特別に理由もなく、このビデオ映画「ゆりかごを揺らす手」と一緒に、黒沢明監督、ドストエフスキー原作の「白痴」を借りた。偶然ではあるが、この二つの作品には共通点があった。いずれにも、脳に障害があって、浮世離れしてしまったキャラクターが登場する。「白痴」はそのキャラクターが主人公である。「ゆりかご」では、重要な脇役である。しかもそれは黒人である。
白痴を論じるのは難しい。差別的表現は避けなければならないからだ。これは映画の中の話であるとでも断っておくべきか。それほど気を遣わなくても、咎められるような方面には向かわないとも思う。白痴とは天使なのである。
江戸時代、封建制が敷かれ、空気のように差別は存在していた。士農工商のさらに下の階層の人々に限らず、医者や坊主も差別の対象であった。医者や坊主は、病人や死者という、汚らわしい人間を扱う役目を持つので差別されていた。彼らを普通の人間とするなら、社会制度の理念を保つことができなかった。しかし彼らは必要であった。だから制度の枠の外に出して例外扱いした。例外扱いとは差別のことである。彼らはお陰である意味において自由を得た。これらの映画作品に登場する白痴たちも、それと同様な人びとである。
「ゆりかご」では白痴の黒人が有効な役どころをえて、話を面白くする。彼だけが、犯人の女が悪人であることに最初から気づいている。白痴は、黒澤作品のほうでもそうだが、純粋な心を持つゆえに、洞察力が鋭い。雑念(一般常識とか奔放な性欲)なしに、人物を判断できる。だから、犯人の女が一瞬見せた険悪な表情から、資質を見抜いてしまうのだ。そして、彼は無防備な一面を持つので、犯人に手玉に取られて家から追い出されてしまう。
子供もまた、ファンタスティックに本質を把握する能力を持ち、彼が善人であることに気づいている。子供も無防備であるので、彼が追放される理由がわからない。追い出してしまった権力者であるところの母親を恨んでしまう。母親はまったく巧みに窮地まで追い込まれていく。その順序だてが恐ろしくうまい。これほど上手に陥れる犯罪のストーリーは知らない。
しかも犯罪の到着地点が、すごい。犯人は被害者たる女に恨みを持つわけだが、被害者から家庭を奪おうとするのである。ストーリーを考えるとき、動機や目的を設定するのは、アイデアは出尽くしているような状況もあり、いまやもっとも難しい。「ゆりかご」は一昔前の作品だが、いいところに目をつけている。家庭がおかしくなっている、と社会科学的に言われていた風潮にもうまく乗っている。人生の目標としてのカネの地位が揺らぎ始め、最後のよりどころであった家庭を狙う犯罪なのである。
途中までこの犯罪はとてもうまくいっていた。うまくいくのは当然で、誰が犯人かも、犯人の存在事由も何もかもわかっているのである。こういうとき、犯人は心置きなく犯罪ができる。
これもこの映画のうまいところであるが、この犯人、実は心やさしいんとちゃうか、と思わせる場面が挿入される。赤ちゃんに母乳を与えるカットは、善意に満ちていて、犯人の同情を誘う。しかし映画製作者は同情を誘うために念入りに授乳シーンを導入したのではなく、観客を嘲弄するためなのである。母親が授乳する映像は、記号としてほぼ完璧に、善良さを示している。それを見たものは、母親の悪意を疑うわけにはいかない。疑えば、糾弾されるだろう。だから、犯人が授乳するのは、映画上、完全な矛盾なのである。つまり、恐ろしいのである。
観客の中には、犯人の役柄に疑問を抱くものもいるかもしれないが、映画の筋からして犯人は紛れもない犯人であり、そのことに気づいているのは、黒人の男と観客だけなのである。なぜ彼女が犯人であるかは、自殺した犯人の夫(産婦人科医)が、被害者の女を触診するとき、ゴムの手袋を脱いで、素手で行ったからだ。あのカットが入っているということによって、犯人夫婦は、悪であると規定されている。
そして、その悪に気づいているのは、黒人の庭師だけであり、観客は彼に感情移入してしまう。あるいは、彼は観客を代表しているのである。観客は純粋で無垢なのである。彼は犯人を懲らしめることを誓うが、結局最後は被害者である母親が自力で解決する。観客であるところの彼は、やはり部外者なのである。観客は、少しだけストーリーに参加できたような気分を味わうだけである。
最後はいかにもホラー映画的な演出になっていて、まさかそれほど露骨に悪魔を退治するとは思えないほど、途中まで犯罪はうまくいく。途中までどころか、結局、犯人の母乳を飲んでしまった赤ん坊は、犯人の身体の一部を受け入れてしまったわけであり、将来、赤ん坊が根本的には母親になつかないであろうことを予言する。これは家庭崩壊を諷しているのだろうか。
社会問題をうまく捉えているという点で、もうひとつ、部外者をいかにして招き入れるか、つまり移民政策の問題も浮き彫りにしている。移民はやがて世界中で増えていくらしいが、悪人は入れたくないものであり、それを見分けるのは至難の業なのである。善人面した奴が、悪いことをしているのである。
そしてさらに、対象の善悪を見分けることの難しさという意味で、免疫不全の問題をも分析している。人間は文明力によって、活動領域を拡大していったが、反作用としての病気に肉体は対応できなかった。エイズがそうであり、狂牛病のプリオンもそれに含まれる。
それらの問題にどう対処するべきか、この映画から読み取ることができるのか。強引に解釈すると、拡大政策を中止し、ローカリズムに徹するべきだ、となろうか。なにしろ、黒人の庭師がその後どうなるのか、わからないのである。
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