昨年9月11日の殉教テロにびっくりしたアメリカは早々に反撃ののろしをあげ、戦争を執り行っていたわけであるが、そんな中、「ブラックホークダウン」という映画がアメリカで封切られ、観客を集めているというのをテレビを見ていて知った。それは映画紹介の番組などではなく、普通の報道番組だったと思う。映画紹介を目的とした番組なんかは深夜でなければ見れないし、そんなものを見るために夜起きているほど暇ではなく、また、ゴールデンタイムの報道番組がアメリカで流行りの映画をわざわざ取り上げたのは、その映画が戦争作戦遂行中の、アメリカ国威発揚のプロパガンダではないかという陳腐な物語性の背景を、その映画が持っていたからだ。ぼくは当初、そのニュースに適当に鼻をくすぐられた格好で、アメリカという国は相変わらずわかりやすいものだと、ため息混じりの思考停止を余儀なくされ、この「黒鷹落ちる」もきっと正邪のはっきりわかりやすい、ジャンクフードのような映画だろうと決め付けていた。
 ぼくは劇場公開される映画のそのほとんどを見ないまま過ごすが、それでも面白い映画を映画館で見るために自分なりの事前審査を行い、見るか見ないかの判断を結構まめに下すわけだが、「ブラックホークダウン」は見る必要なしの決済を一度は受けていた。それからしばらくすると、アメリカのアカデミー賞の発表があったりして、「ブラックホークダウン」はリドリースコットの手によるものだと知った。リドリースコットと戦争映画。危険な組み合わせだ。表現様式として、また商品として絶品の映画を作ることのできるリドリースコットが、その器の上に戦争アジテーションとかアメリカ万歳のような中身を盛り付けてしまったら、観客はころっと騙されるに決まっている。一流の料理人がハンバーガーとかフィッシュアンドチップスを作って売り出している、と譬えると誤りだろうか。しかも、映画は、基本的に(編集をやりなおしたりフィルムの劣化を除く限り)一度作ってしまうと品質は一定なのである。
 それに加えて思うのは、芸術家が国家と手を組んでしまったか、ということだ。そういう状況を表すレトリックに、芸術家に対する、「悪魔に魂を売ったのか」などというものがある。実例は歴史を紐解けばいくらでも出てくるだろう。現代の史観からすると、その類の出来事は悪として語られる。しかし、広い意味では国歌の作曲や国旗のデザインも芸術家の国家的迎合といえてしまう。すると、もともと芸術家などという存在は国家と切り離しがたい側面を持っていると考えたほうがいいかもしれない。国家は国民を飼いならすものであり、飼いならすのにはシンボルが有効だし、シンボルを使って多くの人々を共感させ揺さぶることができてこそ、一級の芸術家といえる。国家に目を付けられてこその芸術家の甲斐性なのだ。特に、最近のぼくの考えでは、様式を駆使するものとしての芸術家は、表現されるべき中身、思想とか目的性などから中立でいることもできなくてはならず、例えばある時期にサヨク文学で名声を博して文壇に上がり、左翼思想が衰退する頃には、ぬけぬけと左翼を捨て、次はまた別の思想でもって大衆を欺いていけるぐらいの器量がなくてはならない。そういう意味で最近の中国政府は感心する。法輪功弾圧がそれだ。気功をやるのなら家の中でやっていろ、どうして体制批判へ向かっていくのだ、気功と無関係ではないか。政府の言い分である。
 かしこい消費者としての大衆は、まあそういう芸術家を変節漢として罵るのは勝手だが、左翼を捨てたあとの作品には中立公正な態度で評価しなくてはならない。変節しようが転向しようが問題ではないのだが、芸術家たるもの、そういう侮辱を受けないよう、観衆を騙していくべきだし、逆に「教育あるかつ尋常なる士人」である一般人は、かりそめに過ぎないぱっと咲いて散るような一過性の流感思想で名を上げただけの芸術家を、その過去の熱気の思い出に順じて後生大事に守っていくようではいけないのである。どうやら観客は表現様式より中身に興味が傾いてしまうらしく、芸術家は自分のあるいは時代の思潮と自分の文体の区別がつかず、流行のものの見方を当り障りのない無味無臭の文体でもって表現しているに過ぎないことに気づかないらしい。あまりそんなことが繰り返されると、凡庸で雑草すら生えない更地のようなフォルムで流行をリードしていくことがすなわち芸術ではないかと錯覚すら覚える。いや錯覚ではなく事実なのか。現実はともかく、流行とか国家に左右されない断固とした地位にありつづけることこそ男らしい、いや美しい人物像であるとされる。だから、魂を売ったとされるような芸術はその実情として、お金に困っていたとか、元来たいした作家ではなかったという物語性でもって言い切られてしまう。ぼくもこのたびのリドリースコットに関してそういうことを思わずにはいられなかった。もともとリドリースコットは映画の物語に執着する作家ではなく、映像をいかに見せるか、そればかり志していて、物語は映像のカットとカットの間をつなぐ接着剤に過ぎないかのようにも思わせる。だから脚本は映像と風味が合うのであればなんでもよく、たとえそれが米軍賛美の話であってもかまわない。それは上に述べた伝でいうと、真の芸術家像である。ただし、魂を売った、などの謗りは免れないかもしれない。いずれにせよ、この脚本を採用するかどうかは個人の内面のことで、ぼくがいうような考えで決めたかどうかわからない。それはしかも、太平洋を隔てた向こう岸の人間のことであって、心の内側は遥か窺い知れないのである。
 とにかくさすがはアメリカだな、この映画の製作に国家はいくら金をあるいは口を出したのだろう、恥もくそもないな、と日本のマスコミに煽られたぼくは安っぽい物語を頭の中で構築していたのだが、リドリースコットと聞いた以上、見に行かないわけには行かない。
 これは余談だが、もうひとつ映画館に足を運ばせる要因があった。この映画「ブラックホークダウン」に限って、平日なら学生は入場料千円だったのだ。これは普通に考えると学生にぜひ見せたい作品であるというふうになる。軍人の忠誠心を見せることでふやけた学生の性根を入れ換えようというのか。でも米軍が主役なのに日本人が見ても誤解を招くだけじゃないのか。別にそういう意図はなかったか。映画館は意外に空いていたが、後ろに座っていた中年のカップルが「学生は千円やて」「なんでそないやすうにせなあかんのやろ」と不平をこぼしていた。ぼくはそのときわけあって背広を着ていたので学生には見えなかったかもしれないが、少し居たたまれない気分になった。
 映画は、正味のはなしが、面白かった。冒頭字幕で「based on an actual event」と宣言される。すべてが本当の出来事のわけないが、これは前提である。この映画は3時間ほどの長さだが、全編でもってほぼたったひとつの作戦を念入りに描く構成になっている。しかもそのほとんどが戦闘シーンである。観客は登場人物たちがいつ死んでもおかしくない状況にいるのにずっとつき合わされる。どういうわけか、いわゆるダレ場がほとんどない。押井守氏がいっていたことだが、映画にはダレ場が必要なのである。ダレ場とは、ストーリーに関係のない、またストーリーの展開部に位置し、登場人部が映画における意味でのごく正常な心理状態を維持しているシーンを台詞なし、あってもたわごとを並べるだけで、音楽をつけて、凝ったカメラワークで見せるシーンのことで、その間観客はストーリーの整理を行い休憩する。ダレ場がなく、緊張した場面が続くこの映画は見ていて疲れざるを得ない。ぼくのように一生懸命見る観客ばかりではない。あまり流行っていないのはそのせいか。リドリースコットほどの老練な監督がその辺怠るとは思えない。で、映画をよく思い出すと、ダレ場らしきものはいくつか浮かぶのである。負傷した兵士を手術する場面。敵の民兵が夕方お祈りのために休戦状態に入っている。これらのシーンはストーリー上、緊張感は持続していて、とてもだれているようには見えないが、登場人物たちにとって見れば貴重な休息の時となっている。観客が十分映画に入り込んでいるなら、それでれっきとしたダレ場が演出できるのかもしれない。また、弾の飛び交う戦場の合間に、コンピューターに囲まれた司令室のシーンが頻繁に挟み込まれる。これがリズムになっている。スポーツを譬えにするなら、ありがちなダレ場がゲーム自体の休み時間ハーフタイムインターミッションであり、この司令室の挿入シーンは選手個人の脳と筋肉の関係、つまりフィードバック機能にあたるかもしれない。そこでいえることは、前者は観客は観客として位置付けられ、後者では観客は選手あるいは兵士として位置付けられる。だから疲れて当然なのだ。見ていて疲れるような映画が消費者の嗜好に合うのか。その答えは興行収入に数字で現れる。この映画の数字がどうか、知らない。でもこの映画は頭ばっかり疲れる映画ではない。全身の神経が疲れる。映画もここまで来たら凄いとしかいいようがない。映画産業と体育産業が競合しているのか、どうか知らない。でも映画産業からすれば、人間は肉体抜きではおかしなことになってしまうという現実からくる引け目があるはずだ。暗闇で目と耳だけ働かすのが体にいいはずがない。そういう映画の構造的欠陥に挑んでいるのがリドリースコットなのではないか。
 構成の話はさておき、中身について幾つか散漫に述べておく。まずトムサイズモアという俳優である。戦争映画でこのおっさんは引っ張りだこになっている。もはや傭兵である。映画の中とはいえ歴戦を潜り抜けてきて、ふてぶてしいまでの貫禄がついている。銃弾が乱れ飛ぶ中、ヘルメットをかぶらず、頭も下げずに立っているこの男は迫力があった。それにハリウッドの凄いところだが、メイクのお陰かどうか、前の映画に比べて顔が別人のように変えられているのである。「このおっさん「プライベートライアン」で死んどったやんけ」と思わずに済むのだ。
 この映画のカタルシスであり、もっとも秀逸なのが、国連軍(中でもパキスタン軍)の輸送車に乗せてもらえず、戦場から走って退散する6人のアメリカ兵である。戦場から走って帰るという戦術の面白さもさりながら、命がけのランニングである。これは兵士たちが何だかんだいって日頃から体を鍛えているからできる所業なのだ。都会の人間が同じことをすると「メロス」のように死んでしまう。見ていて吐きそうになっていると、「ほんとうに」兵士のひとりが吐いた。まさに肉体映画である。兵士たちは見事に完走する。オリンピックのマラソンどころではない。兵士たちは徹夜明けなのだ。兵士たちはゴールにたどり着き、マラソン選手のように喜びを表さない。喜ぶ力も残っていない。祝福すらしてもらえない。瀕死の味方兵士たちが血まみれで地面に並べてある。地獄だな、と思っているとパキスタン人が水の入ったコップを盆に載せて持ってきてくれた。最高のサービスだ。兵士たちは水を飲み干す。とてもうまそうに。あまりにうまそうなので、ミネラルウォーターのコマーシャルに見えてしまった。コップではなくエビアンのペットボトルだったら確かにコマーシャルになってしまう。それも壮大なコマーシャルに。
 この映画は前述のように、一部の左翼マスコミから反動だと批判されていたが、そのつもりで見ていたのに、そうは思えなかった。確かに兵士たちは英雄的(もちろんトムサイズモアも含めて)であったし、敵のアフリカ人たちは狂った未開人だったし、司令部の無能に文句をつける場面はない。いや、これだけ揃えばまごうかたなき反動か。これを反動と感じないぼく自身が反動なのか。
 誤解を避けるために付け加えておくが、アフリカ人すべて野蛮だったわけではない。アメリカ軍に拉致された武器商人は利発なやり手だったし、民兵のリーダーのサングラスをかけた男は恐ろしいほど強そうに見えた。彼らはむしろアメリカ人よりも実体をもった奥行きのある人物に見えた。恐慌的な集団とはいえ、こういう人間がいなければ機能しない。
 それに司令部に対する盲従とも取れる誠実さは奇異だった。仲間内の葛藤はないわけではなく、物語をきりっと締めるために用意されているが、現場レベルのもので上へ向かっていかない。上司はどう考えても無能だし、もしジャーナリストがそこにいたら血管浮き上がらせて責任を追及するだろう。しかし、それは実務者の姿ではないし、もしそれをやってしまうと、泥沼になってしまうのは、火を見るより明らかだ。反動的ではあるが、まっとうな観客であるなら、リテラシー能力を発揮させるだけの材料は提示されているので、上層部の政治的な歪み(そもそもアフリカに兵を派遣するべきだったのかというレベルまで)は見えてくるようになっている。
 ぼくとしてはそういう類いのアメリカ外交の憂鬱よりも、組織人、サラリーマンの苦悩が見につまされた。上司は無能だし、取引先(この映画の場合敵の民兵)はわがままを言いたい放題。ぼくはこの映画で始めて知ったが、米軍も日本の自衛隊と同じように、敵が攻撃してくるまでは撃ってはいけないのだ。まともな人間がまともにものを考えていられる状況ではない。これがベトナム戦争映画だったら、容易に反体制に向かい、あるいは麻薬の蔓延という流れになって行き、サラリーマンだったらやけ酒食らって、明日の朝から能面をかぶるようになっていく。しかし、ソマリアもベトナムも同じではないか。冷戦が人道という言葉に置き換わっただけだ。それなのに発表される映画はずいぶんタイプの違うものになっている。なぜか。やはり人道パワーか。冷戦時代はそれなりに敵がはっきりしていた。ひょっとするとコミュニズムよりヒューマニズムのほうが恐ろしいのではないか。
 いつのまにかこの映画は反動だという論旨になっているがあくまで比較のためである。といいたいが状況証拠的に反動といわざるをえないかもしれない。
 象徴的な台詞があった。ひとりの兵士が言うのである。「戦いが終わればいくらでも考える時間はある」今は何も考えるなというのだ。もし弾に当たって死んだら結局考えることは一生ない。よらしむべし知らしむべからず。
 これはこの映画のもうひとつの側面を象徴している。気の緩む暇のない展開で、観客はものを考えている暇がない。考えたかったら、映画館を出てから考えろ、というのだ。これは肉体映画にもつながっていく。
 ぼくはあまり反動だといいたくないので弁護すると、戦争にもマクロとミクロがあるということになる。人びとはマクロ状況のみを論じたがる。大体、ミクロは論じようがない。論じたとしてもマクロと結び付けて考えられる。あるいは、ミクロはすでに物語られ尽くしたのかもしれない。英雄的美意識、死の恐怖、ニヒリズム。こういったものは、幾分古臭くなっている。でもこの映画ではミクロに焦点が当てられている。といっても古臭い価値観の上に描くのではなく、肉体という自然を通して描いている。弾に当たったら死ぬし、上司が無能であっても死にたくなければハッスルするしかない。肉体を描くと反動になった。これは想像だが、要するに左翼の連中には肉体がないということではないか。
 とにかく、この映画は面白かった。ぼくは戦争映画が好きなのだ。「プライベートライアン」は最も印象的な戦争映画だが、何が凄いといって、冒頭の約30分間の上陸戦シーンだ。ぼくはそれを映画館で見て腰が抜けた。泣きそうになった。物語はなく映像演出だけであれをやってしまった。後の映画に与えた影響も大きい。爆弾で吹き飛んだ土がカメラにばらばらと降ってくるのは「プライベートライアン」が開発した方法だ。
 なぜぼくは戦争映画が好きなのか。少し文学的に説明するなら、ぼくは幼少の頃戦争映画が苦手だった。怖かったのだ。そのせいで戦争も怖かった。自分は戦争に行きたくないと、夜も寝られないほど悩んだ。いつかまた日本は戦争をするかもしれない。ぼくはそういうことに悩む子供だった。
 なぜそれほどまでに怖かったのか。日本の戦争映画のつくりが悪かったからだ、と今なら分析できる。
 日本は戦争に負けた。負けた国が戦争映画を作るとどうなるか。しかも世論は「戦争は駄目」の大合唱である。とにかく戦争はいけない。それで戦場を映画に撮ることができなくなる。兵隊ではなく、兵隊を見送る国民・女子供を描くしかない。兵隊を描いても特攻になる。悲劇的英雄である。丹念に兵隊たちを活躍させても、結局負けるのである。挙句の果てに、敵の兵隊と仲良くなってみたりする。それは映画にできなくはなかったはずだが、新しい物語が必要だった。日本には浪花節しかなかった。これはいいすぎだが、ぼくが見せられたものは、貧しい国民の姿であり、子供の飢え死だった。ぼくは、大人になるとは、戦争映画を正視できるようになることだと考えた。今ではもちろんどんな映画だって見ていて平気だ。自分の成長の喜びが翻って、戦争映画好きになっているのだ。






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