バッハのアリアで始まりそれが常に底流をなしている、この映画「ハンニバル」は突出した部分をふたつ抱えていて、全体としてまとまりがなかった。ひとつめは顔の皮をはがれて醜くなってしまった変態の大金持ち。エンドロールでこの役を演じているのがゲイリーオールドマンであることを知り、驚いた。顔面は特殊メイクで固まってしまっており、グロテスクなものという記号として存在していたわけだが、ストーリー上大事な役なので、放っておくわけにはいかない。顔で演じられないキャラクターをこれだけ用いることはSFでもない限り演出するのは難しいだろう。リドリースコットの貫禄である。しかし、この醜い化け物は、変態のくせして、単純な復讐心に燃えて、最後イノシシに食われて(これは「もののけ姫」だろう)、燃え尽きてしまうというやや味気ない役どころでもある。否、化け物がけだものに食われるというのは確かにカタルシスがある。ただ、そこに持っていくまでの流れが、あまりに手続き的で、退屈である。リドリースコットの映画は常に、物語が邪魔をしているのではないかと思ってしまうのは、こういうところだ。
 二つめはもちろん、ラストの開頭アンド食脳のシーンである。これはとんでもないシーンである。やってしもたのである。このシーンは面白いので、ビデオを巻き戻して、二度見てしまった。少し順を追って文章に直してみたい。クラリスはレクターさんに銃創の手術をしてもらって、モルヒネで寝ている。いつのまにかセクシーなドレスに着替えさせられている。そこへ間抜けな男、FBIの同僚がクラリスの家へやってくる。なぜかダサい野球帽をかぶっているが、その意味は後でわかる。この男は仕事上はクラリスの邪魔ばかりしていて、いやみで官僚を絵に描いたような、腐敗分子の憎まれ役なのだが、実はクラリスに恋心を抱いている。一般にお役人は恋をすると変態にならざるを得ないのだ。男はまんまとレクターさんに捕らえられる。レクターさんは獲物を捕まえるとき、ハンカチに眠り薬を染み込ませて口へ当てる、という古典的な手法を好むが、実際はよほど強烈な薬で、大量に染み込ませていない限り効き目はないらしい。クラリスは目覚める。モルヒネはまだ十分その効力を彼女の体内で発揮しているのだが、彼女はその強い意志によって起き上がる。クラリスは警察に電話する。電話の相手は事務的な口調で、映画に時間に追われるという要素を盛り込むために、あと10分で行くから、彼女はそこにじっとしているように指示するが、彼女は修羅場へ向かっていく。ここには無能な警察機構に対する執拗なまでの怒りが表現されている。クラリスはいうことを聞いてじっとしていれば、少なくともえげつないものを見ずに済んだのだ。ダイニングに行くと、同僚の男とレクターさんが親しげに話をしている。いつの間に仲良くなったんや。しかし男の様子は明らかに変だ。どうやらレクター医学博士によって何か術数を施されたらしい。人格まで変わっているので、そんじょそこらの薬では無理だろうから、ロボトミー手術でも受けたのか、とまず思う。いずれにしろ、脳がいじられてしまっているらしく、つまり、人間、仲良くなるためには、頭がいかれていなければ無理だ、あるいは、頭が狂っているからこそ仲良くできるのだ、という暗示だろうか。ここで普通のアメリカ映画だったら、クラリスは、「あなたどうしちゃったの」などといって、その後の展開へと盛り上げていくのだが、彼女はそれほど軽薄ではなく、醜い顔の大富豪の化け物に接するときもそうであったように、相手をひとりのまともな個人として対応する。これは見習わなければならない、映画の演出だ(もちろん現実の生活においても)。男はスープをストローで飲むのだが、味が気に入らない。それでは、といって、レクターさんは次の料理へと移る。そのために台所へ行くのではなく、男の野球帽を取った。男の頭には、頭まわりに沿って切れ目が入っている。レクターさんはその切れ目にナイフを差し込み、こじ開ける。男は白目をむいている。レクターさんは三星レストランのシェフのように手馴れた感じで、男の頭蓋を取り外す。取り去ったあとには当然、脳が露出する。脳は効果的な照明によって、闇から浮かび上がる。スープはまずかったかもしれないが、次の肉料理には自信がある。レクターさんは男の脳の前頭葉を一口切り取って、熱せられたフライパンでソテーする。焼けて色が変わった肉を、その脳の持ち主である男の口へ運んであげる。流行のレストランでは、客の目の前で調理して料理の味をいっそう引き立てるが、あれのパロディである。男は自分の脳味噌を食べて大変満足した様子である。その一連の出来事を目の当たりにして、クラリスは、おえっとなる。見たくなければ部屋から出ればいいのだが、クラリスは強い意志の持ち主だから、そこで踏みとどまってショウを見届ける。
 このシーンは、普段見れないものを映像に組み立てて、観客に披露するという点で映画の持つ本来の目的を素直に果たしている。ただし、このようなシーンはどんなストーリーにも必然性がない。だから映画の中で、遊離してしまう。このシーンはこれだけのものとして鑑賞しなくてはならない。よって、続く、レクターさんの手首切断シーンは、前のシーンと関連性をもたず、映画に全体としての結末を与えるものに過ぎない。どうしてクラリスではなく、自分の手首を切ったのか。クラリスのほうが細くて切りやすかったのではないか。素直に理解すると、レクターさんはやっぱり人間の心を持っていて、その証明としてのクラリスへの愛情の表現であり、つまりこれは予定調和だ、ということになる。そして、逃亡の機内でレクターさんは、包帯で腕を吊る自分の恥ずかしい姿に自己嫌悪を覚え、無邪気な東洋系?の子供に人脳を食わせて、おれは悪い人間なんだぞ、と悦に入っている。
 さて、その開頭シーンは人間の脳を食するという象徴的なものである。人間を他の動物とはっきり差別するのは脳であり、脳によって巨大な社会を維持することが可能になった。社会の受け皿である都市は自然と反発し、社会はどうやら構造的なひずみを内包しているらしい。この映画「ハンニバル」の前作、「羊たちの沈黙」の、「羊」が象徴するのは、役所にしろ、会社にしろ、組織の中へ、集団の中へ、囚われ、あるいは入り込んで、澄ました顔をして自分では何も考えられなくなっている人間たちである、とぼくは解釈した。人間の群れの中で、とりあえず満足げな顔をして収まっている人びとを、レクターさんは散々おちょくり、コケにするのである。それでも人間(羊)たちは黙っていられるのか。そういう社会に対する怒りがこの作品の根底にある。ではその社会に対してどういう決着をつけるのか。「イージーライダー」では、あっけなく田舎のおっさんの猟銃でバイクごと撃ち殺されてしまい、観客の悲しみを誘った。しかし、いまどき悲劇は流行らない。この映画では、社会の代表たるFBIの役人に自分の脳味噌を食わせるのである。そして、脳はやっぱり美味しかったのである。これは喜劇である。役人は自分が丹念に育ててきた社会の味を知るのである。まずかろうはずがない。
 ここで、あの男は頭を開けられてなぜ生きていられるのだ、などと疑問をもってはいけない。レクターさんは、脳には痛みを感じる神経は通ってない、というが、皮をはがれて痛くないわけがない。巧妙な局部麻酔をかけているのか、その辺の神経は取り除かれているのか、いずれにしろ、ちゃんとしてあるのだ。また、これもストーリーという足かせによるのだが、あの男は役人である以前に、とても嫌なやつとして描かれている。嫌なやつだから、ひどい目に遭う。これはこのシーンをストーリーにつなぎとめる紐のようなもので、少しわずらわしい。イタリアの場面も、結局刑事がはらわた晒して首吊って死ぬことだけのために、もって回ったストーリーと文学的な修辞が繰り広げられる。首吊って死ぬ場所には日本人の団体観光客がいて、誰かがベランダからぶら下がっているのを見た刹那笑い声がするのだが、あれは日本人でなければならなかったのか。そのほか日本語がちらちら耳に入る。リドリースコットは「ブラックレイン」以来、日本のことが好きなようである。
 とにかくストーリーと映像という課題はこの監督に付きまとい、「ブラックホークダウン」にも持ち越されている。持ち越されているといえば、この映画の冒頭の市街戦は、「ブラックホークダウン」のリハーサルになったようだ。
 しかし、この映画はホラーだからこそストーリーは様式的に必要なのだろうかな。






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