この映画「ロードオブザリング」は戦場からはじまる。「グラディエーター」あるいは「プライベートライアン」と同じオープニングだ。しかし、それらの作品ほど思いの込められたシーンではない。観賞用の映像としても、「グラディエーター」のリドリースコットに及ぶはずもない。ただ、件の指輪をはめた大王が異常にでかく、剣の一振りで敵の人間どもを蟻んこのように吹き飛ばすのは、集英社のジャンプ・マンガ(北斗の拳や魁!男塾)を思い出し、笑えた。強いやつはでかい、という一目瞭然の論理が一瞬、爽快に展開された。だいたいこの映画のストーリーは「北斗の拳」に毛が生えた程度のものだ。「悪いやつを倒しにいく」それだけの話だ。といってもどれほど敵が悪いやつなのか、あまり描かれていない。それを描き始めると、第一部が終わってしまうという事情もあるだろう。もともとこれは伝説なのだ。唐突にストーリーは進んでいく。最初のシーンでは、あんなに強そうな魔王が、折れた剣に負けてしまうのだ。指輪が外れると魔力が抜けてしまうという根拠はさておき、それなら指を切られないようにする知恵はないのか。とにかくこれは伝説なのだから、その辺、疑い出したら切りがない。別のところに目を向けて、例えば、せっかく魔王を倒したのに、愚かな人間は煩悩に敗れ、平和を取り戻す機会を失ってしまった、どうしようもない、という教訓を引き出すべきなのだ。悪魔は裁かれる権利すらないくらい悪い。だから、現在の娯楽映画ではとりあえず醜い造形を与えられる。あんな不気味な面をしたやつはぶった切るしかない。しかも襲い掛かってくるのである。主人公の、背が低くて毛むくじゃらのデカ足の男(ホビット人)が旅に出る動機も、邪悪なやつから逃げるためだった。主人公は「こんな指輪を手に入れてしまったばかりに、ひどい目に遭っているぞ俺は」と悩む暇もなく次々と遭難する。悩んでも結論はただひとつ「それが運命」なのだ。その点に疑問をもってしまったら、こんな映画見れたものではない。顔のアップと戦闘シーンの単調な繰り返しである。(リブタイラーの執拗なアップには動揺させられた。彼女はほとんど出てこなかったが、来年公開が決まっている第二部ではもっと出番があるだろう。彼女のためにも、また見に行かなくてはならないのか)この映画のコマーシャルではアカデミー賞何部門ノミネートがどうのこうのと紹介されていたが、日本人からすればどうしてこんなものがと首を傾げてしまう。日本にはもともとこのような社会科学的な伝説は(たぶん)存在しない。さらに、直木賞より芥川賞のほうが権威がある(最近はそうでもないか)日本ではますます不可解になる。だから日本ではこの映画は流行らないだろう。しかし近頃、日本人も消費することがうまくなった、あるいは消費するしか楽しみがないような塩梅だから、ヒットするかもしれない。実際ぼくが見に行った映画館では平日の昼間にもかかわらず大入りだった。この映画は3時間半もあるのに。最近の人びとはメールとか何とかで忙しくて、そんな長い時間じっと画面を見つめていることなど苦痛ではないか。つまり、そんな客を退屈させないようふんだんにサービスが施されている。(けれどもぼくは寝不足という要因もあるが、眠くて仕方なかった。ぼくは吝嗇家だから、金を払った以上1カットすら見逃すわけにいかず、神経を集中させて覚醒に励んだ。)観客が眠くなる頃にはすかさず切った張ったの大殺陣がはじまって、眠気を覚ます。眠気と興奮の繰り返し。格闘シーンと大げさな効果音(指輪が床に落ちただけで「ドーン」という音がする)で、目と耳の感覚が痺れ、思考はサルレベルまで低下する。観客は知覚認識の実験に供されているようなものだ。それでも彼らは見終わった後、「面白かった」というかもしれない。人間はたまにはサルに戻りたいと思うのか。まあ、ただのサルではない。サルは暴力シーンを好まないかもしれない。暴力シーンといっても、うまいとは思えなかった。闇雲に剣を振り回しているだけに見えた。これは自粛の結果か。しかし弓矢はよかった。銃と違って矢が見えるからだ。いずれにせよ格闘シーンはやがてインフレを起こす。いくらでもザコキャラは沸いてくる。人間はインフレが好きなのか(デフレのとき以外も)。うんざりする。鳥瞰でオークが画面の奥のほうまでびっしり埋まっているシーンは悪寒を催させる。観客の快楽のためとはいえ、どうしてザコなんかほっといてボスを倒さないのか。それはつまり、人生を暗示している。人生は無駄の積み重ねなのだ。
この映画はかように中身がない。世界観らしきものはあるはずだが、それを描くことはオミットされている。原作ではどうか知らない。原作はまた途方もなく長いらしいから、こまごましたことも書いてあるのだろう。前に、映画が長くなるから省いたのだと述べたが、それにしても省くべきシーンはまだ作品の中に残っていた。「スターウォーズ」はその点すごかった。オープニングでは活字が宇宙空間を流れていき、背景説明を済ませてしまう。背景どころか話も終わってしまったのではないか。いや、すべての物語は終わってからはじまるのである。最後に結ばれた男女はその後も死ぬまで生きなくてはならない。
この映画「リングオブザロード」も一応背景説明はあるが、地図のようなものを見せてなにやら口で物語る形式だった。「スターウォーズ」との大きな違いだ。「リング」は必死になって観客を騙そうとするが、「スターウォーズ」は、背景など観客が知る必要はない、という余裕がある。いくつかのケースを描いて世界観を帰納的に示せる自信があった。「スターウォーズ」はあくまで伝説ではなく、きちんと個人と社会を描いている。それは物語の力があったからでもあるし、映像演出に限りがあったせいかもしれない。「リング」で中途半端なのは伝説に徹することができず、妖精の心理を表現したことだ。ケイトブランシェットの演じる「奥方」(戸田奈津子の字幕は相変わらず味がある)は指輪を前にして葛藤するのである。懊悩する奥方の顔はこわばり、彫刻のようになってしまう。なかなか迫力があり、「マルサの女」の伊東四郎を思い出させる。それでは妖精ではないのではないか。伝説を現代に描こうとすると無理が出てくるのだ。
映画はCGを手に入れたが、それで人間を動かすと、どうしてもゲームを思い出してしまう。CGが未熟だからか。ゲームの思い込みが強いからか。
「リング」は「ドラクエ」でもある。ロールプレイングゲームといってもいいかもしれないが、ぼくは詳しくないのでドラクエしか思い浮かばない。ドラクエはゲームという表現方法で物語をした。ゲームだから当然、映画よりも感情移入できて、遥かに楽しい。「リング」はコントローラーのないゲームといっていい。ということはほんもののゲームに負けるのか。映画は初心に帰って物語を追求するべきなのか。難しいところだ。映画は物語がなかったら、リドリースコットぐらい気合の入った撮影をしない限り、成立しなかった。いまはCGを手に入れてしまった。しばらくはCGの珍しさで映画は持つかもしれない。
物語はそういうものだ。ここでドラクエと物語についてもう少し。高橋源一郎はドラクエに関して次のように書いていた。
「「ドラクエV」は本当に面白いのだろうか」
「悪の化身シドーが登場したときのあの身の毛もよだつような恐怖は「ドラクエV」のクライマックス、ゾーマにはなかったのである。」
「とにかく「ドラクエU」にはある枠を外れた、どこかあの世じみた放埓な部分が確かに存在していて、心底疲れ果て(中略)ながらも、不死鳥のごとく半ば無意識でコントローラーを握り締め(中略)ている自分を発見した」
「「ドラクエV」は完璧さを身につけるために、Uのこの過剰さを放棄したのだ」
そのために「製作者たちが取った方法は、その隙間を「物語」で充填することだったのである。」「ついにというべきかやはりというべきなのか」
「だが、我々がドラクエに求めていたのは「物語」だったのだろうか。」
ここにこのような引用をすると文章の論理がゆがんでしまう恐れもあるが、それは別にかまわない。要するに物語と表現様式の関係について述べたかった。ゲームには物語はその程度のものかもしれないが、映画にとっての物語はどうか。あるいは小説にとっての物語は。物語は構成要素の一つに過ぎないのか。目的なのか。そしてそのアナロジーとして人間の中身についても考えてしまう。ひょっとして人間の内面とか生活というものは意味がなく、というより各人差がなく、形式の違いや、巧拙しか存在しないのではないか。(意味があるとは、どういう意味か。)美しさは様式にしか付随しないのではないか。物語に感動するとき、それは物語の様式に感動するのではないか。これはいまのところぼくには循環論法になって行きどまってしまう。物語というものがよくわかっていない。あいまいだが紙数が尽きたので筆を擱く。
(上掲の高橋源一郎さんの文章について追記したいことがある。不死鳥などという用語も去りながら、そもそもドラクエについて書いていること自体、文学に携わるものとして、疑われそうである。しかし読んでいる者、特定の世代に限られるかもしれないが、にダイレクトに伝わるのである。読者にコミットするためにドラクエというテーマを持ってこなくてはならなかった。まあ、もともと高橋さんはゲーム好きなのだが。そしてゲームについて書くと、用語が怪しくなる。ゲームについて文学的に表現する言語がまだ整備されていないからだろう。だから老年の批評家などには高橋さんは煙たがられる。とにかく、文学はこのまま衰退していくのか、過渡期にいるのか、という感じなのだろう。)
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