「Who am I」
チャーリーシーン演じる証券会社の営業マン・バドは、ベランダに身を寄せ、夜景を眺めながら自問する。部屋の中ではようやくモノにした(といってもそれほど苦労したわけではない)極上の女が裸で寝ている。
「Come in bed」
女がバドを呼ぶ。
 立花隆の「サル学の現在」によれば、あるサルの群れでは、オスが交尾できるかどうかはメスが決定権を握っているという。また、オスザルは一回の射精で激しく消耗し、終わった後は30分から1時間、へばっている。メスは物足りなそうに、横たわるオスの毛づくろいなどしてみるが、オスは茫然自失の態である。しかたなく、メスは他のオスを探しに、跳び去っていく。
 人間の演出する映画の中のキャラクターは、サルのような単純な行動はとらないはずだ。
 バドはベッドの女に「来て」と呼ばれると、ふらふら引き寄せられてゆき、2回目のセックスを努める。
 しかし、あとのほうの別のシーンのバドは嬉しそうに女のまたぐらに挑んでいく。バドは精神状態がやや不安定である。
 なぜバドは狙っていた上玉をはじめて手に入れた直後に「俺はいったい誰なんだ」と落ち込まなくてはならなかったのか。その女が、ベッドの中でよく見るとたいしたことがないことに気づいてしまったのか。
 確かに、この古い映画を今見ると、女の化粧のしかたなど、首をひねらざるを得ないし、また金髪の長い髪を除けば、やや細長すぎる女の顔は、あるアングルから見ると女に見えない。白人の女は細長い顔が多い。いま現在話題の映画「アメリ」のアメリ役の女優も顔が細長い。だからぼくは「アメリ」を見ていない。
 しかし、映画の中では最高の女として描かれており、それは設定であるから動かすわけにはいかない。その前提のもとで、バドはあれほど夢中だった女をいざ獲得してみると、急速に虚しくなってしまったのである。
 そこでさらに疑問なのはどうして虚無的な自分の心情を表現するのに、「Who am I」という自己撞着的台詞を用いたのかである。

 バドはもともと証券会社のぱっとしない一社員に過ぎなかった。
 むしろ失敗続きで実家の父親に数万円の金を借りに行くありさま。
 そんなあるとき、バドは航空会社に勤める父親から、さりげなくも耳寄りな情報を得る。事故を起こしてしまって更なる業績の悪化が懸念されていたのだが、事故の原因が部品メーカーの手抜きにあることがわかった。まだどこにも公表されていない情報である。
 バドはその情報をマイケルダグラス演じるゲッコーに捧げる。
 それ以降バドはゲッコーに気に入られ、金持ち、つまり資本家とはどういうものか、教えられることになる。
 ここまでの話は映画の第一部とでもいえる、積極的で楽観的な部分である。労働者階級の家庭に生まれ育った青年が、壮大な夢と希望を胸に抱いて、また自由主義を信じて、郊外からマンハッタンへやってきた。その青年がようやくチャンスをつかむ。
 つかんだものの、また失敗をしでかす。ゲッコーはサウナで汗を流しながら、バドにスパイ活動をそそのかす。それはインサイダー情報の悪用を取り締まる法律に背くことになるので、バドははじめ躊躇する。しかし、ゲッコーの成功ぶりを目の当たりにし、とろかされ、一線を越える。これは一線を越えなければ成功できないという意味である。
 いわば悪の道に踏み込んだわけだが、それが祟って証券取引委員会(SEC)に目をつけられることになる。サラリーマンが急激に成績を伸ばせば目立つのだ。
 年老いた父親がタバコを吸うのを咎めて禁煙を薦めるような、まっとうな青年だったバドは、要するに自分を見失うのである。そこで上述の「Who am I」に行き着く。
 バドは汚職をして、やっとゲッコーに認められ、彼の系列に参入することを許された。その栄誉のおまけで金髪の女がついてきたわけだ。自分が汚れてしまうことによってしか、女は手に入らなかった。それで本当に女を手に入れたことになるのだろうか。あるいは、汚れた手で女を抱いて気持ちいいのか。
 まっとうなアメリカ青年は翻弄されつつ、大いに悩む。、しかし時はすでに遅く、大波にさらわれコントロールを失ったバドは破局へ向かう。

 ところで、これではまだ上述の疑問に答えていない。どうして「Who am I」という表現になるのか。日本においてなら、他の表現がありそうなものだ。「俺は何をやっているんだ」とか「これでいいのか」などという類の表現だ。しかしバドはいきなり「Who am I」である。映画の台詞であるから大仰になっているのは確かであるが、これにはアメリカ人の宗教意識の根幹が表出しているのだろう。
 アメリカでは何だかんだいってキリスト教が隆盛を誇っている。キリスト教徒は日常的に神と対話する。神はいつも身近にいる。だから神は迷える子羊たちを終始監視するのである。するとキリスト教徒たちは悪いことができない。神という重圧を常時受けて、ストレスがたまり、テンションもあがる。その心理的レベルによって、キリスト教はクエーカーとか洗礼派とかに分けられる。
 この映画では、アメリカ青年は、その道徳を強調するために、非常な緊張度で設定されている。よって、ゲッコーという資本主義の悪魔に教唆され、罪を犯してしまった健気なバドは、自己を毒され、一挙に自分が何者なのかわからなくなる。つまり、本来はアメリカとその青年は清らかなものであるらしい。
 八百万の神の国日本から見ると、おまえの「I」というものは、それほど嘆かなくちゃならんほどきれいなものなのか、と半ば呆れつつ、疑わざるを得ない。日本人はその点、もっとリラックスしている。自律的ではない。寛容である。だから、いつまでたっても談合はなくならない。
 心配しなくても、あなたはもともと汚い人間なのです、とアメリカ青年に対していってみたりする。すると、日本人は異質だと言い返される。あるいは内政干渉だといわれるかもしれない。さらには、生意気だ、と。
 ところが、日本にも「穢れ」とか「腐れ」といった概念はあった。しかし、室伏哲郎氏が「企業犯罪」という本の中でいうように、「政治の腐敗という概念は、」「わが上代氏族社会の刑法」「の中には、むろん、その片鱗すらもない」、という状況なのである。それはなぜなのか、この本には端的な説明はなく、日本人を卑下する感情で一貫している。この著者のように自虐的になる必要はなく、昔から日本の国土は比較的豊かだから、汚職については大らかだったのであり、ヨーロッパの比較的乾いた大地では、誰かが薄汚い行為をすれば、それが即他人の足を引っ張る形になり、社会を建設・維持することができなくなる。欧米人はそのようなぎりぎりの状況で発展してきたのだ、と想像する。

「マックス・ウェーバーは『職業としての政治』という講演の中で、心情倫理と責任倫理の区別を強調し、次のように述べた。

 人が心情倫理の準則の下で行為する――宗教的に言えば『キリスト者はただしきを行い、結果を神に委ねる』――か、それとも、人は(予見しうる)結果の責任を負うべきだとする責任倫理の準則に従って行為するかは、底知れぬほど深い対立である。

」(奥村宏著『株主総会』)
責任倫理とは社会に対する責任のことで、心情倫理とは自己の人格に対する責任のことである。マックス・ウェーバーはこれらを二つに分けているのだが、日本の個人主義者の美意識からすれば、責任倫理は心情倫理に含まれてしまうといえる。
 キリスト教徒、特にプロテスタントはこのような倫理観が強く、そのために資本主義という、放っておくとどうなるかわからない化物を制御し、発達させることに成功した。

 かといってキリスト者の中にも悪いやつはいる。キリスト教は罪人を見捨てない。懺悔すれば、救われるのである。神に告白すれば、また明日から堂々と街を歩ける。日本でいうところの「禊」である。日本の禊に比べて、キリスト社会の懺悔は一般に普及している。よほど罪人が多く苦労しているのだろう。
 この映画「ウォール街」でも、バドは悪事を重ねた挙句、後悔し、神としての父に懺悔する。父はまっとうな青年に戻った息子を見て、病床で涙するのである。
 しかし、この映画では結局バドはSECに告発されてしまう。懺悔しただけでは許されなかったのだ。監督のオリバーストーンは正統なクリスチャンではないのかもしれない。
 また、悪の元凶・ゲッコ―も許されない。懺悔して清浄な体になったバドはゲッコ―に一矢報いるのである。悪は正義によって退治されなければならないというハリウッド的二元論の典型である。
 ところでゲッコーは悪として描かれるが、彼はクリスチャンとしての倫理をどこへなくしてしまったのか。それはつまり、ゲッコ―はプロテスタントではなく、ユダヤ人なのである。マイケルダグラスはユダヤ系である。金儲けのうまい、嫌われ者としてのユダヤ人が暗に描かれている。

 ならばユダヤ人以外のアメリカ人がきれいな資本主義で一貫しているかといえばそうでもない。
 アメリカの資本主義の流れを、企業形態の側面からおさらいする。
 19世紀の後半、業界団体のカルテルが普及し、やがてそれが発展し、トラスト証券を媒介にしてトラスティーズを形成する方式が生まれた。それは1890年の反トラスト法で禁止され、次は持株会社方式が採用された。そこではJPモルガン商会などの投資銀行が仲介人になり、巨大な独占体が生み出された。それによって企業は「規模の経済」性を発揮し、コストを下げ、マーケットシェアを高めた。反面、消費者の利益を損ない、新規参入を阻んでいった。
 第二次大戦後、アメリカの企業は外国に進出し、多国籍化していった。そういった中、コングロマリット合併が広まったわけだが、これはまったく異なる業種の企業を合併し、多角化することである。反トラスト法が厳しかったアメリカでは、まったく関係のない市場分野へ合併の触手を伸ばすしかなかった。そこでは錬金術のようなやり方が流行した。株価収益率(PER)が高い企業が低い企業を合併すると、低いほうの企業の株のPERは高いほうに格上げされ、それを売ると、会社の利益は変わらないのに高値で売ることができたのだ。そういう合併を繰り返し、コングロマリットは膨張した。
 しかし、異業種企業を合併したところで経営的に何ら効果はなく、不必要な部分を売却することがしばしば行われた。こうして業績は悪化していった。
 にもかかわらず80年代には企業買収がますます盛んになった。第一の原因はインフレである。新しく設備投資するより、既存の会社の株を買ったほうが安くなるのだ。第二は伝統的な総合企業が現実に適応できなくなった。第三の要因は、株主が分散しすぎて、経営者が力を握ってしまったことである。また、機関化現象も挙げられる。機関投資家は雇われ人であり、預かった資金を確実に増やさなくてはならない。すると、企業の業績が下がるとすぐに株を売ってしまうことになる。
 そういう流れの中でグリーンメーラーやLBO、MBOジャンクボンドの見直しといった現象が現れ、90年代にいたる。

「90年代を席巻した、アメリカ主導のグローバル・エコノミーは、いわば「資本主義経済の最終発展形」というべきものです。
 最終形態というと大げさのように聞こえますが、要するに資本主義の持っている、実体経済から遊離した、バーチャルな要素を最大限に拡大し、経済の原動力に据えたのが、アメリカ主導のグローバル・エコノミーであるということです。
 貨幣が一種の記号であり、その成り立ちからして、常に現実に取引される事物の価値とずれがあることは、マルクスからケインズにいたるまでの経済学者が繰り返し指摘したことです。
 そして、このずれこそが、利子や生産力の向上、需要喚起などと並んで、というよりもより本質的に資本主義の発達を促す原動力となってきました。
 90年代のアメリカは、このずれを最大限に拡大し、利用することで、経済的な繁栄を実現したのです。というよりも、それはずれとすらいえないほどの、圧倒的な差を、懸隔を、現物経済に対して持っています。
 つまりお金自体を、物の売買とまったく関係なしに前後左右に動かし、儲けるための、徹底してダイナミックで、精緻なシステムを、アメリカは作り上げたのです。
 (中略)
 これでは、まじめに仕事をするのがバカらしくなる。」(福田和也著「日本の決断」)
 アメリカの資本主義はもの作りをやめて、ギャンブルにいそしむ方針に決めたのだ。実体経済の価値の何倍ものマネーが世界中を飛び回っている、という表現をよく耳にする。映画の中でゲッコーはまさにマネーにしか目がない。そして、ギャンブルの興奮に陶酔する。企業を買収しても、再建したり、育てたりするのではなく、設備や事業部門ごとに売り払ってしまい、大金を稼ぐ。企業の従業員のことはまったく考えない。
 がちがちの民主党員オリバーストーンはそういう資本主義のアメリカを憎み、痛烈に批判する。批判の矛先は資本主義だけでなく、女性にも向けられる。批判というよりも偏見かもしれない。金髪の女は自称「金持ちのカネを消費してあげる」職業の女だが、この映画では女はすべて、男を堕落させる雌豚として描かれる。だから、バドの母親はほとんど出てこない。母親をブタ扱いするわけにはいかない。
 バドは女を抱いてそれで満たされることはないが、それは倫理の問題ではなく、要するに不感症なのではないかと思われる。男の不感症。そんなものあるのかどうか知らないが、少なくとも射精のシーンはなかった。オリバーストーンはアカで不感症なのか。いや彼はマッチョで知られる。それを踏まえて解釈するなら、株の投棄や、あるいは不動産取引も含めて、そういう根無し草のような人間のする仕事に従事していると、自然を忘れてしまうという警鐘を鳴らしているんだろう。




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