これは又聞きであるが、アメリカの売れっ子作家スティーブン・キングがこういってたらしい。
「小説を書いていると、頭の中でブルーカラーの自分がせっせと作業していることに気づいたりする」
この映画の主人公アンディは自分のやりたいことを舞台でやってまったくうけなかった。ものまねをしろといわれ、してみるとうけた。
しかしただのものまねではなかった。まるっきり独創的であった。無自覚なままではあの芸はできない。こうすればうけるというのがわかっている芸である。急に悟って極めてしまったのであれば、脚本に問題がある。描けていない。
あるいはあくまで彼はやってみるまでうけるかどうか自信がなかったというなら、彼のそれまでの芸に客がついて来れなかったということになる。彼がものまねという定番へ歩み寄ることで客は彼の才能が理解できた。
そして彼は一気に駆け上る。やがて同じことの繰り返しが始まる。彼はトニーというキャラクターを別に演じることでストレスを解消する。しかしトニーが肥大するのに長い時間は必要ではなかった。
同じことの繰り返しを止めるにはすでにあるものを否定するしかない。すでにある芸を否定し、客を否定し、最後は自分を否定する。
とすると世の中すべての芸術家は早晩自滅せざるを得ない。
しかし現実はそうではない。繰り返すことに苦痛を感じないのか、繰り返しに磨きをかけるか、長続きする作家たちはうまく自分に折り合いをつける。
だが否定する方法を選んでしまった彼は、癌という否定することのできない事実に直面し行き詰まる。
そこで初心に返ってただ単に楽しいパレードを興行する。
客は見事に喜ぶ。彼の芸は成長したのだろうか。それとも客はすべて仕込であろうか。
彼はフィリピンでイカサマ治療を受ける。あのイカサマこそ彼が成し遂げるべき自分の死を否定するギャグであったが、まんまと他人にやられてしまう。そして彼はうけてしまい、笑いながら死んでいく。
ここまで述べてきたことはぼくの都合のいいように解釈しなおしたもので、映画をまじめに読み取れば整合しないところが多々ある。ぼくのような単純な見方をされるのを恐れた作者の韜晦であろう。
因みに監督は「カッコーの巣の上で」など名作を撮ってきたミロス・フォアマンである。最近はあまり評価されていないのだろうか。
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