封切られたばかりのこの映画『Dolls』の客席は思ったよりも空いていた。日曜日の夕方の上映寸前に映画館にたどり着いてしまったので、銀幕を見にくい席を指定させられるかと思いきや――よく晴れていたのに――それとも、よく晴れていたからこそ、映画館のような暗いところは拒否したくなったのか、多くの人々は。
そして、上映が終わった後(エンドロールが流れている間、出口へ向かう客は、しかし、ほとんどいなかった。これは静かな映画で、観客は気を遣いいつもより音をたてないようにしていた、そのまま、急にざわざわするのが、憚られただけか、いや)、観客は映画に感動して、腰が持ち上がらなかったのか、場内に照明が灯されても、楚々として、立ち去っていくのだった。
オープニングで文楽があったあと、主演俳優の名前や音楽監督の久石譲の名前に連なって、衣裳・山本耀司の名前が読み上げられていた。あ、あの川久保玲と結婚していたという、高い服を作るあのヨージ・ヤマモトか。
北野武は芸人だからだろうか、強迫されてでもいるように、映画の中にメタ・観客を登場させる。今回は『あの夏いちばん静かな海』の傾向の演出だったせいでか、主人公が変なことをしているのをあざ笑う民衆が当然のように登場している。民衆といっても、数人のちっぽけな人間たちなのだが、彼らの背後には、監督の意図としての愚民の面影が垣間見られる。要するにシンボルであるが、一歩間違えると、監督の作為が安っぽく見えてしまう。これまでの作品では、『愚民』はどうしようもなくからっぽで、投げやりで、適当で、それゆえ、監督特有の鮮やかさがあった。今回の作品ではどういうわけか、愚民が大勢いた。あそこまでやると、煽っているように見えてしまった。
オープニングの文楽でも、観客席のカットが二度ほど挿入された。まあ、文楽というのはおとなしい演劇で、愚かな観客にとっては退屈であるから、映画のほうが観客を乗せていかなければならず、そういう監督の芸人魂が、この文楽の場面の、人形が動き出すときの、はっと息を止めさせるような力の入った演出として表現された。
見世物というのは、劇場の観客も含めての芸術である、というテーゼ――こんなものあるのか知らんが、それに則って考えると、このオープニングは、たいしたものである。
一方、ストーリーを物語っているときの北野武の演出は、とても無愛想で、観客を突き放したような、
「ちょっとは、頭使え、このやろう、てめえ、ばかやろう」
という監督の声が聞こえそうな――ありがちな印象批評でいうと、静物画のようなじっとした静かな演出である。
それは、一歩間違えれば、恐ろしいほど退屈になる。しかし北野武の映画が退屈ではないのは、どういうわけか、それは難しいところであるが、監督が「天才的」にストーリーを把握していて、それを観客に向かって監督の独自の翻訳をしてみせているためであるが、これでは説明にならない。
例えば、誰かが酷く惨めな目に遭っている、銃で撃たれたり、鼻を革靴で蹴られたりして血を流していたりする、そういう場面をその友達がふたりぐらいで眺めている。その友達は呆然と立ち竦んでいて、無表情で、証明写真のように不細工な顔をしている。それを真正面から、これまた無愛想で素人みたいなバストショットのカットでズバッと挿入する。
その男たちの眼差しが、そのまま時代のものの見方を代表していたわけである――これは説明になっていない。
そういう撮影とか編集のしかたは、あまりうまくないわけで、監督自身もいっているが、それがたまたまうまくいってしまった。運がいいというか天才というか。いずれにせよ、監督はマスコミの中で何十年も生活してきて自分がどのように見られているのか、きちんと理解して利用するすべを心得ている。照れ隠しにしろ、自分の立ち振る舞い方は自分で考えるべきなのは他の著名人たちにもいえることだ。
そのギクシャクした演出は、もちろんれっきとしたストーリーを根に持っていなければならず、持っているからこそ、ぼくなど見ていて、「なんやこれ」と思いながら、画面を凝視してしまうのである。
しかし、今回は(前の「Brother」もひょっとしたら)、オープニングの文楽のように、観客を扇情しようという部分を含んでいて、ぼくなどは逆に引いてしまうのであった。これは明らかに、映画監督として腕をつけてきた北野武がスケベ心を見せたものである違いない。上に北野武は自分の才能を見極める能力にすぐれていると書いたが、今後――こういう機微は、すべての芸術家にいえることらしいし、また、こういう批評的物語で以って、実在する人物を型に嵌めてしまうのもどうかと思うが――映画を作っていく上で乗り越えなければならない、大きなハードルになるだろう。つまり、へたくそっぽさが観客の目をひきつけていたのに、上手になってしまうと、普通のどこにでもいる映画監督になってしまう、ということだ。
しかし、それは詮索に過ぎるもので、めくらな観客の印象を述べているに過ぎず(これは卑屈に過ぎるか)、映画全体としては、監督の腕と素人っぽさの、ない交ぜになった、アンバランスさが、調和していて、すごい、のかもしれない。
だからストーリーを見なければならない。
ところで、サブストーリーの主役たちふたり、やくざの親分とアイドルの追っかけ、がきっちり死んでしまうのは、安易ではないか。確かに、彼らの死んだあとの処理(葬式のようなもの)はなかなか「粋」である。追っかけの場合、死んだあとに路上に残ったおびただしい血を公務員である警察官が事務的に洗い流していく、その上に追っかけの生前の顔が投影される。これはほとんどギャグである。親分の場合、車椅子に乗った障害者がヌシのいなくなった家に向かって門越しに、「おやぶーん、こりゃいねえんだな」という。これもギャグである。ギャグで観客の悲しさを誘うというのは、やはり北野武の芸人としてのすごさである。
主人公も含めた、彼らの死は、当然、社会からはみ出してしまった者が受ける現実的な報いとしての制裁、と解釈せざるをえない。因みにぼくはそういうストーリーが嫌いではない。わかりやすいからだ。
それからもう少し深く邪推するなら――これほど多くのはみ出し者を登場させてしまった以上こういう見方も当然と思うが、監督の福祉観が主張されている。
文明社会は、はみ出し者を、ほったらかしにするのではなく、救済しなければならない。それを福祉という。福祉される者としての代表例は、老人、障害者、ホームレス、病傷人、の四つである。これらがこの映画にはすべて登場する。
老人は、やくざの親分である。親分は老人である上にやくざであるから、二重のはみ出し者である。親分は往時の自分の活躍を夢見ながら老け込んでいる。ある日、老人的な妄想の果てに未来の夢をつかむ。それは公園のベンチに弁当を持って待っている老婆である。ものすごくセンチメンタルである。
(余談となるが、北野武映画には、やくざがいつも登場する。北野武は芸人でもあるが、芸人もやくざみたいなもので、彼自身はみ出し者に近い、あるいは彼自身自分をそう見なしている。監督ははみ出し者に愛着がある。はみ出し者の中でかっこいいのはやくざだけである。物語には、かっこいい登場人物がふさわしい。監督の描くのやくざには、なかなかの奥行きがあって、それはセリフにすら表れている。)
障害者は、車椅子に乗ったやくざの息子である。これは完全な脇役である。やくざの息子が醜い身体で車椅子に乗って、低脳な同級生を従えて、いきっている。滑稽である。障害者たちと、紐で繋がった主人公ふたりは路上ですれ違うが、そのとき障害者は主人公に対して、
「なんだよ、あいつら。へんなの」
という。
「変なのは、てめえのほうだろ」
という監督のつっこみが聞こえてきそうである。こいつらは脇役だから死なずにすんだ。
ホームレスは、主人公たちである。
ここで、夏目漱石の「行人」から引用。
「ところでさ、もしその女が果たしてそういう種類の精神病患者だとすると、すべて世間並みの責任はその女の頭の中から消えてなくなってしまうに違いなかろう。消えてなくなれば、胸に浮かんだ事なら何でも構わず露骨に言えるだろう。そうすると、その女の三沢にいった言葉は、普通我々が口にする好い加減な挨拶よりも遙に誠の篭った純粋のものじゃなかろうか」
自分は兄の解釈にひどく感服してしまった。「それは面白い」と思わず手をうった。すると兄は案外不機嫌な顔をした。
「面白いとか面白くないとかいう浮いた話じゃない。二郎、実際今の解釈が正確だと思うか」と問い詰めるように聞いた。
「そうですね」
自分は何となく躊躇しなければならなくなった。
「ああああ女も気狂にして見なくっちゃ、本体は到底解らないのかな」
兄はこういって苦しいため息を洩らした。
この映画ではこういう解釈はとられていない。この小説の解釈は古いのである。古い小説だからである。(ぼくは下にこの古い解釈をもう一度使う。)狂ってしまったら、もう戻れないのである。狂ったお陰で本音を喋れるようになった、というのは健常者からのものの見方である。
彼らはさまよった挙句、崖に水平に生えた枯れ木にぶら下がって、死ぬ。ものすごい映像ではあったが、美意識過剰で、引いてしまう。
病傷人は、アイドルの追っかけである。追っかけは、けが人であると同時に、引きこもり体質で、うまく他人とコミュニケーションがとれないので、二重のはみ出し者である。二重というのは間違いで、けが人となって目が見えなくなった後は、その迫力でもって、他人と、ただの他人ではない、アイドル・深田恭子である、彼女と意思疎通することができる。ただし、もう彼女の姿を見ることができない。ものすごくセンチメンタルである。
彼は不気味な追っかけであるが、実は純粋な心の持ち主で、他人と意思疎通できないのも、その純情さが邪魔をしているだけであったのだ。そういう人は救われるべきで、結果、アイドルと手をつないで心を通じ合わせることができた。北野監督はやくざを描くのがうまいが、ついに、引きこもりのダサい人間をも上手に掬い上げることができた。しかし、自分で目を潰してしまうその感覚は異常であり、やくざが指を詰めるのと変わらない。
といった数々のはみ出し者が登場する。
はみ出し者を見た目からすでにはみ出させているのが、山本耀司の衣裳である。菅野美穂が、精神病院から出てホテルの部屋に入ってきたとき、拘束衣を着たまま病院を出てきてしまったかと誤解したが、それは山本耀司の衣装であった。
山本耀司(たち)は、日本人の、体形コンプレックスを背景に、芸術的な服を作ってきたひとである(らしい)。
この映画はそのタイトルが示すように、登場するのは人形たちであり、人形に服を着せるように、俳優たちは山本耀司の服を着せられている。車椅子の障害者までも着ていた。山本耀司の服を、映画の中の全員が、着ていると、画面全体に違和感があり、確かに、人物が人形のように感じられた。服が巧みに人間の身体の線を隠して、人工物に仕立て上げてしまったからだ。だが普通、あれほど大勢の人が山本耀司の服を着て街を歩いてはいない(値段が高いから)。
なにがいいたいのか。ぼくは山本耀司の服が映画を邪魔したとは思わない。とても面白かった印象をもつ。印象を更に追究して述べれば、オカマ(おすぎとピーコ)の真似、しかも生硬な語り方になりそうだからやめる。
で、監督の福祉観とはいったいなんなのか。
醜いものは醜い、といい、それは悪口になってしまいそうだが、気のきいた悪口はギャグになる。気の利かせられない愚かな大衆しかいない文明社会では、臭いものにふたをしておかなければならない。思ったことを素直に口から出せば、はみ出しものになってしまう。今の社会では、たとえ気のきいたことをいっても、糾弾されてしまう。醜いものも美しいものもごっちゃになってしまう。そして醜いものの裏側にあるグロテスクな美しさにもふたをしてしまう。北野武はふたを開けろといっている。
戦後民主主義的な言説を使うけど、北野武は、はみ出し者の側に立って、福祉観を打ち立てているわけだ。
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