a novice at wizard
| 森の中を、ひたすら歩く。 弟子として旅に出てから二日目。先行するクロの背中を見つめながら、エルはひたすらに歩を進めていた。修行らしいことはほとんど何もやっていない。ただ昨夜は、クロから魔法について簡単な講義を受けた。 クロの講義はなかなか面白い。彼自身は無愛想に淡々と話していて、とても話し上手には見えないのに。こう言っては何だが、それだけ話の内容が面白いということだ。ちなみに昨夜は魔法の種類をいくつか教えてもらった。 まず魔法というのは、大体自然現象である場合が多い。と言うか、自然現象の中にたまたまリングで捕れるものがあって、それを人は魔法と呼んでいるのだ。そしてその中でも、いくつかの種類に分類される。 エルの持つ唯一の魔法である風は、扱い易く比較的捕り易いが、威力がない。 逆にクロの雷撃――つまり雷は、威力は滅茶苦茶高いが扱いにくく捕りにくい。何しろ雷は一瞬だ。予知能力でもなければ、リングに封じることは出来ない。 ではどうするのかと言うと……ただひたすら、待つ。町にある避雷針の先っちょにリングを縛り付けておいて、後はそこに雷が落ちるのを待つのだそうだ。それも、魔法である雷が。 もちろん、その町に居座って雷が落ちるのを待っていたら、人生三回くらいは余裕で過ぎてしまう。だから縛り付けたら一旦それは放っておき、町の誰かに連絡をしてもらうのだ。雷が落ちた、と。それを、行く先々で繰り返す。 それでも、雷の魔法を捕れる奴はそう多くないとクロは語る。そりゃそうだろう。雷自体の発生率が低いのだから。 魔法の多くはエセ自然現象であるが、中には例外もある。どう考えても自然現象ではない魔法――数はとんでもなく少ないが、そういうものが確かに存在するのだ。魔法使いはそれらを『亜種』もしくは『突然変異種』などと呼んでいる。例えば、世の中には空を飛ぶ魔法というものがあるが、あれは典型的な突然変異種である。 そんなことを一通り聞いてから、エルは初めての野宿をした。 地面では寝られないのではないかと思ったのだが、そうでもなかった。下に布を引いて、毛布にくるまってリュックを枕にして。ただそれだけだというのに。人間、寝ようと思えば案外どこでも寝られるものらしい。クロが言うには、「疲れていれば眠れるのは当然だ」とのことだったが。 二人とも眠ってしまったら危ないとも思った。が、そう言うとクロは呆れた顔をして「俺は今まで一人で旅をしてたんだぞ?」と返してきた。言われてみれば確かにそうである。 夜は魔法に番をさせるのだった。クロの三つ目の魔法『警報』 まさしくそのままの意味で、一定範囲内に第三者が入ると凄まじい音を発するらしい。 そして夜が明け、支度もそこそこに出発した。予定では今日の夕方頃には次の町に着くと言う。だが、その前にエルには聞いておきたいことがあった。 「ねえ、クロ」 「何だ?」 クロは歩きながら振り向く。 「わたし達ってどこかへ向かってるの? それとも、あっちこっちをふらふらしてるだけ?」 旅の目的というものを、エルはまだ聞いていなかった。あるのなら知っておきたい。 「いや……そういう時もあるだろうが、今は違う」 「じゃあ、どこかへ向かってるんだ。どこ?」 「俺の知り合いの墓」 口調を全く変えることなく、クロは言った。 「…………へ?」 「元々俺は墓参りに行く途中だったんだ。命日が近いんでな」 「そ、そうなんだ……えーっと、その――」 何と言っていいのか解らなかった。ひょっとして、あまりしてはいけない質問だっただろうか。そうエルが戸惑っていると、 「別に気にしなくていい。そいつが死んで、もう五年になるしな」 「ふーん……その知り合いって、友達?」 何となくそう聞いてしまってから、しまったと思った。これではさっきの質問より尚悪いではないか。一体、自分は何を考えているのだろう。 案の定、クロは半ば呆れたような目で睨んできた。 「そういうこと聞くのかよ?」 「ご、ごめん……なさい」 「もういい……よし。ここらへんだな」 呟いて、クロは立ち止まった。軽く俯いていた顔を上げると、道のすぐ脇に開けた場所と、崖があった。何がここらへんなのかと思っていると、クロはさっさとその場所に向かって行った。当然、道を外れている。 「ちょ、ちょっと。どこ行くの?」 「修行だよ」 「は?」 「だから、魔法使いの修行だ。これは町じゃやりにくいからここみたいな場所でやる」 「で、でも。町に着けないんじゃ――」 「これをやる時間もちゃんと計算に入れてる。いいから来い」 ほとんど命令口調だったが、それは大して気にならなかった。むしろ、心が踊る。いよいよ魔法使いになるための第一歩を踏み出すのだ。 エルがリュックを置くのを待って、クロは口を開いた。 「それじゃ始める……その前に、これくらいの石をできるだけ集めろ」 エルが見せられたのは、大きいビー玉ほどの小石だった。 「? 何に使うの?」 「後で言う。集めた石はここに置くこと」 自分の足元を指す。待っている間に何個か集めたらしく、そこには既に数個石が置いてあった。 「どれくらい?」 「そうだな……とりあえず、百個くらいあれば十分だ。集めたのをまた拾えばいいし」 「そんなにたくさん? 本当に何に使うのよ、そんなの」 「だから、後で言うって言ってるだろ。とりあえず集めろ」 有無を言わさぬ強い口調。エルは渋々ながらも、石を拾いにその場を歩き回った。 ――そして三十分後。なんとか石の小山はできあがった。 「これで何するの?」 「ん? ちょっとそこどけ」 内容はまだ言わずに、クロは靴のかかとで地面に線を引いた。次いで崖に向かい、どこからかチョークを取り出して岩壁に直径三十センチほどの円を描く。それを指で示して、 「その線からこれが見えるか?」 「うん、見える。そろそろ教えてよ。何するの?」 たまりかねてそう聞いた。するとクロはおもむろに円から離れ、 「その線から、この円に向かって石を投げろ」 「……は? 一体――」 「リングを投げる練習さ」 その場に腰を下ろして、説明してくる。 「リングが魔法を封印する道具だってことは知ってるよな?」 「う、うん」 「ちょっと魔法を出してみろ」 わけが解らない。が、一応クロはプロなのだ。何か言いたいことがあるのだろう。困惑しながらも、エルは呪文を口にした。 「風の騎兵」 ちらっと目に入ったクロの表情は、なぜか厳しいものだった。何か、この呪文に気がかりでもあるのだろうか。 「――!」 ひょっとして……ひょっとしてだが、クロと十年前の彼は知り合いなのではないだろうか。考えられないことではない。クロがテストの時油断したのも、知人の呪文であるはずの言葉を自分が使っていたからなのでは――そう考えれば、筋が通る。エルがそう思ったのと同時、 「……って、あー! く、クロ、避けて!」 封印を解かれた風の魔法は、クロという攻撃目標を一瞬遅れて発見した。彼に殺到していくのが舞い上がる砂埃で解る。 「……ふん」 クロはつまらなそうに鼻を鳴らし、慌てず騒がずに手を上げ、 「炎牢」 そう唱えた。 次の瞬間には、エルの魔法は青い光の檻に捕らわれていた。それは空中に浮遊しながら、ゆっくりと漂うように動いている。 「その程度の魔法、俺にとっちゃ何でもないんだよ」 偉そうに言うクロ。エルは半眼になり、ボソッと呟いた。 「テストの時はそれに負けたくせに……」 「で、エル。それに近寄ってお前の魔法をよく見てみろ――近づく分には大丈夫だけど、触るなよ。火傷じゃ済まないからな」 どうやらこの話題で何を言われても、無視することにしたらしかった。 火傷では済まない……と言うことは、この檻は炎や熱の系統に属する魔法なのだろう。見た目はそうは見えないが。 触らないよう注意しながら、近寄ってしげしげと眺める。 「魔法を捕まえる魔法かー……クロ、便利なもの持ってるんだね」 「別に魔法だけじゃなくて、人間も動物も捕まえられるぞ」 「へ? でもこれ、触ると火傷するんでしょ? ……拷問するの?」 思わずそう漏らした。エルの脳裏に、この檻に閉じ込められて焼かれ死ぬ人間の姿が浮かぶ。そして、それを近くで嘲笑いながら見ているクロ…… 「んなことするか! 中にいる分には平気なんだよ! その魔法は、外側からは絶対に手出しできない牢屋みたいなものなんだ!」 「……それを知ってるってことは、実験したんだ……」 ボソリと呟くと、クロが「うっ……」と詰まった。恐ろしいことに、図星だったらしい。 「……まあ、先に突っかかって来たのは向こうだし、焼け死ぬ前に助けてはやるけど、ちょっと懲らしめるのもいいかと思って……実際に使ってみなきゃ、どんな魔法か解らないし」 弁解じみたことをぶつぶつと言っている。わずかに恐怖を感じながらも、エルは気を取り直して聞いた。 「それで、これが何なの?」 「ん? ああ、その中のお前の魔法を見てみろ」 言われた通り見てみる。が…… 「何も見えないよ」 風なんだから、当たり前と言えば当たり前だ。だが、クロは構わずに言ってきた。 「もっとよく見てみろ」 「わたしの魔法は風だよ? 見えるわけ――」 「いいから」 クロはプロの魔法使い。きっと何か考えがあるはず……自分にそう言い聞かせながら、エルはもう一度言われた通りに目をこらした。 「やっぱり何も……?」 そう口にしかけたところで、気付いた。 昼間なので解りにくいが、微かに何かが光っていた。と言うか、光そのものだ。炎とも雷とも、エルが見たことのある光のどれとも異なっている。 「その光は、魔法の核だ」 エルが見えたと察したのか、クロが言ってきた。 「核?」 「心臓みたいなもんだと思えばいい。魔法を捕るには、その核の中にリングを入れればいいんだ。まあ、安物のリングだと魔法の力に負けて壊れる時があるが」 「へぇ……で、これが何なの?」 「核の中にリングを入れるって言っても、簡単じゃないのは解るな?」 「うん」 その理由は二つある。 まず一つが、魔法というのが本当に偶発的であること。予測がまるで不可能だから、魔法そのものがまず発見しにくい。 ちなみに今クロが使用している炎の牢屋は、彼が昨夜言った突然変異種の一つだろう。こんなものは本当にレア中のレアである。それだけではない。近づくと音が鳴るというのも自然現象ではありえないから、あれも突然変異種。よくよく見ると、クロはレアな魔法ばかり持っているのだった。 二つ目の理由は、多くの魔法が破壊力を伴っているからである。音を鳴らすだけなら耳栓でもしておけば全く問題ない。だが、例えば燃え盛っている炎などが相手となると相当危険である。下手に近づくと命も失いかねないし、かと言って雷のように偶発的なものを狙う方法も使えない。炎は避雷針という一点を狙っては来ないからだ。 そこらへんは、少し考えれば誰にでも解ることである。エルも別に本で読んだわけではない。ただ、難しいんだろうなと思っていただけだった。 頷いたエルに、クロは講義を続ける。 「不用意に近づいたら危険なんて魔法はいくらでもある。その牢屋がいい例だ。離れている分には問題ないが、触ったりしたらアウト。でも、核にリングを入れなければ魔法は捕れない。さて……お前ならどうする?」 突然そう聞かれ、エルは焦った。近づけないということはつまり、離れて核に入れる方法が必要だということだ。その方法は―― 「と、遠くから投げる……?」 自信のない声で言った。遠くから投げて都合よく核に入るはずがない。自分でも間違いだと思った。が、 「正解」 「合ってるの!?」 思わずそう聞いてしまった。クロは、何でもないような顔をしている。 「ああ。それが一番いいやり方だからな。まあ、宝石を撃つ銃を使ってとりあえず封印して、後からリングにしてもらうって手もあるが……その銃はかなり高いんだ。それに、リングを投げられない魔法使いってのも聞いたことがないし」 何だか嫌な予感がした。まるで的のように描かれた岩壁の円。地面の線は、前に立ったらちょうど円の正面を向くように引かれている。小山ができるほどに集められた石は、指につけている指輪と同じくらいの大きさのように思えなくもない。 そして、エルの予感を裏付けるかのようにクロは言った。 「まずはリングを投げる練習だ。その線からこの的に向かって石を投げろ。速さはなくてもいいから、とにかく正確に。出発までには三時間くらいあるから、休憩を挟みながら続けるぞ。最終目標は半径五センチ。さあ、やれ」 とまあ、そういうわけで。 エルの記念すべき最初の修行は、ひたすら石を投げ続けることに終始した。 「肩が痛いよぉ……」 右肩を押さえながら、エルは泣きそうな声を出した。三時間ほとんどずっと石を投げ続けたのだ。普段から訓練でもしていない限りは、痛むのは当然だった。 町に着き、クロがいつも利用しているという宿屋に入った。二人部屋である。 「ねえ。ここって温泉があるんだよね?」 部屋に向かう途中、『男湯』と書かれたノレンが下がっているのをエルは目ざとく見つけていた。男湯があるのだから、当然女湯もあるだろう。 「温泉って言うか、単なる風呂だけどな。行くのはちょっと待て。お前に言っておかなきゃならないことがある」 「えー。後じゃダメ?」 「早いうちに言っておいた方がいい」 そう言われては無理やり行くこともできない。ベッドから立ち上がりかけたエルは、渋々腰を下ろした。向かい合うように座って、クロは口を開く。 「そんなに長くはならないから安心しろ。見習いの心得みたいなもんだ」 「?」 疑問符を発する。見習いとはもちろんエルのことだろうが、心得とは? 弟子に守らせる約束事のようなものだろうか。 「一つ。見習い、つまりお前は、やむをえない状況を除き師匠……俺の許可なしに魔法を使ってはならない」 エルは魔法使いの卵であって、魔法使いではない。魔法の使用に制限を設けるのは当然だろう。だが、気になった。 「やむをえない状況って?」 「何かの事故に巻き込まれたり、暴漢やらに襲われて自分の身が危険な時とかだ。ただし、周囲に助けを求めたりすることができる場合はこれに含まれない。周りに誰もいなくて、逃げることも不可能で、尚且つ魔法を使わなければならないほど危険な場合……そんな状況がそうそうあるとは思えないけどな」 「それを破ると、やっぱり弟子はクビ?」 「それだけじゃない。連盟のリストにもばっちり載るから、試験も永遠に受けられなくなる。気をつけろよ」 きっぱりと言われた。これは遵守しなければいけないと、エルは頭にそのことを深く深く刻み込む。 「それと、許可なく魔法を捕ってもいけない。これはやむをえない状況なんてないから、全てにおいてだ。俺がいいと言うまで、絶対に魔法は捕るな」 「う、うん」 捕るなも何も、自分はリングを持っていないのだが……エルはそう思ったが、黙って頷いた。気持ちはもう半分以上風呂の方へ向かってしまっている。 「重要なのはその二つだけだな。後はまあ、品行方正にとか何とか。これは別に守らなくてもいい。目に余ったら俺がそう言うから。とにかく、魔法に関することには全て俺の許可を得るようにしろ」 「ん、解った――ねえ、もういい?」 うずうずしながらそう聞くと、クロは「お前、ちゃんと解ってるんだろうな?」と呟きながらも、 「いいよ。行って来い」 「やた♪」 お許しの言葉と同時に、エルはいつ出したのか自分でも解らない替えの下着を手に、風呂へ向かって走り出した。背後でクロのため息が聞こえたが、気にしない。 女湯へ直行しようとして、ふと思い出した。自分はタオルを持っていない。 「すいませーん。タオルの貸し出しってやってますかぁ?」 受け付けにいた中年女性に聞くと、答えはイエスだった。ただし、料金を取られたが。 ポケットからあまり中身の多くない自分の財布を取り出し、料金を払ってタオルを借りた。フェイスタオルとバスタオル。昨日は風呂に入れなかったため、余計に嬉しくなっていた。 「♪」 鼻歌を歌いながら、女湯のノレンをくぐる。脱衣所は割と広く、誰もいなかった。貸し切りのようだ。 服を脱ぎながら、これもそのうち汚れるだろうなと思う。どこかで洗ったりするのだろうか。クロが着ている服は割と綺麗だったから、少なくともずーっと着たままということはないのだろうが。 もしかして、川で洗濯とか……? ないとは言いきれない想像に少しだけ青くなりながら、エルは下着も脱いでいく。フェイスタオルを持ち、浴場に足を向けたところで――ふと思い出した。 「そう言えば、聞くの忘れてた」 クロがエルの呪文を聞いて驚いた理由。あの人とクロは知り合いなのか。それを聞こうと思っていたのに、聞けなかった。延々と続いた疲れるだけの修行で、つい忘れてしまっていたのだ。 「クロとあの人がかぁ……何か、似てないけど」 クロは確かに時々は優しいが、基本的にはどこか冷たい印象がある。だが、あの人は優しさそのものだった。当時のエルが幼い子供だったからということもあるがろうが。 苦笑しながらガラス戸を開けると―― 「――?」 「……へ?」 扉のすぐ前に、ちょうど体を拭いていた女性がいた。エルよりも年上……二十歳ほどだろうか。長髪でおっとりとした印象の、かなりの美女だった。服が見えなかっただけで、先客がいたらしい。 「あ、あの、ごめんなさい」 思わずそう言ってから、別に謝る必要はなかったことに気付いた。ここは宿屋の風呂である。エルがいつどんなタイミングでガラス戸を開けようが、自由のはずだ。 赤くなるエルを見て、女性がクスっと笑った。 「いえ。ちょうど出るところでしたから」 柔らかい声。清楚な外見に恐ろしいほど似合っている。エルは何も脈絡もなく、良いなあと思った。 「――あら?」 女性の目が、エルの左手に向けられた。人さし指にリングがはまっている。覗きとかが出たら吹き飛ばしてやろうと思い、つけたままでいたのだ。 「あ、これは――」 「魔法使いさんなんですか? まだお若いようですが」 「えー……魔法使いの、卵です。まだ見習いなんです」 照れ笑いを浮かべ、そう言った。訝しげだった女性の顔に納得が広がる。 「そうなんですか……ちなみに、お師匠様のお名前は?」 「へ? えと、クロですけど」 「……クロ……そうですか。どうもありがとうございます」 小さく呟いて、女性はエルの横を通り過ぎた。彼女が歩いていく先、入ってきた時は死角だった場所に、着替えらしきものが籠に入っていた。 それにしても、クロのことなど聞いてどうするつもりだったのだろうか? 「……魔法使いに頼みたいことでもあるのかな?」 浴場に入り、後ろ手にガラス戸を閉めながら、エルは小さく呟いた。 扉をノックする音に、クロは閉じていた目を薄く開いた。 暇な時、クロは大抵を瞑想して過ごす。瞑想と言うか単に何も考えずぼーっとしているだけだ。意識のある睡眠――変な言葉だが、表現するならそういう状態である。 エルが行ってからまだそんなに時間は経っていない。それに彼女だったら、ノックなどせずにそのまま入ってくるだろう。扉の前にいるのは別の人物だ。 宿の主人だろうか。そう思いながら立ち上がり、扉を開ける。 「はいはい。どちら様――」 「お久しぶりです。クロさん」 目の前で上品に微笑んでいるのは、見覚えのある女性。ちなみに、浴場でエルが出会った彼女である。 「……」 クロは無言で扉を閉めようとした――が、途中で「ガッ」と何かに引っかかったように止まる。目を下に向けると、女性の足がストップをかけていた。 「そんなに邪険にしなくてもいいじゃありませんか。半年ぶりの再会なんですし」 「俺としちゃ、できれば二度と会いたくなかったんだけどな」 「まあ、ひどい」 クスクスと笑う。思いっきり嫌味に言ったのだが、軽く受け流されてしまった。皮肉も悪口も通じないこの女性が、クロは何となく苦手だった。 ため息。現実にこうして彼女がここにいる以上、観念するしかなかった。 「で? 今度はどんな厄介事を持ち込んで来たんだ?」 「まあ……私がいつも厄介事を持ち込んでいるように言わないでください。読者の皆さんに誤解されてしまいます」 「誰に誤解されるって……? とにかく、事実だろ」 言い張るクロに、女性は表情を苦笑に変える。 「今日はお仕事の話ではありませんよ。私もたまたまここに泊まっていたので、ご挨拶にと思いまして」 ああそう解ったそれじゃあな――クロがそう言う前に、女性は言った。 「せっかくですから、少し、お話ししませんか?」 微笑しながらの言葉。押しも強くないし、強制めいた響きもない。断ろうと思えばいくらでも断れるような言い方だったが―― たとえ断っても、扉を止めている足が退けられることはなさそうだった。 |
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