最終更新 2003/04/13 20:48:10
今までにも何度か、病院に縁があった。
小学生のとき、盲腸と食中毒で、あわせて二回入院した。
中一のとき、妹が交通事故で入院した。そんなにひどい事故ではなく、一週間程度で退院した。
中三の夏頃、父親が過労で入院し、三日で退院した。
まあ、病院に縁があると言っても、せいぜいその程度。俺には、入院したら必ず退院するものだという意識があった。
そして、今……。
「あ、お兄ちゃん」
ちょうど病院の入口をくぐったとき、その声は聞こえた。
「あれ? お前も来てたのか、涼子」
なにげなく俺がそう言うと、涼子は
「わたしはいつも来てますぅ」
と、口を尖らせた。
「お兄ちゃんも、もっと来てあげなきゃだめだよ」
涼子はすっかり足を止めてしまった。
「わかったから、早く塾行けよ」
これは説教モードに入るな、と思い、俺は先手を打った。
涼子は首を巡らして壁にかかった時計を見る。
「あ、急がなきゃ」
「おう。急げ急げ」
涼子はまだ言い足りないのだろう、不服そうな顔をして、
「とにかく、もっと来てあげてよ。かつきちゃん、かわいそうだよ」
と一気にまくしたてると玄関の外へと消えた。
「……忙しい奴だ。高校受験も近いってのに」
俺は呟くと、再び歩き出した。
『百瀬香月』
俺はネームプレートを確かめ、軽くドアを二回叩く。
「どうぞ」
中から明るい声が返る。
俺は左手をコートのポケットに入れたまま、右手でドアを開ける。
「おっす。今日も元気そうだな」
「あっ、たかちゃん!」
彼女は真っ白なベッドの上で、嬉しそうな笑顔を俺に向ける。
俺は左手を気にしながら、ドアを閉め、ベッドの方に向かう。
「よう。退屈してなかったか、香月?」
「うん。大丈夫だよ。この前たかちゃんに持ってきてもらった本があるから」
「……まだ読み終わってないのか?」
「ううん。もう五回ぐらい読んじゃった」
言って彼女は照れくさそうに笑う。漫画だったら舌でも出しそうな雰囲気だ。
「なら、言ってくれりゃ、別の本持ってきたのに」
「うん……じゃあ、今度持ってきて」
「どんなのがいい?」
「えーっとね……同じ作者の本がいいな」
「じゃあ、もう完結した三巻のシリーズがあるから、今度来るときはそれ持ってくるよ」
「うん。ところで、コート脱いだら?」
「あ……ああ、そうだな」
歯切れの悪い俺の答えに、彼女が首をかしげる。
「あのさ、香月」
「なに?」
「ほんとは来週にしたかったんだけど、後輩の練習試合に顔出さなきゃならなくなりそうで……」
言いながら、俺はポケットから左手を出す。その左手は、細長い包みをつかんでいる。
「え? なに?」
「プレゼント」
彼女は水色の包みを受け取ると、
「開けていい?」
と聞いた。
「ああ」
「……わぁ! ネックレスだ。きれい……」
手早く包みを開けた彼女は、手早く喜び、
「でも、どうしたの、急に……?」
すぐに疑問の表情を俺に向けた。
「忘れたのか? 来週の日曜がどんな日か」
「えーと……?」
「俺とお前が恋人になった日だよ。幼なじみからな……」
「え? あ……」
彼女はうつむき、顔を赤く染めた。
「ば、ばか……」
「ははは……」
予想通りの反応に、俺は笑う。照れ隠しもあったかもしれないが。
「もう……暑くなっちゃったじゃない。ねえ、窓開けてくれる?」
「ん? ああ……でも、いいのか?」
「うん。先生にも時々換気をしなさいって言われてるし」
「わかった」
俺は答えて、窓を開ける。
冷たい空気が流れ込み、頬を優しくなでる。
……やっぱり俺の頬も火照ってたみたいだな。
「ありがと、たかちゃん」
「ああ」
しばらく彼女は、ネックレスを着けたり外したり、眺めたりして楽しんでいた。
しかし、不意に彼女の顔が曇る。
「どうした?」
「うん……これ着けて、どこか行きたいなって……」
「行けるさ」
能天気に、俺は微笑む。
「誕生日にはそれにあう指輪買ってやるよ。それも着けて、京都にでも行こう」
「……なんで、京都なの?」
「別に意味はないけどさ」
「へんなのー」
「いいだろ、別に。京都って行ったことないんだよ。修学旅行は北海道だったしな」
「わたしは家族旅行で行ったことあるもんね」
「ちくしょー。ずっりーよなぁ……」
「なんでずるいのよー」
彼女が笑う。
俺も笑う。
そしてあっという間に時間は過ぎ……
「冷えてきたな。窓、閉めようか?」
「うん」
窓に向かう俺に、彼女が話しかける。
「ねえ、たかちゃん……」
「ん? なんだ?」
窓を閉め、鍵をかけながら俺は返事をする。
「わたし、ほんとに退院できるのかな?」
「え?」
その声に、俺は振り返る。
「なに言ってんだよ。大丈夫だろ?」
「だって、お父さんもお母さんも、先生も……具体的なことはなにも言ってくれないのよ……」
「それは……」
そういえば、俺も彼女がなんの病気なのか知らない。
俺は自分の能天気さに腹を立てた。
「……わざわざ言うほどのことじゃないんじゃないの?」
「わたしだって、もうすぐ十八よ。子供じゃないわ。……自分の身体のことだもん。ちゃんと知っているべきだと思わない?」
「あ、ああ……そうだな」
俺は、一歩彼女のベッドに近づいた。
「……最近ね、時々上手く身体が動かせないことがあるの……」
「…………」
「わたし、死にたくない……もっと生きてたいよ……」
「な、なに言ってんだよ」
「やっとたかちゃんと恋人同士になれたのに、たった一年でお別れなんて……そんなの……いや……」
一粒の涙が、彼女の頬を伝う。
彼女は真正面から俺を見つめる。
窓越しに入る夕陽のオレンジが、彼女の涙を染める。
俺も彼女から目を離さない。
いや、離せなかった。
「香月……」
俺はさらに一歩、彼女に近づいた。
『きれいだ』
純粋に、そう思った。
「たかちゃん……」
彼女が俺を呼び、身体を預けてくる。
俺は、強く彼女を抱きしめた。
彼女は深く俺の胸に顔をうずめた後、ゆっくりと顔を上げた。
そして、俺と彼女は唇を重ねた。
長いような、短いような時が過ぎ、俺たちは唇を離す。
再び、彼女は俺の胸に顔をうずめ、背中に腕を回す。
「……落ち着いたか?」
「……うん」
「…………」
「…………」
「大丈夫さ、きっと」
「……うん」
「入院生活が続いたから、ちょっとナーバスになってるだけだって」
「……うん」
「退院したらいっぱい遊びに行こうな」
「……うん」
「いっぱい旨いもん食おうな」
「……うん」
「いっぱいエッチもしような」
「……ばか」
そして彼女は顔を上げた。
「……もう、大丈夫。ありがと、たかちゃん」
「ああ」
ふと気がつけば、もう外は暗い。
ビルの谷間に沈みきろうとしている太陽が、夜の訪れを告げていた。
「……じゃあ、俺はそろそろ帰るわ」
「うん」
既に彼女は、いつもの笑顔に戻っていた。
「さっき言ったとおり、来週は来れないかもしんないけど……」
俺はコートを着ながら言う。
「うん。大丈夫だよ」
「そうだ。本、涼子にでも預けておこうか?」
「あ、うん」
「……じゃ、またな」
「……うん」
ドアを開け、振り返る。
寂しそうな笑顔。
小さい頃から、俺と別れるときはいつもこの表情だった。
彼女が小さく手を振る。
俺は、軽く手を上げてそれに応え、ドアを閉めた。
三日後、帰宅した俺を出迎えたのは顔を青白くした母親だった。
「……香月ちゃん……亡くなったって……」
俺は玄関に鞄を落とし、家を飛び出した。
病院に着いた俺を迎えたのは、香月の、放心した父親と、涙も枯れ果てた母親だった。
「昼頃、急に容体が悪化してね……」
彼女の父は静かにそう語った。
そのときの話の内容は、それしか覚えていない。
それ以外で覚えているのは、彼女のまるで眠っているかのような顔と、その空間に流れていた、妙な静けさだけだった。
そして、香月の誕生日。
俺は香月の家族の誘いを断わり、一人で墓参りに出かけた。
もう冬も間近と思わせるような、冷たい風が吹く。
日は既に傾きかけ、徐々に気温も下がってきている。
香月の――百瀬家の墓は、霊園の一角にひっそりと立っていた。
すぐ横に大きな木が立っている。今は葉もすっかり落ちてしまったその木も、しかし大地にしっかりと根を下ろし、立ち並ぶ墓石を見守っているかのように見える。
いくつもの花束が、山のように置かれている。彼女の家族や友人たちのものだろう。
俺も途中で買ってきた花を、無造作にその山に積み重ねた。
「……香月……」
彼女が死んでも、俺たちの生活は大して変わらなかった。
葬式の日に涙を流したクラスメートの女子たちも、特に仲の良かった数人を除いては、翌日からはごく普通に話したり笑ったりしていた。
入院が長かったせいもあるのだろうが、彼女がいなくてもなんの変哲もなく流れていく日々は、俺には虚ろに映って見えた。
「お兄ちゃん?」
「え?」
ぼーっとしていたところに突然かけられた声に驚き、俺は振り向いた。
「……涼子か」
「涼子か、じゃないわよ。いつまでここにいるつもり?」
「…………」
いつのまにか西の空は赤く染まっていた。
「……泣いてたの?」
涼子が俺の顔を覗き込みながら言う。
「……え?」
言われて初めて気がついた。
頬に冷たい感覚。
俺は、涼子に背を向けると、涙を拭った。
「……ちっ。嫌なとこ見られちまったな」
「……ううん。しょうがないよ。……お兄ちゃんの恋人だったんだもんね、かつきちゃん……」
「…………」
俺は木の根本に腰を下ろした。
「俺はもう少しここにいるよ。……お前は風邪引かないうちに帰れ」
しかし涼子は、俺と同じように腰を下ろすと言った。
「わたしも、ここにいる。かつきちゃんとお兄ちゃんのそばに」
しばらく、そうしていた。
徐々に空は暗さを増し、やがて夜が訪れた。
周りに民家がないため、この辺りはほとんど真っ暗だ。
「……お前は」
「え?」
ぽつりと呟いた俺の言葉に、涼子が反応する。
俺を見上げるが、暗さのため顔も良く見えない。
「お前はわかってたのか? 香月が……長くないって」
「……なんとなく、ね」
「だから、しつこく言ってたのか。もっと来てやれって……」
「……うん。でも、ほんとに死んじゃうなんて、思わなかった……思いたくなかった……」
「……俺は、そんなことなにも考えなかったよ。……考えることすら放棄してた」
幸いにも、風はほとんどやんでいた。
しかし、気温はさすがに低い。
寒いのか、涼子が身体を寄せてくる。
「……俺が、一番悲しいのは……香月が死んだこと、それ自体よりも、彼女に対してなにもしてやれなかったことなんだ……」
「そんなことないよ。お兄ちゃんと病院の入口で会った次の日、かつきちゃん、嬉しそうにネックレス見せてくれたもの。『たかちゃんがくれたんだー』って……」
「……そんなこと、あいつが生きてたらいくらでもしてやったさ。……そうじゃない……香月が、苦しんで、悩んでいたのにそれに対してなにもしてやれなかった……なにも気づいてやれなかった……それが、俺は悔しいんだよ」
「お兄ちゃん……」
不意に強い風が吹いた。枯れ木の枝が大きく揺れる。
「そろそろ帰るか」
「……うん」
俺は勢いをつけて立ち上がると、そのまま涼子の手を引いて立ち上がらせた。
「ねえ、お兄ちゃん?」
「ん?」
その帰り道、
「……かつきちゃんのこと、ずっと好き?」
涼子がいきなり、妙なことを聞いてきた。
「……ああ。これから俺がどうなるかはわからないけど、香月への想いはずっと変わらないだろうな……」
「そっか……ふふ」
遠い電灯に照らされた涼子の顔は、なぜかとても嬉しそうだ。
「あん? なにがおかしいんだよ?」
「ふふ……別に……。早く帰ろ、お兄ちゃん。きっとお母さん、夕飯用意して待ってるよ」
「ああ……」
変な奴だぜ。
出かかった言葉を飲み込み、なにげなく天を仰ぐ。
秋の澄んだ空気は、空に散らばる星の輝きを際立たせていた。
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