この映画は「となりのトトロ」と同時上映だった。残念ながらぼくは劇場には見に行かなかった。どう考えても趣味の悪い組み合わせである。健気な兄・姉と妹の話で、片一方では、両方死んでしまうのである。興行的には大当たりとまではいってなかったらしい。
この映画をぼくはこれまでに何度も見ているのだが、いろいろ考えるためにはどうしても原作を読んでおく必要があると思い、近藤喜文さんの絵が表紙になった文庫本で読んでみた。
読んでみたが、純粋に未読の小説を読むという行為にはならず、映画のシークエンスを追体験するにとどまった。それはぼくが映画を見るほうが好きだとか、映画の印象が強すぎたとか、小説に魅力を感じなかったとか、原因はいくつかあるだろうけど、どうやら三番目の理由がほんとうらしく、この小説に関しては、あるいは作者・野坂昭如については、確認されるべき映画の材料という位置に定めておくことがふさわしいだろう。
読めなかったくせしてその資格はないかもしれないが、いちおうなぜかというと、文章が読みにくい。映画におけるテーマはわかったが、小説あるいはこの文体におけるテーマがわからない。それともテーマ性がはじめからないのかもしれない。テーマを模索するには無理のある文体である。この文体で書けるのは、自分を中心とした人間一般の振る舞いの描出なのではないか。
この作家(野坂氏)はたぶん物語りするのが得意なのだと思う。そしてそれに付随するディテールを生み出すのもうまい。
ただそこに盛り込むべきテーマがないのだ。
一知半解にこのようなことを述べるのは恐縮だが、この作家は、自称焼跡闇市派らしく、戦争の当事者(あいまいだけど)でもなく、戦後にも馴染めなかった、隙間の人で、とても居心地悪く生きているのではないか。
先の参院選に出馬し、見事に落選、そして月刊誌に敗戦記を寄せていたが、それを読んでみても、文体のせいかもしれないが、何がいいたいのかわからない。「まだやりのこした、伝えきれていないものがある」という、老人活動家の決り文句と、日本の右傾化が気になって仕方がない、という二点しか読み取れない。
上述の隙間の人というのをわかりやすく繰り返すことになるが、この人は左翼のはずなんだが、そのグループに入ると、しかし、軋轢を生じてしまうという、どっちにもつけない状態にいるのではないか。
居場所がなくても、あるいは、ないから、行動しなくてはならない。体を動かすのに理由など要らないのである。
話がずいぶん逸れてしまって、早く根拠のない批判はやめようと思うので、映画の話に戻る。
といいながら小説との絡みを続ける。
小説を読んで確認したことは高畑さんの演出力のすごさである。小説では、たとえば向かいの家のいき遅れの娘の台詞のあと、
日頃特に親しくもしてなかったのに、いやに優しいのは母の状態のよほどわるいと知ってのことか、
などと登場人物の演技の解説が添えてある(こういう説明的表現が小説の中で気に食わなかった。世代の隔絶で理由付けできてしまうかもしれないけど、振り付けにあけすけな解説をつけるのはかっこ悪い。特にこういう話では主人公が翻弄されるわけだが、そういう少年を描く場合、世間との間にゆるぎない反発力が存在するはずで、そこでこのような説明文を入れてしまうと少年と世間の境界があいまいになってしまうように思う。世間の分子の振る舞いの根元にあるものを正確に把握する妙に聡い少年の印象が生じる。もっと淡々と乾いた風に現象だけを描くべきではないか。)。映画ではそういう解説を言葉で挿入するわけにはいかない。演出しなくてはならない。
このシーンは映画にも用いられていたが、お向かいの嫁ぎ遅れの娘という設定までは分からなかったが(それはこの映画ではどうでもいいことである。しかし、小説にとってはどうやらなくてはならないらしい)、そのよそよそしさとなれなれしさの具合から、上述のような状況は即時に理解できた。
しかし、それは監督の力量より、声優の技術の賜物ではないか。
いや、映画の責任はすべて監督に収斂するという一般論からも、また、間合いや台詞選びからも監督の能力のなせる業だといえると思う。
ただ、同じシーンで、教室にみんながいるからこないかと誘われて、少年(清太)は拒む。映画を見たときは、教室にいる誰か無神経なやつが母親が危険であることをうっかり喋ってしまうかもしれないという他人への不信感からの意思と思っていたが、小説では、家族がそろってにぎやいでいる中に混じれば清太自身居たたまれない、という解釈がつけてある。まあ、これは些細な齟齬だ。
この映画を見た人の多くは、あの遠い親戚のいやみなオバはんに対して身震いするほどの怒りを覚えるだろう。(因みにあのオバはんやくの声優は「じゃりん子チエ」ではチエの母親のよし江さんをやっている。)それとも、戦争中で心が荒んでいるから仕方がない、としたり顔で許すかもしれない。
いわば究極の悪役であるが、普通そういう悪役に対しては何らかの決着がつけられる。焼夷弾の直撃を受けて焼け死ぬとか、どぶにはまって死ぬとか、あるいは和解して再び一緒に住み始めるとか。
そういう結末を想像し、求める人は、「ハリウッドに毒されている」のかもしれない。もっというと、日本人ではない。
あのテロ以降、最近はやりの社会観に、「西洋は一神教的で、日本は多神教の国である」というのがある。八百万の神の国では、こういうオバはんがいるのは仕方がないことなのである。
しかし高畑さんは吹っ切ることができなかった。
むしろ野坂昭如のほうが本能的に(?)それを捉えている。
小説では、おばはんの巣から逃れる際のおばはんの態度は、
節ちゃんさいなら」とってつけたような笑顔うかべ、さっさと奥へ引っこむ。
という、にべもなくあっさりしたものである。オバはんがこのあとどうなるのか予感させる要素はまるでない。おばはんは多分、このまま相変わらず生きつづけるのだろう。こういう人間を許すもくそも、罰するもなにも、この日本ではないのである。ハリウッドなら、こういうおばはんはテロリストに殺されるだろう。
これは小説の話で、映画ではこの別れ際は、これほどさっぱりしない。大八車に家財道具を載せて去っていく二人の後姿をしばらく眺めているのである。そのときの表情は、しかもやや当惑げである。さらに、節子の開放された喜びの歓声まで聞こえてくる。これではおばはんを断罪したも同然である。おばはんは映画でも小説でも、このあと一切登場しないが、ひょっとすると高畑さんは再び登場させるかどうか悩んだかもしれない。いや、それはうがちすぎか。
ということは高畑さんは欧風の二元論者なのだろうか。そこまでいうと週刊誌風のにぎやかしになる。断罪したといっても、わかるかわからないかの演出だし、角のとれたいい方をすれば、人間の良心ともいえるだろいう。日本にも良心はあるのだ。
だいたい、断罪などといって唯物論的に進めていくと、アメリカ軍、あるいは日本軍政府を登場させなくてはならなくなる。当然ながら、そのようなものは映画には出てこない。これまた高畑さんの良心によるものだろうが、アメリカ軍機が飛ぶさまは何カットか、悪くいえば扇情的に登場する。それは、日本がアメリカによる民間人無差別爆撃を「空襲」などと、あたかも天災のようなニュアンスで記述する、その思考に順じた描き方にとどまっている。
唐突だがここで論点を整理しよう。
まず、あのおばはんに代表される、清太と節子を追い詰めた悪を裁くべきかどうか、その思想的拠り所として一神教と多神教を挙げた。観客はハリウッド的に怒りを覚えるのは通常として、小説ではそういう二元論的な考えを持たずただ人間を描いただけの感じである。すると野坂昭如は八百万の神的思考をするのかというと、それも違う。彼は左寄りだからだ。映画では、やや一神教的なそぶりは見せつつ、しかし、少なくともおばはんはほったらかしである。
仮に何かを裁こうとしていたとして、その対象は忌み嫌うべきところの戦争ということになる。しかし、すでに述べたように、それをするならアメリカなど登場させなければならないが、それは考慮の外にある。すると、やはり映画でも判事めいたことを目的としているのではないと考えていい。
なら、何をしようとしているのだろうか。それはいくつかあるのだろう。
怒りのようなものは、ラストシーンから窺える。清太と節子の幽霊(地縛霊?)が現代の神戸の夜景を見下ろす。また、、疎開先から終戦とともに帰ってきた山の手のお嬢様の屋敷の外景からカメラが斜め下にパンすれば、清太と節子の家(横穴防空壕)がある。あからさまである。やりすぎのように思うが、ここからは戒めのようなものが感じられないか。
それより、ほとんどはこれだと思うが、動く人間を描こうとする。どう動く人間かというと、上からの権力によって制約されたときの人間である。いちいち挙げるなら、おばはん、おばはんの娘の女らしい恥じらい、大八車を貸してくれた百姓の現実的思考、さとうきびを盗まれて怒り狂い清太をボコボコにする百姓とそれを諌める駐在が手にかけた刀剣の柄、容赦ない悪がきども、節子の遺骨が入ったサクマドロップの缶を「モーションつけて」草叢に投げ捨てた駅員、節子に抱きついて「苦しいやん、兄ちゃん」と断られる清太などである。
こういった人間たちを一枚一枚絵に描いて動かす。アニメの醍醐味である。
そして、この映画で最もよく表れているアニメの意味は、節子の死体である。ぼくはまだうまくいえないが、あの幼い女の子を絵に描いて死なせてしまうというのはただごとではない。もしこれを実写でやったなら、節子役の女の子は目を瞑るなりして死んだふりをするだけである。まかり間違っても本物の死体を用いることはできないし、そのシーンだけ人形を使ったとしてもそうすることのわけがわからない。しかし、アニメでは、節子はほんとうに死んでいるのである。その冷たくなった死体と兄の清太は添い寝して一夜を(あるいは幾夜も)過ごすのである。清太は自分の体との温度差を感じるのである。
「それは絵に描いた死体に過ぎない」、と反駁するものは、アニメを見る資格なしとする。
では、清太と節子はなぜ無謀な二人だけの共同生活をはじめることになったのか。
これを考えるときには、上述の裁きの論理も絡んでくる。
二人はただでさえもののない時期に、隣組をあえて拒絶し、子供だけで生きようとするが、その結果、死んでしまう。裁きの論理からすると、犯人を探すわけである。おばはん、戦争そのもの、アメリカ軍、日本政府、時代などが被告になる。そのことについてはかなり述べたが、弁護人の立場からいえることもある。家から出なければ死なずにすんだのである。何をいまさらという感じだが、おばはんは「横穴に住んだらよろしいでっしゃろ」など口を滑らせたことはあるが、この発言だけで法的に犯罪は構成されるだろうか。二人は自分たちの意志で家を出たのである。嫌なおばはんとひとつ屋根の下に暮らすぐらいなら穴倉に住んだほうがましである。冒険心の発露ともいえるし、子供の純粋さを原理主義的なまでに貫き通した結論ともいえる。原理主義者はときには畑の野菜を盗むこともためらわない。
やがてしかるべくして死んでいく。結果的に、二人はハンガーストライキを演じたことになる。ただし、二人には、死ぬかもしれないけど、自分の美しさを保とう、などという譲歩は存在しない。二人は子供という装いのもと、過激な行為に踏み切る。
この二人の関係は、どうだろう。
清太は、ときどき子供らしい無力さを思い知らされ、泣きそうになるが、節子のためなら何でもやろうとする。節子至上主義。二人の関係は天皇と日本国民の関係とオーバーラップする。
清太は節子を喜ばせることしか考えず、それを最優先目的に据えるわけだが、やがて抽象化され、自分の行動と目的の間に、自分の意志を挟在させることになっていく。自分の行動を正当化するために節子のためならという経を唱える。
節子は母なるもののようになにもいわないが、すべて気づいている。清太は間違った情報しかあげないが、節子は母が死んでしまっていることを、最初から知っている。ただ、心が傷むのは清太が盗みを働いている点だ。ひょっとすると、節子は清太の罪を償うつもりで死を甘んじて受け入れたのかもしれない。
日本国が泥沼にはまっていったように、二人は後戻りできないところまで来てしまう。天皇は立場上、なにもいえない。節子は「やっぱり帰ろう」とはいえない。かろうじて、外野、この映画ではキセルを咥えた百姓の親父が、「あんた、海軍さんの息子やったらしっかりせなあかんで」、と目を覚まそうとするのだが、我を失った清太は聞く耳を持たない。
二人は終戦とともに死を迎える。
二人は幽霊となって、これまでの行いをふり返り、そして戦後の日本を眺めながら、何を思うのだろうか。
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