最近、個人的に興味を持っていることがある。それはファッションである。
 ぼくは他人を見た目で判断するのだが、他人はぼくのよさを外見に惑わされることなく、中身で判断するに違いないという、矛盾を抱えている、というより、自己を特殊に見なす操作を平素から行っている。そのことの是非はともかく、すると当然服飾にこだわることは敬遠され、それにかける費用も限りなく節約され、ぼくの生活のエンゲル係数は計ったことないけど平均をはるかに上回っているはずだ。
 人間にとって「型」は有無をいわせず重要なもので、文化的歴史的にその人を規定する疎かにしてはならないものである。
 養老孟司氏も解剖学者という立場から型についてこだわっておられる。型というのは目で見る、視覚的概念であり、解剖はまさに観察の学問であることから、型という方面の哲学的分野にも口を出しておられる。解剖学者のする仕事とはとても思えない、やや強引な感じもしないではないが、いわれてみればなるほどと思うし、実際解剖ばかりやっていると「型」の哲学を考えないわけにはいかないのかもしれない。学問はもともと強引なものではないか。
 養老さんは「ヒトの見方」という本の中で以下のように述べている。

ヒトがお互い同士を理解するのは、もともと脳の中にどういう内容が詰まっているか、の問題ではなく(ヒトによって異なるに決まっている)、それが働く場合の「形式」の問題だ、といわざるを得ない。だから、ただいまここで文句をいっている人間が、やがて立場を交換すれば、文句を言われている人間と同じ行動をとる、ということがおこりうるのである。
 同じ人間で理解できないはずがない、話せばわかるというが、それが通用するとは限らない。話し合いはいわば形式の問題であり、話し合いを取るか取らぬかは、内容とは別問題である。問題が、あるいは形式であるにもかかわらず、内容として理解されるところに、しばしば悲劇の原因があるらしい。
 たとえば、ほとんどの教師は、話せばわかる、などと考えてもいないであろう。(中略)
 形式を学ぶために、われわれの祖先は、徒弟奉公からはじめて、さまざまな教育方法を考えてきた。


 かなり長くなってしまったが、面白いと思うので載せてみた。形式と型はまた少し違うものであり、誤解を招くかもしれないけど、すぐに見つかる文章が、これしかなかった。養老さんは形式とか型についてほかにもいろいろなところで述べている。
 服を着るということは、寒さをしのいだり、外傷を防ぐためだけではなく、むしろそういう目的は等閑視され、自分を型にはめる行為であると考えたほうがいい。型にはめるというと、個性尊重あるいは誇大視の風潮からすれば納得しかねるものかもしれないが、形式の価値と個性を枯れさせることは別の問題である。その証拠に服装によって個性を表現(?)しようとするものは目に余るほどいるだろう。もし、それに矛盾を感じるとすれば、過去にあったのかも知れない、軍隊式の過剰な形式主義への反発の強迫観念からのものだろう。 
 では実践的に自分がどういう服を着ればよいのか。厳密に考えれば、自分の着る服は自分で縫ったほうがいいのだろうけど、そんな暇はない。だから店に買いに行かなければならないわけだが、店に売っているものは何年もしないうちにころころ変わっていく。それにつられて、自分の型も変わってしまうのだ。それでは落ち着かない。不安ではないか。しかし、変化は重要だし、大勢の人と同じような型でいることのほうが居心地がいい。大勢の人が同じ型を決めるのは、話し合うわけにもいかず、マスメディアがその機能を果たす。マスメディアのエネルギは商業主義である。
 で、この映画(プレタポルテ)はコマーシャリズムとファッションに焦点を当てた作品になっている。
 ものすごく特徴のある構成になっていて、つまり、短いシーンを大量につなげて、しかも、それぞれのシーンにオチがあるという、力量がなければ作ることができない映画である。ロバートアルトマンは「ショートカッツ」という構成が同じような映画を作っているが、どうやらそういう世界観が好みらしく、人の世はひとつのストーリーで語れるものではないとでもいうのだろう。
 でもこの映画にはメインストーリーはある。会長の死とそれによる妻の共産スパイとの再会である。
 それを軸にいくつものサブストーリーが派生していく。
 会長の不倫相手のブランドが、アメリカ・テキサスのブーツメーカーに買収されかけて、しかしなぜかしらそれを拒み、最後に全裸ファッションのショーに踏み切る、というのがひとつ。
 アメリカ人の記者男女二人が縁あってホテルのひとつの部屋に缶詰になり、しかるべくして仲良くやっていく、というのもひとつ。
 どのストーリーもエスプリが効いていて面白い。共産スパイは、たぶんスパイコメディのオマージュだろうが、おっさんが泥臭くて笑える。犬の糞を何人もの人間が踏むが、パリでは都会人が犬を飼うのがはやっており、そこらじゅうに犬の糞が落ちているという。誰も片付けようとは思わない、身勝手な犬の糞の上にパリのおしゃれは成立している。
 その糞を掃除する公的な業者もあるくらいで、最近その業者たちが賃上げ要求のストライキを打って、街の人は困ってしまったという話もある。
 さて、中でも重要なのは、ティムロビンスとジュリアロバーツのアメリカ人記者である。彼らはとてもプロとは言い難い仕事振りで、つまりファッション業界とは対極の一般大衆を象徴している。アメリカはヨーロッパから見たら田舎だという意味もある。
 彼らはホテルの外ではさまざまな事件が起きていることにも頓着せず、一日中バスローブ姿で部屋にこもり、酒を飲んではセックスを貪るという生活に耽溺している。それはとても自然的な快楽で、田舎のアメリカ人はそれを素直に獲得する。
 二人の別れ際は見事で、ジュリアロバーツは魅力的ないでたちで、充実した時間をエンジョイしきったという感じである。別れのシーンはカットの間とか台詞がハリウッド的な、湿り気のある、思い入れたっぷりの演出になっている。その他のシーンはすべて逆に渇いた素っ気ない感じの演出になっている。アメリカ人はハリウッド的な演出でしか描けないのである。
 ぼくはファッション業界のことがよくわからないので、ピンとこない部分も多々あった。でも構造はおぼろげにわかる。デザイナーとマスコミとそれをつなぐ技術者つまりカメラマンである。この映画はデザイナーに同情的で、マスコミに皮肉的である。デザイナー本人が登場しているようだし、それは当然か。ところでプレタポルテとはどういう意味なのだ。




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