この映画「GO」は昨年幾つか賞を貰い誉れ高かった。それで期待を抱き、さらにいうなら昨年見逃したことを悔い、再上映専門の映画館でこれを放映するのを知り、見に行った。しかもこの映画は在日朝鮮半島人をテーマにしているという。在日は重い問題である。日ごろ人びとが使っているような言語では語れない、沈鬱な雰囲気をもっている。悪気はなくても、うっかり「間違った」ことをいってしまえば、糾弾されてしまう。そのような言語空間の中にある問題を、どのように物語ったのか。それを確認するなら、芥川賞をとった原作を当たればいいものだが、その暇がない。映画で十分だろう。映画にせよ、小説にせよ、抱え込んでいる問題は同じである。
近頃は在日問題が流行らしく、「ホタル」という映画でもそれを扱っていた。「ホタル」は問題解決の手段に王道を採った。日本人と韓国人、同じ人間であり、いずれも大事な家族を持ち、文化(たとえば歌)を持っている。それだけ共通項を持つならば、お互いを理解できないはずがない。いがみ合ってきた原因は、些細なことだったにちがいない。気持ちを新たにすれば、忘れられるはずだ。という、穏やかな、ヒューマニスティックな思想を感動的に(感動させようと思えるのはその思想が大衆に普及しているから)物語ることによって、問題解決の道を模索した。しかし限界は明らかで、現実に問題を抱えている人びとには、感動的なエピソードはそうそうあるものではなく、現実の人が感動力によって問題を乗り越えようとすれば、どこかから別の物語を拝借してこなくてはならない。別の物語とは、古いところでは宗教であり、新しいところでは資本主義である。そんな魅力に欠ける物語など、何の足しになるのだ。しかし、少なくとも、映画が人びとの物語として根付くことはあるまい。特に「ホタル」は年寄りの話である。好意的に解釈するなら、死ぬ前にどうしても解決しなくてはならないことがある、ということになろうが、ほかにも、要するにこれを過去の問題にしてしまいたいのか、とか、年寄りは年をとって涙もろくなっているだけだ、とか罵詈雑言は後を絶たない。
そういう前例の上に、「GO」が作られ、賞賛を得た。否が応でも期待する。しかし、まったく新しい物語というには程遠いものだった。
確かに「GO」に出てくるのは十代の若者たちであり、「ホタル」のアンチテーゼになっている。新しげではある。年はとっていない。それだけのことだった。物語としては、ぼくがかつて読んでいた漫画の中にいくらでも取り入れられていた類のものに過ぎなかった。それを端的に示すのは、冒頭の体育館でのバスケットボールのシーン、主人公はドロップキックをする。余程のお気に入りらしく、冒頭に限らず後で何度も使われるこのシーン。これは明らかに(現在「バガボンド」を執筆中の井上雄彦の作品)「スラムダンク」だ。いや、「スラムダンク」ではドロップキックはなかったかもしれない。記憶が定かではない。しかし「ろくでなしブルース」ではドロップキックがあった。それは覚えている。どちらも週刊少年ジャンプに連載されていた漫画だ。「GO」はかつて漫画で用いられたモチーフをいまさら掘り起こしてきた。実際あれらの漫画は面白かった。物語は受け継がれるものであり、それらの漫画はその資格があった。
これはドロップキックが象徴する漫画的映画なのだ。在日という重苦しい問題を漫画的論理で語ろうとしている。山崎努演じる主人公の父親は、ハワイ旅行に行くためという安易な理由で、国籍を北朝鮮から韓国に変えてしまった。自分の国籍というアイデンティティにかかわる事柄をそのように相対化してしまう。この軽さはまさに漫画だ。さらに悪いことに、ハワイを口実に国籍を変更したのは、実は子供の将来のためを思って、つまり子供が韓国籍を選びやすいように、親心を発揮したのだ、という涙を誘う落ちまで用意されていた。
また、登場人物が二人っきりになると、急に退屈になった。ダイアローグがつまらないのだ。主人公と恋人にせよ、主人公と父親にせよ。二人っきりになるとかしこまってしまう。その脚本の欠点には、製作者も気づいていたようで、主人公のナレーションで「忘れていたが、これはぼくの恋愛物語なのだった」といわせて、本当はこのままどたばたでいきたい心情を吐露し(製作者も、これでは面白くない、ということは気づいている)、そして、父親との砂場の決闘に踏み込むのだ。決闘の前、親子はタクシーに乗っているのだが、二人の会話が輪をかけてくだらない。しかしえらいのは、それを超克させるアイデアを考えていることだった。喋るとつまらないから殴り合いだ。それは正しい。それは現在の物語の行き詰まりをあらわしてもいる。百万弁より一発の鉄拳。それでは物語る余地がなくなってしまう。
恋人との結末はもっとも駄目なパターンだった。主人公は自分が在日だといことをいつ彼女に打ち明けるか悩み、よいきっかけとして、ベッドの上というのがあるのに気づいた。いざ本番というとき、彼女はその気だったが、私は在日という告白に覚めてしまい、股を閉じてしまった。「パパが中国や韓国の人の血は汚い、っていってた」という穴の開いた靴下のような台詞を弄していたとはいえ、彼女が拒絶したのには、リアリティがあった。「それがどうしたっていうのよ」などと、そのまま温かく結ばれてしまっていたら、これまたつまらない。そういう流れは、今までにいくらでも見てきた。だが、結局二人は、仲直りしてしまう。クリスマスの日に。雪も降った。その陳腐さのあまりに、また自己嫌悪の台詞を彼女に言わせていた。「クリスマスに雪? だっせえ」しかし、もうすでに寄りを戻してしまっておいて、それはない。それこそ、だせえ、のだ。一度は間違ったけれど、やっぱり考え直して正しい道へ。若者はこうでなければならない。現実主義。プラグマティック。漸進主義。陳腐である。
ぼくは期待していたのだ。どのような新しい論理が展開されるのか。絶賛されていたくらいだから、突破的な物語なのだろう。
しかし、まだ難しいのか。まだ、といっても、この先発見されることがあるのか知らない。
しかし、面白い場面はいくつかあった。それは上に挙げた、公園の砂場の親子ボクシング。タクシーの後部座席に並んだ親子のくだらない対話を、急ブレーキとともに打ち切った。タクシーの運転手が、部外者のくせして、親子の会話に感動してしまっており、しかもそれを演じるのが大杉漣であることが、くだらない、古臭い台詞回しに封印する意味でよかった。しかしあくまで、封印のし方は、ギャグ漫画である。
すなわち、ぼくの論評の主題は、社会を物語る指導的立場にある小説や映画が、漫画の手法を踏襲し、拝借させてもらっていることが、少し情けないのではないか、ということであり、多分そういうことは昔からいわれているはずで、真面目な文学者は危機感を持っていたのに、今となっては、新しい物語、といわれているものが、実は、ちっとも新しくないことに誰も気づいていないのか、そのふりをしているだけなのか、ということだ。誰も気づいてないなどという馬鹿なことは考えにくく、やはり気づかないふりをしているだけで、実は誉めるべき新しい部分は別にあり、それは、朝鮮民族学校の内側や、民団や総連の仕組みをギャグ的にに描いてしまったことなのだ。これが面白い場面の二つ目である。それを白日の下にさらけ出すことは、誰が最初にやるかの問題であり、そこをさして誉めるのは難しいかもしれないが、内実としては、それが最も新しいすぐれた部分だった。民族学校の中では、日本語の使用が禁じられているのだが、それでは「めっちゃ、うんこしてえ」という感情をどう表現したらいいのか、わからない、という少年の訴えは、鋭い。しかしこれも漫画的表現であり、朝鮮語でも「めっちゃ、うんこしてえ」という思いを表現できるはずなのだ。ぼくは朝鮮語は知らないが、そのはずである。だから、この場面をまともに受け取るなら、たとえば、役人が国会の答弁で、何をいってるのかわからないという事象を諷しているとなるだろう。役人はプロだから、少年のように開き直ったりはしない。
面白いのか、面白くないのか、微妙なのが、落語好きの秀才少年が、地下鉄のホームで刺し殺される場面だ。なぜ彼が殺されなくてはならないのか、分からない。わからないのだが、彼ののどにナイフが刺さっていることに、リアリティがあって、悲しくなった。しかし、これはご都合主義的な場面なのである。真面目な少年が殺されてしまって、普通まわりの人間は怒りに駆られるところだが、そこをぐっと抑えなければ、今まで日本と朝鮮が歩んできた歴史をまた繰り返すことになる、という教訓を示している。その教訓のために、少年は犠牲になった。少年は浮かばれない。だから、非難すべき場面なのだが、悲しいのも事実なのだ。なぜそこにぼくがこだわるのかといえば、要するに、ナイフをポケットに忍ばせてお守り代わりにしているようなガキどもが、現実に街中をさまよっているのだろうという強迫観念があるからかもしれない。少年のナイフは、この映画のテーマとは少し異質だと思われるが、そのリアリティは不安定で、危うい均衡を保ってしまっているのは事実だ。
この映画によって日本と朝鮮が和解するのかは知らないが、お互いの確執は、このように漫画的に笑い飛ばせる程度のことだというのを、いえたことは、政治的には「そういう方向へ向かうだろう」。
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