わかりやすい映画の必要条件に、撮影が丁寧である、というのがある。この映画、「中国の鳥人」はその条件を兼ね備えている。
 せっかく中国まで行って適当にカメラを回して帰ってきた、のでは寝覚めも悪かろう。 撮影を誉めておきながら、ぼくはビデオで見たので、その中国ロケの醍醐味を味わっていない。テレビ画面で見るとCG合成ではないかと思ったくらいだ。もう劇場ではやっていないのだから部屋で見るしか仕方ない。とにかくCGかと思うくらい、奇妙な画だった。どういうレンズを使ったのだろう。
 中国内陸の異界的風景を背に、日本で最も画面に映える俳優本木雅弘が、日本の若手エリートサラリーマンを演じる。
 その異界に日本のエリートとやくざが訪れる。これほどわかりやすいシナリオもあるまい。また、映画を見た後、反芻するのに映像が頭にすんなりと浮き上がってくる。だから冒頭に述べたように、わかりやすい。
 構成もわかりやすい。全編二時間のうち、前半一時間では騒々しい。観客ははじめの一時間くらいは元気で、椅子に座って話の筋を追うだろう。普段じっと腰を落ち着ける習慣のない、忙しなく忙しい観衆がそろそろ疲れ始めるころ、この映画はスピードを緩め、中国の山奥で美しい歌と娘に出会ったエリートの内面に重点が移行する。カメラは所詮外面しか映さないので、観客は本木のととのった顔を見て、勝手に想像する。本木演じるエリートはきっと、日本の喧騒を遥か彼方に、美しく魅力的なものに浸り、ふけっているのだろう。
 自分もいつか暇をとって旅に出ようか、などと考えているうちに観客の睡眠不足の脳は休息を求め意識を失いかける。そこで刺激を与え、目を覚ますのがやくざである。ヤクザははじめ不機嫌だった。組の若い衆に示しをつけるためとはいえ、どうしてこんな言葉も通じない、不便で不条理なところへ来なくちゃならないのか。しかしやがて中国の懐に入り、その深さとでもいうべきものに惹かれ始める。
 通訳の陳さんは苛つくヤクザをなだめるために、
「もう目的地まで9割を過ぎたよ」
という。そして陳さんは山へ進路を取る。その行動にヤクザとエリートサラリーマンは疑いを持つ。陳さんは、
「あと二日歩けば着くね」
という。怒り狂うヤクザに陳さんは、
「遠く離れた日本から来たんでしょ。もうすぐじゃない」
という。
 理不尽な中国にヤクザは悪態をつきピストルを振り回す。しかしながら、ピストルに対していちいち良識的反応を誰も示さなくなっているのは、そこが異界であることの象徴とはいえ、不可解な対象に向かって気兼ねなくピストルを突きつけることは実に爽快で、澱が取れるような気持ちがする。そういう体験が蓄積すると、日本に帰る意味がわからなくなってくる。
 ついにヤクザはキレて、村からの唯一の脱出手段のいかだの動力である亀(すっぽん)を斬殺し、それでもなお逃げようとするエリートと通訳と船頭を拘束する。暴力で制圧されたエリートサラリーマンもしかし、同じように中国を体験しているために、拘束されているとはいえ黙っていない。
 そこで議論が始まる。ヤクザの言い分は、現代に残された美しい村に文明を持ち込み破壊するのは駄目だ、である。エリートの言い分は、実際にその村に住んでいる人たちは電気が村に通じることを待ち望んでいるのだ、である。正論と正論のぶつかり合い。このままでは埒があかないので、エリートサラリーマンは漸進主義という妥協案を持ち込み、結論を導く。
 文明と風土が折り合いを付け共存できるような道があるに違いない。
 エリートはさすがに議論馴れしている。
 そこで議論としては終わっても、映画としては終わらない。だから、エリートとヤクザは空を飛ぶのである。イカロスのように空に飛び立つことは映画のクライマックスとしては重大だが、意味はない。観客が各人、好きなように思いをめぐらせばよい。バランスのとれたいい映画だ。まあ、しいて意味を考えるなら、日本は今まで中国を参考にし、見習い、仰ぎ見、まぶしさを覚えつつ、歴史を重ねてきたということだろうか。
 さて、ヤクザとエリートがこのディベートにおいてそれぞれの立場を取る動機はなにか。わかりやすいこの映画は、ヤクザが夢でうなされるほど日本社会に懲りているという個人的ないきさつをわざわざ用意しているが、蛇足である。
 ヤクザは法外の人間である。法律などを用い、すべてを予測し、制御仕様とする都市に、生身の自然人であるヤクザはいつも居たたまれなく、馴染めない。また、小さいころから徹底的に社会化教育を授けられ、自然を矯められてきたエリートとヤクザが対立するのは明らかである。
 結局わかりやすさを追求するこの「中国の鳥人」は中国の教えである中庸をとり、それぞれに結末を与える。ヤクザは指を詰めて足を洗い、中国の開発アドバイザーになる。エリートサラリーマンは歌を歌う現地の娘に思いを寄せるが、きっちり失恋して日本に帰る。
 現実の中国は沿海と内陸の格差は広がる一方で、再び毛沢東が現れない限り、どうしようもないことになっている。






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