昨年9月11日のニューヨーク・テロ事件では多くの消防士も犠牲になった。
ビルに挟まって、というか包みこまれて、燃えているジェット機の火を消すために、また怪我をして動けなくなっている人を救出するために、まもなく崩れてしまうビルの中へ突入していった。
後になって思えば危ないビルに乗り込んでいって、犠牲者の数を増やしただけではないかといえるが、正義感に燃えている炎の男たちが煙突のように煙を吹き上げているビルを目の前にして怖気づくわけにはいかないし、それよりも、まさかあの頑丈そうな、不動のニューヨーク経済のシンボルであるビルが、風船が破裂するような感じで、脆くも崩れ落ちるとは、誰も想像つかなかっただろう。
しかし、この文明が発達し、豊かな経済を実現した社会は、溢れそうなほどの学者・科学技術者を抱えることに成功している。彼らは椅子に座って頭をちょっと使うだけで飯を食わせてもらっているわけだが(これはマルキシズムだろうか)、それは社会を効率よく経済的に運営するために分業制を布いているのであり、社会的役割を果たすべく、その恩恵に報いるべく、あの旅客機が二台も突き刺さって悲鳴の煙を上げているビルを見て、速やかに何かを発言するべきだったのではないか。あのビルは崩壊する可能性があるから、立ち入り禁止にすべきだ、とか。
別に声を大にしていう必要はなく、えらい学者ともなれば行政の責任者に知り合いの一人や二人いるだろう、そのうちのしかるべき一人に電話を一本かけるだけで、本当に危機的な状況であるなら、命令は流れるように伝わっていくものだろう。
しかしそれは叶わずに二次災害的に犠牲を増やしてしまったわけで、つまり専門家も含めて誰もビルが消滅するとは思いつかなかったことになるだろう。それは、理論的に専門家が考えてもわからなかったのか、専門家が気づく前にビルが倒れてしまったのか、大丈夫かどうか悩んでいるうちに時間が過ぎてしまったのか、どうか。
事件後落ち着いて考えてみてもビルがなぜ崩れ落ちたのか、はっきりと究明されていないようだし、予言者でもない限り、警告を発することはできなかったのか。ビルを造った当人にも。
あのビルは日本人が設計したと聞いて、ぼくはまた日本人が恨まれるのではないかと不安に駆られたが、それは杞憂に終わった。あれは仕方のないことだったのだろう。
しかしなんとも危うい場所に人間は生きていると思う。「よくわかんないけど、いまんとこ大丈夫だからこれでいいや」という発想で世の中は維持されている。代表例は臨床医療である。医者はなぜだか知らないが効くことは経験上確かであるという薬を患者に堂々と飲ませる。でもそんなことは皆納得の上で、ぼくも体の具合が悪くなれば、何でもいいから効く薬をくれと思う。その薬にいちいち疑問を抱くようなか細い神経の持ち主は、それこそ医者に診てもらえといわれる。
結局あのような事件・事故に巻き込まれてしまったら、はやり病に冒されてしまったようなものだ、世の中そう簡単に進歩しないのだと諦めるしかないのかもしれない。
この映画(バックドラフト)は消防士を描いている。今ニューヨーク近郊のレンタルビデオ屋では常に貸し出し中の札がぶら下がっているとか、いないとか。
まったくこの映画はよくできている。メインストーリーは取り付く島もないカラカラに乾いた政治劇であるが、それだけだと消防士の感動を呼び起こすことができないので、親兄弟の因縁という古典的に湿っぽい要素を導入してある。それだけではなく、現代人の自己本位と公共性の葛藤とか、働くものの美しさ、というものをきちんと備えている。
まあ、悪くいえば総花的で見終わった後に何も残らない、焼け跡のような気分がしてしまうのは仕方ないかもしれないが、その点、あの炎の撮影を成功させたことがすべてを補っている。というよりもあの炎を撮りたかったのであり、ストーリーその他は、形を整えるための付随的調整剤に過ぎなかったのかもしれない。
こういう映画を撮りたくても危なっかしくて誰も撮ろうとは思わないだろう。方法を自分で考え出さなくてはならない。というと映画作りはいつも創出なのだと反論されてしまうだろうが。
この映画でどうしても見過ごせない疑問がひとつあるのだが、それはロバートデニーロ演じる男の職業のことである。職制のことは知らないが、あの男はどう考えても自分の職域を踏み越えているように見えた。放火かどうか判断すればいいのであって、犯人探しは警察の仕事だろう。そのあたりは自由の国アメリカのいいところなのだろうか。
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