「マグノリア」の形式と「アメリカンビューティー」の印象を混ぜた作品である。だから小品の枠から出ていない。ついでに精液の描き方は「メリーに首ったけ」である(精液に限らずネタの趣味がメリーに似ていると感じた。メリーに似ているというよりアメリカ人のギャグセンスの問題だろうか。)
 「アメリカンビューティー」のようにアメリカ人の病を捕らえるつもりだったのか。
出てくる人間皆救われない。いちばん悲しげなのは三人姉妹のうちの何番目か知らないが、最初のシーンで男をふった女である。ふった男に自殺され、裏切り者と罵られ、ロシア人のかどわかされ、ステレオを盗まれ、その女に張ったおされる。何故ロシア人なのかよくわからない。ロシア人は本当にあんな風に歌はうまいがだらしない人種なのか、そんなこと聞いたことがない。政治的なものだろうか。アメリカとロシアがうまくいってないのは確かである。(テロ以前)とにかくこうまで重ね重ね悲しい役であると見ている側は同情せざるを得ず、中には浄化される人もいるかもしれない。
 ほかの二姉妹はそれなりに不幸であるが相対的に抑えられている。夫が児童性愛者で別れた女はそれが発覚するまで幸せだった。もう一人の作家役の女は創作の苦しみはあるが充実しているように見える。その二人がレストランで対話するシーン、これは重要なはずなのに、二人の性格を浮き上がらせただけで物語の意味を深く語るものではない。片方はすれていやな女で、もう片方は単純で染まりやすい。それぞれのオチになる不幸(自分に快感を与えてくれるはずのイタ電の男が隣のダサい男だったことと、だんなが変態だったこと)が起こるがそれによってダメージを受けている様は描かれていない。両親のもとへもどって楽しそうである。
 この映画でもっとも面白いシーンは変態親父と息子の対話である。話の内容は非常識的だが、外見上正しき親子の会話が構成されている。息子は素直でいい子に育っている。
 あとは太った女の殺人鬼とイタ電野郎である。イタ電野郎も十分変質的であるが、太った女の殺人体験に耳を傾けてあげて逆に埋没してしまう。ごく普通の人に見える。女は自分の殺人を堰が切れたように喋り始める。自白である。相手が警察に通報すれば手が後ろに回る。それに気づかないのか。いや、死体はバレないように処理しているようだ。つまり、イタ電野郎から法の外側の、社会規範の外側の、現代版アウトローの匂いをかぎつけたのだろう。イタ電野郎はしかし、アウトローの自覚はない。実際、法に背くことはしていない。
 不特定多数の悲劇を巧妙に絡めて、社会を多面的に捉えようとする意図はわかるが、コメディにしか見えない。いや、これはいかれた社会を巧妙に笑い飛ばそうという純粋なコメディだったのか。とするなら停滞以外のなにものでもない。
 事実、最後のシーンは傑出している。口元が自分の息子の精液にまみれているイヌにキスをする母親。これはギャグでなければなんであろう。スキンシップというのか。




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