宮崎駿監督は「もののけ姫」を作ったとき、もうこれが最後だといった。確か完成したことを発表するパーティの挨拶だったと思う。
 しかし四年後の今年、また作品を公開した。宮崎さんはうそをついたのか。うそには違いない、だが密かにぼくは思っている、あのパーティの挨拶のとき、宮崎さんは少し動揺していて、あまり考えずに引退などと口を滑らせてしまったのではないか。
 というのも、宮崎さんの前に高畑さんがお祝いのスピーチをしていたのだが、その中で、「昔の若いころの宮さんに戻ったんじゃないか」、というようなことをいった。特別にいやみでもなんでもなく、さすがに二人はお互いよく知っているなと、聞いているものをして思わせるスピーチだった。
 しかし宮崎さんはカチンときた。
 なぜカチンときたのか。よくわからない。宮崎さんほどの人が、それは間違っている、事実と違う、勘違いだ、という風に怒るとは思えない。逆に、まさに核心を突かれたことで、かっとなったのではないか。
 宮崎さんと高畑さんが複雑な関係であることは知られている。宮崎さんが高畑さんをどう思っているのか、なかなか窺い知ることは出来ない。嫉妬やなんかが渦巻いているようである。ひょっとして子供の好き嫌いのようなものかもしれない。
 宮崎さんはとことん筋を通す人である。手塚治虫が死んだとき、宮崎さんは、「彼のせいでアニメ業界は滅茶苦茶になった」と、断言した。その伝でいって、高畑さんの思想に対してまるで共鳴できないという、まったく実害を伴わない理由で、高畑さんを憎んでいるのかもしれない。

 さて「千と千尋の神隠し」である。八月六日現在、マスコミは四年前ほど騒いでいない。宣伝も少ない。「もののけ姫」が騒がれていたのは、公開されてどのくらい経ってからだったかよく覚えていないが、あのときの漠然とした記憶と比べて、この作品は期待もされず、評判も悪いのかといぶかしんでしまう。しかし、ぼくが見に行った映画館は満員であった。

 あらかじめいろんなところで与えられた情報によって、映画を見る前から「千」の概要は知っていた。知っているならもう見に行く必要はないではないか。いや予備知識をもってことに挑むほうが確実である。予習して映画を見に行くことほど、愚かなことがあるだろうか。愚かだとは言い切れないが、見解は分かれるだろう。少しでも興味を備えていれば情報は自然と流れ込んできてしまう。

 宮崎さん自身だいぶ喋っている。
「自分の身の回りに具体的に少女たちがいる」
「彼女たちは今はもう違うけれど、十歳であった」
「この映画は彼女たちのために作られた」
 最近の子供たちは元気がない。まわりを豊かなもので囲まれて、欲しいものなどすでにない。
 ものだけでなく情報もたくさんある。子供たちはたいていのことは知っている。
 しかし実感が湧かない。 
 外は車が走っていて、危ないから家の中で遊ぶしかない。
 毎日腹いっぱい食べることができるけど、まだおなかがすいていないのに、ご飯の時間になってしまう。
 環境が破壊されて水も空気も汚れているらしい。
 大人たちも不満をいっぱい抱えているようだけど、どうしようもないと諦めているみたいだ。
「学校は、元気な子を利口でおとなしい子に、おとなしい子はますますおとなしくしようとする」
 親や友達は大切にしなくてはいけないことは知っているけど、何をすればいいのかわからない。
 そういう子供たちが、力を獲得、あるいは蘇らせ、その力を発揮し、生きていることを実感できるような映画を作りたい。
 という風に聞いていた。
 そこでふと思った。この映画はこのごろの風潮にうまく乗っているのではないか。
 子供たちが腑抜けのようになっているのは、この先自分がどうなるのかあらかじめ気づいてしまっているからではないか。学校で型に嵌められ、成績からして将来はどのくらいのものになるのかわかってしまっている。
 ならば成績をよくすればいいのか。そう単純でもないらしい。好成績で、よい大学を卒業し、たとえば一流の企業に入ったからといって幸せになれるとは限らないらしい。とすると難しく考えずに、ある程度のところを今のまま維持していけばいいのだ。
 つまり夢や希望が持てない。そういう子供たちを救わなければならない。
 救うにはどうすればいいのか。ディレギュレイションである。この談合社会をぶち壊し、競争社会を現出せしめねばならない。それを表現するために、千尋を困難な状況に放り込んで、痛みに耐えて成長し、勝ち上がらせねばならない。
 しかし、いきなり非日常的な世界に捨て置かれては誰でも立ちすくむだろう。ルールを説明する親切さと、公正さは必要だし、誰も助けてくれないわけではない。助けてくれるとしたら、助けてもらえるような人間でなければならない。その上で自分の持てる力と知恵と情熱で勝ち残らなくてはならない。生きるとは生き残ることなのである。

 これは小泉内閣のいっていることと一致する。
 規制緩和である。広くいえば構造改革である。するとこの映画はまさに時宜を得ている。
 この映画が作られ始めたのは、小泉政権ができる遥か前である。だから小泉政権に合わせたわけではない。しかしものすごくいいタイミングになってしまった。
 宮崎さんは小泉さんが現れて、意を強くしているだろう。
 果たしてそうか。宮崎さんはもともとアメリカのようにぎすぎすした社会を嫌っていたはずである。それに政治のほうから聞こえてくる声と宮崎さんの考えが重なるなどありうるだろうか。
 政治と宮崎アニメ、汚濁と清浄。最後の清流が産業廃棄物で汚染されるようなものである。
 もともと宮崎さんの頭の中が政治的ではないという意味ではない。あるいは宮崎さんの思考は悲惨なほど葛藤し、対立してい、それを救済するためにアニメが作られるのかもしれない。これは勘違いの妄想だろうか。それは宮崎さんを貶めることと同じだ。

 と事前に得ていた情報からここまでのことを考えていた。ぼくの考えが正しいのか、勘違いだったのか、実際に映画を見て確かめなければならない。 



で、今日見てきたわけである。もうひとつ事前に知っていたことがあった。それは主題歌がすばらしいということである。別の映画を見に行ったとき、予告編でその歌が一曲全て流れた。誰が歌っているのか知らないが、いい歌だった。知らないのもそのはず無名の人であった。宮崎さんはそれについてこういった。「素人がプロに勝ってしまう時代なんです」まあ、木村弓さんは決して素人ではないが売れていないという意味ではそうだ。
まず、その歌を映画を見ながら聴けることが楽しみの一つだった。エンドロールで流れただけだったけど、改めてよかった。

 さて、「千」の話である。初めにいっておくが、僕が考えていたことがうがっている部分もあったが、それはこの映画の本質ではなかった。ついでにいえば「十歳の女の子のため」の映画でもないと思った。
 以下、思い入れの深さ故にやや網羅的になることの見苦しさを勘弁してもらいたい。
  映画は花束のアップから始まる。宮崎さんの「こんなろくでもない世の中だけれど、子供たちを祝福せざるをえない」という思いの表われか。「となりのトトロ」と同じく車で新しい場所へ移り住むシーンで始まるのだがさつきやメイと違って千尋は不機嫌である。これからいくところへ何の希望も持てないからだ。母親の「今日はいろいろ忙しくなるからちゃんとしててね」という台詞には恐ろしいほどのリアリティがある。
 母親はなぜかしら車の窓を開ける。すると風が吹き込む。そのままタイトルへと移行する。宮崎さんの映画では頻繁に風が吹き、髪がなびく。
 導入の音楽が終わらないうちに、未舗装の森の入り口へやってくる。父親は引き返そうという妻子を顧みず、山の中へ突進していく。がたがたの道をスピードを出して走る意地っ張りな性格である。車が疾走するシーンは短めのカットをつないで緊張感を高める。これからの不安定な世界を暗示している。しかし、悪路をあのようにすっ飛ばす家庭もちの男が果たして存在するだろうか。やや、強引である。邪推するに、宮崎さん最後の作品だから、どうしても車を走らせたかったのではないか。宮崎さんは車を走らせたら右に出るものがいないくらい、名人だったし、多分今もそうだ。
 モルタルでできたトンネルを前にして夫婦は興味を抱き、足を踏み出し入っていく。千尋が反対するのになぜこの二人の大人は引越しの作業をほったらかしてトンネルに入っていったのだろう。母親は森の入り口では反対していたはずだ。これから住む町のことであるから早めに知っておいても損はないと考えたのか。引越しという非日常性の中で常識を失っていたのか。くだらないことにむやみに首を突っ込む人物として描く必要があったのか。風がトンネルに吹き込んでいくことが示すように誘い込む魔法がかけられていたのか。このあたりあまり考えても仕様のないところではある。重要ではないからだ。トンネルを抜ければ物語は滑走し始める。この映画はファンタジーであるからそれまでの不連続な部分に拘泥しても意味がない。現実の場面で描いておくべき物は千尋の「ぶちゃむくれた」表情だけであった。それ以外はラストシーンも含めて至極あっさりしている。宮崎さんはとことんファンタジーを作りたかったのだ。
 トンネルの中で母親は自分の腕にしがみつく娘に「歩きにくいから離れて」という。千尋はそういう風にいわれることに慣れているのか、いわれても離れない。母親は娘が引っ付いてくることはうっとうしがるくせして、川を渡る場面では旦那によりかかっていく。実は依存心が強そうである。
 トンネルの中で列車が走る音が聞こえる。そこにはベンチが不規則に置かれている。記号として不十分だが、列車の音が聞こえなくても、その場所は駅を想起させる。列車はこの映画の重要なモチーフである。ついでにいえばこの映画は駅に始まり、また駅に戻ってくる。
 トンネルの向こうの風景を見て父親はバブルの残骸だと決め付ける。意地っ張りというより自信過剰なのかもしれない。「紅の豚」のカーチスの顔をした父親はしかし確かに食い意地は張っているようだ。においにつられて街にさまよい込む。目を使わず、鼻をひくひくさせる父親はすでに豚のようだが、神様に給する予定の食べ物を食い散らかして、夫婦そろってみにくい豚になってしまう。豚になった父親はハエたたきのようなものでぶったおされる。起き上がる横顔のアップはおっこと主のようである。
 両親にかかずらわっている間に、千尋は脱出のタイミングを逃してしまう。衝撃的な場面に出くわした千尋は夢だと思い込もうとする。この状況ではやはりそういう逃避方法を選ぶだろうか。しかしこの世界では生きていくためには湯婆婆の下で働くしかないらしい。人間が入り込んできたら見つけ出され動物か石炭にされてしまうからだ。油屋で働くには認められなければならない。そのためにカマジイのところへ行く。カマジイのところへ行くには、外壁に沿わせてある階段を降りていかなくてはならない。階段は板が一枚腐っていて、千尋は転がり落ちるように駆け抜ける。まるで「カリオストロ」のルパンである。
 カマジイはいきなり人間が尋ねてきても拒絶したりしない。カマジイはいいやつである。と同時に「ラピュタ」の海賊船の機関士である。カマジイのところで油屋の構造の一端を見る。何とか千尋はカマジイに認められる。リンに連れられて湯婆婆の下へ行く。リンはぞんざいであるがそれは他人に関わってしまうと、そいつが悲しい思いをするのを見れば自分も悲しい思いをすることになる。つまり、今までそういう悲しい体験を重ねてきているのだろう。
 エレベータに同乗する大根のような神はトトロであろう。油屋の吹き抜け構造はラピュタでも見るが、実際にそういう建物は日本に存在するらしい。
 湯婆婆の部屋の扉のノッカーがいきなり喋る。このノリは「メンインブラック」の小型ブルドックを思い出す。湯婆婆の顔は「ラピュタ」の海賊の母を強烈にしたような感じだ。しわが傷痕のように深い。特に鼻の先端の三本ほどのしわは不気味だ。画面の右側から大きな鼻のアップだけが突き出しているカットが幾つかある。そこまでして画面に登場させたくなるほど、湯婆婆の鼻には思いが込められている。オクサレ様が入ってきたとき、湯婆婆の鼻は下へ曲がるのだ。
 湯婆婆は千尋を油屋のなかへ招じ入れたものは誰か吐かそうと、問い詰める。誘導尋問のつもりか急に声音がやさしくなるが、千尋は「働かせて下さい」の一点張りである。湯婆婆は逆上し、千尋に詰め寄る。その辺のチンピラの喝上げよりはるかに恐ろしい。執拗に顔を接近させる湯婆婆は自分の顔の威力を知っている。もっとも近寄ったときもはやその顔は造型が歪み、抽象的である。
 千尋はここで名前を削り取られる。名前を失うモチーフはよくある。ちなみに最近思い付くのは浦沢直樹の「モンスター」である。しかし、「千」では書かれた文字をはがし取るという有無を言わせぬ露骨な印象で描いてある。湯婆婆はやり手ばばあである。いかにも競争社会を勝ち抜きそうである。しかし、決定的なものを失っている。自分の子供の見分けがつかないのだ。自分が腹を痛めて産んだ子供なのかどうかはしらないが、ペットの扱いに近い。自己本位などと様々に形容できるがそれはいい。湯婆婆は根は優しいやつであるという意見を事前に聞いていたが、そうは見えなかった。とても救いがたいようにしか見えなかった。ただ、千尋がオクサレ様問題を解決したとき、湯婆婆は千尋を思い切り抱きしめる。「ラピュタ」のドーラがシータを抱きしめる場面を思い出す。ちなみに坊と坊のいる部屋は「アキラ」である。又湯婆婆のカメハメハのような魔法もむしろ大友克洋である。
 千尋は正式に油屋で働くことになった。契約を結んだのである。契約社会は欧米のものである。欧米文明に巻き込まれてきたかわいそうな日本の姿と重なる。
 千尋はどうやら順調に成長する。あるいは馴染んでいく。最初の晩、気分が悪くなったり眠れなくなり布団の中でがたがた震える。実はとんでもない世界に落ち込んでいるということを再確認する。どことなく喜劇的に描いてあるので忘れそうであるが、残酷な世界なのである。うかうかしていたら豚にされてしまう。豚にされるということは死を意味する。しかも、周りには化け物しかいない。リンは人間の風貌をしているが、やがてナメクジみたいになってしまうかもしれない。自分もカエルみたいになってしまうかもしれない。人間として人間社会に戻れる保証はどこにもない。唯一ハクだけが頼りである。ハクを信じるしかない。この文章においてハクの登場が遅れたが、ハクはアシタカである。千尋はハクにおにぎりをもらっておなかがくちくなって大泣きする。涙が印象的であった。前夜、寝る前に食事を摂っていてもよさそうなものだが、ここはやはり、最初の食べ物はハクから受け取らなければならない。あまり深く描かれていないが、この世界では食べ物は重要な意味を持つ。下手に食べると豚になるし、人間の匂いを消してしまうのである。初めはハクからもらわないと安心できないだろう。
 おお泣きした後吹っ切れたように千尋は生き生きとし始める。千尋はよく転ぶがそれ以外はうまくやっている。オクサレ様を救うシーンは快心である。オクサレ様はタタリ神であるが、その臭さは見ているだけで気分が悪い。宮崎さんは実際、川から自転車を引き上げる経験があるという。また宮崎さんは以前から子供にテレビや映画を見せることの罪悪を嘆いておられる。体験を奪うからだ。においはしないし、例えば木の枝にぶら下がったときその枝のしなり具合から、折れるか折れないかの判断を体得させる、現実の体験を子供に与えることができない。しかしオクサレ様のこの演出はその懸念を拭い去っているように思える。さらにいうなら宮崎さんの演出はほとんど体験に近づいていると思う。
 カオナシとハクの龍で映画は佳境に入っていく。龍の顔は山犬である。千尋は龍を見てハクであるとすぐに気づく。そしてハクを助けるために奮起する。この時には油屋はカオナシのせいで混乱している。肥大したカオナシと対峙するころから千尋は原作マンガの方のナウシカになっていく。千尋の左肩にはねずみが乗っかるが、これは明らかにナウシカである。
 千尋はハクを助けるため列車に乗る。列車の窓の風景はアニメばなれした美しさである。また海の上を列車が走る効果音がすごかった。宮崎さんは「うまく走った」と満足していた。カオナシを連れているところは繰り返しいうがナウシカである。銭婆の下へたどり着いて、彼女に気に入られる。なぜ気に入られたのか。はんこについていた虫みたいなのを踏み潰したからだという。
 ハクは銭婆に許され、名前を取り戻し、救われる。また千尋は豚の両親を見分けることに成功し、外の世界に戻る。多くの気の利いた人は千尋が豚をすんなりと見分けることに疑問を持つらしい。親なのだから見分けるのは当然だし、傍証として、千尋は龍を見てハクだと見分けるし、湯婆婆はねずみを見て自分の子供だと見分けられなかった。ただ、親子の感動の対面はない。
 あらすじは以上である。物語はしかしもう少し複雑である。
 総論として幾つか述べる。
 まず、不気味である。宮崎さんの情念の暗さが表れている。千尋が湯婆婆に絡まれるシーンや、かおなしのに追いかけられるシーン、オクサレ様の臭さ、カマジイの長い多くの腕、大根神の乳首、三つの入道の生首、攻めてくる紙片。どれも正視に堪えない。ましてや子供にはつらいのではないか。実際、映画館では小さい子供が泣いていた。それは「もののけ姫」のときもそうであった。
 千尋のキャラクターについて。体はひょろっとしている。顔は「未来少年コナン」のジムシーである。僕は事前の印象からしてもっと愚かな子供だと思っていたのだが、そんなことはない。初めてもらう花束が別れのプレゼントであることを嘆く感性を持っている。とってつけたような鈍臭さはあるが素直でいい子にしか見えなかった。いやなやつが主人公の映画など見たくないし、いい子じゃないと乗り切れない。問いうよりもこの映画の場合、主人公がそのキャラクターで問題を解決するのではなく、まず状況があり、それを心構えで乗り切っていくという物語である。
 千尋はカオナシから金を受け取らない。欲しいものがあって、それしか頭にないから、とも考えられるが、それよりも、千尋がものの豊かな社会で育ったからだと考えたい。冒頭では飽食の時代に育った子供には夢がないと述べたが、この映画はそのような消極的な見方は取らず、逆に、そのような時代に育ったからこそ、無意味で必要以上の金の価値を認めず、あるいは理解せず、子供は高潔さを獲得できるのだ、と描出しているのではないか。カエルやナメクジとは違う美しさを得るためには、あらかじめまわりにものが溢れていなければならない。
 千尋とハクの関係であるが、パズーとシータ、その他で見られる、恋愛とも友情ともつかない宮崎さん特有の不思議な感情である。しかし、この映画で宮崎さんはカマジイに「愛じゃよ、愛」といわせることでけりを付けてしまった。カマジイはとてもいいやつなのだ。ただ、千尋とハクは、少女と神様なのだ。通俗の感情で説明できるはずがない。日本は多神教の国なのである。
 そして、僕が事前に考えていたことがどうなったかであるが、そういう主義主張の部分は映画の端っこに潜んでいただけで前に書いたように映画の本質ではないと思った。この映画の見るべき所はその演出である。演出に迫力がありすぎてストーリーが霞んであるのだ。だから競争社会がどうのこうのというのは価値がなく、また宮崎さんが映画について解説めいたことをいうのは、それは聞くから答えるのであって、聞かなければ彼は何も言わないのではないか。映画はひとつの思想を伝えるものではない。いや、中にはそういう映画も意図して作られるかもしれないが、宮崎さんの映画は違う。例えば銭婆の場面の一本足のランプであるが、画面の奥の方から不気味に登場して、どうするかと思えば、礼儀正しくお辞儀した。かといって宮崎さんは観客に対して礼節を重んぜよ、といっているのではない。細やかな演出のひとつひとつに宮崎さんの、ひょっとしたら時には矛盾した、体系化されていない、乱雑で濃密な思想がひそんでいる。よく宮崎さんの映画は何かを訴えかけていると言われるが、たとえ訴えているにしてもその何かは言葉で表現できるたぐいのものではなく、だからそんなものはないといった方が簡単だ。
 最後に宮崎さんの悪意について。十歳の少女のためというわりには、舞台がいかがわしすぎる。これがひとつ。それと千尋がトンネルを出るときと入るとき、まったく同じカットが使われている。製作が間に合わなかったのか。これは、結局入る前と何も変わらないということを示している。要するに、神隠しに遭っただけのことなのだ。




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