プライド
*4*
相田祥司は緊張していた。スタイリストになって二年。
初めて担当した客よりも、緊張していたかもしれない。
彼が今まさにはさみを入れようとしている少女の髪は、背中まであるにもかかわらず、
健康でつやがあり、枝毛一つ無いように見える。手入れが行き届いている証拠だ。
おそらくまめにカットしているのだろう。長いにもかかわらず、清潔感がある。
だがそれだけではない。この少女の髪には、彼女のこれまでの人生が詰まっているような気がして、
髪を切ることが彼女にとってどれほどの意味を持つのかわかってしまったから、
責任の重さを感じてしまう。
「ちょっと肩に掛かるくらいの長さに。あと細かいことはおまかせします。」
そう言ってから延々と語り続けた彼女は、今は黙って鏡越しに祥司の手元を見つめている。
彼女の口から語られる物語に、祥司は最初とまどい、やっかいな客にあたったものだと思ったが、
しだいに引き込まれていった。最後には両隣の客やスタッフまで聞き入っており、
そのあたり一帯には、彼女の声と有線放送の音楽、そしてシャッシャッというはさみの音だけが響いていた。
確かに彼女は美人だ。眉は綺麗に整えられているし、長いまつげはカールしてマスカラはおそらく一度塗り。
肌は白く滑らかで、ファンデーションは目立たなかった。
リップもあまり色は入っていないようで、メイクはナチュラルだった。
しかし彼女には顔だけでなく、その仕草や言動すべてに人を惹きつけるものがある。
小さい頃からかわいいかわいいと言われて育つとこうなるのかと祥司は思った。
彼女が語る彼女の内面は、少し意外で、だから惹きつけられた。
「ほんとにいいんだね。」
念を押して彼女がうなずくのを確かめてから、祥司はとうとうはさみを入れた。
一束の髪がクロスを伝って彼女の膝の上へと滑っていった。
その長さは二十センチほど。もったいない、ウィックが作れそうだと思いながら、祥司ははさみを動かし続けた。
「記念に持って帰る?」
祥司は一応聞いてみた。ストレス解消に切るのだから、持って帰らないほうがいいのかとも思ったが、
やはりこのまま捨ててしまうのはもったいない。
「いい。なんか死んだ人のみたいで怖い。」
綺麗な髪なのに、今日の夜にはゴミ捨て場に積まれるのかと考えながら、祥司はどんどん切っていった。
「いかがですか、お嬢様。」
後ろで鏡を持って、合わせ鏡で見えるようにし、彼女の返答を待った。
最初こそ緊張したが、できあがりには自信がある。
彼女はじっと鏡を見つめ、横を向いたり前髪を触ったりしている。
「だいぶ切ったでしょ。頭軽くなったんじゃない?」
祥司が声を掛けると、彼女は頭を振った。
「あ、ほんと。すごく軽い。」
そのときの彼女の笑顔を見ながら、これは成功だなと思いつつ祥司は鏡をしまった。
「お流ししますからシャンプー台の方へどうぞ。」
祥司の後ろでタイミングを見計らっていたアシスタントが言った。
「どう、スタイリングも簡単だし家でもできそうでしょ。」
最後の仕上げが終わると、祥司は彼女の肩に手を置いて言った。
「うん、なんかまだ変な感じだけどすっきりした。」
「それはよかった。お疲れ様でした。」
そう言ってタオルと膝掛けを取ると、ちょうど通りかかったアシスタントに渡し、彼女が立つのを待った。
彼女はゆっくりとした動作で立ち上がると、祥司の方を振り返り、とても鮮やかな笑顔で言った。
「ありがとう。」
その瞬間祥司は彼女の笑顔に目を奪われた。ありがとうという言葉がこれほど嬉しかったことはない。
「ごめんなさい、変な話聞かせちゃって。変な子だって思ったでしょ。でもどうしてもあたしが髪を切る理由を
知っておいてもらいたくて。だからわざわざいつもと違う店に来たの。知ってる人には恥ずかしくてあんな話
できないもん。」
フロントへと歩きながら、彼女は祥司に言った。
「ありがとうございました。気をつけて。」
そう言って彼女を見送ったあとも、祥司は彼女のことが気になってしかたなかった。
結局どこの誰かもわからず、わかっているのは亜希子という名前だけ。
それさえも本名かどうかわからないが。
しばらくドアの前で彼女の後姿を見送っていたが、店の中へ戻って自分の名刺を掴むと、
祥司は思い切って彼女を追いかけた。
信号待ちをしていた彼女を見つけ、何と声を掛けるべきか迷いつつ、
亜希子ちゃんと呼びかけると、彼女は一瞬びくっとしてから振り返った。
やはり亜希子というのは本名だったようだ。
「ごめん、これ俺の名刺。渡すの忘れちゃって。よかったらまた来てくださいね。」
そう言って名刺を差し出すと、彼女は不思議そうに名刺を眺めながら受け取った。
「それであの、もしよかったらなんだけど、俺のカットモデルになってくれないかな。
俺もうすぐ雑誌に載るんだ。若手のスタイリストの特集で、カットモデルになって雑誌に出てくれる子
探してて。ほんともしよかったらでいいんだけど。」
祥司はあせっていて、自分でも言いたいことがまとまっていないのがわかっていた。
彼女はしばらく名刺の文字を追っていたが、顔を上げてまっすぐ祥司の目を見た。
「いいよ。やりたい。」
そう言って満面の笑みを浮かべた。
「ほんとう?ありがとう。あ、連絡先とか聞いといていいかな。あ、俺書くもの持ってない。
ごめん、慌ててたから。」
祥司がポケットを探っていると、彼女はすっとカバンから手帳をだし、電話番号を書き始めた。
「住所も?」
彼女が上目遣いで聞いてきたとき、祥司はようやく落ち着き始めていた。
「ああ、じゃあカルテ作っとくから住所ももらえる?」
「あの話信じた?」
目線は手帳に落としたまま、手も動かしながら、彼女は祥司に聞いた。
「え、ああ。」
ほっとして気を抜いていた祥司は、とっさに反応できず口ごもった。
「あれね、全部嘘なの。」
「えっ!」
祥司は思わず大きな声をあげていた。周りの人々が何人か振り返った。
一瞬地面が揺れたような気がした。だって彼女の話を聞いて、あんなに緊張してはさみを入れたのだから。
「演劇部だって言ったでしょ。あれはほんとなの。」
ぽかんとしている祥司に、手帳の一ページを破って差し出すと、彼女は悪戯っぽく微笑んだ。
「名演技だったでしょ?」
「そうなんだ。お芝居の練習?すっかり騙されたよ。じゃあまた連絡させてもらうから。」
そう言って彼女と別れ、彼女は横断歩道を渡り始めた。
祥司も店の方へ帰りかけたが、三歩ほど歩いたところではっとして立ち止まった。
そして次の瞬間には振り返って彼女を再び呼び止めていた。
「待って。」
横断歩道の真ん中で、彼女は振り返った。
「その髪型、とってもお似合いですよ。」
距離が離れていたので大きな声になってしまい、周りを行き交う人々にじろじろ見られた。
彼女は驚いて祥司を見ていたが、やがてとびきりの笑顔で言った。
「ありがとう。」
作り込んだものではなく、照れが見え隠れする、最高の笑顔だった。
店に戻った祥司がカルテを作っていると、アシスタントの一人が近づいてきた。
「さっきの子ですか?綺麗だけど変わった子でしたよね。」
このアシスタントも、祥司の隣でカラー剤を塗布しながら彼女の話を聞いていた。
「さっきあの子が言ってたんだけど、あれはお芝居の練習で、あの話も全部嘘なんだって。」
「えー、うそー。あたしちょっと共感してたのに。」
「でも俺はほんとだと思うよ。」
「どうしてわかるんですか?」
祥司は手を止めた。
「内緒。」
そう言って祥司は笑った。
end