「あ、春」を見て相米監督に対する考えを改めた。いつからかも覚えていないが以前は好きではなかった。高校の頃はもうすでによい印象はもっていなかったように思う。当時は映画と監督性の関連など気にしていなかったにもかかわらず、また相米監督が何を取ったかもよく知らないにもかかわらず、監督を受け入れがたいものとみなしていた。今思うと何故あれほどまでに拒絶していたのかわからない。理由はなかったのではないかと疑うほど思い出せない。いや、ひとつだけ思い出すことが出来る。「燃えるお兄さん」という漫画があった。その中の一話で、廃部寸前の映画部をお兄さんと妹の雪江が救うというのがあり、その映画部の部長はキネマ旬報という名前で、好きな映画監督はガッツ石松、嫌いな監督は相米慎二となっていた。ひょっとするとぼくは彼に影響されて相米監督が嫌いになったのかもしれない。思い出すべきではなかったか。
「お引越し」は「じゃリン子チエ」と比較すべきだろう。
共通項が少しあるからだ。関西であること、大阪の下町という違いはある。主人公が小学五年生であること。主人公の女の子の両親が別居していること。主人公の女の子の足が速いこと。琵琶湖のシーンで主人公が下駄を履いていること。
その他はアンチテーゼ的に対立している。まず主人公と親とのコミュニケーションである。似ているのは女の子が親に対して(「チエ」の場合父親に対してだけだが)暴力的、言い換えるとスキンシップが過剰であることだが、それは表面に見える部分だけのことで、あるいは内面の風景はまるで違う。「チエ」の場合、父親をどつくとき気を遣わない。下駄や丸太棒で殴って気絶させる。「お引越し」の主人公は殴ったとしても相手が気絶することはなく、当然親は痛がる振りをするだけでダメージはない。つまり自分が子供であることを常に意識している。親も相手が子供であることを忘れることはない。「チエ」では逆だ。チエは自分が子供であるという意識が薄い。またテツもチエを子供と見ていない。テツはチエとばくちをすることを楽しみにしているし、チエが店(ホルモン屋)を経営していることに平気である。それは、チエが大人びているというよりもテツの人格に問題があり、チエは仕方なく自立しているという論理で構成される。
この対立は映画と漫画ということで納得されるかもしれない。映画では子供が大人を鈍器で殴って失神させるわけにはいかない。漫画ではテツというキャラクターが協調されざるを得ず、テツが状況を作って連載は続いていく。
ただもう少し真摯に考えれば映画と漫画という媒体に違いで説明してしまうのは単純であることに気づく。「お引越し」の主人公も確かに肉体的強さはないが、精神的には相当暴力的である。これは相米監督に見られる残酷さの現われかもしれないが。
社会に対して気の遣い方がより浮き出ている。「チエ」では学校がほとんど描かれない。描かれたとしてもチエは埋没してしまっている。また学校の中の社会を象徴するものとしてマサルがあるがマサルだけでは学校は捉えられるものではない。チエは学校ではおとなしくしているのである。自分の家庭、また自分自身を表出することを恥ずかしく思う。「お引越し」では両親の別居の事実を隠しはするが、アルコールランプで事件を起こしてしまう。大問題になりそうなものだが、学校はやさしくうやむやにする。つまり、学校が親切なものとして設定されている。社会は親切なものであるから、自分は存分に暴れるべきである。親との関係もそうである。親も社会の一部である。それがこの映画で重大な問題として取り上げられる。その問題は、親が子供をちゃんと見ていなかったのではないかと反省することで浮上する。ぼくはそれほど問題があるようには見えなかった。監督の演出不足か、本音は問題視していないかのどちらかだ。
少し、話がそれた。「お引越し」の主人公は親にも一定の気遣いを見せるのである。しかし恥じらいはないのである。それはひとつの社会観であり、適応しようとする意志である。それは祭りのシーンで象徴される。大衆の中に主人公は一人でいるのだ。
ここで「チエ」にも言及すべきだろう。チエは母親には非常に気を遣う。これは「お引越し」と違わない。チエの母親はめったに、子供を直視してこなかった、などと反省しない。
どうやら「お引越し」と「チエ」の比較は失敗に終わったようだ。「チエ」は長大な連載である。設定の構造が微妙に変化してしまうものだし、初期だけ見てもさまざまなテーマを扱っているので一概に対比するのは難しすぎた。とにかく「お引越し」のほぼ最初のシーンを見て、これはじゃリン子チエだなと思い込んでしまったのがいけなかった。面白く対立している部分もあったが、世界観が違いすぎて、一貫性を持ち得なかった。
「チエ」の呪縛から逃れてこの映画を見るなら、構成のまずさが気になる。お好み焼きを三人で食べるシーンでまだ半分しか終わっていなかった。ぼくはまだ残り一時間ほどあるのを知っていたので、これからどうなるかと、不安になった。しかしそれまではよかった。休みなく、濃密に描かれていた。不安は的中して、ほぼ意味のない漂白のシーンが続く。頭を休めろという示唆だったのか。最後は「オメデトーゴザイマース」と連呼し、強引にハッピーエンドにしてしまう。何も解決していないのだが、解決する必要はないともいえるし、あるいは主人公がまっとうに成長すればいいのだし、また成長するに違いない。主人公がよい大人に成長するかどうかはばくちであるが、この映画は成長するほうに賭けている。それとも、そもそもばくちとは考えていないかもしれない。
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