から出た。 「本多くん。次を読んで」 ぼくは、先生が自分を呼んでいることに気がついて、あわてて立ち上がった。教室中の生徒がくすくすと笑っていた。何度も呼びかけられたのだろう。 ぼくは自分の物語のなかにいるときは、何も聞こえなくなることがある。肥満体の太田が、わざわざぼくの方を振り返り、国語の教科書を広げて指し示した。鉛筆で矢印した先に、 「ここだよ、バーカ」 と、書いてあった。ぼくは悔しさを押し殺して、太田が差している箇所から読みはじめた。 「父はもぐり漁師だった。潮の流れが速くて・・・」 みんながどっと笑った。先生は、ちょっと太田を睨んでから、ぼくに言った。 「本多くん。ちゃんと聞いてないとだめでしょう。隣りの遠藤さんに教えてもらいなさい」 「はい」 ぼくは遠藤さんが指し示している所を確認した。さっき、デブの大田が教えた場所より、2ページも先だった。くそ。ぼくは太田のぶよぶよの背中を睨みながら、続きを音読した。太田は性懲りもなく教科書に落書きし、ぼくにその文字を見せ付けた。 ――天然ボケ。脳みそピーマン―― ぼくは、教科書の背表紙で太田の脳天を殴りつけたい衝動にかられたけれど、抑えた。あんなデブ、相手にするだけ時間の無駄だ。リョウなら、絶対にそんなことはしない。(2002/11/26) **************** 学校が終わるとぼくは真っ直ぐ家に帰る。3年生までは学童クラブに通っていたけれど、いつも騒がしくて落ち着けないからやめた。1年のときから成績が良くないから、塾に行かされたこともあったけど、ぼくがまる一ヶ月もサボったものだから、お母さんも諦めた。それじゃあってことで、学校のサッカークラブか少年野球に入ったらどうだ、と、お父さんが強く薦めたけど、絶対に嫌だといった。 「ぼくは一人でいるのが好きなんだ」 そういったとき、お父さんとお母さんの顔がちょっと歪んだように見えた。 通信簿の「ともだちと仲良く遊ぶ」の欄には、いつも「がんばりましょう」のところに○がしてあった。高学年になってからは、協調性の欄に△が書かれている。ぼくに親しい友達がいないことは、先生にとっても両親にとっても大問題らしい。三者面談のときには、必ず友達のことが話題になる。 ぼくとしては、学校に友達がいなくてもぜんぜん困らない。リョウがいれば、それでいい。 だけど、リョウのことは誰にも話したことはない。話してしまうと、リョウはぼくだけのものでなくなるのが嫌だったし、誰かに知られるとリョウが消えてしまうようで怖かった。 ぼくだって、リョウがぼくの作った空想上の人間だってことくらいわかってる。そんなことも分からないほどバカじゃない。だけど、ぼくにとって、たった一人の友達だった。一年生のときから、いいや、それよりもっと前から、リョウはぼくの友達だった。 リョウは、道の両脇にずらりと並んでいる店を見ながらゆっくり歩いた。ウルガについて話してくれそうな人はいないだろうか? 「そこ行くお兄さん。ちょっと見ていかないかい? 旅に必要なものなら何でも揃ってるよ!」 呼びかけられて振り返ると、太り気味で、ずうずうしそうで、よくしゃべりそうな中年の女が手招きしていた。リョウはあまり気がすすまなかったが、シュクバの町を出ると山越えになる。しっかりした装備が必要だと思い、女のいる雑貨屋へ入った。 「どこまで旅してるんだい?」 「ハルバドルまでです」 「ハルバドル? あの大陸のかい?」 「ええ」 「そりゃあ、あんた大変な旅じゃないか。ってことは、セガタヤ山脈を越えてエリック港に出るつもり?」 「ええ、そうです」 「まあまあ、まあまあ」 女将は大げさに驚いて、そこいらじゅうを引っ掻き回した。まず出てきたのは内側がタヌキの毛皮、外側が棕櫚(しゅろ)でできている蓑(みの)だった。 「これこれ、セガタヤは妖鬼がいっぱいいるからね。魔除けになるものを身につけたほうがいいよ。タヌキは幻覚封じ、棕櫚は邪気祓い」 女将は蓑をリョウに押し付け、今度は天井にぶら下げている矢筒を見て回った。 「あの、矢は使わないんですけど・・・・」 リョウの言葉など無視して、女将はたくさんの黒い石がはめ込んである茶色いなめし皮の矢筒を下ろした。埃が溜まっているせいか、かなりボロに見えた。女将は埃をはたき、袖で石を磨いた。 「この石はオニキスなんだけどね、悪いエネルギーを撥ねかえす力があるんだよ。それに、あんたの剣は山を登るには邪魔だろう? この靭(ゆぎ)の中に入れて背中に負いな。革紐を調節すれば、剣がすぐに抜けるようにできるはずだから」 「ユギ?」 「靭ってのはね、古代の矢筒のことなんだけどね、これだけでも魔除けになる。実用にもなって2倍のお徳だよ」 といって、靭と呼ばれる矢筒を押し付け、店の奥に引っ込んでしまった。裏でガタガタ戸を開け閉めする音が聞こえる。 リョウはいささか心配になった。普通に山越えの装備をしたかっただけで、魔除けのオプションは必要ない。それに、蓑はあまりに不恰好で、本当はローブが欲しかったし、どう考えても矢筒はいりそうになかった。品物を置いて店から出て行こうかとも思ったが、女将は親切で探してくれているのかも知れず、黙って出て行くのは気の毒にも思えた。そうこう考えているうちに女将がカンジキを持って出てきた。 「このカンジキはね・・・」 「あの、あの。普通のブーツがいいんですけど。それから蓑じゃなくて、ローブの方が動きやすいですし、やっぱり、この、ゆ、ゆ・・・」 「靭(ゆぎ)だよ」 「そう、靭は必要ないかと思うんです」 女将はあきれたと言う顔をして、リョウを頭からつま先まで眺め回した。 「あんた、セガタヤに登るんだよ? 分かってんの? 魔山だよ?」 「ええ、それは分かってます。けど」 「けども、へったくれもないよ。魔封じの装備もしないでセガタヤに行くなんて馬鹿のすることだよ」 「はあ」 「あんた、なんでハルバドルまで行くんだい? あそこは碌でもない都らしいじゃないか」 「ウルガを探しているんです。ここに来るまでにリジョの町で、ウルガはハルバドルの人間だと聞いたもので」 「ウルガだって!」 女将は生唾を呑みこんだ。聞いてはいけない人間の名前を聞いてしまったといわぬばかりだった。リョウは、あまり期待はしなかったが、ウルガについて何か聞いたことはないかと訊ねた。 「あんた、ウルガとどういう関係なんだい?」 「父を殺されたんです」 女将は一瞬リョウから目をそらし、話すか話すまいか迷っている風だった。が、意を決したように答えた。 「ウルガってのは、確かにハルバドルから来た殺し屋だったけど、もとはハルバドルの人間じゃないらしいよ。ハルバドルの王、カスガイに雇われていただけだって聞いたことがある。それも何年も前の話で、今じゃ、カスガイの手下を辞めたらしいと噂で聞いたけどね」 「それじゃあ、もうハルバドルにはいないんでしょうか?」 「たぶんね。邪眼のシンラと組んで、北東のアヤセルノへ向ったと聞いたよ」 「アヤセルノ? それじゃ、セガタヤとは逆方向ですね」 「そういうことになるね」 女将はカンジキを床に下ろし、リョウの腕から蓑を取った。リョウが靭(ゆぎ)を渡そうとしたとき、女将は「それは持っていな」と言った。 「ウルガにあだ討ちするんなら、一筋縄じゃいかないよ。あいつは年々邪気を強めてるからね。ウルガのあとを追うってことは、邪の道を辿るのと同じなんだから。本当に背中に目が必要なくらいだよ」 リョウは靭にはめ込まれたオニキスを眺めた。黒光りした石の一つ一つが、妖しく輝く瞳にも見えてくる。女将の言うように、靭は必要かもしれない。 「おいくらですか?」 リョウは腰の皮袋の口を広げながら、女将に訊いた。 情報料として代金にいくらか上乗せしようと考えていた。 「350万エンダーだよ」 「え?」 からかっているのだろうか? リョウは上目遣いに女将を見て、その真偽を覗った。だが、女将は大真面目に350万エンダーだと言った。持ち合わせがないわけではない。父はそれなりの遺産を残してくれたので、家屋敷や家財道具を売って金や宝石に変え、それらを身体に巻き付けていたからだ。が、今ここで洋服を脱いで宝石類を取り出すのは危険だ。誰が見ているか分からない。それに、いくら魔力のある靭とはいえ、あまりに高すぎる。350万といえば、馬が一頭買える値段だ。 リョウが靭を返そうとしたとき、女将が笑った。 「いいよ、持っていきな。あんたにあげる。うちにおいてあっても、どうせ売れやしないんだから。けど、魔除けの力は本物だよ。あたしの婆さんは巫女崩れでね、そういう知識をたんと仕込まれたんだよ」 「けど、ただでもらうのはちょっと気がひけます」 リョウは、とても気まずくなって懐に手を入れて、どうにかして宝石が出せないかとまさぐった。 「いいよ。あんたに買えるような値段じゃないことくらい、あたしにだって分かってるよ」 女将はさっさと行きなと言いたげに、手を振った。ますますリョウは恐縮した。けれど、ここで宝石を出して350万エンダー分を支払ったら、女将の好意を無駄にしてしまう。 「あ、じゃ、なにか買います。ほかに手ごろな値段の魔除けはありますか?」 女将は、しょうがないねぇと言って、カウンターの後ろにある引出しから、白銀に青い小さな石が埋め込まれている指輪を取り出した。 「ラピスラズリ。瑠璃だよ。あんたを守ってくれるはずだ。これなら3000エンダーでいいよ」 リョウは女将から指輪をもらって左の中指にはめてみた。ぴったりだった。最初はひんやりした感触だったが、じきに温かみすら感じた。リョウは皮袋から3500エンダーを取り出して女将に渡した。女将はにっこり笑って3500エンダーを受け取り、「よい旅を」と言った。 リョウのことを思いながら歩道橋を降りようとしたとき、階段の中ほどに、太田、浦部、景山、そして黒川が立っているのが見えた。ぼくはリョウのことばかり考えながら歩いていたから、全然気がつかなかった。やつらは、ぼくを待ち伏せしていたに違いない。階段を塞ぐようにして一列に並び、笑っていた。ぼくは回れ右をして今来た道を戻ろうとした。あいつらに関わってもなんの得にもならないし、とにかく早く家に帰って一人になりたかった。ぼくが戻ろうとした途端、後ろで一斉に駆け上がってくる足音が聞こえた。ぼくは振り向きざまに走り出した。景山と黒川がすぐそこに迫っていた。太田はデブだから、まだ階段を登りきっていない。ぼくが反対側の階段から降りようとしたとき、誰かが背中を押した。ぼくはつんのめって落ちそうになったけど、どうにか手すりにつかまって数段ずり落ちただけですんだ。 「なんで逃げんだよ」 景山が不愉快そうに言った。追いついてきた太田が息を切らしている。人のことをかまう前に、お前がダイエットした方がいいんじゃないか。そう思っても口には出さなかった。こいつらと喧嘩してもはじまらない。ぼくは景山の言葉を無視して、普通に階段を降りはじめた。 「おい、シカトぶっこいてんじゃねぇぞ。ボケ本多!」 景山はそう言って、ぼくの背中をまた小突いた。ぼくは無視した。あと2段で降りきるとき、誰かが足でぼくの背中を蹴った。ぼくは、前のめりになって転んだ。両手のひらがすりむけて、じんじん痛い。けれど、ぼくは振り向かなかった。誰とも話したくない。とにかく一人になりたかった。(2002/12/1) **************** 背中で怒声を聞きながら、ぼくは足早に歩道をあるいた。学校の正門を出て左手に真っ直ぐ行くと、大きな交差点がある。辻ヶ谷4丁目交差点と呼ばれるそこは、3年前に市川佐代(さよ)という6年生が、車にはね飛ばされて死んだところだった。そのとき、ぼくは3年生で、クラスのほかの子が、どんなふうに市川さんが車にはねられて飛んだのか事細かに話しているのを聞いた。 市川佐代さんは、鶴女川橋側の歩道で、信号が青になるのを待っていたらしい。 交通量の多い交差点だから、角にはしっかりガードレールがしてあった。車道の信号が、右折の矢印になったとき、一台の車が急にスピードを上げて、いきなり市川さんの立っている歩道に突っ込んできた。車はガードレールを突き破り、市川さんの身体を跳ね飛ばして鶴女川に落とした。それで、市川さんは溺れて死んだ。 その様子を、塾帰りで居合わせたぼくのクラスの子が見たんだという。市川さんとは同じ塾に通っていた。時間は夕方の5時で、学校が毎日スピーカーで鳴らす「夕焼け小焼け」が、ちょうど鳴っていたらしい。 ぼくは、なんとなく、市川さんがはね殺された交差点の同じ場所に立ってみたくなった。帰る方向とは逆だったけれど、わざわざ鶴女川橋側に渡った。3年前に突き破られたガードレールは新しく作り直され、もう黒ずんだ煤が積もっていた。手向けの花もなんにもなくて、そこで子ども死んだことなど、なかったかのようだった。 車道の信号が右折の矢印を表示した。対向車が次々に左に折れていくのが見える。ぼくは、いまにも暴走車がぼくを目がけて突っこんでくるんじゃないかと思った。 すごく怖かったけど、一歩も動かずにそこに立っていた。心のどこかで、市川佐代みたいに死ねたら、幸せになれそうな気がした。 左折車が5、6台も行ったところで、車道の信号は赤になった。同じことが起こるはずがない。それに、今は午後3時半で、市川佐代が跳ねれた時間まで、まだ90分もあった。歩行者用信号機の上についているスピーカーから音楽が流れはじめた。 パン パンパン パパパパ パパパパパー 最初、ぼくはなにも気がつかなかった。横断を知らせる音楽は、「とうりゃんせ」のはずなのに、その日に限って「夕焼け子焼け」になっていたことを。 パシャンと水音がして、ぼくは何の気なしに橋の欄干に手をかけて鶴女川を覗き込んだ。ユリカモメが一羽、水面をかすめて飛び去ったらしい。それにしては大きな音だったな。そんなふうに思った瞬間、ぼくは、水面に映る自分の顔が、かすかに揺らめき、三つ編みをした女の子の顔に変わったような気がした。(12/2) |