彼女は涙をこらえて走り去った。
後には一人の男が、困ったような、残念そうなような、そんな表情で突っ立っている。
人気のない、静まり返った放課後の教室。彼はその静寂に耐えきれず、自分の鼓動の速さに苛立って、不意に大声で叫んでやりたくなった。
1.SHE
彼女は気がつくと校門前の電柱の下にいた。肩で息をしながら――いや、単に胸の奥から沸き上がる感情を押さえつけていただけかもしれない――そっと冷たいコンクリート棒に寄りかかる。
(私は、誰?)
彼女の高校の制服を着た男の子らが三人ほど前を通った。彼女はそれに見向きもせずに心の中の問に呟き返す。
『私は宮下亜希子よ』
(いったい私はどうしたの?)
『私は……』
心の中に響く自分の声に後押しされたのか、彼女の中で何かが切れた。
『私は今日村上君に告白した』
(それで、フラれたのね)
すっ、と頬に一筋の滴が落ちる。
『そうよ』
下級生と思われる一人の女子生徒が自転車ですれ違いざま彼女の方を見る。だがそれでも彼女は身動き一つしない。
『村上君も私の事を見てくれていると思っていたのに……』
ふふっ、と自嘲気味の笑みが自然と浮いてくる。
『人の噂なんてあてにならないものね』
無邪気な顔で二人の仲をからかう友達の顔が浮かんだ。
『まったく。無責任なんだから』
友達に憤りを覚えながらも、そうする事で妙に落ちついてきた自分が可笑しかった。
少女は、とりあえず家への一歩を踏み出した。
2.HE
彼、村上健二は自分の部屋で寝転がっていた。
「惜しいこと、したのかなあ」
天井を話し相手にしてぽつりと呟いた。
彼が片思いをしている女性の顔が、一瞬、浮かんだ。あまり話もしたことがない、クラブの先輩。
「顔だってスタイルだって宮下の方が悪いし。それに」
喉を出ようとしていた言葉たちを、やはり思い直して胸にしまい込む。
「やめよ。虚しくなるだけだ。それに、宮下にだって失礼だ」
彼はうっすらと目を閉じた。
今度ははっきりと一番好きな人の顔が浮かび上がる。
「告白、か」
口にするつもりはなかった。しかし、自然とその言葉が口をついて出ていた。想い描いていた女性の顔が、不意に霞む。
「……あれ以来顔もまともに見てないな……」
瞼の奥の、一か月前に彼が想いを伝えた女の顔が急に曇った。
「永久に僕に微笑んではくれないのか?」
女の顔が、そしてゆっくりと今日の宮下の顔へと変わった。
「……あのとき、僕もそんな顔をしていたのか?」
今にも泣き出しそうな宮下の顔が、ひどく見近なものに感じられる。
「いや、仕方ないんだ。考えても。もう済んだ事なんだ……」
彼はゆっくりと身を起こし、何をするともなく、けだるそうに立ち上がった。
3.IN THE NIGHT
宮下亜希子は布団の中にくるまっていた。もう時計は二十六時を指している。奇妙な興奮と得体の知れない恐怖感が彼女を昼の世界に引き止めていた。
『やっぱり言わない方が良かった』
先ほどから何度心の中で言ったであろう台詞が、再び灼けきれぬ傷をえぐる。
『言わなければ
後少し時間があれば、あの人も私の事を好きになっていてくれたかもしれないのに……』
ふふっ。
不思議と顔に出てくる表情は笑いのみであった。
『…………人に本当に愛されるのって、どんなものなんだろう…………』
何故か唐突に、ずっと前に読んだ源氏物語が思い出された。
『あの主人公、とんでもない男だったなあ。エディプス・コンプレックスを埋めるかのように何人もの女に手を出して』
彼女の微笑が更に深くなる。
『
最低の男のはずでしょう、あんな男。上辺だけの心で愛されたって迷惑なだけだわ』
もう枯れていたと思えていた涙が、何十回目か、彼女の瞳からあふれでた。
『……でも私はそんな愛すらもらえず……愛してくれなかった……。……って!…………ねえどうして?どうしてなのっ!』
彼の顔、そして笑っている友達の顔。それぞれが交互に浮かぶ。
『……ねえ村上君、私、本気であなたのことを愛したわ。だから……せめて少しぐらいあなたも私のことを思ってくれたっていいじゃない!』
握りしめていた拳の力がすうっと抜かれた。心の中での叫びと共に、彼女の力も大気に溶けていくような感じがする。
――ふふっ。
嘲笑に似た微苦笑が唇から漏れた。
『……イヤな女。図々しい女。こんな私を“思ってくれ”? ……まったく、どこまで馬鹿なんだろ。私って』
少女は布団をかぶりなおした。
4.IN THE NIGHT (U)
村上健二は庭に出て竹刀を振っていた。何度も、何度も。
いつもは素振りをしているときは気持ちが良かった。何も考えなくていいからであろうか。
しかし、その日は日常とは少し違っていた。剣を振りかぶっても、心のわだかまりが溶けない。
何回振ったであろうか、腕が痺れてくる。既に額からは汗が滴り落ちている。
しかし、心の闇は晴れない。
「僕は……いったい何なんだ?」
剣先が風を切る音に交じって、彼の呟きが聞こえる。
「ふざけるな! 俺はっ! ……俺は……」
バシッ!
鈍い音をたてて竹刀の先が地面をえぐった。
「俺は村上健二なんだろう? ……っ、ははっ」
彼は、倒れるように、すがりつくように家の壁にもたれ掛かる。
「なのに何を俺は何を悩む? ……何を恐れる?」
うっすらと、瞳には涙が浮かんでいた。
「俺は当然のことをしただけだろ? 好きでない女をふる。どこが悪い どこが悪いんだ、言って見ろよっ!」
彼は大声で叫んでいた。しかし、心の中の自分は何も返してはこなかった。
「……言ってみろよ……」
ぺたん、と足が折れる。顎が下を向く。
地面に水滴が数滴、連続的に落ちてきた。
「俺は……俺は…………」
彼の手は無意識の内に、隣にあった紫陽花の花を握りつぶしていた。
5.IN THE DARK
『私は人間なのよね』
宮下亜希子は自分に問いかける。
『人間は他人を愛する生き物でしょう? 私だってみんなのことが好きよ』
足が折り曲げられ、膝が腕に抱え込まれる。
『でも私は愛されてるの? 誰か私のことを好きと言ってくれるの?』
闇の中でもほのかに紅いリップ色が笑いに歪んだ。
『こんなにも私はあなたのことが好きなのよ? なのに……なのにあなたは私に温もりを与えてくれないの!?』
虚ろげに開かれた彼女の瞳には闇しか映らない。
『……こんな私だから愛してはくれないの?』
(――こんな私?)
『そうよ。顔も悪いし、頭も悪いし、おまけに性格も最悪! ……こんな私は愛される資格すらないの?』
(――でも私はあの人を好きになってしまった)
『そんなの関係ないわよ。人を好きになるのなんて神様にお祈りするようなものだわ。祈るのは簡単だけど、効果なんて期待できない。向こうは何もしてくれない何も気づいてはもらえない。何も……なかった……』
(――じゃあ、何故人を好きになるの?)
『さあね。安心できるからじゃない? 他人を好きになっている間は、その人と関わりあいがあるように思えてくる。それが嬉しいんじゃないの?』
少女は二本の腕を自らの躰に絡み付けた。
『そう、分かっていたわ。……ううん。分かっているつもりでいたの。人を好きになるということは利他的ではなくて利己的行為なんだって。そうでしょう? 愛、なんていう感情を持ったって、相手に迷惑がられるときすらあるのよ? ……自分だけ楽しんで、はしゃいで……ただの慰めよ。寂しい身を守るための……』
(――今回のことも、そうなの?)
『そうなんでしょうね。私だって村上君の全てを知っているわけじゃない。村上君のある側面が好きなのよ。ううん、ひょっとしたら後の村上君は嫌いなのかもしれない。
……そんな一方的な想い、他人には、特にぶつけられる当人にとっては迷惑よね……』
胸の奥から涙が、そして喉の奥から笑いがこみ上げてきた。
『そうよ、しょせんは
』
6.IN THE DARK(U)
「僕は人間なんだ」
村上健二は自分に対して語りかける。
「俺には好きな人がいるんだ。……だったらそれでいいじゃないか。何を迷う? 何故そんなにすぐ狙いを変えられるのだ?」
右手から紫陽花の臭気が感じられる。彼はその手を額に押しつけた。
「人間は理性的動物なのだろう? 下手な感情に流されてどうする……」
握力の亡くなった左手。しかし、竹刀が手から離れなかった。
(感情、か。……どうして俺は宮下のことが気になる?)
「……それはあいつが俺のことを好きだと言ったから」
(でもタイプではない)
「ああ」
(ならば何故迷う?)
「…………宮下が俺のことを好きと言ってくれた……から?」
(そんなことで想いを変えられるような恋だったのか? 俺の愛は)
「…………」
(そんなことだけで自分の想いを捨ててもいいのか? それで本当に“愛”を語れるのか? 本当に人間らしい愛し方をしていると言えるのか?)
「……愛されたい、なんて所詮人間の欲なんだ」
彼の目は虚空を泳ぎ、どこかの、遠くの星を見た。
「この世は独りでいるには大きすぎる。寂しすぎる。誰か側に……いて欲しい」
(でもあの人はいてくれない)
「そうさ! ……だけど……宮下は僕のことを好きと言ってくれた。僕と一緒にいてもいいと言ってくれた!」
(でも俺は排除した)
ぎゅっ、と右手が自分の胸元を締める。
「愛されたい、なんて所詮人間の欲望なんだ。欲に流されちゃ……だめだ。僕は人間なんだ。僕は村上健二なんだ」
(それで俺は宮下をふった?)
「そうなるだろうな。……まったく不自由なもんだ。人でいるというのも」
(ちがうね。叶わぬ恋にしがみついて孤独でいる方がもっと辛いさ)
くくっ、とくぐもった声が鳴る。
「そうさ。しょせんは
」
7.AT THE DAWN
『愛なんてどうでもいい感情。人を愛することは自分を愛することと同じ。……他人を愛することでしか自分を守れないから、自分を愛せないから他人を好きになる。みんなそうなのよ』
(それじゃあ私は村上君に愛されなくても良かったの?)
宮下亜希子は目を見開いた。指が二の腕に食い込み、快感を伴った痛みが走る。
『私…………私は…………』
眼がゆっくりと細くなる。彼女は優しく微笑んだ。
『……私は村上君に愛されたかった。それは間違いないわ』
(どうして? 愛なんてただの幻。言葉の罪よ)
『……私はあの人の役に立ちたかった。だから愛されたかったのだと思う。村上君が私を愛することで、彼が彼自信を愛せられるように、私を……愛して欲しかったのだと思う』
(利他的、ね)
『……かもしれない。他人の役に立ちたいがために、私は人に愛されたい。……きっと、これからも……』
(そう。結局私は
)
パタン、と彼女は両手両足を投げ出した。仰向けになって天井を眺める。心の底から笑いがこみ上げてきた。
『私は人の愛されたい。たとえ村上君に、でなくてもいい。ううん。彼は私の助けを拒否し
た。でも、他の誰かを救ってあげる。だから』
暗い闇。暗転。
「誰か私のことを愛して!」
8.AT THE DAWN(U)
「
愛なんてただの道具。毛布にくるまっているのと同じ。……愛されること無しに生き
ていける人間がどれほどいるというのだ? 遠く離れた春よりも、人は近くにあるマッチの炎が欲しいんだ」
(でも、根本的な解決にはなっていない)
「悪いか? 自分が望む愛を手にいれるために、どれだけ辛い想いをしなければいけないんだ? 手近な愛で我慢しなきゃ、凍え死んじまう。それなら……それならいっそ……」
(“欲望に流されてしまえ?”)
「そうだ。そうだよ。欲望に流れてもいい。流されてもいい。悪いか? だって……僕は独りなんて……。ああ、欲望に流されてもいいんだよ! いや、“人”が生きるためにはそうしなきゃあ生きていけないんだ!」
(自分のために他人から愛を巻き上げるのか?)
「そうさ。人は愛されることで、始めて生きていけるようになる。僕は……僕は生きていたい。だからみんな僕を愛せよ。僕に愛をよこせよ!」
(そう人から無理矢理奪い取った愛に何の価値がある? それほど生きていたいのか?)
彼は紫陽花の苗木を根からひきちぎった。足に力が入る。彼は天に向かって叫んだ。
「そうさ。人から奪い取った後味の悪い愛なんていらねえ。僕には愛をくれる人がいるんだ。
僕には
彼女がいるんだ!」
月光が薄くなる。瞬く星も、黒くなる。
「俺は自分を愛してくれる人の――宮下の側にいたいんだ!」
9.NEXT DAYS
歌が流れるこの街で みんなそれぞれ歌ってる
愛があふれるこの街で みんな健気に生きている
希望に満ちたこの街で 嘘に怯えて信じてる
二人の間の協奏曲 間奏だけしか描かれず
紅い糸さえ首を締め 燃やした人は何を見る?
絶望? 静寂? 未来? 希望?
愛があふれるこの街で みんな健気に生きている
自分を騙して生きている
(了)