おおお許しください。私はひどいことをしてしまいました。まったくひどいことです。ひどいことをしたのです。私はクズです。ゴミです。公害です。キノコ野郎です。犯罪者です。宇宙人です。梅毒です。猫背です。短足です。私は許されるでしょうか。いや許しを請えるような身分ではないのでしょうか。まったくサイテーなことをしちゃったのですから。許してくれなどと言える立場ではないのですから。あれほどむごたらしいことをした者が許されるなどと思うことそれ自体が私のあらたな罪なのでしょうか。ああ私は罪を重ねています。気づかぬうちに罪の上塗りをしています。底なし沼にはまったのです。いつもあんなに気をつけていたのに。そうです。私は常に正しき道から足を踏み外さずに生きてきたのです。私には正しき道しか歩むべき道はないのです。それ以外にはないのです。もう目隠ししても歩けるほどになったのです。ところがです。私はつまずきました。足をくじきました。慢心していたのです。油断が私の心に生じたのです。正しき道を外れればそこは底なし沼です。もう膝まで浸かってしまいました。靴も靴下もどろどろです。このままでは全身が沈んでしまいます。息もできなくなります。死んでしまいます。助けてください。このとおり。土下座します。額を地面に擦りつけます・・・おおっと私は間違えました。私は底なし沼にはまっていたのです。土下座などできるはずがありません。額をつけるべき地面がないのです。私は合掌します。手をあわせて祈ります。ひょっとしたらひざまずいているように見えるかもしれません。私をお救いください。南無アーメン陀仏。私の手を引いてください。おお私の手は汚れています。泥まみれです。このような手は触るのも嫌でしょうか。それではまず手を拭くタオルをください。タオルはお返しします。しかしタオルが汚れますね。にっちもさっちもいきません。私は助からないのでしょうか。たった一度の過ちで・・・ほんのわずかな隙を生じさせただけで・・・私も人間です。いやっ。私は豚でした。私は黒豚です。代用豚です。あるいは虫です。蛇です。蠍です。カメレオンです。イタチです。どんぐりです。ウジムシです。ミノムシです。ハエです。カです。タガメです。ミジンコです。ジャッカルです。ガチャガチャガチャガチャクツワムシです。ムカデです。ヘルペスです。もしかすると私は生き物ではないのです。私は古新聞です。ふんどしです。めくそです。はなくそです。炭水化物です。千円札です。くしゃくしゃのサランラップです。飲みさしのビールです。汚いジジイの入れ歯です。吐き気がするババアの触った羊羹です。日本海岸に流れ着いたプラスティックボトルです。ダイオキシンです。便器です――これでは便器を作っている人に失礼でした。もう駄目です。許しを請えば請うほど罪が深まっていくようです。どんどん沈んでいきます。もう足の付け根まで水面が来ています。私の陰嚢を水がヒタヒタと撫でています。気持ち悪いです。このままでは本当に頭の先まで沈んでしまいます。このまま私は沈んでいくのを待つしかできないのですか。あと何分かかるでしょうか。もうすぐです。ちょっとずつちょっとずつ水面が私の身体をのぼってきます。長い時間です。私は途中で発狂するでしょう。耐えられそうもありません。何かして時間を潰したいところですがなにもできる体勢ではありません。口を動かすくらいしかできません。気を紛らわすためにも喋っていようかと思います。私の半生について喋りましょうか。死ぬ前には誰しも自分の人生を振り返るそうです。私もそれに倣いたいのです。さて何から喋りましょう・・・・・・・・・
 駄目です。思い浮かびません。私に過去などあったのでしょうか。不安になってきました。せめて自分のこれまでの人生を道連れに死のうと覚悟を決めかけていたのです。ああ私の輝くべき半生! 私には未来がないのです。水面より上に突き出しているこの上半身分しか残っていないのです。未来は奪われました。未来が奪われると同時に過去も失ってしまったようです。そんなはずはないはずです。走馬灯のようにヨギルあれはどうしたのでしょう。走馬灯は作り物です。人間が作った製品です。過去は作り物です。フィクションです。私はフィクションなど作れません。私には事実だけです。嘘をついてはいけないと躾られてきました。だから私には過去がないのです。思ってもみませんでした。そういえば私はいつも前を向いて生きていたのです。前進あるのみでした。充実していました。一流企業に内定しました。私はこの国のためにバリバリやるつもりでした。それは事実です。フィクションではありません。真実です―――いや本当でしょうか。ひょっとしたら二流企業だったかもしれません。もしかすると自分が食べていくために残念ながら働くつもりだったかもしれません。どっちだったのでしょう。どっちだって構いません。かまわないのです。この調子です。これなら私にもフィクションができそうです。さあ私の輝かしい生い立ち!・・・・・・・・・・・・
 やっぱり駄目です。あるひとつのことしか思い浮かびません。そのことで頭の中が埋まっているのです。占領しています。それはごく最近のことなのです。私はそれより以前のことを思い出したいのです。昔のことから順序を追って――私の誕生。私の乳離れ。私の七五三。私の涙。私の入学式。私の運動会。私の喧嘩。私の遠足。私の初恋。私の初潮・・・いや私は男でした。フィクションも度が過ぎてはいけません。思い出せないのです。思い出したいのです。特に初恋のあのひと。彼女は顎が外れるほどかわいかったに違いありません。彼女とはどこで出会ったのでしょう。きっと教室です。彼女はクラスにいたのです。私の人生は学校に縛られていました。人生のほとんどすべてを学校で消化してきたのです。奇形的人生です。だから彼女と出会うとしたら教室だったはずです。彼女はクラスでいちばんぱっとしていました。クラスの大多数の男は彼女に好意を寄せていましたし他のクラスや他の学年にも彼女の噂は広がっていたのです。何十年にひとりの逸材です。男子校を経ている私の人生において知り合えた女性の数は人並み以下かもしれません。その人生を基準に考えてみましても彼女以上の女にはまだお目にかかれていません。彼女は何万人にひとり程度なのです――私の思考は統計学に毒されています。女性を誉めるにもそういう方法しか知らないのでしょうか。1位だとか。偏差値70だとか。私は学校に長く居すぎたのです。それともいつからか美しい女性を見かけなくなったせいかもしれません。私の身のまわりにはいないのです。不細工ばかりです。自分の醜さを自覚していないのではないかと思います。汚い顔をして平気な顔で闊歩しています。せめて人間はきれいにならなくてはならないでしょう。人間も便所も同じです。便所は不潔な場所として嫌われがちですが掃除を怠らなければきれいな便所になることができます。便所掃除をしたことがないのでしょうか。便所掃除を業者に委ねてカネで解決する学校もあるそうです。だからばばっちい女が増え・・・・・・・・・
 私は身分をわきまえず恐れ多くも説教じみたことを口走ってしまいました。ぐおっ。いま一瞬沈む速度が増加しました。臍が潜ってしまいました。ああやはり私は罰を受けなければならないのです。人生もせっぱ詰まってきましたなら頭の中も乱れてくるようです。先ほどから私は正道を踏み外しっぱなしです。それは私が泥沼に囚われているからではないでしょうか。早くここから開放されないと私の思考は不埒を極める一方です。それに私は女性に不満があったわけではないのです。誰しも美しいものを好むでしょう。にもかかわらず鏡を見ないような女が増えているのです。人間は自虐的になっています。平気の平左なのです。それとも私とはものの見方が異なっているだけでしょうか。美は普遍ではなかったのでしょうか。ただ余り抽象的なことをいっても始まりません。だから私は女性を見る基準のひとつとしてその人の小学校中学校時代がどうであったのか確かめることを提案してみたいのです。最新の流行に身を包んでスカして歩いているほっそりしたねーちゃんも学校の教室では馬鹿丸出しだったかもしれないのです。掃除が下手くそでいつも教室の隅にゴミを残していたかもしれないのです。字を書くとき机をなめるように頭を下げて鉛筆の先を凝視していたかもしれないのです。いやそれとも教室で恥をさらしていた女はいつまでたってもイケていないことが外見に表れてくるものでしょうか。三つ子の魂百まで。特に女は自分に執着します。パラノイアです。シンデレラはスキゾフレニーではありません。単に自分の不遇を嘆いているだけです。自分が見劣りしているのを学校のせいにするのと同じです。そういえばこの前初恋の人に会いました。十数年ぶりです。あいかわらずチャーミングでした。惚れなおしました。昔と変わっている点は少しだけです。髪の毛が優しい色に染まっています。おでこを見せています。頬の肉が少し減っています。化粧が上手です。スカートをはいていません。日に焼けていません。唇が刺身のようにつやを帯びています。お尻が踵よりもうしろへ出ています。そして驚くべきは胸です。胸の形がわかりにくい服装をしていたのですが隠し切れていないのです。つまりダウンジャケットを満月のようなおっぱいが裏側からぐいぐい押しあげて・・・・・・・・・・・・・・・
 ちち乳首――おおぉもはや水面が私の乳首を越えました。この無用の乳首。男の徒花。私には時間がありません。そろそろ私の過去を語らなくてはなりません。真実の過去を。これはフィクションです。紛れもない真実なのです。さっきから私の念頭を去らずこの泥の底なし沼と手を組んで私の思考を妨げているあの出来事です。私の少ないメモリーがこれによって侵食されているのです。早く処理しないといけません。最後まで語れるかどうか怪しくなってきているのです。そうです。これはまさに私が生れてはじめて犯した罪それ自体なのです。真実の罪の物語です。生れて初めての罪が私の晩年だったのです。貴重な記録です。サンプルです。私はこれをうまく物語ることで罪をいくらかでもあがなえるのではないかと甘い考え休むに似たりです。懺悔です。これで許されるはずです。だから物語ってフィクションをこしらえるのです。私は最初から知っていました。懺悔すれば罪が消えることを。知っていたからこそ寄り道をして無駄ばなしをしていたのです。私は狡知を使いました。正道を外れました。ある意味嘘をついたのです。私は演技をしていました。死に恐れおののく演技をしていました。私の演技は下手くそでした。私は嘘をつくのが苦手なのです。演技は見透かされていたでしょう。それも知っていました。気づかれている嘘は罪にはならないでしょう。しかも私は今改めて告白しているのです。私は周到です。私はずるがしこいのです――あまりいうとセルフリファレンシャルに陥り詭弁になってしまいます。とにかく私は自分の話を聞いてもらうことを企図していました。話に耳を傾けてもらいたい。これが本音です。いやうそです。私は罪を犯したのです。それを懺悔するのです。聞いてもらいたいのです。人に話を聞いてもらうのは嬉しいでしょう。気持ちいいでしょう。人の話を聞くのが上手な人は好かれるでしょう。私の身のまわりにはそういう人がほとんどいなかったのです。偽らざるところです。お耳を拝借します。それほど長くはかかりません。もう水面が顎の下に達しました・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 私は近々、引越しをする予定です。長い距離です。京都から千葉への引越しです。引越しは大変です。部屋探しがすでに男子一生の大仕事です。探すといっても最初からないのではしようがありません。はじめにインターネットで検索したのですが、よさそうな物件もいくつか引っかかってきますけれど、やはり実物を見なければ暗中模索です。時間が過ぎていきます。やがて私は本当にあるのかなという不安にとらわれました。私は無いものを探しているのではないかと。それは探すという行為に該当しないのではないか。ということは私は探しているようでいて実は探していない。虚無です。私はノイローゼになりかかりました。そこで不安を解消するために身体を動かすことにしました。上京したのです。学生の私は、卒業論文に追われていて、身体を裂かれるほど忙しかったのです。それを押して出かけていきました。幸運にもよい物件に出会いました。私が探していたのはこれだったのか、としばしの感慨にふけりました。しかしそれは一瞬のことです。もっと他にいい物件はあったのではないか。ここで妥協しないほうがいいのではないか。私にもっともふさわしい物件が私の知らないところで私を待っているのではないか――探すというのは一筋縄ではいかないものです。
 私は千葉での新しい生活を夢想しました。楽しい生活です。千葉は東京の隣です。東京はこの国の首都です。美人が集まっている場所です。ひょっとしたらテレビでしか見ることのできなかった、あのNHKのアナウンサーと出会うことができるかもしれない。出会ったらどうするのか。彼女は結婚しているかもしれない。不倫へ直行だ――空想がたたって、私の卒業論文は適当なものに成り果ててしまいました。
 新生活への期待を助長するものに、もうひとつ、この京都という街が挙げられるかもしれません。この罪深き街、京都。禄でもないところなのです。住んでいる人間が歪んでいるのです。山に囲まれているので視野が狭くなってしまうのです。それに夏はキチガイじみたほど暑くなり、冬は凍死するほど寒くなるのですが、こんなところに住んでいるせいで、人間が分裂するのです。京都人は顔はニコニコしていても心の中では何を考えているかわかりません。
 こんなことがありました。私の下宿の家主は、アパートのすぐ隣に大きな家を建てて住んでいたのですが、家賃は毎月手渡しで払いに行っていました。いつもは猜疑に満ちた眼差しで見てくる家主も、家賃をもらうときだけは笑顔をたやしません。玄関の隣の応接間で五万円を受け取ると、家主のばあさんは奥に姿を消しました。家賃を払うとき、毎月、ティッシュペーパーをもらえるのですが、それをばあさんは取りに行ったのです。私は床の間に飾られた掛け軸をぼんやり眺めていました。なんて書いてあるのかはわかりません。五文字らしいことはわかります。『天照大明神』でしょうか。ばあさんは現れました。立ち去ろう、と玄関に行くと、私の汚れたスニーカーに、小さな犬が頭を突っ込んで匂いをかいでいます。見知らぬ人間のにおいが珍しかったのでしょうか。もちろんアパートではペットは禁止です。ばあさんは靴を履こうとしている私を尻目に、犬に向かってこういいました。
「これこれ。およしなさい。頭を踏み潰されますよ」
私は耳を疑いました。ばあさんの声音はとても優しいままです。
(ばばあ、俺が子犬を踏み潰すような人間に見えるんかい)
私は内心、笑ってしまいました。京都人というのは、このばあさんに象徴されているように、笑顔で人を刺すのです・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 あっぷあっぷ。溺れそうです。私はまたしても無駄口をきいてしまいました。時間が迫っているのです。喋っていると酩酊してくるのです。酔うとつい悪口をいいたくなるものです。しかし京都の人はいい人ばかりです。家主のばあさんもたまたま私が敏感だっただけで人畜無害の人に違いありません。人のことより自分のことです。私はばあさんとくらべものにならないほどの重い罪を犯したのですから・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 私の部屋は2Kあるのですが、それなりに荷物が増えて (ちなみに引越し先も同じ広さです。荷物のせいで今より狭い部屋に越すことができず、探すのに苦労した原因のひとつがここにあります)、しかも京都から千葉という距離ですから、引越し業者に頼まなくてはなりません。
 どの業者がいいのかわかりません。私は部屋探しのときと同様、インターネットで当たってみました。『引越し』で検索です。すると、いちばん上に出てきたのが、引越しの見積もりサイトでした。そのサイトでは、自分の引越し条件を打ち込めば、いくつかある登録業者に情報を伝えて、各業者は、その条件なら自分はいくらの値段で出来る、という見積もりをユーザーにメールで返事をしてくれるのです。見積もりは無料です。私は早速データを打ち込みました。次の日メールの受信を確認すると、十数社から返信がありました。テレビでコマーシャルをしていないような、零細の業者ばかりです。青帽だけが聞いたことがあります。いちばん安いので六万五千円でした。仰天しました。これほど高いとは思いませんでした。しかし距離が距離ですから、しかたないのかもしれません。
 小さい業者でこの値段ですから、有名な業者はもっと値がはるでしょう。普通はそう考えます。しかし、価格競争に勝つのは、結局大企業です。流通業は構造改革の波に洗われていると聞きます。私は六万五千という数字を目安に、大手に声をかけてみることにしました。大手の引越し屋の見積もりは、実際に顧客の部屋に足を運んで行われるので、それで、私は大手を後まわしにしていたのです。私は決心して大手企業にアクセスしてみました。ダニさんマークの引越社とラード引越しセンターの二社でした。
 すぐに反応があったのはラードでした。電話がかかってきたのです。しばらくして忘れた頃に、ダニさんからも電話がありました。私は、午前にラード、午後にダニさんに来てもらうことにしました。
 その日の朝、電話で目が覚めました。ラードからの電話です。見積もりの時間の確認でした。向こうは昼の12時半ごろでいいか、といってきます。午前の約束でした。まあ、私は暇だったのでオーケーしました。
 ラードの営業の人はやってきました。私は前の晩から部屋の掃除をして待ち構えていました。暖房もきつめに焚いて粗相のないように心がけました。
 ラードは背広を着、名刺をくれました。後ろ髪が少し長くて、日に焼けた、やや男前の青年です。挨拶も適当に、見積もりは始まり、私は部屋を案内しました。
「このベッドはこの部屋のものです」
「このステレオは古いので捨てます」
 一通り確認すると、営業の人は床に腰をおろしました。
「膝が悪いので失礼します」
といって営業の人はあぐらをかきました。きっと、荷物を運びすぎて膝を悪くしてしまい、営業に回されてしまったのだろう、と私は衷心から同情しました。しかし、重い荷物を運ばずに済み、かえってラッキーだったかもしれません。ただし給料は減るでしょう。
 営業の人はちゃぶ台の上に電卓を置き盛んにボタンを叩きます。ボタンを打ち終わり、私にパンフレットを示しながら、
「トラックはこの多さのものになりまして、随員が二名、付かしていただきます。それか単身者の割引がつきまして、合計でこの金額になりますが」 電卓の表示が見えるようにしながら――八万五千円でした――「いかがでしょう」 私の返事を聞く前につづけて、「ただし、もし、いま、決めていただければ、さらにこの値段まで、下げさせていただきます」 と、液晶表示板には、七万五千の数字が浮かび上がりました。
 私は悩みました。やはり大手の業者のほうが高いのです。しかし零細の中でも同じような値段のところもあったし、けっこう適切な値段なのでは――。
「今すぐ決めないといけないんですよね」
私は沈黙を解消すべく、話の接ぎ穂を出してみました。つづけて、私はインターネットのサイトのことを紹介しました。相手はもちろん知っています。その見積もりでは、これよりも少し安かった、とまで言ってみました。
「でも、うちは大きな会社ですから・・・。安心もできますし」
 私は苦悩しました。また沈黙です。何が引っかかっているかというと、午後にダニさんが来ることなのです。私はそれを打ち明けました。
「そうですか。でしたら、待たれたほうがいいかもしれませんね。でも、この値段は、ちょっと他では考えられないと思いますよ」
 私は承諾することにしました。
「ありがとうございます。・・・それからひとつ、お願いしたいんですけれども、後からくる業者さん、がですね、もし、『断りの電話を入れておく』とか言っててもですね、信用しないで下さいね。こっちには連絡がこないままにですね、混乱することがよくあるんですよ」
 私はいまいち理解できなかったのですが、ちゃんと断りの返事をしておけばいいのだなと、解釈しておきました。
 ラードの営業の人はそのまま立ち去りました。ハンコも何も押しませんでした。
 私はしばらく迷ってから、ダニさんのほうに断りの電話を入れました。しかし電話の相手は明るい調子で、
「かまいませんよ。見積もりは無料ですし、お話をお聞きになるだけなっていただければ。これからもまた引越しなさるでしょうし、そのときの勉強にもなりますよ」
 私は断りきれなかった。営業の人は営業の人で仕事が入っていて、私が断れば、その人の仕事を奪うことになるのかな、と思いもしました。
 ダニさんマークの営業の人はやがて訪れました。こちらは背広ではなく、ジャンパーを着ていました。名刺もありません。
 私はうっかりラード引越しセンターの、おばけのQ太郎が表紙のパンフレットを、テーブルの上に置きっぱなしにしていました。私はそれをさりげなく眼の届かないところに隠しました。
 私はラードのときと同じように部屋を案内しました。二度目ですから手馴れたものです。ほとんど同じ反応が返ってきましたが、ひとつだけ違ったのは、胸の高さぐらいのビデオラックを、ダニさんのほうでは中身を入れたまま運ぶというのです。ラードは壊れるかもしれないので、ビデオテープは出しておけ、という話でした。ダニさんはひょっとして、粗雑なのかな、先入観を持ちました。でも、あとから考えれば、荷作りが省けて楽だったのです。
「どうです、このくらいのお荷物で、ムサシさんのところの単身パックでしたら、六万くらいでいけるのと違います?」
 そうか、その手があったか、と私は内心舌を打ちました。ムサシの単身パックはテレビのコマーシャルでやっていました。ムサシという企業は、アニメ映画のスポンサーになったり、NHKのドキュメンタリーで紹介されたり、行政改革の先陣を担ったり、とよい印象の企業だったのです。実家から届く小さな荷物も、いつもドラ猫の宅急便です。
「ええまあそうですね」
と私は曖昧に返事をしておきました。営業の人はちゃぶ台で電卓を叩きます。
「これでどうでしょうかね」
数字は八万を越えています。これは駄目だな、とほとんど断るつもりになりました。
「ところで、ラードさんのほうはどうでしたか。いくらくらいでしたか」
隠したつもりのパンフレットは見つかっていました。私は数字を言いました。
「そうですか。ラードさんにしては、がんばりましたね」
 私はついでにインターネットの最安値を打ち明けました。
「ということは、六万ぐらいで押さえたいと、いうことですね・・・・・・わっかりました。ちょっと会社のほうにトラックがあるかどうか、確認の電話を入れてみますので」 と携帯で電話をかけはじめた。しばらく独り言が続いたあと、電話が切られた。
「いまちょっと問い合わせていますので、三分ほどお待ちしていただけますか」
 私は一瞬、こんな男と三分もどうして時間を潰そう、と危惧したが、それは杞憂に終わった。営業の人はいろいろ説得をしはじめた。
「うちは営業担当者がいないんですよ。私も普段はこのトラックに乗ってるんです。営業専任の社員になると、自分では現場でやらないものだから、出来もしないことをうけがってしまうこともあるんですよ。タンスの中身は入れたままで運びますとか、営業の人が口約束していても、現場の人間が来て、できません、とかいうこともおおいんですよ」
 ということは、ラードのほうの営業の人は、営業専任で(膝も傷めていたし)、それで、あれほど焦って私の応諾を得ようとしていたのだろうか。
「よその業者では、下請け孫請けをたくさん抱えているんですよ。特に遠距離輸送になりますと、お客さんの家には会社のロゴ入りトラックで荷受に来まして・・・これはサカタさんとこの写真なんですが」 とトラックの写真を私に示します。「高速道路に上がる前に下請けの運送屋のトラックに積み替えて、また高速道路を降りたところで自分の会社のトラックに積み替えるというようなややこしい手順でお荷物を運んでいくんですよ。そうやって値引きするんですよ。嫌でしょう? 大事な家財道具がですよ、リレーされていくっていうのは。うちはもともと運送プロパーではないですから、引越し専門ではじめた会社なんですけどね、そういうコネがないんで、やりたくてもやれないというか、まあやらないほうがいいんですけどね」
 そういえば、ラードのほうでは、荷物を積んで、二日後に引越し先に届けられるという話になっていました。真ん中の一日を使って荷物の積み替えをやるのでは・・・。ダニさんのほうでは翌日届なのです。
「うちでは、もちろんアルバイトもいますけれど、採用するとき、全員の身元保証人を付けることにしているんですよ。まあ、これは普通の会社ではあたりまえのことなんですけれど。
「うちでは、もちろんアルバイトもいますけれど、採用するとき、全員の身元保証人を付けることにしているんですよ。まあ、これは普通の会社ではあたりまえのことなんですけれど」 営業の人は新聞記事の切抜きを示しました。その新聞は流通業界紙のようでした。「うちのことが記事になっているんですけど、こんなことが記事になるっていうことは、いかに他の会社がこういうことを疎かにしているかっていうことがよくわかるんですよ」
 私はかつて一度、引越しのバイトをしたことがあります。タンスなどに擦り傷をたくさんつけた覚えがあります。
「これは、一般のお客さんには見せないことになっているんですが、路線ごとの単価を図にしたものなんです」 私の路線に該当する数字が蛍光マーカーで塗られています。「ね、正規値段は21万なんですよ」
 もの凄いダンピングです。私は呆気にとられていました。引越し業界のことに詳しく慣れたような気がしました。そこへ携帯が鳴りました。私のではありません。
 営業の人は電話を切ると、私に微笑みかけました。
「いいトラックがありました。ちょうどその日にですね、関東のほうから京都まできているトラックがあるんですよ。そのトラックに荷物を載せて帰るということで安くできるんですよ。これでよろしければ、六万と消費税ということで、どうでしょうか」
 私がダニさんに惹かれる理由が当初からひとつありました。それは企業宣伝に起用されている毒島直子という女優でした。私は十代の頃、彼女の女性タレントとしての魅力が理解できませんでした。いつからか、テレビ画面で彼女を見ると、深呼吸したくなるようになりました。彼女が薦めるならこの会社でもいいかな、と漠然と考えていたくらいです。一方、ラード引越しセンターはアニメキャラの『土間衛門』をタイアップし、その国民的好印象を巧みに利用しようとしています。運送業などという、クルマを運転するだけでカネを儲けようとする、いかがわしい職業は、宣伝に力を入れる必要があります。私は、その宣伝効果にまんまと乗せられていたわけです。
 私はダニさんと契約することにしました。営業の人は、荷作り用のダンボール箱を大量に置いて帰りました。これは契約のハンコ代わりでしょう。
 私はむやみに疲れていました。たかが引越しの商談程度でこれほど疲れるとは・・・私は商売人にはなれそうもありません。
 その疲れた頭でラードにどのような断りの電話を入れればいいのか思案しました。
 そうです。
 これこそがまさに、私の犯した罪です。私は約束を破ったのです。
 私は罪に強迫されるように、断りの電話をダイヤルしました。
「はいもしもし、こちらはラード引越しセンター京都支社電話応対担当岡目福子と申しまあす」
 電話の主の声は私を嘲るかのように明朗でした。私は泣き声で約束破りの意思を伝えました。
「そうでございますかあ。それでは、また次の機会にはよろしくお願いしまあす。失礼しまあす」 電話は切れました。
 私は彼女がその無邪気な声の裏腹で私を呪っているだろうことが感じられました。しかたがありません。私は嘘をついたのです。私は裏切り者です。詐欺師です。大悪人です。ペテン師です。二枚舌です。ヤクザです。半端ものです。片輪です。朝令暮改です。日陰者です。街を歩けば礫をぶつけられても文句はいえません。しかし私は今とても爽快な気分です。ここに私の物語を終えることができるのです。お耳に届いたことだと思います。これは私の懺悔です。私は許されるのです。いやもう私は許されました。このけがれた物語を聞いてもらったのですから。私はまた正しい道に戻ることができたのです。私はお天道様の下を大手を振って歩くことができるのです。この悦びを生けとし生けるもの老若男女魑魅魍魎すべてに伝えたい気分です。天にも昇る気持ちです。そうです。私は浮き上がるのです。この泥沼から。未来少年コナンのように。水上に飛び出すのです・・・・・・・・・・・・
 ぶくぶくぶく。。。。。
 おかしいぞ。おい。苦しいぞ。何だこの苦しみは。どうしてだ。底なし沼っていうのはあくまで『罪の念にとらわれて後悔している俺の重苦しい心象の比喩』で実在しないんだぞ。こら。たとえ話なんだっていうのに。ぶくぶく。ぜえぜえ。それを真に受ける奴が・・・・・・あるかってんだ。ごぼごぼ。駄目だ・・・・・・沈む。助けて・・・・・・死ぬ・・・・・・

(彼は水面に立ち昇る自分の泡の息吹をうつろに見上げながら認識した――この底なし沼こそが、ここで唯一の現実であることを。自分は本当に底なし沼で溺れていたことを。
 薄れいく意識のうえに、すべてを思い出していった。ただ、どうして自分が底なし沼にはまってしまったのか。それだけがどうしても思い出せないのだった。)








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