最終更新 2003/04/13 20:48:14
西暦二千年を過ぎた頃、世界中を仰天させる発表がなされた。人類の妊娠率、出産率が極端に低下している、というのだ。
二〇〇六年の新生児は、二〇〇五年のわずか六十パーセントだった。原因は不明。最後の審判が下された、というのが人気のある見解だった。
翌年も、その翌年も出産率は低下の一途を辿った。世界中が混乱に陥った。このまま人類は滅びるのか。人々は恐怖と混乱の中、日々を過ごしていた。ただでさえ人口が急激に減少しつつあるというのに、殺人や自殺が相次ぎ、その現象に拍車を掛けた。
そんな中、比較的新生児の多かった日本は混乱も少なく、数年経つうちになぜか普通の生活が戻っていた。
まるで、現実から目を背けるかのように。
「ただいま」嶋崎翔は靴を脱ぎながらそう言った。返事はない。しんとした空気の中、少年の歩く音だけが妙にはっきりと耳を突いた。
夕暮れの街外れ。小さなぼろアパートの二階に、翔の部屋はあった。父とふたり暮しだったが、ここ数日、父の姿を見かけたことはなかった。「また、あの女のところか」翔はさしたる感情も見せずにそう呟くと、学生鞄を机に置いた。
翔の両親は数ヶ月前に離婚していた。父はどこかの飲み屋の女の子に溺れているようで、週に一、二日しか帰ってこない。しかし、独身なのだから誰とつきあおうが勝手だし、生活費はちゃんと入れてるのだから別にとやかく言う必要はない、というのが翔の考えだった。
翔は学生服の上だけを脱ぎ、無造作に椅子に掛けると、台所に向かった。冷蔵庫を覗き込む。卵がひとつに、バターと牛乳。溜息をひとつ吐き、冷蔵庫の扉を閉めると、翔は再び入ってきたばかりの玄関に向かった。
そろそろ魚が安くなる時間だな。そう思いながら、スーパーの入り口をくぐる。徒歩で約十分という、そこそこ便利な位置にそのスーパーはあった。案の定、ちょうど値引きのシールが貼られるところだった。刺し身にするか焼き魚にするか迷ったが、赤身のマグロが旨そうだったので、刺し身をひとパックと、小さいサラダをひとつ買った。大人数なら野菜を買って自分で切った方が安くつくが、ひとりで食べるのなら、出来合いの物を買っても、大して損も得もない。
ちょうどスーパーを出たところで、遭いたくない顔に遭った。同じクラスの高田暁美の母親だ。向こうも良い顔はしていない。というより、向こうが一方的に嫌っているのだ。しかし、目が合ってしまったのでとりあえず頭は下げた。向こうも愛想笑いをして頭を下げる。最低限の義理。
先程まで暑かったのに、夜が近づくと急激に冷え始める。その空気の変容に秋を感じながら、翔は二階への階段を小走りで昇っていった。
顔を殴られる鈍い音の直後に、机が派手に倒れる音が重なる。「やっぱ、コイツ殴んねえと、一日が始まらねぇよな」殴った右手を軽く振りながら、加東芳孝が言った。男子の間に、品のない笑いが広がる。遠巻きにそれを見ている女子も、くすくすと笑っていた。
無言で起き上がり、倒れた机を起こそうとする翔の腹に、芳孝の蹴りが入る。身体を折り曲げて咳き込む翔の耳に、ちょうど教室に入ってきた教師の声が聞こえる。「席につけー。授業始めるぞ」
国語の担当教師、木月康之。今年で二十七の、まだ若い教師だ。このクラスの担任でもある。木月は、教室や翔の雰囲気から、ここでなにが行われていたか知っていたが、なにも言わなかった。面倒なことには関わりたくなかったし、下手にクラスに干渉しすぎれば、三人の教え子と関係を持っていることが明るみに出るかもしれない。彼は今の環境を手放すつもりはなかった。もしも問題が起こったら、こう言ってやればいい。「なにも知らなかった」と。
軽く咳き込みながらも、何事もなかったかのように自分の席につく翔に、高田暁美が哀れみとも怒りともつかない視線を向けていた。
金曜日。その日は風が強かった。土日の連休の予定を語り合いながら、部活のない生徒たちが下校していく。翔は、その雑音の波に揺られながら、ひとりで歩いていた。やがて、雑音は徐々に消え、聞こえるものは風と水と、遠くから聞こえてくる車の音だけになる。
通学路の途中に、小さな川がある。その川に架かった橋のちょうど真ん中で、翔は立ち止まった。後ろから呼び止められたためだ。
「……委員長」振り返った翔は呟く。
高田暁美がゆっくりとこちらに歩いてくる。翔のクラスの学級委員だ。前学期の途中、中途半端な時期に転入してきた翔に、なにかと親切にしてくれた。
「なにか、用?」充分に拒絶を含んだ声で、翔が問う。
「……あなた、どうしてなにをされても黙ってるの?」翔の目の前で立ち止まり、暁美が言った。
「別に……なにも言う必要がないから……」無気力にそう言う翔に、暁美が怒りの表情を向ける。「なんでよ! あれだけされてもなにも感じないって言うわけ?」
「それより、僕とは話さない方がいいよ。誰が見てるかわからないからね」翔は呟くような声でそう言うと、踵を返した。そのまま、歩き出す。
「ちょっと……!」翔を呼び止めようとする暁美。
翔は足を止め、上半身だけ後ろにひねると言った。「それに……君も僕のこと嫌いだろ?」そして、呆然と立ち尽くす暁美を置いて、早足でその場を去った。
否定できなかった。
暁美はぬるい風呂に浸かりながら、考えていた。
「嫌い……」声に出して呟く。「嫌い……なのかな?」自問。答えは既に出ている。しかし暁美は、その答えを認めたくなかった。
翔は、転入してきたときからクラスに馴染もうとしなかった。暁美は、単に人付き合いが下手なタイプなのだと判断し、いろいろと世話を焼いた。しかし、翔は常に他人と距離を置こうとしていた。自分からはなにも喋らないし、人になにか聞かれても、無気力に答えるだけだった。そして、自分のことはなにひとつ喋ろうとしなかった。
今の状況を見ると、前の学校でもいじめにあっていたのだろうか、と思う。しかし、「かわいそう」とは思うが、彼に対する怒りの方が強く込み上げてくる。たぶん、なにをされても黙ってされるままになっていることに対して。
暁美は、無性にイライラする心を落ち着かせようと、顔を上げた。すりガラス越しに、満月が輝いているのが見えた。
満月を背に、その男は地上を見下ろしていた。少し長めの黒髪を風になびかせている。その冷ややかな切れ長の瞳は、まるで感情というものを感じさせない。年の頃は見た感じ二十代半ば。白いロングジャケットが嫌味を感じさせない程度に良く似合っている。なかなかの美青年と言えた。
しかし、普通の青年と違う点がふたつ。ひとつは地上五十メートルほどの宙に浮いていること。もうひとつは背中に真っ白い翼を擁していることだ。翼といっても、ジャケットを突き破って背中から直接生えているわけではなく、淡い、光のような感じだ。それ自体が、白く柔らかい光を放っている。
天使。
そう呼ぶのが相応しいだろうか。頭にリングなどないし、顔はどう見ても東洋人であったが。
「……あいつにするか」青年はぽつりと呟くと、ゆっくりと地上に降りていった。
翔はなにかに導かれるかのように、ふらりと外に出た。夜中の二時。なにも用事はない。ただ、誰かに呼ばれたような気がした。
暫く歩くと、昼間の橋にたどり着いた。ふと顔を上げると、なにか白い物がゆっくりと降りてくる。すぐにそれを人だと認識したが、人が空から降りてくる道理はない。ロープなどを仕掛けられるような高い建造物も、この辺りにはなかった。
なんだ、あれは。
しかし翔が感じたのはそれだけだった。納得はいかないが、なぜか感情的にはその状況を受け入れていた。この青年に会うためにここに来た。それを、翔は一瞬のうちに悟っていたのだ。
そうして天使と人との面会は始まった。しかし、そこにいたのはそのふたりだけではなかった。少し離れたところから、ひとりの少女が彼らを見ていたのだ。そして、彼女の存在には、青年も少年も気づくことはなかった。
「嶋崎翔」青年が冷たい声でその名を呼んだ。「誰にも愛されぬ者よ」
少年は無言。青年の冷たい瞳と視線を合わせぬよう、下を向いていた。
青年は構わず続ける。「お前に仕事を与える」
「……仕事?」少年は少し上目遣いに、それでも青年の瞳を見ないようにして聞く。
「そうだ。お前には選ばれなかった者の魂を消してもらう。良い魂を育てるには、時々雑草を抜かねばならんのだ。もっとも、ここは手入れを怠ったせいで悪い魂が増えすぎたので廃棄処分にする予定らしいが……」
「……良くわからないけど、わかった」少年が言う。「仕事道具を」
「よし」青年が少年の額に手をかざすと、少年が一瞬、黒いもやに包まれた。そのもやは、すぐにふたつの形を取る。ひとつは黒い翼。青年の白い翼をそのまま黒くしたような感じである。そして、もうひとつは槍。こちらは淡い感じを受ける翼とは違い、冷たい鋭さを持った真っ黒な、鋭利な穂先を持った槍だ。
「収めよ」青年が命じ、少年は翼と槍を消す。「早速仕事に取り掛かってもらう。悪しき魂のリストは既に頭に入っているはずだ」
そして青年は淡い光に包まれたまま、来たときとは逆に、天に昇っていった。
翌朝。多くの人がベッドや布団の上で、死体となって発見された。心臓麻痺と考えられたが、その原因はわからなかった。その数は日本だけで数千人に昇った。世界中ではどれだけの数になるのか、見当もつかなかった。
その死者の中には、加東芳孝もいた。
週が明けて月曜日。体育館に全校生徒が集められ、黙祷が捧げられる。その間中、翔には暁美の冷たい視線が向けられていた。
そのころ、ある場所ではちょっとした騒ぎが起こっていた。
「どうやら仕事を与えるところを見られていたようだね」小太りの中年が、かの白いロングジャケットの青年に言う。中年のデスクの上は、様々な書類で埋まっていた。
「はあ。すみません」別段、悪びれた風もなく青年が答える。
「すみませんじゃないよ、まったく」中年がかいてもいない汗をハンカチで拭う。「とりあえず上からのお達しでは暫くの間自宅謹慎ということだから、くれぐれも頼むよ。ちゃんと反省文も書いてくれよ」
やる気のない返事をして青年が部屋を出ていくと、中年が溜息を吐いた。そしてひとり呟く。「どうせあいつのことだからこれ幸いと彼女連れ込んでよろしくやるんだろうなぁ。まったく、最近の若いもんは……」
放課後。誰も使用しない、国語準備室。ソファに深く腰掛けた木月の膝の上で、半裸の女生徒が甘い声を上げる。
谷崎裕子。木月の受け持つクラスの国語係だ。内気で小柄な少女。もともと読書好きだったが、音楽も好きで、去年は音楽係。今年は木月目当てで国語係になったらしい。眼鏡にコンプレックスを持っていたらしく、四月の半ばにはコンタクトに変えたが、様々な方面でフェチの木月が、眼鏡に戻させていた。
「ねぇ、先生……」疲れたように木月にもたれかかり、小振りの胸を上下させながら裕子が切り出した。
「ん? なんだ?」裕子の髪を撫でながら木月が問う。
「浩子さんとも、こういうこと、してるんでしょ?」少し、裕子の声は震えていた。「私になにか足りないところがあれば直します。先生が望むことならなんでもします。あ、あの……お、おくちでするのはまだ下手だけど、もっと練習します。だから……」
「だから?」
「だから……他の人とはしないで! 私には……先生しかいないの……私、他の人より可愛くないし、その、えっちも下手だけど……私、誰よりも先生が好きです。だから……」
木月は黙って裕子を抱きしめた。「あ……」裕子が思わず声を上げる。
そして、木月はなにかを言おうとした。裕子を安心させ、自分に繋ぎ止めておくための言葉を。木月は国語教師として、自分の言葉に自信を持っていた。ひと月くらいかけていろいろと開発して、彼女がライバル視しているらしい石村浩子と三人で楽しむのも面白いかもしれない。そんなことを考えながら、しかし木月は、なんの言葉も発することができなかった。
裕子が異変に気づき、木月の顔を覗き込む。呼吸も、まばたきもない。木月の胸に当てられた手には、鼓動が伝わってこない。そして、徐々に冷たくなっていく身体。
「え……?」裕子が呆然と呟いた。
しかし、木月は悪しき魂で谷崎は清き魂か。よくわからないな。
そんなことを考えながら、翔が帰路に就く。
その前に、ひとりの少女が立ちはだかった。高田暁美。沈みゆく太陽が、彼女の頬を染め上げる。
瞬間、暁美の身体が白い光に包まれたかと思うと、彼女の背には真っ白な翼が現れた。そして、その手には白い巨大な鎌。
「……刈る者、か」翔が呟くように言った。
「そうよ。雑草を抜き取るあなたとは逆に、充分に育った清い魂を刈り取る仕事。あなたは仕事が終わった後、私に刈られることになっているわ。もっとも、あなたは他の魂と違って回収はされないけど」
「……僕のリストにも昨日、君の名前がリストアップされたよ。お互い、最後の仕事ってわけだ」
しばしの沈黙の後、ふたりはそれぞれの仕事のために飛び去っていった。
世界中に、静かに恐怖が広がっていた。二〇〇六年のとき以上の恐怖である。人類滅亡。日増しに増加する死者に、ほとんどの人間がそれを確信するまでにさほど時間はかからなかった。
そして間もなく、すべての汚れた魂は払われ、清き魂は回収された。人類は滅びたのである。
誰もいない街の片隅。かつてその力を与えられた橋の上に、少年は立っていた。あれから既に季節は一巡し、再び秋がやってきていた。涼しい風に前髪を揺らしながら、少年は遠くを見つめる。その方向から、ひとりの少女が歩いてきた。
「……これが最後の仕事ね」少女はそう言うと白き翼と鎌を出した。少年は、黙ったまま黒き翼と槍を出す。
すっと少女が間合いを詰める。少年はふわりと浮き上がり鎌を避けた。そのまま身体をひねり、手にした槍を投げつける。少女はわずかに身体をずらして槍を躱した。すぐに少女は飛び上がり、大鎌を振りかぶる。少年はいつのまにか手にしていた槍で、鎌を受け流した。
「なんで……」少年が呟くように問う。
「え?」少女が攻撃の手を止めた。
「なんで、君は仕事を受けたんだ? 拒否することだって出来たはずなのに……」
「あなたは?」少年の質問には答えず、少女は逆に質問を返す。
「僕は……」しばし少年は考え込む。「僕には、それまでは生きている意味がなかったから……かな」自信なさげに、少年は答えた。
「それで……仕事をしてみて、あなたが生きている意味はあったの?」少女は冷たい声で問う。
「さあ……あまり、変わらないと思う」少年は落ち着いた、穏やかな声で言った。そして再び問う。「君は……」
「わからない……わからないわ。ただ、あなたが気に入らなくて、対抗心……みたいなものかな、そういうのがあったのは確かね」彼女はそう言いながら、なぜか心につかえていた物が取り払われたような心境だった。「そうよ。……私は、あなたが嫌い……」
「……そうか」少年は、面と向かって嫌いと言われながら、微笑みを浮かべていた。自分でも良くわからなかったが、なぜか清々しい気分だったのである。
そして、ふたりの戦いは再開された。
人類が消え、地球上は今まで不当に虐げられてきた動植物の物となった。様々な生物が、進化を遂げ、あるいは地球規模で起こった天災や、氷河期などによって滅びていった。地球上の主が何度か変わり、人類の痕跡は徐々に消えていった。しかし、人類に代わって文明を持つ生物は、現れなかった。
そして、既に人類が滅び去って十数億、あるいは二十数億年という時間が流れていた。そうは言っても、誰も記録するものなどいない。時間というものそれ自体、既に意味を失って久しい。
しかし、未だにふたりの天使の戦いは続いていた。光にも似た速さで繰り広げられるその戦いは、他のどの生物に知覚されることもなく、延々と続いていたのである。
一方が攻撃を繰り出せば、もう一方はそれを躱し、あるいは防ぎ、反撃に転じる。その繰り返し。疲れることもなく、ふたりは戦い続けた。もちろん、お互い相手を殺そうと思って戦っている。しかし、その戦いを知覚できる者がいたとすれば、彼らの戦いはままごとにも似たものに見えたことだろう。それほどに、その戦いは単調な攻防の繰り返しだったのである。
「所長」少女の面影を残した若い女が、部屋に入ってきた。若いとは言っても、スーツの着こなしはなかなかのものだった。見る者に有能そうな印象を与える。
「なんだ?」白いロングジャケットに身を包んだ青年が、書類から目を上げる。
「定時連絡に参りました。戦いは依然膠着状態が続いており、終息する様子は見受けられません」
「ごくろうさん」青年は、満足げに言った。
「あの、所長……」女が遠慮がちに切り出す。
「ん? どうした」
「委員会の方から、『地球』の廃棄はまだか、と催促が来ていますが……」
「催促……ね。催促じゃなくて、文句だろう」青年が不敵に笑う。「まあ、放っておけよ。あの決定を下したのは彼らなんだから」
あの決定、というのは、嶋崎翔に仕事を与えるところを目撃した高田暁美に、逆の仕事を与えたことだ。本来なら悪しき魂を消し去った後に、同じ者に清き魂を刈る仕事を与えるところを、「目撃された」ミスを埋めるために、無理矢理彼女にその仕事を与えてしまった。
「……本当なら、記憶を消すか、存在そのものを消すべきだった。しかし、それには様々な手続きが必要だ。その手間を惜しんだ……まあ、そのつけが回ってきたってところか」
そして青年は、愉快そうに笑った。
どれほどの時が流れたのか、もはやわからなくなったころ、ふたりはふいに戦いを止めた。
「ねえ……」少年が先に口を開いた。「……ん」少女が答える。何十億年ぶりだろうか、こうしてふたりが話し合うのは。
「僕たちはお互いを殺せるようにはなっていないんじゃないかな」前と変わらぬ姿、変わらぬ声で、少年が言った。
「え? どういうこと?」少女が首をかしげる。
「僕たちは自ら死ぬことはできない」少年が自らの槍を自分に刺す。が、黒き槍は少年の身体に触れる寸前にその実体を失う。まるで刃が引っ込む玩具のナイフのように。
少女が頷く。彼女たちは互いの武器でしか傷つくことはない。ふたりは戦いの中、それを悟っていた。壁にぶつかっても傷つかず、長時間水中にあっても溺れることはない。
恐らく、翼を持たない「人間」の状態であれば、傷つくことも可能だっただろう。しかし、人類滅亡と同時に、彼らは「人間」に戻れなくなっていた。
「つまりさ……僕らは、相手が死んだ時点で永遠の孤独を保証されるんだ」少年は落ち着いた声で言った。
「あ……」少女は、今、その事実を知ったように呟いた。しかし、彼女は本当は既に気づいていた。本当に相手を殺そうとしていたのに、実際にチャンスが訪れても、なぜか殺せなかった。言い知れぬ恐怖が、彼女を襲ったのである。その、恐怖の正体がこれだったのだ。
基本的にふたりは、天使になった時点で時が止まっているので、ほとんど変化というものを持たない。何億年も同じ戦いを続けているのもそのためだ。
ただ、ふたりとも漠然とした不安を抱き続けていた。永遠の孤独。そして、それをはっきりと意識したとき、彼らには既に戦意は残っていなかった。
「例のふたりが戦いをやめたそうです」女が事務的な口調で言った。
「……ああ」男が静かに答えた。
女が続ける。「委員会も廃棄処分を諦めたそうです」
「まあ、当然だな。すべての『仕事』が完了しなければ、廃棄できない決まりだからな」
「……あの、所長」遠慮がちに、女が尋ねる。「所長は、ひょっとしてこれが狙いだったんですか?」
青年はデスクの上で指を組んだ。「……と言うと?」
「所長の魂は、元々『地球』で回収された魂です。……その地球を廃棄処分にしないために、わざと高田暁美に姿を見せたんじゃないですか? もちろん、あなたは委員会があのような決定を下すことを読んでいらっしゃった。本来同時期にひとりしか存在しない『天使』がふたり存在する矛盾を解消するために、お互いを最後の仕事とさせることも……」
「……さてね。そんなことを詮索してどうする? 委員会に告発でもするのかい?」
「……いえ。証拠もないし、不確定要素もいくつかありますから。高田暁美が仕事を拒否することによって記憶を消される可能性。ふたりが戦いをやめず、どちらかが勝利する可能性……」
女が言葉を続けるさまを、青年は静かに見つめていた。
「それに……」
「それに?」
「私も『地球』出身なものですから」少女の顔で、彼女は微笑んだ。
「戦いをやめて、一緒に生きないか?」少年が言った。
「……私は、あなたが嫌いなのよ?」少女が静かだがはっきりとした口調で返す。「これからも、たぶんあなたを愛することは……ないわ」
「それでもいいよ。永遠の孤独よりは……」
少女は、長い沈黙の後に答えた。「そうね……」
それに。少女は心の中で付け加えた。私たちは完全に止まっているわけじゃない。今まで続いてきた戦いを今やめたように、これからもなにか変化があるかもしれない。
それは、単なる希望的観測に過ぎないのかもしれない。しかし、彼女には信じるに足る希望だった。なにしろ、時間はたっぷりあるのだから。
そしてふたりは、あのころとはすっかり様相の変わった地上に降り立った。
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