アニメは子供たちのためにあるのか。ぼくとしては、否、といいたいのだが、宮崎駿監督などは、子供のために作っている、公言して憚らない。では子供向きの作品とはどんなものか。ぼくにはわからない。子供の定義すら怪しい。子供のような大人が増えているらしい。子供とは親に養ってもらって生きている人間のことだ、というかもしれない。親がいないとどうなるのか。親戚に預けられたり、施設に入ったりする。何か、親の代わりを見繕うわけだ。親はいなくても子供は子供のように見える。とすると、親で子供を定義するのは無理があるだろう。大人も、会社に養ってもらったり、先祖の資産の上に鎮座して、生きている。皆、何かの庇護の下にいる。
どうせならもっとコンセプチュアルにいうと、子供は自然を抱えているのである、といえる。これは受け売りである。どういうことか。子供は野山を駆け回り、大人はコンクリートの箱の中でじっと我慢している。イメージとしてはこういう感じだ。ほんまかいな。子供も校舎という鉄筋コンクリートの箱の中でおとなしく座っとるぞ。それは子供を矯正して社会化しているのである。子供は予測不可能で何をするかわからないので、社会という枠の中、システマティックに統制できる人間に変えていこうとする。これは、森を切り開き道を通し、川を堰き止めてダムを作るのと同じ発想である。人間はさまざまなことを考えられるものではなく、大体同じようなことしか考えていない。子供も大人も考えていることは大して違わない、とぼくは思う。子供の中にも「自然に」序列などの社会ができるという。それは子供が大人をみて真似をするのだ、ともいう。では大人は誰の真似をしたのか。ひとりで思いついたのか。大人にも子供の時代があった。先人から伝わってくるのだ。先祖をずっと遡るとどうなるのか。行き着く果てに見えるのは、自然だろう。ならば自然の中に社会はあるのか。確かに、社会は「自然に」できそうだ。養老孟司さんはそこで閃いて、脳の中に社会があるのだ、といった。物体としての脳も自然のもののような気がする。
子供向けの作品とは、まだ社会化されていない人間を念頭において作られたものということになるのか。そういう子供に見せてどうしたいのか。子供をきちんと社会化する、一助として子供向け作品はあるのか。宮崎さんはそんなことを言ってるのか。
ぼくは、子供も大人も同じようなことを考えていると思うが、それでも両者に差が生じるのは、知識つまり記憶が量的に多いか少ないか、があるからだろう。脳の大きさは中学生くらいで最大値になる(やがて老けると小さくなる)。
その知識・経験量の大人と子供との格差を踏まえて、子供向けとは何かを考えれば、簡単にいうと、誰にでも理解できる言葉で描かれた作品、くらいの意味になるかもしれない。それは前向きな芸術家・作家にありがちな信念で、ありふれたインタビュー記事を読めばその種の物言いはいくらでも出てくる。世界中の人々に通じるような、とか、独り善がりでドメスティックにならないように、とか、老若男女問わず、とかいくらでも言い方がある。マスコミの役割はその言い方を新しく開発していくことだ、ともいえる。宮崎さんはそういう理念を「子供のために」という言い回しで述べたに過ぎないのか。あるいは宮崎さんの言葉にはもちろんそういう意味も含まれているが、それだけではないということか。ぼくは宮崎さんの口から、子供のため、というのを耳にして、この人ひらき直っとるな、という印象をもった。有名になるとマスコミが群がってくるが(マスコミが有名にするのだったか)、彼らは何らかの言葉や態度・姿勢を要求する。その言葉がないと大衆に伝わらないと考えている。本当は、言葉がないとメディアの体裁が整わなくて、上司に怒られるから困る、というだけの官僚主義的な事情があるのではないか。当然、彼らは鬱陶しい。彼らにちやほやされて喜ぶ人もいるかもしれんが、宮崎さんの場合、彼らを適当にあしらうために得意なポーズを決めることにした。わたしは子供のためにアニメを作る。グラビアアイドルが、水着をつけてやや前傾し、両腕で持ってややぶら下がりぎみのおっぱいをはさんで谷間を現出させるのと同じように、というと失礼か。でも宮崎さんはまじめにそんなことをいっているのではないと思う。いや、もちろん、その言葉の背景にある子供の問題に関してはとことんまじめに考えておられるのだろう。しかし、マスコミに何かをいうために、何を言おうかまじめに考えたわけではないだろう。マスコミが聞くからしかたなく答えるのだ。無視するのは失礼だから。なぜ、ぼくはくどくどこのような反発的なことを書き立てるのか、要するに、大人の宮崎映画ファンとして、少しつれない感じで、さびしいのである。
さて、この映画「モンスターズインク」は子供向け映画会社の大御所、ディズニーの作品である。ぼくはあまりディズニーが好きではない。ディズニーランドなど、ファーストフードのようなものだろう。少なくとも皆不愉快にならない程度のサービス。日本のサービス産業に大きな啓蒙を与えてしまった。これはディズニー映画の根底にも流れている。ディズニーが子供のためという場合、彼らはマーケットセグメンテイションを考えているだけの恐れもあるが、子供のためという建前の中身は、愛はすばらしい、友情もすばらしい、悪は正義によって駆逐されるべし、落ち込むことはあったとしてもまた元気を出さなくてはならない。これは三文小説ではないか。安っぽい大人が自らの安っぽさを自覚し、卑下しつつ「わたしってまだ子供だから」と自虐を甘んじ、思考を停止する。子供を巻き込んではいけない。勢いにのって悪口を書いたが、ディズニーを全否定するのではない。ぼくはドナルドダックが好きだし、ディズニーアニメの癖のある登場人物たちの動きはたまにみると新鮮で、演技とは何かを考えさせられる。それにおカネをふんだんに使って作られれているので、贅沢な感じがしてお腹いっぱいで楽しい。
どれも同じ型に嵌った作品では企業として経営を誤るだろう。モンスターズインクはその類型からかなり外れているように見えた。モンスターの世界が、人間の世界と違うところにあって、その世界観が社会科学的である。社会を意識させる意味での子供向け映画にしては、皮肉的過ぎる。モンスターズインクはエネルギ会社である。エネルギ政策は常に国家の重要関心事だし、エンロンはつぶれた。これは明らかに大人向きであるが社会的作品は普段は社会に無意識な大人に社会の存在を気づかせる。
人間界のパロディではあるが、むしろ理想主義的な階級性らしきものが見えた。モンスターだから多種多様であり、体型がまるで異なるのは普通で、その体型によって人格も決定される。バランスの取れた体型のモンスターは、やはり人間としてバランスがとれているのである。筋肉があって力の強いものは尊敬され、痩せてがりがりのモンスターは頭で勝負するしかなく、小さくてナメクジのようなものは卑しい階層にとどまっている。しかし、大きなものは強圧的になるのではなく、ノブレスオブリージュが貫かれている。この映画は穏やかな階級社会の希求しているのかもしれない。ただ人間社会も一面ではモンスターの世界そのものである、と当り障りなくいうこともできる。モンスターが子供に触れると死ぬと騒いだり(ストーリーのつじつまあわせではある)、ほとんどのモンスターが善良であるといった点を除けば、ぼくはメルヘンチックに見えなかった。
いや、より一層メルヘンチックだったのは登場するいくつかの人間だろうか。モンスターに感情移入させるために人間の演出が手抜きになったのか、人間が人間に見えなかった。モンスターに「ブー」と名づけられた赤ちゃんは、SONY社製のオモチャ・アイボに見えた。それは言わずもがな、CGでアニメーションしてあるから、プログラムで動きが付けられているのは「ブー」も「アイボ」も同じだ。しかし、赤ちゃんは、親はいないし、名前はないし、何を食べているのかわからない。これでは人形といわれてもしかたない。それでも、人間の赤ちゃんのリアルな音声が吹き込まれてあるから、不気味である。悪趣味といって済まされるのか。
とにかく、映画自体は楽しいものだった。「ドクタースランプ」のニコチャン大王と目玉の親父を合成したようなキャラクターや、「ドラえもん」の「どこでもドア」といった日本のおなじみアイテムも盛り込まれているし、スイッチを押したりドアがレールに乗って運ばれたりする感覚はテレビゲームの影響だろう。主役のモンスターが「Caty has to go」といって「ブー」と別れるときは感動させていただいた。
目次へ