寒いなあと思っていたら、十二月になっていた。
原動機付自転車のハンドルを握る手が引き裂かれそうに鳴っている。手袋をはめれば、いくらかましになるだろう。指の感覚はたぶんなくなっている。
手袋を買わなければならないと考えているうちに冬になってしまった。少し寒くなったので手袋をしようと、引出しを開けると、片一方しかない。五分ほど探し回って、諦めた。引越しのときに紛失したのかもしれない。片っ方だけの黒い手袋(左手)を手にもち、見下ろしながら、失われたもう片方を思った。すみっこで泥や埃にまみれているくらいなら、焼却場で、もされていればいい。それに、まだ手袋なしで困るというほどではない。
だが、もう赤信号がともっている。信号待ちのとき、かろうじて息を吹きかけて手に血の流れを戻そうとこころみる。とくに右手が危ない。左手はポケットに入れることができるが、右手はアクセルを回す役目がある。
赤い灯りがたくさん見えるのは、車のテールランプのせいだ。ずれかかったコンタクトレンズに赤い光が散乱して滲んで見える。ぼくは二輪車だから、車の列の前に踊り出ることも可能であるが、一刻も早く右手を暖めたくて、車の尻についた。その車のエンジン音はきわだって低音で、どうやら改造してるらしい。なぜかしら、薄い車内灯が点いているため、中の様子を眺めることができるが、内装も凝っている。シートカバーはもちろん、じゅうたんまで敷いてあるようだ。
乗っている人間は運転手と、助手席に一人。二人は男と女だが、信号待ちの退屈しのぎに、濃厚な接吻をしはじめた。助手席の女が運転手の首に手を回し、微妙に動いている。車は因みにトヨタのBbである。
Bb。ぼくはトヨタは嫌いではない。円安で経常黒字増幅のニュースを見て単純にうれしく思う。しかし、Bb。何の略称なんだ。ボンクラとブスの乗るクルマという意味か。
信号が青になった。前の車はしかし動く気配がない。せっぷんがまだ続いているからだ。エアガンを持っていれば、BB弾を撃ち込んでやるところだが、生憎手元になかった。それに、ぼくの原付のクラクションは「ビー」という情けない音がするので、ためらっていると、後ろで待っている車がかわりに鳴らしてくれた。くっついていた男と女の顔のシルエットがようやくはなれ、Bbは重低音を響かせながら、加速していった。50ccのぼくはどんどん引き離されて、後ろの車にも追い抜かされた。
それは別にかまわない。目的地はすぐそこだ。
喫茶&グリル「ウインズヴァレイ」のなかは暖房がよくきいていた。
店内を見渡して彼女の姿を探した。それはすぐに見つかった。厨房と店内を結ぶ通路の入り口のところに立っていた。彼女は店の人にいずみちゃんと呼ばれている。たぶん下の名前だろう。いずみちゃんはぼくの入店を認め、盆におしぼりと水を載せて、歩み寄ってくる。
「いらっしゃいませ」
その声はナウシカのようにやさしい。
ぼくはいずみちゃんが右側に立っていることを激しく意識しながらも、それを表に出さないように、平静を装いつつ、赤くなった右手を労わった。左手より右手のほうが赤い。しかもあまりきれいな赤色ではない。ぼくの血は相当濁っているらしい。いずみちゃんがそれに気づいてなければよいのだが。
「寒くなりましたよねえ」
「えっ」
いずみちゃんはどうやらぼくに話しかけたようだ。見上げるといずみちゃんと目があった。リブ・タイラーのようなきれいな目が見下ろしている。
「そうですね、昼間はけっこう温かったんですけど、日が落ちたら容赦ないですよ」
体が痙攣的にふるえた。それは寒さで震えたようにも見えた。
「すごく手が冷たそうですけど」
ぼくはニビ色の右手を、左手で包むように、いずみちゃんの視界から隔絶した。
「暖かかった昼間の様子からして、手袋なしでもいいか、なんて思ってしまったんです」
片一方なくしてしまった、と咄嗟に口から出なかった。
「今日もお仕事か何かなさってたんですか、いつも土曜日に来られますよね」
店内はすいている。全部で三十人ほどカバーできるこの店は、ぼくと中年の夫婦らしき二人しかいない。はやっていないわけではない。時間が九時半を回っているせいだ。
「ええ、アルバイトなんですけど」
「なんのお仕事ですか」
「花屋です」
「へえ、なんか意外な感じがするな、花が好きなようには見えないもん、あ、失礼なこと言っちゃったかしら」
「いや別に、慣れてますから。取引先には、眼つきの鋭い花屋さんで通ってますから」
いずみちゃんは控えめな声をたてて笑った。
小学生の頃、夏休みの宿題で一枚の絵を描かなければならなかった。それは防災啓発ポスターだった。消防士のホースから赤い火に向かって虹がほとばしる、少し変わった構図の絵で、ぼくは金賞をもらった。朝礼でぼくの名前が呼ばれ、全校生徒の前で校長から表彰状を受け取った。彼女が笑ったことは、当時のぼくが抱いた誇らしさや喜びに匹敵するものだった。
いずみちゃんは口元に手を当てて、笑いを抑制していた。目尻にはしかし、明瞭にそれが残っている。
ぼくは次の句が継げない。店の奥に座っている中年の女がこっちを見ている。短い沈黙が流れた。
「あっ、いけない、注文うかがってなかったわ。日替わりセットでよかったかしら」
「もちろん」
彼女は遠ざかり、厨房に向かってオーダーを伝えた。ぼくはいつも日替わりをたのむ。厨房に消えていく彼女を見届けてから、水を一口飲んだ。いずみちゃんはエプロンをしている。その下はたぶん私服なのだろう、ジーンズと赤と黒のセーターを着ているのが後姿で確認できた。
虚空を眺めて余韻に浸っていると、中年の女の視線が気になった。化粧もしていない薄汚れた初老といっていいババアで、そのテーブルの上には食べ残しの焼きそばと空っぽのビールジョッキが置いてあった。女の前に座っている男の首筋も汚れている。
ぼくは女の視線をさえぎるように新聞をひろげた。それは夕刊であったが、雅子さまの出産を伝えていた。それはかなりの驚きだった。思わず唸った。昨夜のニュースで見た雅子さまの顔は澄み渡っていて、これから出産に臨もうとするものではなかった。雅子さまは車内灯をつけ、パワーウインドウを開け、沿道の人々に手を振った。完璧な、狂いのない正確な手の振り方だった。その右手はテレビ画面で見る限り、きれいだった。それを見て、出産にはまだ二三日かかりそうだなと思った。
いつのまにかぼくの右手には血が十分に通い始めていた。
雅子さまの右隣には皇太子が座っていた。象徴天皇制の記号的笑顔、といったら怒られるかも知れないが皇太子の顔は精彩を欠いていた。それは雅子さまが右ではなく左側に座る理由の一つだろうか。
女の子が生まれたらしい。それはよかった。何年か経って、継承で揉めたら、ニュースを見る側として、面白くなるし、できれば女帝を見てみたい。
雅子さまが分娩台に上っているちょうどその時間は、ひょっとするとぼくは小火の後始末に追われていた時と一致するかもしれない。
ぼくの勤めている花屋は、数年前に経営を拡大し、結婚披露宴会場の飾り付けをするようになっていた。普通に花を売るより適当な配置を考えて、きれいに見えるようにして売ったほうが付加価値で収益が上がる。花だけでなくロウソクも売る。披露宴はパーティであるが、ただ飯を食って酒を飲んでいるだけではつまらないらしく、いくつかのイベントがある。その代表はケーキカットとキャンドルサービスである。ぼくの勤める花屋は、ケーキは作らないが、ロウソクは売る。披露宴会場には幾つかのテーブルが並んでいるが、それぞれに一本ずつロウソクが立てられている。剥き出しのロウソクを素朴に立てるわけにはいかず、その根元を花で飾らざるをえない。
お色直しを済ませた新婚カップルがオリンピックの聖火ランナーのように恭しくロウソクに火をつけて回る。最後のロウソクは高砂席の隣の大きなメインキャンドルだ。メインキャンドルは、値段によってグレードは違うが、太くて長い。今日、行われた披露宴で、懐かしい友人たちや会社の上司に、したたかに酔わされた新郎は、高砂席に上がるとき、つまずいてこけた。素直にこければいいのに、倒れまいとして、手を伸ばした先に火のついたメインキャンドルがあった。
「あちちっ」
安物の芸人のリアクションのような裏返った声が会場をこだました。
新郎が火傷をしただけならよかったのだが、始末の悪いことに、ロウソクが、不謹慎な喩えかもしれないが、あの崩れ落ちるビルのように倒れた。幸い、その下に座っていたはずの新婦の幼なじみ(会場でいちばんきれいだった)は写真をとるために使い捨てカメラを持って席をはずしていた。
「どす」
空席の上に落ちた太くて長い火のついたロウソクは、テーブルクロスの端っこに火をつけた。
「きゃあ」
隣に座っていた新婦の高校時代の赤い着物を着た友人(会場で二番目にきれいだった、ぼくは倒壊したメインキャンドルの処理をしながらも、そのことを確認した)が悲鳴をあげた。その悲鳴を聞きつけて、ロシア人の将校のような顔をした会場のマネージャーが疾風のように現れて、手で叩いて火を消した。
少しこげた匂いが漂ったが致命的な事故ではなかった。しかし、焦げ付いたテーブルクロスをそのまま使用するわけにはいかず、新しいものに取り替えた。そのためにはそれまでテーブルの上に載っていた食い散らかした皿やコップを除けなければならない。また倒れたメインキャンドルを立て直し(かなりの高さを落ちたにもかかわらず無傷だった。そのくらいロウソクは太くて頑丈だった)、火をつけて元通りにしなければならない。その作業に費やされた時間はパーティの熱を冷ますのには十分だった。笑顔の消えた新婦の隣に腰をおろしている新郎は、酒がよくないところへ回ったのか、青ざめた顔をして、うつむいている。新郎の会社の気のいい同僚たちは、シャツを脱いで、死にもの狂いで余興のコントを演じたが、失われたものを取り戻すには、あまりにも稚拙な芸だった。
ぼくはそのあとひどく叱られた。酔っ払って失態を晒した新郎は、金主であるから、何も咎められない。これは形式の話であるが、あれだけの事態を出来させてしまった以上、誰かに責任を収斂させなくてはならない。結局倒れてしまうような、貧弱な土台の上にロウソクを据えていたぼくに罪があると裁定された。
ホテル側(結婚披露宴はホテルで行われることが多い)から、花屋、つまりぼくの雇い主にかなり深刻な警告が下され、続いて雇い主からぼくに負の塊が伝えられた。その塊は、緩衝され、あるいは増幅され、いくつかの段階を経ていたために、ぼくに到達するまでに非合理的な時間が流れていた。
ぼくに説教をくれるのは花屋の社長だけですむはずなのに、もう一人、なぜかしら社長の隣に座って不機嫌そうな顔をしている。一応先輩だ。社長よりもこいつの話が多かった。社長は、これは美点というべきか、本質的に人生に対して不真面目な人で、他人を怒ることができない。だから説教らしきものをたれつつ、しょうがねえな、という苦笑いを浮かべているのだった。それを補うように、先輩が延々と言葉を発していた。それは中身のない、背景もない、空っぽの手続きの話でしかなかったが、ぼくは何も言い返さずにうなだれていた。腹が減ってきたので、時計を見ると、八時半を回っていた。
「時間なんか気にしてんじゃねえよ。おれがおまえのために叱ってやってんだろが」
先輩は目ざとい。こいつの顔を見ると胃液が逆流しそうなので、見ることはできないが、きっとぼくの顔を舐めるように見据えているに違いない。それがとにかくいやだった。
「おまちどおさま。日替わりになります。ごゆっくりどうぞ」
いずみちゃんによって食事が届けられた。メンチカツに玉ねぎのソースがかかったのとジャガイモのサラダの大きな塊とキャベツの千切りが載った皿と、ご飯と味噌汁である。彼女はまた奥に消えてしまった。
中年の男と女の客はいつのまにかいなくなって、店の中にはぼくしかいない。閉店は確か十時半である。ぼくが最後の客であろうか。
今日は仕事が終わったあとの彼女を誘うにふさわしい機会であるように思えた。
先刻、交わした会話を牛のように反芻してみる。一言一句執拗に点検してみても、ぼくに落ち度はなかったはずだ。
再び彼女が姿をあらわすのを待ってみるつもりになった。
そこで扉の開く音がして、新しい客が入ってきた。
それは二人連れであった。健康な若い男女だ。二人は席につくまで無言だったが、ゆるぎない親密さに溢れていた。疑いなどはじめから存在しないかのように、さっきまで中年の男と女が座っていた席についた。男と女の位置も同じだ。つまり、ぼくから女の顔が見える。四人がけのテーブルのあまった二つの椅子に、それぞれ脱いだコートをたたんで置いた。何か男が女に話し、女はそれに答えて笑った。店の中を有線のクラシック音楽が低い音でボーズのスピーカーから流れている。何を言ったかしらないが、よほど気のきいたことだったにちがいない、見事に女の顔は崩れた。
奥から出てきたいずみちゃんの手には盆に載せられた二組の水とおしぼりがすでにあった。
男はぼくにも聞こえる声で「コーヒーふたつ」といった。
注文を受けたいずみちゃんはまた奥へ消えていった。
その間もぼくの食事は滞りなく続き、終盤に差し掛かっている。
男はおもむろに席を立った。トイレに行くらしい。ぼくのそばを通ったとき、気づいたが、男は高校のときの同級生だった。一年と三年の二年間、同じクラスだった。同級生というだけで、親しくしていたわけではない。男はそれぞれの一学期にクラス委員を務めるようなタイプだった。その顔つきはぼくから見れば偏頗であるが、スタイリッシュといえなくもない。まるで違うグループに所属していたので話をしたこともなかったはずだ。あえて対象化することもできないくらい、お互い、心地よい無関心で同じ空間をすごした。男はぼくよりも洗練された無視をすることができていた。男はぼくが無視した大勢のうちの一人だったし、男にとってもぼくは同じだったろう。いま四年ぶりにまたここですれ違う。
席に残された女は、見覚えなどない。対面の、男が座っていた空席を身じろぎもせずに見つめている様子は、つくづく魅力的だった。寒さで少し血の気のない顔に、それほど赤くない口紅が塗られている。顔のパーツのバランスはよいが、表情が乏しい。男に好意を持たれようという努力をしたことがないのだろう。形の整った眉毛、ほどよい広さの額、落ち着いた顎の線、それらが的確な位置に所在なげに据えられている。男が戻ってくるのを待っているのだろうか。
およそ一時間ほど続けられた、ぼくと社長と先輩の反省会のあと、さっさと帰ろうとするぼくを社長が手招きした。例の決まり悪そうな苦笑を浮かべながら、朗報があるといった。ぼくがデザインした飾り方をカタログに載せてみるという。暇つぶしに考えたものだった。それほどにこれまでの商品が古臭くなっていた、ということかもしれない。
男がトイレから戻ると同時にコーヒーをいずみちゃんが運んできた。男はもうそろそろ大学を卒業する頃ではないか。ぼくは大学に行かなくなってずいぶん経つ。
奥に消えようとする彼女を呼び止めて、勘定を払い、外に出た。
暖房のきいた部屋から出ると、やはり寒すぎる。家までそう遠くないので、エンジンをかけずに押して帰ろうかと考えている。
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