スティーブンソダ―バーグ監督は同じ年に「エリンブロコビッチ」とこの映画「トラフィック」を公開した。いずれも社会派である。そして、いずれも小気味のいい終わり方をする。この監督は入り組んだ話を解体して組み立てなおし、わかりやすく説き聞かせる能力が卓抜であるようだ。「エリンブロコビッチ」は、公害を垂れ流す企業の悪を、仲間の怠惰をものともせず、彼らにインセンティブを与えながら、退治してしまい、いつのまにか自分の幸せな未来が開けていた、というのをわかりやすく物語った。果たして企業がほんとうに悪なのか、悪というのは法律で規定できなければならないわけで、法律が絡むと焦点がぼやけてしまいがちなのだが、あらゆる物語は単純ないくつかの論理に解体できるとでもいうように、ソダーバーグ監督は観客に見せるべき情報を正確に選び出し、構成する。
「トラフィック」は、「エリン」とはつくりが異なり、登場人物は多層的で、それらを巧みに配置することによって、問題を多面的に浮き彫りにする。わかりやすく物語るという監督の能力は、紛れもなく活かされている。ただ単に、懇切丁寧に説き聞かせるわかりやすさとか、親密な集団の中で居心地よく通じるわかりやすさなどではなく、説明的な描写を省き、しかしすべてのカットが無駄なく物語を説明している。「論文のような」という誉め言葉を用いたいところだが、実際の論文はこれほどわかりやすくは書かれていない。無駄を省かなければ、これほどのストーリーを二時間半弱で映画にすることは不可能だ。しかし、始まって一時間強の場面で、映画はややまろやかになっている。少し退屈になる。退屈だから、省くべきか。違う。そこが論文的なのだ。省いてしまうと、ストーリーが地面に足をつけて安定しない。椅子は三本足でも立つが、あるべき椅子は四本足なのである。すべての物語は退屈な部分を含んでしまうのだ、と宣言しているようでもある。人生がそうだからである。人間は時間を考慮し始めたときから、退屈さから逃れられなくなった。映画は人生を描くものなのだ。人生は無駄なことばかりだ、といってしまうのは、その人の気分次第である。退屈と無駄は違うのである。
わかりやすく物語るということは、人物の魅力、心情の変化も一目で分かるように画面に表れていなければならない。この映画で最も魅力的な人物はメキシコの警察官(?)を演じているデルトロである。ブラッドピットと骨格は似ているこの俳優は、脇役としていつのまにか目にしているタイプであり、記憶に残っているのは「スナッチ」である。「スナッチ」では、デルトロは頭にポットカバーを被せられて、頭を打ち抜かれて死ぬ。つまらない役どころだったが、「トラフィック」では面目躍如というべき、ハンサムだった。あの顔とスペイン語の混合物と、役どころのハードボイルドさが絶妙であった。スペイン語の何処となく気の抜けた、「おまえらあほちゃうか」というニュアンスが場面の緊張感を相対化している、ように日本人のぼくにも、感じられた。それとあの顔である。表情に乏しいようであり、しかし雄弁な、眩しそうな、皮下脂肪の多い、あの顔。あの顔で、バリバリのやり手ぶりを発揮したり(ホモの殺し屋をうまく引っ掛けたり)、貧しい家に住んでいたり、ささやかな汚職に手を染めたり、組織に捕まって死の淵を覗き見たり、相棒を失ったり、虚無感に囚われたり、最後には美しい正義感に覚醒したり、するのである。デルトロの黄色い画面が、映画を引っ張っていったのである。
またもう一方にマイケルダグラスがいて、これもいい役だった。マイケルダグラスは、エスタブリッシュメントの人生の不幸な局面に陥ったときがうまい。マゾヒスティックである。あとでも述べるが、最後のホワイトハウスでの記者会見の場面はすごかった。
この二人が、ほとんど接点もなく、異なった方向から、しかし同じ目的を持って麻薬組織に立ち向かっていく。対称的であり、またそれぞれに小気味のいい結末を与えている。もうひとり、アメリカの麻薬取締官のスキンヘッドの黒人も正義役で、よい結末を迎えるが、役柄がデルトロと重なりしかも中途半端であった。爆弾で殺される相棒のヒスパニッシュの男は、因みに「レオン」では麻薬取締官に追われる立場であり、ゲイリーオールドマンに殺されてしまう。この顔だけ見れば、追われ役のほうが普通であり、「トラフィック」でも登場シーンは薬の密売人を装って囮捜査をしている。このいわば地道な捜査官も片方の側面に照明を当てているのだが、デルトロほど鮮明ではない。それは撮影のされ方がまったく違っている。色が違うのだ。黄色と青である。レンズを換えているのか、フィルターをつけているのか、よくわからないが、こういう画面の変化のつけ方はあまり見ない。誰でもやりそうにみえて、誰もしない。どういう事情があるのかは知らない。
この映画は、ハンディを多用したりして、全体的にドキュメンタリー風であり、それは迫真性が加えられる効果的なやり方だ。無駄を省けた理由もここにある。ただし、ドキュメンタリー風にすると、カメラマンの存在を意識させることになり、それが客観性を生むわけだが、映画の中の劇的な部分、例えば、黒人の警官がパーティ会場に押し入って怒り狂う演技をしながら盗聴器を仕掛けて去っていく場面では、ハンディで撮られていたが、実際にカメラマンが歩いている黒人の横に立っているような感じがして、肩透かしを食らった。つまりドラマチックになれないのだ。
しかし、この映画ではそのほうが成功なのだ。麻薬組織という典型的な敵と戦う以上、よく考えないと観客を冷めさせてしまう。徹底的に製作者のほうが醒めていなければならかったのかもしれない。黒人警官のラストの失敗は、オチをつける、というドラマ的操作の必要上、避けられなかった。
ドラマチックといっても、抑制的で、黒人警官は定年まで続く職務に励んでいるだけであり、デルトロもいつ命を狙われても仕方のない世界に身を置く羽目になり(やがて政治家)、それは劇的ではあるが、ハッピーエンドではなく、マイケルダグラスも娘がほんとうに改心したのか何処にも証拠はなく、いつ仮面を剥ぎ取るかもしれない。これらは、何度もいうが、ドキュメンタリー風だから、ドラマチックになれなかったのだ。
主人公はマイケルダグラスであり、彼の最もメッセージは集約されているはずだ。これは生真面目な映画だからメッセージは読み取らなくてはならない。
マイケルダグラス自身のいかがわしさとあいまって、キリスト教的誠実さを持ったこの役柄はすでに皮肉的で面白い。やる気も能力も権威も十分備えているが(予算には少し不満があるらしい)、行政府の中枢に絡めとられて問題解決の糸口すらつかめない。上から見下していても、問題解決はできないという意味である。リアルに不細工な彼の娘は、薬を嗜みながら、頭の良さを発揮して、怒りに任せて、世の中の歪みを指摘していく。いわく、「大人たちのいってることはすべて嘘だわ。大人たちは本心を喋ることができないのよ。いつも型にはまった、形式的なことしかいうことができないの。周りのことを気にしてばかりで、当り障りのないことを、遠まわしに呟いているだけ。格好が悪いのよ」。まったくそのとおりだと思い、ぼくは共感してしまった。16歳とはいえ、さすがに私立高校の、クラスで三番目の奨学生でもある娘のいうことは違うなあ。優秀な頭だからこそ、麻薬に走らざるをえなかったというのはなんとも悲劇的ではないか。彼女を救えなかったのは、親の責任ではないか、親(マイケルダグラス)は彼女の話に耳を傾けてやるべきだ。また、そのことが、麻薬問題の解決への道に繋がっていくのではないか。現実に生活が営まれているところ、つまり家庭にまで、視線を下げてやることが大事なのだ。そして、親子で、お互いに歩み寄らなければならない。
その結果、マイケルダグラスは記者会見でのスピーチを投げ出して、娘は何かセミナーのようなところで、「私は立ち直れそうです」と告白する。見事にお互い一歩ずつ接近した。娘は反抗的な思想を改めて、社会に穏当に適合するような態度を見せたし、マイケルダグラスは、娘に「格好悪い」と文句を言われた部分を聞き入れて改悛し、嘘で塗り固められたスピーチ原稿を最後まで読むことができなくなった。スピーチの演技がすごい。喉に何かが詰まっているような感じが表現されている。また、本物の役人のような野暮ったさがある。
これらのメッセージは、模範解答である。文句の付け所がない。正しいだけではうまくいかないというリベラルさも表現されている。それらのメッセージに主眼を置いて、それを訴えるために映画が作られていたら、臭くて見ていられないものになる。しかし、興行的に成功させなくてはならない映画の宿命として、物語の決末を用意しなければならない。しかもマイルドな結末を。そのジレンマを解消、というか、目的を何処にもってくるかという問題であるが、要するにどのようにストーリーを語っていくかを試しているのである。その試みは成功しているのである。監督の能力と俳優の顔の賜物である。(結論すると)この映画は穏やかな結論と、俳優の存在感によって成功しているのだ。
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