思わせぶりな映画である。
 設定が強引であるから仕方ない。いろいろ詰め込みすぎたからだ。
 生き残り特攻隊員の昭和天皇への殉死、生体腎移植、在日朝鮮人の特攻、新人女優。これらのものを織り込んでひとつの映画にするためには、腰を据えて真正面から取り組むのではなく、思わせぶりに描くしかない。
 そしてぼくはまんまと思わせられてしまったのであるが、それを幾つか述べる。
 特攻についての映画はたくさんあると思うが、ぼくはあまり見覚えがない。でもテーマは限られるだろうから代り映えのありようがないだろう。自ら死にに行かなくてはならないものの苦悩と、それを見送るものの居たたまれなさと、それがかつてこの国で実際に起こったのだという歴史性、といったものが特攻を構成する普遍的テーマである。
 この映画ではそつなくそれらのテーマをなぞり、そしてそれをモチーフにして更なる物語をしようとしている。
 映画で見る特攻隊は、いうまでもないと思うが、感動的である。ぼくもいくつかの場面で涙が眼球を濡らすのを禁じえなかった。
 ここでは日本の特攻をさらに書くつもりはなく、それはそれとして、最近目に付くのはイスラム教徒の自爆つまり特攻である。その代表例は昨年9月11日の旅客機みち連れテロである。爆弾を抱えて空母に突っ込んでいく日本人はアメリカ人および世界中の人々を驚かせたが、その驚愕を更新、あるいは別次元で凌駕してしまうような出来事があのテロだった。
 かつての日本の戦争は無謀であった(それは当時大本営にいた参謀の瀬島龍三さんが正月の深夜番組で話しておられたように事実であろう)が、それほどにアメリカは強大であり、それに立ち向かっていくには、常軌を逸した行動に出るしかないのかもしれない。それが有効であるかどうかは別の話である。
 ところで日本の特攻隊とアラブのテロリストは同質なのだろうか。 
 現在の日本の首相の小泉さんは特攻の大ファンであるが、9月11日のテロが起こったとき、「怖いね」といった。
 すると、やはりそれらは別のものなのか。
 上述のような、「圧倒的強者に弱者が立ち向かっていくとき、残された手段はテロしかない」という声も時々聞こえるが、大東亜戦争は日本に勝ち目がなかったとはいえ、それらを同列に並べるのは気が引ける。
 日本は宣戦布告していた、などという手続き論からもそれはいえる。しかし、手続き論が弱いのはビンラディンは今までにテレビカメラに向かって、アメリカ死すべし、というような危ない発言を繰り返していたわけで、それは宣戦布告であると解釈できなくない。
 また、テロと戦争は別の概念であるというのも手続き論から導けるが、9月11日の直後は、そういういわば冷静な雰囲気もあったが、数ヶ月たった今では、一連の攻撃の応酬が戦争であることは誰もが了解していることだ。
 戦争は政治の延長にあるというようなことをどこかで聞いたことがある。
 戦争とテロの区別を明確に定義するひまもなく時間が過ぎているわけだが、いずれにせよ人間のすることには違いない。
 そのようなことは本当はどうでもよく、ぼくがいいたかったことは自爆者個人のことである。
 最近はビデオ機器が発達しまくり、アラブの自爆出撃兵の遺言がテレビで放映されたりする。その遺言ビデオは、画質が悪く、構図も陳腐であるのはともかく、発言内容はアラーの神がどうのこうのという多神教国の部外者にはちんぷんかんぷんなものであるが、ひょっとして遺言という概念がまったく異なる、つまり「遺言」と訳語を当てはめるのは誤っているのではないか、もっといえばこれは遺言ではないのではないかと思うほど、(そのビデオは)無感動なのである。遺言ビデオの出演者たちは、抑揚のない口調で訥々と形式的なものを読まされているかのように見える。遺言ビデオを残される側、たとえば家族はそれを見てどう思うのだろう。テロ組織の幹部が意図しているかもしれないプロパガンダとしても不十分ではないか。
 遺言も法律の中で位置付けられる昨今であるから、感情も排除されがちになるのかもしれないが、それにしてもひどい。
 小泉首相の愛読するところの「きけわだつみのこえ」をぼくは読んだことがないが、想像するに、きっと感動的なのだろう。首相自身つらいことがあれば読み返して気持ちを新たにするという。
 どうして、日本人とアラブ人でこのような差異が生じるのだろう。感動的であることのほうが優れているというつもりはないが、それを軽軽に考えることは危険である。一神教と多神教の違いである程度説明できるのかもしれないが、人間の死そのものは同じであろう。それとも、やはり宗教が違えば死も異質になっていくのだろうか。
 差異そのものも疑ってみる必要がある。テレビニュースで報じられた遺言ビデオは、無感動なものだけを選んでいるのかもしれない。日本であのニュースを見るということは多分アメリカ経由だろうし、一般人がテロリストに同情しては困るので当局から圧力がかかっているのだろう。また日本の特攻も、ぼくが見る限り、特攻隊員の俳優は男前であり、感動させようという意図で演出され、劇的に加工されているのである。実際の特攻の現場は、アラブの遺言ビデオのように無感動な、流れ作業の事務的なものであったかもしれない。
 映画を見ただけではわからない部分はいくらでもある。
 そしてこの映画の話に戻るのだが、文章の構成は後戻りできないが、悪くなっている。でもまあ、看過しよう。
 新人女優がよかった。水橋貴己ちゃんである。こういう古い映画会社の職人的な作品にデビューするくらいだからまず間違いなく将来まで活躍する素質を持っている。スカウトした人は、たぶん映画会社とかかわりのある人だろうけど、ものすごいいい目をもっている。映画に撮っても沈没しない、いい女の子を見つける行為は、マニュアルなどないだろうし、数うちゃ当たる的な訓辞はあっても、少なくともこの映画では失敗していない。
 この新人女優のどこがいいといって、それは体躯である。足が長いのだ。年取りの俳優に並ぶと同じ日本人に見えないほど足が長い。世代の断絶というこの映画のテーマを見事に描いている。
 そろそろ最後になるが、朝鮮問題のことである。朝鮮人の特攻隊員をとりあげることで、この問題の解決を「思わせぶり」に模索しようとしている。
 金山という在日朝鮮人の特攻隊員に、「ともさん万歳」といわせることで和解を促そうとする。ともさんというのは金山の日本人の許婚である。なぜ半島と日本が反発しあうのか。この映画は、マクロ的な、政治的な風潮に市民まで巻き込まれてしまっているのだ、とする。ミクロ的には、金山とともさんのように深く愛し合うこともごく普通にありえる。その事実をくさびにして、扉をこじ開けようとする。ただ残念ながら、金山とともさん以外のその他のケースには、感動的な物語はないかもしれないのだ。もっといえば、いがみ合った過去のことは涙で流してしまおうというのだが、もし物語がなければどうなるのだ。もし、高倉健のように上手に遺言を読み上げることができず、場をしらけさせてしまったらどうなるのだ。この映画が提示する解決方法は安易に過ぎるだろう。
 でも、この映画はあくまで冷静さを保とうという努力は最後まで怠っていない。右でも左でもない道を探ろうとしている。だから思わせぶりなのだろう。




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