Are you happy?

 

 忘れ物をしてきたと言って、サキには帰ってもらった。

 道をしばらく戻り、人気がなくなったところでピタリと足を止める。カバンの中をまさぐって、懐中電灯を取り出した。夕闇が迫る今の時刻、太陽はほとんどアテにならない。帰り道には街灯もない暗い場所が多いから万が一のために携帯しておいたのだが、本当に良かったと思う。

 ポケットの中にはペンライトが三本。これが唯の全ての武器。

 懐中電灯のスイッチを入れ、暗い道が光に照らされる。それを両手で構えて、唯はポツリと呟いた。

「出てきなさいよ」

 まるでその言葉を待っていたかのように、魔物たちが出てくる出てくる。家の屋根から。路地の角から。電信柱の陰から。正面と背後から。ぞろぞろと姿を現し、全員が唯に嘲笑にも似た笑みを向けてくる。

 数をざっと数えながら、唯は密かに冷や汗を流した。五十は下らない。思ったよりもずっと多い。

 これは少し、きついかもしれない。

 じっと汗ばむ両手。懐中電灯を握りなおしていると、頭上から不意に声がかかった。

『やあ、勇者』

 そちらを見上げ、唯は露骨に眉をしかめた。見覚えがある。七百年前に取り逃がした魔物の一人。魔王直属の配下、要するに幹部だった、拷問好きのジャック。

 魔王城で目にした彼の部屋が脳裏に蘇る。部屋を埋め尽くす拷問危惧の数々。唯の目の前で繰り広げられていた陰惨な光景。耳を覆いたくなる悲鳴、絶叫。床の血だまり。肉片。……それ以上は思い出したくもない。

 他の誰を逃がしてもこいつだけは逃がさない。そう誓ったにも関わらず、逃げられた相手。まさかこんなところで会うとは思わなかった。

「奇遇ね、ジャック。まさか生きていたとは思わなかったわ」

『おや、私の名前を憶えていてくれたのかい? 光栄だねぇ、勇者。また会えて嬉しいよ』

「わたしも嬉しいわ。――今度こそあなたを殺せる」

『そういう台詞は状況を見て言った方がいい。君を殺すため、集められるだけの魔族を集めてきたんだ。日が沈んだ後、君の力はどれだけ君を守ってくれるかな?』

 楽しそうに笑うジャック。確かに、五十人同時に相手というのはちょっとやったことがない。無傷というわけには到底いきそうにない。

 だが、それでも勝てない相手ではなかった。太陽がない代わり、空には月と星がある。現代では町の明かりもある。場所を考えて戦えば、十分以上にやり合える。

 こいつらは自分を侮っている。それが、唯が付け入る隙なのだ。

 と、ニヤニヤ笑っていたジャックが、ふと遠くを見て目を細めた。

『おやぁ〜? あれは何かなぁ?』

 罠。そう思いつつも、唯は目だけを動かして背後をチラリと見やる。

「なっ――」

 そして直後、ジャックのことすら忘れて駆け出した。

 生物には触れられないが物には触れられる魔物たち。刃物を持った彼らの一人が、十歳にも満たない少女に斬りかかろうとしていたのだ。魔物の姿が見えない女の子はきょとんとしている。背後に迫る刃に気づいた様子もない。

「逃げて!」

 間に合わない。無我夢中で女の子にそう叫び、

 

“それを聞いた女の子は、心底嬉しそうにニヤリと笑った”

 

 頭が白くなったのはほんの一瞬。だが、その一瞬が命取りとなった。

「あっ」

 懐中電灯を蹴り飛ばされ、泳いだ両手を二人がかりで捕まえられた。ブロック塀に叩きつけられ、全身に痛みが走る。涙が浮かんで視界の端で、先ほどの女の子がクスリと笑っていた。

 彼女も魔物――そう気づいたものの、遅すぎた。

 薄い笑みを浮かべながら、ジャックが近寄ってくる。

『いやはや、呆気ないものだったねぇ。さすが心優しい勇者どの。魔族とも気づかず駆け寄るとは、何と崇高にして愚かな精神』

 失笑と嘲笑。それに囲まれながら、しかし唯は身動き一つ取れない。

『こうなってはもはや君には何の力もない。たとえどこかから光が射したとしても、僕が君を殺す方が早いだろうさあ。絶体絶命ってやつだね』

「……っ」

 返事をするのも悔しいので、歯噛みしながら黙っている。と、ジャックは懐からナイフを取り出した。何をするのか、微かに不安に思いながらそれを見やると、

「な、ちょっと!」

「押さえてろ」

 ジャックの命令に唯を捕らえている魔物が反応し、手足を痛みすら感じる強さで押さえつけた。満足そうな笑みを浮かべながら、ジャックはナイフを唯の喉元に突きつける。

 このまま一突きに殺すとは、この男の性格上とても考えられることではなかった。

 そう思った瞬間、

『勇者様のストリップショー』

 楽しそうな声とともに、ナイフが一気に振り下ろされた。恐ろしく切れ味のいいナイフは下に着ていたシャツごと制服を切り裂き、唯の上半身が夜気に触れる。肌に残る微かな痛み。見下ろせば、切っ先が触れたのか、一筋の赤い血が流れていた。

『肌が白いねえ。それに触ったら柔らかくて気持ち良さそうだ。触ってもいい?』

「ふざけないで!」

 さすがにたまりかねて怒鳴るが、拘束されている身では何の迫力もない。ジャックは笑いながらナイフを弄び、言った。

『じゃあ仕方ないなぁ。目の方を先にしよう』

「……目?」

 まさか、とは思う。だが、相手がジャックでは――

『うん。目玉を抉り取らせてもらうよ。光を司る勇者から、永遠に光を奪ってあげようね』

「ちょ――」

『君の身体はその後でゆっくり楽しませてもらうよ。君を傷つけることで僕たちは力を取り戻すわけだから、君にはできるだけ苦しんでもらわないといけないからね。光のない世界で、絶望に溺れながら死ぬといい』

 言葉の合間にも、鋭利な切っ先は徐々に徐々に唯の目前へと迫り来る。

 おそらくわざとゆっくりやっているのだろう。唯により大きな恐怖を与えるために。

 悔しい。

 ――が、それ以上に怖かった。七百年前の前世とは違い、今の自分は“雛山唯”なのである。妙な力こそ持ってはいるが、苦痛も恐怖も、唯は人並みにしか知らない。ナイフを向けられるなど、当たり前だが経験したことがなかった。

 怖い。

 ギラリと光るナイフが怖い。あれで目を突き刺される。眼窩をぐちゃぐちゃにかき回されて、想像を絶する痛みが走る。光を失う。怖い、怖い、怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い――――

 迫る白刃から目を逸らすこともできず、唯は我知らず、言葉を漏らしていた。

「……ぃや」

『ん? 何だって?』

「……いや……許、して」

 その言葉を聞いたジャックは一瞬きょとんとしていたが、次の瞬間、弾けたように笑い出した。

『アハハハハハハハハハ! 命乞い? 勇者が、よりにもよって魔族に命乞い? 面白い芝居もあったものだねえ。君、いいよ。役者になれる』

 唯の肩をバンバン叩き、笑い転げながら、ジャックは涙目で唯に告げた。

『でも許さない。死ね。苦しみながら』

 絶望。

 恐怖。

 後悔。

 屈辱。

 それらがない交ぜとなり、肌に触れそうなほどに近づいたナイフが引き金となり、唯の口からとうとう抑えきれない悲鳴が漏れた。

「いや――」

 ジャックの口がニヤリと動き、次の瞬間、

 

 ナイフが、白刃が“消えた”

 

「……え?」

 目を白黒させているジャックを見るに、どうやら彼の演出というわけではないらしい。目尻に涙を浮かべながら、唯は助かったと安堵の息をついた。そしてジャックと同じように周囲を見回す。一体、誰の仕業だというのか。

 それを告げたのは、唯を捕らえていた二人の魔物だった。

『ま……』

 目が、声が震えていた。

 畏れ多い名を口にするように。

 信じられないものでも見るかのように。

 あるいは魔物という彼らの立場に当てはめるなら、審判に引き出された悪魔が、神の前に跪くように。彼らは唯の拘束を解き、一歩二歩と唯から――唯の頭上を見上げながら後退した。

『魔王陛下……』

 

 搾り出されたようなその声に、唯は己の頭上を見上げた。

「……あ」

「怪我はない……わけでもないみたいだね」

 いつの間にそこにいたのか。ブロック塀から飛び降りて、祐介は唯の隣に降り立った。自分の上着を唯に着せながら、開いた胸元に目を向けて一言。

「……凄く綺麗だ」

「なっ――」

 慌てて上着と制服を引き寄せるが、それを見て祐介は更に悦に入る。

「可愛い……その恥じらう仕草、表情、凄く可愛いよ……っ こんな状況でさえなければ、今すぐ襲いかかっちゃいたいくらいだ」

「こ、こんな状況でアンタは!?」

 殴り倒してやろうかと腕を振り上げるが、しかし、続けられた祐介の言葉に思わず手を止めた。

「でも、やっぱりダメだね」

「は?」

「凄く綺麗で可愛いけど、こんな痛々しい君は見たくない」

「な、何言って……」

「誰?」

 最後の問いかけは、唯に向けられたものではなかった。呆気にとられている魔物たち。彼らに向けて、微笑んだまま祐介は問うている。

「誰なの?」

『……誰、とは?』

 恐る恐る問い返してきたのは、さっきまで唯を拘束していた魔物だった。祐介は彼に目を向け、

「だからさ」

 柔和に細めていた目を、突如として見開いた。

 その瞬間、それまでも圧倒的であった気配が、更に爆発的に膨れ上がった。止まるところを知らないような凄まじい怒気が、一瞬にして場を支配する。唯でさえもが圧倒される中、地獄の底から響くような、それまで喋っていた彼とは思えない声で祐介が怒鳴った。

「僕の大切な人を傷つけた底なしの愚か者は、この中の誰かと聞いてるんだ!」

 場が震えるような大音に、それに続く静寂。

 魔物の目は自然、身動きさえできずにいるジャックに向いた。

「お前か、ジャック」

 魔物たちの視線を追った祐介は、静かにそう言った。迸る怒りを隠そうともしていない声。真正面からそれを受けたジャックは、返事をすることすらできずにいる。

「なるほどね、お前ならやりそうだ」

『ふ、ふ……フレディは……? 陛下のお迎えに――』

「下手な嘘を言うなよ、お前らしくもない。今更、それも人間として蘇った僕なんか邪魔だから、暗殺しようとしたんだろ? ちょっと痛めつけたら全部喋ってくれたよ。フレディが僕を足止めすると同時に、唯姉ちゃんを殺す計画だってこともね」

『か、彼は今どこに?』

「消えたよ。僕が消した」

 消したというのは、魔王特有の言い方だった。

 別に格好をつけているわけではなく、本当にそういう力なのだ。彼の魔王の力は、唯と同じくいまだに健在らしかった。

 絶句しているジャックに、魔物たちに、祐介は優しく告げる。

「いいことを教えてあげよう。僕はもう魔王じゃない」

 それは怯える子供を宥めるような。泣いている他人を慰めるような。

「僕はもう君たちの味方じゃない」

 倒れた人に手を差し伸べるような。貧しい人に恵むかのような。

「僕はもう、魔族じゃない」

 包み込むも突き放すも、全ては己の気分次第という、絶対的な優位に立つ者の言葉。

「だからもう、僕は君たちに容赦しない。唯姉ちゃんを殺そうとしたなら尚更だ」

 笑顔で告げられたそれは、殺戮の予言だった。

『……ぁ、うわぁぁあ!』

 その宣言と同時に、魔物たちは我先にと駆け出した。勇者一人には嘲笑を向けていた彼らが、魔王相手に蜘蛛の子を散らすような勢いで逃げていく。

 時間は、いつの間にか夜。

 闇の、魔王の支配する時間帯。

 逃げ延びる彼らを嘲りながら、祐介は一人、笑っていた。その場に縫い付けられたように動けないジャックを相手に。あるいは、あまりの変貌ぶりについていけない唯に。言う。

「死ねよ、皆死ね。魔物なんか全員死んじまえ」

 絶叫が上がる。

 闇が。

 夜が。

 本来は彼ら魔物の味方であった存在が、王の一言で牙を剥いた。

 絶え間ない、人間では唯と祐介しか聞こえない悲鳴が断続的に響いている。唯は目を固く瞑り、耳を塞ぎながらそれに耐える。楽団の演奏でも聞いているかのような、祐介の機嫌の良い鼻歌が聞こえる。

 やがて悲鳴が止み、静寂が再度訪れた。唯が目を開ければ、そこには祐介と、首だけとなったジャックが転がっていた。

『な……ぜ…こんな……こと、を』

 息も絶え絶えになりながら、それでもまだ生きているジャックは、そう祐介に問いかけていた。

 祐介は彼を見下ろしながら、淡々と返事を紡いだ。唯に背を向けているため、その表情は分からない。

「……嫌いだったんだよ」

『……』

「僕を魔王に祭り上げたお前ら。破壊しか許さなかったお前ら。ずっとずっと、ずっとずっとずっとずっと嫌いだった。大嫌いだった」

 ジャックの首に、足を乗せる。そんなことをされても、ジャックはまるで抵抗しない。

「ようやく恨みを晴らせると思うと、せいせいするよ」

 足に力をこめている。ジャックの顔が一瞬苦痛にゆがみ、次の瞬間、祐介の足が彼を踏み潰した。

「……気持ちいい。凄く」

 とてもそうは思えない声で、祐介は言い訳でもするかのように言っている。

「僕は今、幸せだ」

 背中をこちらに向けているから、祐介の顔は唯には見えない。

 それでも、その声を聞けば彼の表情は嫌でも察せられた。

 祐介は今、笑っている。

 乾いた笑みを浮かべて、空虚に口を歪めながら、この世で最も虚しい笑みを浮かべている。

 魔王だったあの頃は、毎日が苦痛だった。そう、祐介は切り出した。

「壊すことしか教えられなかった。楽しむことも悩むことも、僕には与えられなかった」

 壊せ、壊せ。ただ壊せ。それだけを繰り返し繰り返し教えられた魔王だった祐介はだから、壊すことでしか自分を表現することができなかった。

 誰か来てくれ。

 俺を助けてくれ。

 破壊と蹂躙を尽くした村や町で、最後に一人残っていつもそう叫んでいたと言う。

 そんな折に現れたのが、勇者だった唯なのだ。

 自分に壊されない人間。

 やっと来てくれた救いの手。

 敵同士ではあれど、唯の存在は祐介にとって、救い以外の何でもなかった。

「唯姉ちゃん、憶えてる? 最後の夜、二人して仰向けになって、星空見上げながら死んだこと」

 居間でテレビも見ず、夕飯も食べず、互いの顔を見ることもないままに話し合っていた二人。いつの間にか内容は昔の話になっていた。祐介の問いに、唯は頷く。

「憶えてる」

「僕はあのとき、幸せだった」

 そう言えば、そんなことを言っていた。

「僕の運命を壊してくれた人と、僕と正面から向き合ってくれた人と一緒に死ねたこと。そのことが、僕は何よりも嬉しかった」

「わたしにとってはえらい迷惑だったけどね」

 返した皮肉に、祐介は「そうだね」と苦笑する。

「今も僕がいたら、迷惑?」

「当たり前よ」

「出て行った方がいい?」

「……」

「唯姉ちゃんも、今は僕のことが怖い?」

 その問いに、唯は返事をすることができない。

 今日の戦いではっきりと分かった。自分は、前世より確実に弱くなっている。

 考えてみれば当然のことだった。身体能力も合わせて魔王と互角だった前世と違い、唯はずばぬけた運動能力も何も持っていない。対して祐介は、力は衰えているものの、元々能力を使って戦っていた身である。実力には何の衰えもない。

 自分ではもう、祐介は抑えられない。それが唯には嫌でも分かる。

「……昨日、僕が賀川祐介として、唯姉ちゃんが雛山唯として再会したとき。僕聞いたよね? 『今幸せか』って」

 唐突に、祐介は話題を変えた。

「そう言えば、そんなこと言ってたわね」

「この際だから言っちゃうけど、できるなら、僕が唯姉ちゃんを幸せにしたい」

「……」

 いきなり何を言い出すのかこの男。そう思いながら目を向けるが、祐介の顔は意外なほど真剣だった。

「冗談なんかじゃない。僕は前世で唯姉ちゃんに幸せをもらった。だから、今度は僕が唯姉ちゃんに幸せをあげる番だって……昨日は、そう思ったんだけど」

 だが、祐介の声は次第に自信なさげに小さくなっていく。

「……高笑いして、魔物を皆殺しにして。そんな奴にもらう幸せなんか、いかがわしくてとても受け取れないよね」

 一人寂しげに微笑んで、黙り込んでしまった。

 その通りと思う節も、ないわけでもない。

 しかし、彼が来てくれなければ自分は地獄の苦しみを味わわされていたことになる。それを考えると、あまり彼を責める気にもなれないのだった。魔物を皆殺しにしたのだって、普段から襲ってくる奴は殺してしまっている自分が文句をつけられる義理でもない。

 それに。

 彼はあのとき言った。自分の大切な人、と。

 それを聞いたときに、唯の中に残っていた抵抗は、木っ端微塵に打ち砕かれてしまった。魔王はもう敵ではない。と言うより、もはや魔王などという存在はどこにもいない。目の前にいる少年は魔王ではなく、賀川祐介という名の人間なのだ。

「チャンスをあげる」

 差し引きはゼロ。

 そう思った。祐介が顔を上げる。

「今後一切、もう二度とあんなことはしないこと。今日のあんたは魔王そのものだった。でも、今のあんたは賀川祐介でしょ? いつまでも魔王引きずってないの。これが一つ目」

「う、うん」

「二つ目。わたしを幸せにするだとか、自惚れるんじゃないの。まずはわたしに好かれることから始めなさい。無理だとは思うけど。いい?」

「ら、ラジャー」

「それじゃ三つ目」

 ゴクリ、と祐介が唾を飲みこんだ。それを見ながら、唯は口を開く。

「自分は幸せだなんて嘘を二度とつかないこと。幸せに対する侮辱よ」

 あのとき。

 ジャックに止めを刺したときに呟いた一言。自分は幸せだ。言い聞かせるような言葉。

 だが、誰かに言い聞かされる幸せなど、本当の意味での幸せであるはずがない。

 あんなことで幸せなどと思うことを、唯は許せなかった。

「分かった? 分かったら返事」

「は、はいっ」

 コクコク頷く祐介に微笑みかけて、唯は言った。

「これがクリアできたなら、そのときはあんたに幸せにされてあげる……ことを考えてもいいわ。まあ、せいぜい頑張りなさい」

「うん……うん」

 我ながら物凄い言い方だと思ったが、祐介は不満も何も口にしない。こうも素直になられるとかえって居心地が悪かった。唯は頬をポリポリとかきつつ、誤魔化すように話題を変えた。

「さて、と。それじゃ夕飯にしましょうか。今日はもう疲れたから、コンビニでお弁当でも買ってくるね。何がいい?」

「……」

「黙ってるならいらないと見なすわよ」

「……ありがとう」

 突如として言われた感謝の言葉に、昨日今日で頻繁に白くなっている唯の頭がまたもや白くなった。お弁当いらないと見なされるのがありがたいのか。そんな馬鹿な思考が頭をよぎる。

「お礼を言われるようなこと、わたしは何もしてないけど」

「うん。けど……ありがとう」

 祐介の声には、涙が混じっていた。唯は更なる居心地の悪さを感じる。感謝されているのにいたたまれなくなるというのは、不思議な現象だった。

 何と言っていいのか分からず、ひねくれた言い方をしてしまう。

「泣き虫」

「うん」

「もう、あんたのは適当に買ってくるからね」

「うん」

「……行ってきます」

 立ち上がったときに、ふと、祐介の顔が見えた。七百年前は絶対に見られなかったその表情。改めて感じる。こいつは本当に、魔王ではなくなった。力をそのまま受け継いでいても、中身は全然別のもの。自分と前世の方がよほど似ているくらいだ。

 返ってきた涙声に、これからは名前で呼んでやるかと、何となく思った。

「行ってらっしゃい」

 

 唯が出て行った後も、祐介はその表情を崩さない。

 泣きながら浮かべる、幸せそうな笑顔がそこにあった。

 翌日。

「ただいま」

「おかえり」

 帰ってきた両親を、唯は玄関で出迎えた。祐介はいない。じゃんけんの敗者は四人分の夕食を買いに行っている。

「叔父さん、どうだった?」

「いやー、元気そうだったよ。いきなり倒れたって言われたときは驚いたけど、もう何の問題もないみたいだ。むしろ俺より元気だよ」

「あはは」

「……あー、それでな、唯。祐介君のことなんだが」

 居もしない祐介の存在をはばかるように声をひそめて、父親は言ってきた。

「お前がどうしても嫌なら、今からでも父さん友達に頼んで、親戚に預かってもらうようにするぞ? どうする?」

 凄まじい剣幕で怒鳴り散らした唯の姿に、ずっと悩んでいたらしい。預かると言った手前、友達にも「やっぱりダメだ」とは言いにくいだろうに。悪いことしちゃったかな、と少し反省する。

「ううん。いいよ」

 唯は微笑みながら、首を横に振った。

「そうか?」

「うん。昨日話してみたら、あいつけっこう、面白い奴だったし」

 それに、と思う。

 昨夜三つの条件を彼に課したのだから、身近にいてやるのは最低限のルールだ。遠ざけてしまうのではさすがに祐介に分が悪い。せめて、クリアできる環境にはいさせてやらなければ。

「ならいいんだ。良かったよ、唯が頷いてくれて。友達にも言いづらいしな。でも、嫌な相手と家も学校も一緒じゃさすがになあ」

「……は? 学校?」

 自分は高校生で、祐介は確か中学生のはず。同じ学校とはどういう意味か。

「唯の高校、同じ敷地内に中学校もあるだろ。祐介君はあそこに通うことになってる」

「そうなの!? だってあいつ、昨日はそんなこと一言も……」

 ということは、これから毎日毎日、ヤツと通学路をともにするということだ。別に襲われはしないだろうが、ときどき妄言を吐くあの少年。何をされるか分かったものではない。

「……」

 やっぱり、多少は遠ざけておいた方が良かったかもしれない。

 何も知らない祐介が帰ってくるシルエットを確認しながら、唯は嘆息とともにそう思った。

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