最終更新 2003/04/13 20:48:16
昔、いつのころだか忘れてしまったほど昔、わたしは両親と花火を見た。それはとても大きくて、音も凄くて、しかも火の粉が降りかかってきそうなほどに近かったから、綺麗というよりも「怖い」という感情の方が強かったような気がする。わたしは、なんとなく花火が苦手になった。
「まあ、それだけじゃないんだけどね……」
わたしはそう言って、パックの角に少しだけ残った牛乳を、ずずっとストローですすった。
「なにが?」
典子が、わたしのほうをじっと見て尋ねた。典子はとっくにパンもカフェオレも平らげてしまっていて、器用に畳まれたカフェオレのパックが入ったビニール袋を手で弄んでいる。
「言ってなかったっけ。わたし、火が苦手なのよ。小さいころ火事に遭ってさ」
「火事? 初耳よ。いつ?」
わたしは、典子のまねをして、牛乳のパックを畳んだ。わずかに残っていたミルクが吹き出して、アスファルトを汚した。
「まだ、幼稚園にも入ってないころだよ。まあ、見ての通り後に影響が残るようなことはなにもなかったんだけど……それで火が苦手になってね……」
「ふぅん……」
わたしは立ちくらみしないようにゆっくりと立ち上がり、コンビニの前に備えつけてあるごみ箱にごみを捨てた。わたしのほうがごみ箱寄りに座っていたから、典子から袋を受け取ってそれも捨てる。
「う〜ん」
典子は、そんなわたしを見て腕組みをしている。
「ん? なに?」
「いや、ね……すぐにごみが捨てられるのは便利だけど、ごみ箱の横で食事をするのはどうなのかなぁ、と思って」
典子が、真面目な顔で言う。
「あはは、そうだね。ジベタリアンはやめよっか」
わたしは両腕を高くあげて伸びをすると、遠くに見える海を眺めた。真夏の高い太陽に照らされて、水面がきらきらと輝いている。
「行こっか、スミ」
典子がスカートの後ろを叩きながら言った。
「うん。早く匠くんに会いたいもんね、典子は」
わたしはちょっと意地悪く言ったつもりだったのだけど、典子は、
「うん」
と、笑顔で普通に答えただけだった。
わたしたちは、ちょうどホームに入ってきた電車に滑り込むと、隣の沼沢駅に向かった。
わたしは新井純香。中学三年生。あだ名はスミ(もしくはスミちゃん)。
一緒にいる彼女は、相川典子。小学校からの親友。今は同じ市立笹苗中学のクラスメイト。
今日は暑いので海水浴……と行きたいところだけど、残念ながらそうじゃない。受験生のわたしたちは、塾の夏季講習を受けに、毎日電車に乗って隣駅まで通っているのだ。まあ、夏季講習じゃなくても週に三日、通っているのだけれど。
沼沢駅というのは、ここ沼沢市の中心にある駅。徒歩十分で海水浴場というロケーションなのに泳ぐことができないというのは、十四歳の少女にとっては拷問である。
……ま、別にいいんだけど。
ということで、自己紹介終わり(笑)。
典子の彼氏である村井匠くんとその友達の高瀬陽一くんは、いつものように沼沢駅前の喫茶店の窓際の席に座っていた。村井くんは駅から出てきたわたしたち(というか典子)に気づくと、手招きした。高瀬くんはその向こうで微笑んでいる。典子が腕時計をちらりと見て、
「行こ」
と言った。わたしはなにげなく、後ろの駅の時計を確認して、典子の後を追った。塾が始まる時間まで、まだ一時間ほどあった。
「よう、典子。今日は早かったんだな」
わたしたちが隣のテーブルにつくのを待って、村井くんが言った。
「うん。今日は部活が早く終わったから」
典子が嬉しそうに笑う。
典子と村井くんは、今年の三月から付き合っているらしい。もうすぐ半年になる。この間、塾がお盆休みに入る直前、朝の七時なんていう早い時間(その日は部活がなかったから、昼まで寝るつもりだったのに……)に呼び出されて、何事かと思って公園まで出てみれば、
「昨日のデートでキスした」
なんて、嬉しそうに報告。
そのときは、
「なんだ、まだだったのか」
なんて思ったものだけど、田舎の中学生なんて、まあ、そんなもんだよね(中には進んでる子もいるけど、さ)。
ちなみに、わたしに付き合ってる人はいないし、好きな男の子もいない。「お子さま」とか「遅れてる」とか言われることもあるけど、そういうの、まだよくわからないし……。
わたしはアイスレモンティーを、典子はアイスコーヒーを頼んだ。
典子と村井くんは、昨日見たテレビドラマや音楽番組の話で盛り上がっている。わたしは、レモンティーのストローに口をつけたまま、ぼんやりとその話を聞いていた。わたしもそのドラマは見ていたのだけれど、どうもわたしは、見たものや聞いたものを話題に転化するのが苦手らしい。いや、女の子だけのときはそうでもないから、単に自意識過剰なのかも。
わたしはふと隣の高瀬くんを見た。高瀬くんは相変わらず微笑んでいる。わたしは、思わず目を伏せた。……やっぱ、自意識過剰なのかなぁ。
高瀬くんは無口で、自分からはあまり話さない。だけど、人の話はちゃんと聞いていて、なにか聞かれればきちんと答えられる。いつもぼーっとしていて人の話を聞いてないわたしとは大違い。
「なあ、新井さんはどうするん?」
ふいに、村井くんが聞いていた。
「え? な、なにが?」
レモンティーをぼんやりと見つめながら考え事をしていたわたしは、弾かれたように村井くんを見た。慌てて置いたグラスの中で、氷がしゃりんと音を立てた。
「花火大会よ。今夜、海岸でやる」
典子が補足してくれた。「花火」という言葉を聞いてどきりとする。そう、今夜、隣の市の海岸で花火大会が行われるのだ。そんなに大きな大会じゃないんだけど。
「みんなで行かないかって」
典子が続けた。そうは言うけど、顔を見ればわかる。「みんなで」なんて言いながら、本当は村井くんとふたりで行きたいんだって。
だからわたしは、
「ふたりで行けばいいのに」
と言った。もちろん、花火が苦手だっていうのもあるんだけど。
「うん。それがいいよ」
高瀬くんが続けた。
後で、喫茶店を出て塾に向かう途中でこっそり聞いた。
「高瀬くんは、行かなくていいの? 花火大会」
そしたら、高瀬くんはいつもの優しい笑顔で、こっそり教えてくれた。
「あいつ、みんなといるときはあまり表に出さないけど、相川さんにべた惚れなんだ。僕とふたりだけのときはしょっちゅうのろけ話されてるよ」
わたしは、なんだかよくわからないけどとても嬉しくなって、そのときだけは珍しくおしゃべりになった。
塾が終わると、典子と村井くんはそそくさと帰っていった。遅い参戦なりに、いい場所を確保するために。
わたしは、四階の自習室で夏休みの宿題を少しやってから帰ることにした。この塾は四階建てのビルで、一階が受け付けと職員室、二階と三階が教室、そして四階が自習室となっている。冷房が程よく効いてるし、図書館の学習スペースみたいにひとつひとつの机が区切られているし、廊下に出ればジュースの自販機もあるので、わたしはかなり重宝していた。
しばらく数学の宿題をやっていると、高瀬くんが自習室に入ってきた。わたしに気づいて手を挙げる。わたしも、軽く手を振って応えた。
「隣、いいかな?」
高瀬くんが、わたしのそばにやってきて言う。わたしは、こくんと頷いた。
「高瀬くんも宿題?」
わたしは、辺りをはばかるように、小さな声で尋ねる。もっとも、今はあまり人がいない。みんな、花火大会に出払ってるのかな。
「うん。僕の部屋、冷房がないからさ、すずしいここでね」
「ふぅん、そうなんだ。わたしの部屋もクーラーないんだ。だから、家で勉強するときは(あまりしないんだけど)、居間でやるか、扇風機を部屋まで持っていってやるんだけど……」
「ああ、僕もそうだよ。まあ、どっちかって言うと、近所の図書館に行くことのほうが多いけど」
「え? 図書館って、市立図書館?」
「うん。僕の家、あっちのほうなんだ」
「ふぅん、図書館かぁ……それもいいかなぁ」
わたしは、顎に人指し指を当てて、少し考え込んだ。市立図書館までなら、自転車で二十分くらいだ。家の古いクーラーに頼るなら、往復四十分我慢してでも図書館に行ったほうが、勉強もはかどるかもしれない。
「じゃあ、今度一緒に勉強する?」
「ふぇ?」
高瀬くんの一言でわたしは一瞬で現実に引き戻され、そして、どきりと心臓が跳ねた。
わたしは、なぜか慌てて言った。
「……い、いや、やっぱりいいや。うちからだと結構かかるし……」
「そっか」
高瀬くんはそう言うと、鞄の中から問題集(高瀬くんの学校の宿題なのだろう)を取り出した。
「さ、おしゃべりはこのくらいにして、宿題やっちゃおうか」
一見、いつもと変わらない高瀬くんが、なぜかわたしには少し淋しそうに見えた。それは、気のせい? それとも……もしかして、わたしの願望、なのかな……?
しばらく無言で宿題を片付けていると、遠くから花火の音が聞こえてきた。わたしは、ちょっとびくっとしたけど、そのまま宿題を続けた。何人かの塾生が、浮足立ったように部屋を出ていった。方向の関係で、部屋の窓からは見えないためだ。
「新井さんは見ないの? 花火」
ふいに、高瀬くんが話しかけてきた。
「うん……花火、あまり好きじゃないんだ……」
わたしは、なぜか高瀬くんの顔が見られずに、難解な数学の問題に目を落としたまま言った。
「そっか……」
それだけぽつりと言って、高瀬くんは再び問題集に手をつけた。
廊下からは話し声や歓声が聞こえてくる。自習室の中は、それとは対称的に静かだった。
わたしと高瀬くんは、八時頃まで勉強して、一緒に塾を出た。
「……ねえ、ちょっと海岸の方、寄ってかない?」
高瀬くんが言った。
こんなふうに誘うのは初めてだった。なんでだろう、と思いながらも、わたしは頷いた。
「うん」
特に大した話題もなく、わたしたちは並んで海岸を歩く。遠くでは、花火大会が続いている。典子は八時半までと言っていたから、もう終わりも近いはずだ。
わたしはぼんやりとその花火を見ていた。この距離からだったら、単純に綺麗だと思えた。
「さっき、花火が好きじゃないって言ってたよね」
歩きながら、高瀬くんが聞いてきた。
「うん」
「それって、なにか理由でもあるの?」
「え……?」
わたしは、立ち止まって高瀬くんを見上げた(って言うほど身長差があるわけじゃないけど)。高瀬くんもわたしに合わせて立ち止まる。
「い、いや、言いたくないようなことなら、別にいいんだけどさ……」
「……ううん。そういうわけじゃないけど……なんで、そんなこと聞くの?」
別に聞かれるのが嫌だとか、そういうわけじゃない。高瀬くんがこういうふうに聞いてくるのが初めてだったから、わたしはちょっと戸惑っていた。
高瀬くんは、顔を背けるようにして、花火を見た。
「う〜ん、なんでかな。……気になるんだ、君のことが」
「え?」
どきんっ……と、胸が高鳴った。
「それって……?」
「正直、こういう気持ちになるのは初めてだからよくわからないんだけどさ……なんだか無性に知りたいんだ、君のことが……多分、好きなのかもしれない」
(う、うわぁ〜!)
わたしはびっくりして、言葉を失ってしまった。
「わ、わたし……その……」
わたしも、高瀬くんのこと、好きかもしれない。だけど、今答えを出すのは、早すぎるような気がした。
「いや、ごめん。唐突すぎたかな。……まあ、結論は急がなくていいからさ、ちょっとは考えてくれるかな、僕のこと」
高瀬くんは、照れくさそうに頬をかいた。
「う、うん……」
わたしは俯いて、それだけ言うのがやっとだった。
「とりあえず……」
「え?」
「今は、一緒に花火を見てくれないかな」
「……うん」
わたしたちは、並んで空を見上げた。
いよいよ大詰めらしく、派手な花火が無数に上がっている。わたしはどきどきしていたけど、それが花火のせいなのか、それとも隣にいる高瀬くんのせいなのかは、よくわからなかった。
でも……。
「次はもっと近くで見られるかな」
「え? なにか言った?」
「……ううん、なんでもない」
そんなふうに思わせた、夏の夜の遠い遠い花火。
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