これ(風花)は、スキャンダルをしでかした文部官僚と、故郷に愛娘を置きっぱなしにしている風俗嬢のロードムービーである。見どころは相米慎二監督のけれんみを含んだ演出と、浅野忠信の酔っ払い演技である。
演技という点では小泉今日子の笑い方もよかった。様式化されていない、自然な笑いだった。しかし、笑う場面はいくつかあるが、どれも同じ笑い方だった。そもそも劇中以外の普段の人間たちの笑い方を考えても、それほどバリエーションがあるだろうか。この場合、苦笑いや愛想笑いを除き、心から楽しくて笑う笑いである。そんなもの、一種類しかないだろう。いや、楽しいにもいろいろある。それを快不快の二元論に単純化すれば、快いときの笑いはひとつだけだろう。それと違う笑いがあったとすれば、それは楽しい以外の要素を含んだ笑いということになる。キョンキョンは一種類の心底楽しそうな笑いを忠実に何度も繰り返し、再現して見せた。それは撮影現場が楽しかったのかとすら思わせる。ただし相米監督の現場はピリピリするので有名ではなかったか。この映画は監督の遺作なのである。
浅野忠信がキャリア官僚を演じるわけだが、官僚をこのように扱うのは新鮮に思えた。官僚の役割は社会の維持である。その社会がよかろうが悪かろうが、現在の姿を未来永劫維持し、伝えていくのが官僚である。その官僚が明日をも知れぬ旅に出る。
官僚といえども裏を返せば、個人であり自然人である。法人としての官僚と自然人としての自分の間でうろたえて、アルコールに走り、インポテンツになる。官僚になりきるということは脳の中でも一部分だけを極度に機能させることになる。まっとうでバランスのとれた状態を望む人間として、浅野忠信はインポになったのだ。役人をクビになったお陰で、浅野はエレクト機能を回復する。小泉を押し倒して、
「いいじゃねえかよ」といいながら、女の開かれた両足が閉じられないように、自分の体をはさむ。キョンキョンは強いて拒むでもない。しかし部屋の扉がおもむろに開いて、村の男が入ってきた。
「こいつほとんど女しらねえんだ。プロのお姉さんだろ、教えてやってくんねえかな。惚れちまったらしいんだ」
小泉キョンキョンはこれをきっかけに自殺する。
浅野は村の男に女を譲り、部屋を出て行ってしまった。浅野は本当に性交をするつもりがあったのか。成功できたのか。宵の宿の部屋に男と女が二人だから、当然催されるべきだが、浅野がインポであったという前提はあるにせよ、二人が性交に及びそうに見えなかった。浅野が小泉の両足の隙間に腰を静めたときも、それは形式的で、ふざけているようにしか見えなかった。彼は実はインポは治っていたのである。だからふざけてなんかいないのだ。それなのになぜ性交しそうに見えなかったのか。
それは上に述べたように浅野は自然人でもあるが個人でもあったのだ。
俳優・浅野忠信はぼそぼそ喋る。鼻が詰まったような、内にこもったような喋り方をする。それは現代の個人を象徴するのではないか。
映画俳優は、いわゆる演技がうまくてなれる代物ではなくなった。いやたぶん昔から(映画ができたのはそれほど昔ではない)、そういうものだったかもしれない。映画は俳優の顔だけを映すこともできる。無駄な動きは撮らないで済ますこともできる。ものすごく表現的になることもできるが、たかだか二次元平面に圧縮されてしまうともいえる。そのとき俳優はどうすればいいのか。何もしなくてもいいのかもしれない。下手に演技するとパロディになってしまう。けれどもとにかく俳優は必要なのだ。どのような俳優がふさわしいのか。それは実際映画に撮ってみないとわからないかもしれない。そこで浅野忠信という実在に対していえることは、彼の喋り方と胸毛が現在の映画に、はえるということだ。彼の独り言のような台詞回しは、内向的で自己満足的な今の時代の人びとをあっけらかんと表現してしまう。映画の中で、このようなつぶやく人物を見ていると、とても性行為はできないのではないかと惑わされる。観客に与えるオナニスト的幻想を払拭するためにも小泉今日子を強姦(未遂)するシーンは挿入されるべきだった。しかし、それをやってしまうとこの映画の印象ががらりと変わってしまう、しかも思わぬ方向へ変わってしまう。そういう制作者の悩みをワンカットで解消するのが浅野忠信の胸毛なのである。胸毛が、登場人物に付随しなくてはならない身体を主張してくれる。映画を面白くする重要な要素は身体性だ。目と耳でしか伝わらないもともと様式的な媒体である映画では、容易に身体が忘れられてしまう。逆に舞台の上で表現される芸術では身体を消して様式化するぐらいでちょうどいい。
それを踏まえた上で、映画の中で小泉今日子が雪中、半そで姿で舞うシーンはどう考えるべきか。素直に感じると、現実離れした、不思議な印象を観客に与えて、自殺の場面を強調しているということになる。ここでは、上に述べた脈絡にのっとって考えるなら、人間は鼻が退化しても平気であるように、現代人の実感レベルが、テレビなどの普及によって、ずれていることを明らかにしているのではないか。つまり本来抽象的であるはずの二次元の映像表現に人々は慣れきってしまっている。だからその中でさらに抽象的な演出を加えざるを得ない。
この映画は、難しい映画の部類かも知れず、なぜ役人は役人でも文部省の役人なのか、なぜキョンキョンが自殺する直前に村の男が部屋に入ってきたのか(とても醜悪だ)、わからないことが多いが、それはけれんということで収まるだろうか。最後の親子の再会のハッピーエンドもけれんといってしまうしかないのか。
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