動物は死んだら分解される。タンパク質は窒素とかリンとか水になってしまう。
 ここで正直なぼくは上記が正しい記述か悩む。タンパク質をアミノ酸に分解するのも微生物の仕事だったか。水じゃなくて水素の形で残るのではなかったか。あるいは炭素はどのような形だったか、二酸化炭素だったか。そんな細かいところは文学的に逃げてしまえばいいのではないか。例えば、補給路を断たれた前線が崩壊していくように、体の細胞は朽ちていく、とか。しかし、これは十分正確なメタファーではないし、もちろん文学的にも面白くない。いまのところ人間の身体を詳しく述べるには科学的な手法しかないが、ひょっとすると、文学の未開拓地はこのあたりにあるのではないか。まあ、科学と文学を対照的に定め置くことがふさわしいかどうか怪しい。工学の教科書でも面白いものは多分に文学的であったりする。
 とにかく、上のように悩んでいるぼくは理科系の学問を一段落修めたものであるからには恥を知らなければならないのか。学校の授業で習った記憶はあるのだが、授業の中身が思い出されない。
 ぼくはこの冒頭で、人間は火葬をする、ということについて、少し触れるつもりであった。久しぶりに筆を持つので回復祝いに景気よくいこうと、どう書こうか迷っているうちに、体が緊張し、目がくらみ、袋小路に立ち竦んでしまった。実は、死体を葬ることをせっかく書くのだから、「エントロピー」という単語を用いてみたい欲望に駆られたのだが、文脈を前にしてふと、どのようにこの単語を用いればよいのかわからなくなった。「エントロピーが増大する。」すなわち「死体が葬られる。」という論理は間違っていたかしら。以下は覚書のようなものだが、物質(?)が存在するとき、どの点に存在するかは、本来どの点についても同じ確率であるが、現実には偏っているので、どのくらい偏っているかを評価するために導入された数字がエントロピーで、それは物質が均一な方向に向かえば増大するものである、のではなかったか。(とりあえず文章にして頭を整理するのは大切ではないか。)
 素直に思いつくことから文字に直せば済むのに―――時間は節約しなければならないのだ―――ぼくは正直ではあるが、素直ではないらしい。
 行き詰まりついでにもうひとつ書いてしまうが、この稿は映画について述べるはずなのに、「ぼく」が主語に登場しすぎている。内省的というか自意識過剰というか、これも要するに「久しぶり」のせいではないか。
 さて(前の文との間に空白の一行を差し挟むべきだったかな、そっちのほうが読みやすかろうな、でもぼくはこのままでいいと思うけどな)、人間は死体を火で燃やす。燃やすだけでなく、北朝鮮みたいに土に埋めて更に洪水で流してしまうというのもあれば、死体をばらばらに解体してコンドルに食べさせる鳥葬というのもある。地域によってさまざまだが、死んでしまってうんともすんとも言わなくなってしまった肉体―――こじつけて対比的にいえば、人が作ったものであるという意味で、人工の物である肉体を自然に帰すという点ではどれも同じだろう。
 ここで問題にしたいのが、自然に帰ってしまうまでにかかる時間である。火葬は、火の勢いにもよろうが、速いし、鳥葬は土葬よりも速かろう。大体、競争は速いほうが勝つものである。人以外の普通の動物は野垂れ死ぬわけで、彼らは、もともと自然の一部だともいえるが、自然に帰るまでに時間がかかる。あるいは、もともと自然だから時間がかかっても平気なのだ。
 なぜ葬る方法に文化によって差異が生じるのかは、時間によるものではむしろないだろうけど、時間にこだわって考えると、火葬という現象には、人間の分裂病的傾向が現れているのではないか。

 ここで引用をひとつ。夏目漱石の『草枕』のラストシーン。たくさんの人間を同じ箱に詰め込んで、同じ場所へ運んで行き、人間の個性を踏みにじっていくものとして、汽車は文明を象徴している、という前段があったあと―――

 車掌が、ぴしゃりぴしゃりと戸を閉てながら、此方へ走って来る。一つ閉てる毎に、行く人と、送る人の距離は益遠くなる。やがて久一さんの車室の戸もぴしゃりとしまった。世界はもう二つに為った。老人は思わず窓側へ寄る。青年は窓から首を出す。

 これは分裂病を表現しているのではないか。世界が分裂してふたつになってしまうのである。
 分裂病は現代人特有の病気であるらしいが、夏目漱石は近代においてすでに将来文明人が分裂病に苦しむであろうことを予見していた。そりゃ、胃に穴も開くはずだ。

 ここでぴょんと飛躍するが、文明はある種ぜいたく品と見なせないだろうか。時間を早めたり、空間を狭くしたり、あるべきでないところに物を置いたり、つまりものごとを偏らせること―――エントロピーを逆行させること―――が贅沢なのではないか。
 で、贅沢を追求すれば、人間は分裂するのである。世界中の情報が、映像という贅沢な形で、居ながらにして、テレビやインターネットで、得ることができる。身体は家に居るが、眼は世界中を飛びまわっている。まさに、分裂している。
 それのどこが贅沢やねん。貧乏人は発想も貧しなってもて、贅沢を思いつかんのやろ。
 分裂は、分裂病というくらいで、病的なものである。病気は人間を苛む。病気は治さなくてはならない。その病の苦痛の中で、贅沢について考えを改めざるをえなかった。これは本当の贅沢ではない、あるいは、これが贅沢ならいらない、と。
 否定しておきながらこういうのもなんだが、この映画『贅沢な骨』は、火葬場のシーンに始まり、それを見て、この映画を作った人は、ぼくと同じようなことを考えているのだな、と思い、悔しいけれども、興味をひきつけられてしまった。贅沢な骨とは、火葬された骨のことであり、人間のことである。人間は神に選ばれたものとして特権意識をもち贅沢を満喫せよ、というメッセージでも込めているつもりかな。(しかしこの映画を見る前にぼくがイメージしていたのはこのようなものではなかったはずで、だが見終わったいまは、悔しいけれども、イメージを固定されてしまって、前の段階を思い出せない)
 火葬の次のシーンでは、麻生久美子が喉に魚の骨を刺して口をパクパクさせて苦しんでいる。それはウナギの骨であるという。(中国産が大量に輸入されている今はしらんが)ウナギは贅沢な魚である。
 そ、そういう意味だったのか。ぼくは深読みしすぎたのか。少し安心しつつ、火葬の場面はいったいなんなのだ、と映画の進行に期待する。そして、期待は裏切られなかった―――
 この映画は恋愛ドラマであり、特に三角関係の物語である。女ふたりと、男ひとり。
 はじめ、女がふたりいた。とても仲がいい。同じ部屋に同棲している(同義語反復)。若い女の子がふたり自立して暮らしている。二人は幸せでなければならないが、火葬シーンの後、彼女たちは幸せであるというのを説明するためいくつかシーンを費やすが、日常的な風景を用いられていて、説得力がある。そしてさりげなく物語が次の段階へ入る。つまり彼女たちの幸せな生活は、売春によって、経営されている。金がなくては生活ができない。
 麻生久美子が売春婦役を演じる。因みにぼくのいちばん好きな女優は麻生久美子である。良心が要求されるこの世の中においてとうぜん、もうひとりの女の子・サキコは、「その仕事、もうやめれば?」と、提議する。麻生久美子はこう答える。
「感じないから続けられるのよ、この仕事」
この発言で彼女たちの議論は終わる。
 感じようが、感じまいが、売春は、汚らしい男の体を、粘液で触らなくてはならないのに、いやにならないのか。
 サキコは黙って納得しているようだが、麻生久美子の真意は、感じるということは相手を愛するということである、あるいは、感じれば相手を愛してしまうので、数をこなさなくてはならない一介の売春婦として、大勢の相手を愛することは身が持たないということである。感じることと愛することの繋がり及び体力に関して、疑問はまだ発せられうる。
 ある日、麻生久美子はサキコのために服を買ってくる(心理学のことは知らないが、彼女は衝動買いのくせがあるらしい)。サキコはいったん袖を通すもそのワンピースを気にいらない。若干むかついた麻生久美子はそれを着て仕事に出かけていく。その日の客は、永瀬正敏だった。永瀬はハンバーグ弁当持参で、麻生久美子の食欲を満たす。彼女は永瀬で生まれてはじめて感じる。
 なぜ感じたのか。理由その一、ハンバーグで食欲と性欲を勘違いしたから。その二、サキコが袖を通した、サキコの残響が残っている服を着て臨んだから。
 理由その二は弱い、とすれば、麻生久美子はその後、件のワンピースを着ていなくても快感を得ていること(快感を得ていなければ、かように性交を繰り返すはずがない)が反証になるが、それはまあ、ワンピースがきっかけになったわけで、オルガスムスの神経回路がぽんと組み立てられたと考えてもよい。
 理由その三を無理やり考えれば、永瀬は実は天使であった、というのも想像されたが、天使が性の巧者たりうるのかという疑いが一般に生じうるし、それよりなにより、三角関係が崩壊した後、残念ながら永瀬は再び街中に現れて、現世に生きていることを宣言して終わってしまう。
 この映画では、キャラクターはそれぞれ、背景を持ち合わせていないほうがふさわしいように思う。ストーリーが厳密で、人物の造詣をこしらえて説得力を武装する必要がないからである。ストーリーなんか、抽象的なほうがいい。それにどうせ薄っぺらい背景しか持ちえないのだ。案の定、サキコは父親に若い愛人ができて家にいづらくなって更に誰かに強姦された経験があるらしくその誰かとはひょっとすると父親であるらしい、という無意味な設定である。永瀬こそ何者であるのかわからない、あるいは幻想・仮説であったとすればいいのに、まだ人ごみの中に紛れ込んでいる。登場人物は社会人でなければならないという強迫観念が感じられる。まあたしかに、生きられるはずのない、くだらないキャラクターを平気で登場させる、見るに耐えない映画もよくある。
 いずれにせよ、永瀬がふたりの生活に参入する。
 映画の構成の微妙なまずさとして、サキコの陰の部分(自殺念慮の持ち主であること)が、永瀬の登場のあとに提示される点が挙げられる。麻生久美子の陰と併記されるべきではなかったか。これは裏返せば、サキコの奥行きにそれほど執着がもてなかったためであるかもしれない。
 サキコは部外者永瀬を邪魔に思う素振りも見せず、性交に専念するあまりに麻生久美子が病院に迎えに来る約束をすっぽかしても怒らない。なぜか。飯を食わせてもらっている身分だから。サキコは、麻生久美子を含めて他人に深い興味を持てないから、つまりサキコは麻生久美子を愛していない。
 一方、麻生久美子はサキコを愛している。愛する人に性交の歓びを味わわせてやりたいために、男を連れ込む。本来なら麻生自身がサキコを誘惑すればいいのだが、女だからできない。だから男を使う。しかし女同士でも性交はできるらしい。この疑問は留保。
 すると永瀬はサキコを歓ばせるためのみに利用されているのか。愛する人を利用するとは不届きではないか。麻生は永瀬に感じたすなわち愛しているのではないのか。だからここで、上述の「感じないから続けられるのよ、この仕事」の意味がわからなくなる。―――しばらく考えたが思いつかない。詮索すれば、女性の観客に迎合するためのあまり重要ではないセリフであったか。それともぼくが女心を理解しないだけか。
 そしてついに、サキコが、長瀬が麻生の指示で自分を抱いたことを、知るという陳腐な形で、三角関係が崩壊する。ストーリーの原因は陳腐だが、見事だったのは、金魚を用いたことである。三人を象徴する三匹の金魚がミキサーの中で飼われていたが、麻生が妄想の中とはいえ、ミキサーのスイッチを入れて金魚をすりつぶしてしまう。麻生が喉に刺さった骨を気にして、終始口をパクパクさせていたのも、伏線としてすばらしい。ぼくはそれにぎりぎりまで気づかなかった。まさかスイッチは入れるまいという動物愛護の精神が映画鑑賞を邪魔してしまった。
 永瀬は少しく、三角関係を元に戻そうと努力するが、サキコの傷は深く、修復不能。やっぱり麻生がやるしかない。麻生はサキコに自分の首をしめさせることで強引に関係を修復、いや、永瀬登場以前よりも更に深いつながりを作り出す。別に首しめは罪の償いでもなかろうし、苦しみ喘ぐ麻生の口から金魚を出すというギャグ、つまり人間ポンプをやって欲しかった。
 この結論までの流れを見ると、永瀬は触媒であったかと考えざるを得ない。だからなおさら、永瀬はすぱっと消え去って欲しかった。確かに麻生の死の悲しみを描くためにも、もう一度登場させたくなる気持ちはわかるが、彼女の死は売春婦としてのリスクであったはずだ。それとも売春婦に対して偏見を持たせないためにも売春婦の死を突き放して描くことはできないのか。
 彼女たちの関係の清算としては、最後のどんでん返しのためとはいえ、麻生を殺してしまったからには、生き残ったサキコはひとりで生きていかなければならないのだよ、というメッセージに収斂してしまう。いや、これはメッセージを発する映画ではないのだ。ストーリーを語っているだけなのだ。その割りには湿っぽい演出であった。ストーリーを透明化する演出手法として傑出しているのは北野武の「あの夏いちばん静かな海」である。ああいう感じに演出ができれば・・・、いやできないか。
 さて、どんでん返しである。ぼくはこのどんでん返しにしばらく気づくことができなかった。夜、寝ていて、夢の中で気づき、激しい動悸とともに目が覚めた。
 ラストシーンで火葬場に戻り、麻生は燃やされ、サキコがひとりだけ、骨を拾う。サキコが拾い上げた骨が、喉仏であった。
 麻生久美子は、実は男だったのだ。
 いや、喉仏は、目立たないだけで、女にもあったのではないか。
 あるいは、喉に刺さった魚の骨が、贅沢なことに、喉仏に変化した。これによって、麻生久美子は男として、晴れてサキコを愛することができたのだ。

 最後にいくつかの演出について。
 いくつかの演出が気に食わなかった。麻生と永瀬が性交を終えたあと、一本のタバコを分けあって吸う。ぼくがタバコを吸わないからかもしれないが、意味ありげで鬱陶しい。
 永瀬の拍手。場違いである。
「君はきれいだ、汚くなんかない」「人はみんな汚くない」「ハンバーグおいしかったよ」「あたしどう?」などのセリフ。軽薄である。
 サキコは足を折っているのにがんばる。まっすぐに骨が繋がらない。
 ただし、これらの演出は、物語の中で、美意識を表明するポイントで、たしかに、紋切り型、とは違うかもしれないが、観客をすっとかわしてしまうより、美しい方法かもしれない。
 といっても、雷や、永瀬自身が歌っているレコードなど、それ以外の映画演出は面白いものばかりだった。






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