この映画の主題曲は有名で、映画を見る前から耳にしたことがあり、マイケル・ナイマンの「ピアノレッスン(邦題)」の主題曲の一部のメロディがよく似ているように聞こえるのは、空耳であろうか。
この映画を見るにあたって放擲せざるを得ない条件がある。
古い作品であるために演出の様式が今では普通採用されないものであり、例えば冒頭の真っ暗な画面に音楽だけ流すという手法が当時はごくありきたりなことであったのか、詳しくないぼくにはわからず、うっかり、効果的だ、などと感心すれば、作った側からすれば別に意図したつもりもなく、勇み足を演じる羽目になる。もちろん見る側は作り手の事情や時代の新旧を斟酌すべき立場にはあらず、それがいつの時代に作られようが、いいと思う部分があればいいのであり、いくら大作でもモノクロで見にくいから見ないというのも至極まっとうな評価であり、個人の意志を尊重する世論にあってはむしろその方が力を得る価値基準なのかもしれないが、ぼくはできるだけそれに与したくない。自分がいいと思うからそれでいいというのでは、他人から見れば無意味であり、それを強いることは明らかな阿りであり、大人として恥ずべきだと思うが、このように思うものに対して、多くの意見がしかめっ面のイメージを持ち、尿酸値が高いのではないか、痛風になるぞ、と悪罵を投げかけるものであるかもしれない。
文章の形式上余談であるといいたいのだが、冒頭を真っ黒にして音楽を流すという手法は最近、「ダンサーインザダーク」で用いられた。あれは純粋に意図したものであり、またビョーク至上主義的作風からして当然一貫して奇を衒った映画であった。彼女はやはり奇妙であるからだ。
と、このように現在の作品であると、簡単に言えることが昔のものであると困難になる。冒頭を真っ黒にするのは、当時はしょっぱなから映像を見せるには観客の心の準備が完了していないとか、フィルムが贅沢でないなどといった事情があったかもしれないのである。それを確かめるためには物の本を紐解けば瞭然とするのかもしれないが、ぼくはそこまで踏み込めないのであり、それこそ甘えだという指摘には怯えざるを得ない。
次にどう判断していいのかわからないのが、これは映画の中身にもかかわるのだが、日本から見たときの、キリスト教である。キリスト教というと大雑把過ぎて的を射ていないかもしれないが、ぼくから見ればそれで括るのがふさわしいように思う。この映画の主題である死生観を、当然作る側はキリスト教的コンセンサスのもとで描いているわけだが、普通に日本で生まれ育ったらそのようなコンセンサスは見当たらず、そういう状況の中でこの映画の死生観を解釈するのは暖簾に腕押しといえるかもしれないのだ。そこでどうするかだが、キリスト教を理解してから首を洗って出直す、つまり留学するとか、洗礼を受けるとか、それができないならこの映画について述べるべきではないとするのか、あるいはぬけぬけと日本の価値観で見据えてしまおうとするのか。ぼくは後者を選ばざるを得ない。ここまで書き進めてやめるわけにはいかないのだ。それに忘れてならないのは、日本にも生と死はあるのだからめくらうちにはならないだろう。ただし、不安であるのは日本のと宣言しておきながら、それは実はごく個人的な観念に過ぎない恐れがあることであり、しかし、日本の死生観などというものがどこにあるのかもわからないし、それは日本の近代化の抱える問題のひとつかもしれないのだ。その辺は目を瞑ってしまおう。
少女の両親はドイツ空軍機の機銃掃射を受けて、少女を抱き包んで盾となり死ぬ。ぼくは弾丸が両親の体を貫通し、下にいる少女の命をも奪い去ってしまったのではないかと危惧したが、どうやら少女は生き延びた。
少女は両親の死体からいつのまにか離れ、避難民の群れにまぎれ、見知らぬ夫婦の荷車に乗る。女は少女が後生大事に抱いているイヌを見て、死んでいるから捨てろという。少女がそれに同意しないでいると、女はイヌをつかんで川に投げた。イヌは川面に浮かぶプラスチック製品のように流れていく。
少女は女に抗議するでもなく、荷車を降りイヌを追う。岸辺に流れ着いたイヌを少女が拾い上げ途方にくれているのを少年が見つける。少女は少年にイヌも両親も死んでしまったと嘆息する。少女は両親が死んだことをちゃんと理解していたのだ。ぼくはひょっとして少女は両親が死んだことを知らないのではないかと思っていた。
それにしても両親の死よりもイヌの死のほうが少女にとって重大であるように見えるのは、どういうわけだ。両親の死は合理的に考えれば自分を保護するものの喪失を意味する。イヌの死は逆に自分が保護する対象を死なせてしまったわけで、自分の無力をあるいは責められる。少女は自分の責任の取り返しのつかない重さに絶望的になったのか。つまり少女は自立していたのだろうか。
合理的に考えなければ、そもそも人間と畜生を比べれば、人間の死のほうが重要なはずである。少女にとっては前提として人も動物も同列であるという価値観があるようだ。その上でイヌの死を選択した。少女は非合理性を受け入れなかった。
そして、少年が少女にほかの生きたイヌを上げるから、そんなの捨てろと、というと少女はあっけなくイヌを捨てる。少女にとって前から飼っていたそのイヌでなくても、イヌであればなんでもよい。その伝でいくと、両親も、今まで育ててくれた両親でなくても、自分を育ててくれるのであれば誰でもよいのかもしれない。事実、少年の家庭に無抵抗に参入する。
少女は完全に自己の枠の中で完結しているらしい。アイデンティティという概念がない。これから育っていくものなのか、少女は生まれつきこの映画の中では欠損しているのか。
しかし、ラストシーンでは少女は少年の名を痛切に叫びつづける。この映画の始まりから終わりまでの間に少女の個を見分ける能力は養成されたのか。とすると何が少女を育てたのか。少年である。
この少年はどういう少年であるのか。少年の兄が死んだとき、少年はほかの家族が誰も読めない経を読む。少年は利き者であるようだ。この映画の主人公である少女の相手役として遜色ない才能を持っている。少年は十字架を見て喜ぶ少女を見て、墓作りに熱中する。少年は少女が喜ぶことが何にもましてうれしい。墓作りは少年が少女に没頭していると同意だ。それを見て無遠慮な母親は「このまま育てていって、将来自分の女房にするつもりなのかい」という。それが現実である。血のつながりがない以上、時間が経てばそういう議論は避けられなくなる。また、少年へのアンチテーゼとして、姉の不貞が挿入される。しかし、少年はものともせず、姉の秘密をカードにして、墓作りを達成する。
少女と少年にとって墓(十字架)は純粋な美である。大人たちがタブー視しているものに過敏に反応していると見られなくない。それよりも十字架が真に子供たちの心をひくのだ。大人にとって十字架とは厄介な身内の死とか、性交すれば子供ができるなどの自然を処理してくれるアイコンである。世俗化した十字架を子供たちが再興する。(母親は息子の死を前にして、飲ませようかと取り出したひまし油を、死んでしまったら無用とばかりに、ビンに戻すのである)これは宗教革命の構造である。件の墓場は少年の手による芸術なのである。子供たちが美を再認識しているのである。
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