この映画は、文化大革命を批判的に描いたので、話題になったのだろうか。
何しろ、前大戦の侵略者・日本軍よりも国民党(共産党だったかしら。とにかく、白人のお陰で{白人は登場しないけど}日本軍が遁走した後に、這い出てきた中国人勢力)の方が愚かに描いてある。これは日中友好を遠慮してのことか。
この映画が作られた当時の中国政府、たぶん今と同じだったと思うけど、その当局は、この映画を当然検閲しただろうし、そして許可を得たということは、文革批判を黙認あるいは是認していることになる。
映画の中にも、「四人組」のあとに出てきたケ小平が行った経綸、改革解放といったような気もする、が登場し、それに感謝する。ということは、今の中国政府はケ小平路線を踏襲していることがわかる。
しかし、わかりにくいことに、中国は文革時代も今も、共産党が占めている。いわば、政権は連続しているのだ。
すると、この映画が行っている批判は、自己批判ともいえる。自己批判は唯物論・共産主義者の得意技である。逃げ遅れて中国人に捕まった日本の兵隊・将校たちが、執拗に自己批判を強いられたことは有名である。
しかし、この映画の批判の仕方は、とても弁証法的唯物論といえるものではなく、「世の中が、社会が、時代が悪いのよ」といった具合に、終始湿っぽい。「時代」とは何か。唯物論の毛嫌いするところの観念論ではないか。文革の悪者なのだろう「四人組」のことに触れるのは、この映画の冒頭と最後だけである。しかも「四人組」という台詞を発する人物は、ほとんど照明の当たっていない、うす暗がりの中にいるのである。もっと自信を持って照明を当ててもよいはずだ。
と、このようなことが、映画を見て想像できる。
中国政府と中国映画の関係が本当はどうなっているのか知らない。
「ブエノスアイレス」という強烈な同性愛映画も撮られるぐらいだから、案外寛容なのかもしれない。でも、ホモセクシャルと政治・歴史的自己批判は別次元である。中国は儒教の国だが、もともと性愛には大らかであるらしいし。いや、文革はその儒教を排除しようとしたアクションだったかしら。そうすると、文革否定の現政権は性愛への締め付けをきつくしてもおかしくないはずだが。
このような大雑把な議論は無駄だ。
映画の話である。
映画は、やはり、その国のありようを映していないといけない、と考えている。
その点、この映画は鼻をつまみたくなるほど、中国のにおいが発散している。中国に行ったことがないので、実証的感想ではないけど、メディアから得られる印象を下敷きにして、そう思える。
具体的にいえば、ヒロイズムとか庶民のせせこましさとか、いう風になる。でもにおいというのは、単語数文字で表せるものではない。また、演出という操作を経ると、そういう概念へと収束してしまう面もある。
少し、話が複雑になってきてしんどいので、ストーリーのことに移る。
主人公は、女郎の子供で、生まれつき指が一本多いことが暗示するように、数奇な運命を生きる。その余剰の指は、母親に、中華包丁で切断される。久しぶりに、映像を見ただけで、胸が悪くなった。この監督は、そういう気分の悪い演出がうまい。
主人公が登場したとき、女の子に見えた。実際女の子なのかもしれない。これがまた迫力のある相貌の持ち主で、日本人にはちょっといない。
主人公はふらふらする。いまいち一貫性が見取れない。それは時代に翻弄された結果だといえば、説得力があるが、脚本上は不満が残る。この映画は超大作であるが、もっと省いてもよかったのではないか。
第二主人公は何故あの女郎と結婚しなくてはならなかったのか。意味的に考えれば、社会の底辺の人物でなければ、時代に巻き込まれる様子がじっくり描けないということかもしれない。第三者の責任のない人物がうねりに晒されてこそ、意味がある。
それとも、主人公から第二主人公を奪っていくのは、その母親と同じ売春婦でなければならないのか。
第三の主人公の女郎は、最後、愛を誓い合った第二の主人公である夫に突き放されて、悲嘆に落ち込む。その時の顔は、実に脱力していて、大蔵官僚時代の三島由紀夫のようである。
それにひきかえ、主人公が京劇の化粧をしたときは恐ろしく美しい。中国の撮影力が優れていることを示しているのではないか。
目次へ