a novice at wizard
| お腹と手首に鈍痛を感じ、エルは顔をしかめながらうっすらと目を開けた。頭が朦朧としていて、考えがまとまらない。ここはどこだろう。自分は何をしていた? リング屋から逃げ出したあたりから記憶を辿って行く。あの後は、少し離れた屋台でヤキソバを食べた。それからカレーも食べて、ポテトフライを食べて……何かを食べている記憶しかないのが少し気になったが、その後を思い出そうとする。 タコヤキを買った。ただしそれは、自分が食べるためではない。 クロと一緒に食べようと思ったのだ。 だが、クロと食べた記憶はない。宿に戻った記憶もない。その前に何かあったはずだ。何か―― 「あー! あいつらー! ……あ、いつつ」 大声を出したら腹に響いた。あのハゲ、よくも思いっきり殴ってくれたものだ。チビもデブも同罪である。あいつら、今度会ったら何が何でも魔法をぶつけてやる。泣いて謝るまで痛めつけてやる。 涙目でそう決意してから、エルは自分の状況を確認する。 体は、手首と腹に痛みがある他は異常なし。少なくとも今はまだ良からぬことをされてはいないようだ。とりあえず、そのことには安堵した。もしかしたら、これからされるのかもしれないが……それはあえて考えないようにした。 後ろ手に縛られて、絨毯の上に転がされている。縄が手に食い込んで痛かった。 どんなに楽観的に見ても、宿屋ではありえない。おそらくあの三人に誘拐されたのだろう。そして、この部屋に軟禁されている。自分の置かれた状況は、かなりヤバイもののようだった。 足は自由だったので、手首の痛みに辟易しながら立ち上がった。暗い室内の中、つまずかないよう注意しながら窓まで歩いていく。 鍵が閉められている上に、どうやら二階のようだった。エルは少し考えたが、結局諦める。鍵は口を使えば開けられないこともないが、足だけでは二階から降りられない。飛び降りたら多分骨折する。そうでなくても足をくじくだろう。捕まって地下牢なんかに入れられてはたまらない。 部屋の中には、さすがに広いだけあって色々な物があった。ベッドに机。本棚に洋服ダンス。下着はもう一つのタンスに入れてあるらしい。化粧台や等身大の鏡もあった。どうやら、この部屋の主は女性のようだ。 何か縄を切れそうなものがないかと思ったが、ナイフ一本見当たらなかった。 縄を解くのは一時断念して、エルは脱出の方法を考える。窓がダメとなると、あとは入り口の扉しかない。そこにも当然鍵がかけられているだろうが、一応見るだけ見てみよう。そう思い、広い室内の端から端を移動する。大きな木製の扉の前に立ち、 ガチャ、ガンッ! 「〜〜〜〜っ!」 ドアノブが動いたと思った瞬間、いきなり扉が向こうから開けられた。前かがみになっていたため、額を強打させられる。驚いたことに、鍵はかかっていなかったようだった。 「おや。起きていたのか」 人を小バカにしたような男の声。チビでもデブでもハゲでもない。あえて言うならノッポ。痩せていて青白い、危ないクスリでもやっていそうな背の高い青年だった。クロよりも少し年上のようだ。 「だ……誰よあんた。わたしをどうする気?」 精一杯の虚勢を張って、エルは言った。声に混ざる緊張の響きは隠せない。 一方男は、悠然とした笑みを浮かべていた。 「僕はシュロスという。エル君といったかな……会えて嬉しいよ」 「何の用? わたし、これでも忙しいんだけど」 敵意を前面に押し出して、できるだけ冷たい声を出そうとする。手は縛られたままで、リングも取り上げられている。力ずくで来られたら勝ち目はないが、それでも弱みを見せまいと思った。 ところがシュロスは、相変わらず笑みを浮かべたままだった。エルの敵意などものともしていない……と言うより、初めから相手にしていない。自分の優位は何をしても揺るがないと思っているのだ。 何とかその笑みを崩してやりたいが、実際どうしようもない。エルが悔しさに歯噛みしていると、 「君をここに正体した理由は二つある。一つは、君がクロの弟子だということだ」 「クロ?」 思ってもみなかった人物の名前に、エルはきょとんとした。自分がクロの弟子だから……何だと言うのだろう。 不審そうな顔をしていたのだろう。シュロスは眉をひそめ、聞いてきた。 「君は、クロがどういう人間か知らないのかい?」 「どういう人間って……いつも淡々としてて、ふざけてるんだか真面目なんだか解らなくて、」 「そうじゃない。魔法使いとしてという意味だよ」 魔法使いとしてどういう人間か。そんなことは知らない。クロが何か特別とでも言うのか。そう聞き返すと、シュロスは呆れた顔で言ってきた。 「やれやれ……呆れたものだね。自分の師匠がどういう魔法使いかも知らなかったのか」 ムッとするが、クロのことの方が気になった。じっと黙っていると、シュロスはとんでもないことを口にした。 「彼は前回のトーナメントで東エリアのベスト4だ。確か、トーナメント参加者の中では最年少だったかな。当時はずいぶん話題になったものだけれど」 「なっ――」 それを聞いて、エルは思い出した。 最初に出会った時クロの名前をどこかで聞いたことがあると思っていたが、あれは新聞の記事だったのだ。トーナメント東エリア予選の上位入賞者。その頃にはもう本戦――世界大会が始まっていて、興味はそっちに移っていたため、目の端でちらと見ただけだったのだが。リング屋の店主はそれを覚えていたのだろう。 が、しかし。 自分がそのクロの弟子だからというのは、誘拐する理由としては少し弱い気がする。そりゃクロは若いから、普通は弟子をとることはないのだろう。だが、それは単に珍しいだけの話である。 「クロが強いのは解ったけど……だからって普通誘拐する? 別にいいじゃない誰が誰の弟子だったって」 「まあ、それはそうなんだけどね」 と、シュロスは一旦同意してから、 「でもね。ボクは少々、他の魔法使いよりクロに執着がある。だから興味が湧いた。彼が弟子にした君は、どういう人間なのかとね」 「……それだけ?」 それでも理由としては弱い。そう思って聞くと、シュロスは首を振った。 「言ったろ? 理由は二つある。もう一つは、君を捕まえればクロは必ずここに来ると考えたからさ。自分の弟子が人質となれば、無視するわけにはいくまい」 「ここに来させてどうするの。お金でも取るの?」 「いや。お金は有り余っているからね」 コノヤロウと思う。だが、そんな思いは次のシュロスの言葉によって掻き消えた。 「クロに再戦を申し込むのさ。今度こそ彼を殺すためにね」 「……は?」 後半のセリフに、エルは耳を疑った。 三十分待ったが、それでもエルは来なかった。 クロはため息を一つつき、宿に入ろうとした。だが、途中で考え直す。遊び呆けて忘れているなら気にする必要は全くないが、妙な連中に絡まれているという可能性もないわけではない。魔法があればチンピラの五、六人など物の数ではないが、エルは実戦というものを体験していない。いざという時に使えるかどうかは、疑問である。 「……」 立ち止まること数秒。クロはもう一度踵を返し、夜の町へ向かって歩き出した。怒るにしても助けるにしても、まずエルを見つけないことには話にならない。 だが、見つけると言ってもそう簡単ではない。広い上に人がごった返している。この中からエル一人を見つけ出すのは、至難の技だろう。しかもこちらは一人しかいないのだ。 どこから探したものか――うんざりしながらそう考えた、その時。 「エルさんなら誘拐されましたよ」 「!?」 聞き覚えのある声が、いきなり背後から聞こえてきた。驚いて振り向くと、 「こんばんは。クロさん」 フィーリアが、上品な笑みを浮かべていた。 「……いつからいたんだ?」 「ついさっきです。それより、いいんですか?」 「何が」 「エルさんです。さらわれてしまってからかなり時間が経っています。今頃どんな目に遭わされていることか……」 こともなげに言うフィーリアに、クロは慌てて待ったをかけた。 「ま、待て。さらわれた? 本当に?」 「こんな嘘をついても仕方ないでしょう」 確かにそうだった。こんな嘘をついても意味がないし、フィーリアはこういう嘘をつくようなタイプではない。どうやらエルは、本当にさらわれたようだった。クロの頭にエルの両親の言葉が浮かぶ。もしこのままエルを見殺しにでもしたら…… 「……殺されるな。絶対」 「はい。放っておけば、エルさんは殺されてしまうでしょう」 何を勘違いしたのか、フィーリアが同意してくる。クロはため息をつき、俯いた。 「そういう意味じゃないんだけどな……まあいい。エルはどこに連れて行かれた?」 「それが……クロさん。先日お話しした事を覚えていますか?」 「あの、魔法を売りさばいてる奴のことか。それがどうかし……ちょっと待て。まさか――」 嫌な予感がして聞くと、フィーリアはしっかり頷いた。 「ええ。後をつけたのですが、どうやらその彼女――シリスが住む屋敷のようです。クロさん……せっかくですので、彼女も捕まえてくれませんか?」 「何が「せっかくですので」だ。俺は嫌だぞ。他の奴に頼んでくれ」 「クロさん。これも先日申し上げた事ですが、あなたは私の担当地区では最強の魔法使いです。魔法使いには魔法使いにしか対抗できません。魔法使いの犯罪者を相手にする仕事は、あなたに頼むのが一番確実なんです」 「連盟の騎士団があるだろ。そっちを使えよ」 対魔法使い専用の警察組織――騎士団。確かにフィーリアの担当地区でならクロが最強で確実なのだろうが、所詮は一人である。集団で相手を殲滅する騎士団には敵わない。ところがフィーリアは、 「騎士団の派遣には数日を必要とします。その間、エルさんを危険に晒しておくつもりですか?」 「エルは助けるさ。だけど、その……シリスだったっけ? そいつを捕まえることはしない。怪我したくないからな」 「それでは騎士団の到着前にシリスは逃亡してしまいます。それではいけません。それに、彼女は魔法使いとしてはそれほど強くないんです。あなたの敵ではありませんよ」 「何と言われようと、嫌だ。それより早く屋敷に案内してくれ。エルに何かあったら俺の命が危ない」 「……? ……このことは後で話し合いましょう。こっちです」 そう言って、フィーリアは走り出した。クロもその後に続く。 走りながら、彼女は状況を説明してきた。 「夕方頃でした。私が何気なく公園へ行くと、男三人にエルさんが襲われていたんです」 「襲われた!?」 「暴れるので押さえられていたようでした。一度殴られたように見えましたが、暴行らしいことをされたのはその一度だけです。何か薬を染み込ませた布を押し当てられて、しばらくして意識を失いました。強姦めいたことも、その時はありませんでした」 クロの心配を見透かしたような言葉。黙っていると、続きを言ってくる。 「エルさんを袋に入れて、彼らは町の外に出ました。人を呼ぼうかと思ったのですが、あいにくほとんどの方がお祭りの方に行っていて……仕方なく私が尾行しました。彼らは山に入っていき、複雑な道を通ってそのお屋敷に。エルさんを中に運び入れ、しばらくして満足顔で出てきました。多少は後ろめたそうにも見えましたが……お金でも受け取ったのでしょうね。そんなに気にしているようには見えませんでした」 フィーリアの声にわずかに険悪な響きが混じる。彼女がこういう声を出すのは珍しい。表情は冷静だが、心の中は怒り狂っているのだろう。 一方のクロは、怒りは感じているが心の中は平静そのものだった。何しろクロはフィーリアと違って魔法という力を持っている。感情に任せてしまうようなことがあってはならないのだ。常にクールでいなくてはならない。まあ、その三人は少し懲らしめてやる必要がある、とは思うが。 その時、フィーリアはさらりと言ってきた。 「その道はかなり複雑でしたので、実はどう行けばいいか解らないんです。目印をつけて来るのも忘れてしまいましたし」 「な!? おい、それじゃあ――」 「ご心配なく。代わりに、三人が入り浸っている喫茶店を調べてあります――ここがそうです」 と、突然立ち止まる。タバコのヤニで黄ばんだ窓の喫茶店がそこにはあった。 フィーリアは決して無能ではない。道の確認を忘れるなど、ありえないことだった。それに、屋敷への行き方など役所なり何なりで聞けばいいだけの話だ。わざわざこんなところへ案内する理由は……一つしかない。 「……なあ。あんた、ひょっとしてわざとか?」 「何のことです?」 ふと思って聞くが、フィーリアはとぼけた顔でそう答えた。絶対わざとだと思いながらも、クロはそれ以上聞かないで、店の入り口を開けた。 店の中は……まあ、予想通りのものだった。ガラの悪い少年や青年が、気だるそうにタバコを吸っている。そして、クロとフィーリアが店内に入った途端、揃って険悪な目を向けてきた。 雷撃の一発でも食らわせたい気分に一瞬なるが、こらえる。そんなことをする必要はない。クロは、全員にリングが見えるように左手を上げた。 その瞬間、チンピラどもの顔にさっと恐怖が走る。エルのような田舎者と違い、この町の人間は魔法の威力を知っているのだ。 「あー、見ての通り、俺魔法使いだから。死にたくなかったら何もしない方がいいぞ」 威圧感も何もない言葉だが、効果はあったようだった。チンピラどもは急におとなしくなり、全員俯いてクロから目を逸らす。 「……タバコ臭いな」 ポツリと呟く。と、チンピラどもが慌てたようにタバコの火を消した。必死の表情で我先にと灰皿に手を伸ばし、間に合わなかった者はなんと自分の手で揉み消し、あまりの熱さに悲鳴を上げている。 「面白いなー、お前ら」 「……何を遊んでるんですか」 背後のフィーリアが憮然とした声で言ってくる。彼女としては、目当ての三人組以外はどうでもいいようだった。 「ああ、そうそう。で、どいつらだ?」 「彼らです。一番奥の三人」 フィーリアが指で示し、クロ――と三人以外のチンピラ全員――がそいつらに目を向ける。その三人、チビとデブとハゲは、驚いたような顔で目を見開いていた。クロが近寄って行くと彼らは急にうろたえ始めた。その姿は滑稽を通り越して哀れだったが、そんなことには一切構わずに、クロは口を開いた。 「今日の夕方、俺の弟子がお前らに世話になったって聞いたんが」 「で、弟子?」 「夕方? い、一体――」 「あ! もしかしてあい――むが」 声を上げたデブの口を、横からチビとハゲが手を伸ばして塞ぐ。だがもう遅いし、しらばっくれたところでムダだ。 「言っておくけど、お前らはしっかり見られてたんだからな。知らない振りしても意味ないぞ」 『……』 「さて。お前ら俺の弟子を変な屋敷に連れて行ったろ? そこへの行き方、解るか? 解るなら案内して欲しいんだけどな」 ねちねちと脅しても仕方ないので、クロは単刀直入にそう聞いた。三人は即座に頷き……そして、揉め始めた。誰が行くかで争っているらしい。 まあ、無理もない。相手は自分達が誘拐した娘の師匠なのだ。しかも魔法使い。何をされるか解ったものではない。 三人で来いと言うのは簡単だが、できれば一人の方が良かった。五人でぞろぞろ行く気にはなれない。数は少ない方が足並みを揃えやすいのだ。クロは咳払い一つで三人を黙らせ、尋ねた。 「なあ。エルを殴った奴は誰だ?」 チビとデブが顔を合わせ、二人揃ってハゲを見た。ハゲがほとんど泣きそうな顔で手を挙げる。 「そうか、お前か――安心しろよ。別に報復として魔法の実験台にするとかそんなことは言わないから……良かったな。俺の手元に試したい魔法がなくてさ」 さりげない脅し文句に、ハゲが泣き笑いのような表情になる。クロは彼を安心させるように笑いかけ――そのまま、全力で殴りつけた。 「おぶっ!」 ハゲが椅子ごと倒れ込む。チビとデブが情けない悲鳴を上げ、店内がにわかに騒然となった。フィーリアは黙したまま何も言わないが、目の端でちらっと確認すると、いい気味だとでも言うような薄笑いを浮かべていた。はっきり言って、怖い。 床に倒れたハゲに歩み寄り、胸倉を掴んで無理やり立たせる。ショックで口もきけないらしい彼に、クロはやはり笑いながら告げた。 「ちょうどいいから、お前が案内してくれ。いいよな?」 頬を腫らしたハゲは、必死の表情で何度も頷いた。 「ボクはこれでも自分の力に自信を持ってる」 呆気にとられているエルを前に、シュロスは一方的に喋り始めた。 「トーナメントを勝ち上がって行くのも、当然だと思っていたよ。ボクは強いからね。代表になるのはボクだと確信していた。だが……」 シュロスの声に怒りがこもる。殺気めいたものを感じ、エルは一歩後ずさった。 「その時十六歳だったクロに、ボクは二次予選の二回戦で負けた。ずいぶん色々なことを言われたよ。子供に負けた魔法使い、運だけの一次予選突破。……彼がベスト4に選ばれ、彼の実力が証明されるまでこの汚名はついて回った」 ふふふ、と笑い、俯いたままエルを睨んできた。エルは小さく悲鳴を漏らし、また数歩後ろへ下がろうとする。 ところが、後ろ向きに歩いていたためか足がもつれた。手を縛られていてはバランスもとれず、エルは成す術もなくしりもちをつく。 「いたたたた……」 せめて縄を解いてもらえないか聞こうとし……エルはすぐにムダだと悟った。シュロスは怒りに満ちた目で、まるで親の仇でも見るようにエルを睨んでいた。 「解るかい? その間ボクがどんな思いをしたか。クロのせいでどんな目に遭わされたか! 君の師匠のせいで、ボクの経歴には決して消せない汚点がついた!」 それってただの逆恨みなんじゃ――とは言わなかった。そんなことを言ったが最後。自由に身動きもできない自分は、ここで人生を終えることになる。 大体、最初から代表になれるなどと考える時点で間違っているのだ。実際に見たわけではないから断言はできないが、代表クラスのレベルでは実力に大きな差はないはずである。シュロスは、自惚れていたらクロに足元をすくわれた――それだけだ。 それにクロを恨むのも筋違いである。負けて悔しいのは解るが、子供に負けたとか運だけとか、そう言ったのはクロではないはずだ。 はっきり言って呆れるが、シュロスが自分の命を握っているのは事実である。ここは黙して何も語らず、クロが助けに来るのを待つのが最良だった。東エリアベスト4に選ばれるほどの実力ならば、シュロスなど敵ではないだろう。 それにしても、なぜ今までそれを言ってくれなかったのだろうかと思う。「言う必要なかったし」とか「聞かれなかったから」とか、クロはそんなことを言うのだろうが、弟子がそれを知らないというのは……これこそ恥ではないか。 今度文句を言ってやろう。エルがそう考えた時、 「ボクはようやくクロを殺す手段を手に入れた」 危ない目つきでこちらを睨みながら、シュロスはそう言った。何となく聞かれたがっているようなので、エルは、 「ど、どんな……?」 「よく聞いてくれたね……つまり、こういうことさ」 シュロスの言葉と同時に、閉められていた扉が開く。その向こうに立っていたのは―― 「……誰?」 黒髪の、エルよりもわずかに年上といった感じの少女だった。元はかなりの美人だったのだろうが……今は見る影もない。目も虚ろで、まるで死んでいるようだった。 「彼女はシリス。この屋敷の元主人さ」 楽しそうに、シュロス。エルは廃人のような少女を恐々と見つめながら、気付いた。あまり気付きたくなかったことに。 「ひょっとして……あなたがやったの?」 シュロスは頷いた。 「ここは町からも離れていて、好都合だったからね。隠れ蓑にさせてもらったよ。金もある程度は貯まったし、罪は全部この子が背負ってくれる。そろそろ限界だろうけど、まあ“色々”楽しめたしね」 少女を見るシュロスの目つきは、どこかいやらしいものだった。色々が何を意味するかを察し、エルはシュロスに対して嫌悪感を募らせる。 「……最低っ」 汚物を吐き出すようにそう呟く。と、シュロスはニヤリと笑い、こちらを向いてきた。 「そんなことを言っていいのかな? 君の命は今ボクの手中にあるんだよ? ――こんな風にね」 シュロスは、無造作にエルへと手を向けた。リングのある左手。そして、 「黙せよ人形」 それはおそらく呪文だった。その言葉を聞いた瞬間に、エルの体が全く動かなくなる。シュロスが近寄ってきて、おぞましいことに耳元で囁いた。 「この魔法は、相手を一定の時間だけ自分の人形にすることができる。誰も抵抗できやしない。もちろんクロでもね。例えば、息をするなと命令すると――」 (!?) その直後に、エルは呼吸ができなくなった。息を吸うことを体が拒否している。突然のことに頭が混乱する。苦しい。苦しい……! 「効果はそんなに長くないけど、数秒あれば魔法を何発でも直撃させられる」 シュロスの言葉と同時に、魔法が解けた。ゲホゲホとせき込む。シュロスは、そんなエルを嘲笑しながら見下ろしていた。 「……そうだ、いい事を思いついた」 明らかに良からぬ事を思いついた顔で、シュロスが言った。壮絶な笑みを浮かべながら、呼吸を整えているエルを見る。聞きたいか? と無言で言っている。 「あんまり聞きたくないけど……何?」 「ただクロを殺すだけじゃ、つまらないからね」 棒立ちしていたシリスを押しのけ、シュロスはエルに近寄ってくる。ベッドに倒れ込むシリスを横目で見ながら反射的に後退するが、しりもちをついている体勢ではどうしてもシュロスの方が早い。すぐに背後に回られ、 「――え?」 シュロスは、エルを縛っていた縄を解いた。そしてポケットからリングを二つ取り出す。両方とも見覚えがあった。 「こっちの方には何も入っていないようだね。安売りされていたものをリング屋で買ったのかい?」 店主からもらったリングを示し、急に友好的になって聞いてくる。わけが解らないままエルが頷くと、 「こっちには何かの魔法を封印してあるようだ。たった一つというのも味気ないが……まあ、これも運命だな」 クロから貰ったリングを、エルの左手を取って中指にはめる。手首をさすっていたエルは、当然ながらその態度の急変を訝った。 「急にどうしたの? わたしは人質なんでしょ?」 「いや。ただクロを待っているのもつまらないからね」 と、出口の方を示し、シュロスはあくまでにこやかに続けた。 「彼が来るまでの間に、ボクは逃げる君を殺すことにした。彼が来るまで逃げきれたら、その時はもう君は自由だ。だが、それが不可能だった場合――君は死ぬ事になる。地獄のような苦痛を感じながらね」 「ちょ――」 「開始から一分間、ボクはここを動かない。その間にできるだけ遠くに逃げるんだね。それか、巧妙に隠れるか。好きな方を選ぶといい。あ、ちなみにここから町までは一時間くらいかかる」 「待っ――」 「逃げるだけじゃなくて、ボクに攻撃をしても構わない。そのためにリングを返したんだからね。何か質問は?」 「なんでそんなことしなくちゃいけないのよ!」 泣きそうな声で叫んだ。そんな鬼ごっこ、それこそあっという間に見つかってしまうだろう。魔法だって今の自分とトーナメントに出るような人間とでは話にならない。こんなものは勝負でも何でもない。一方的に嬲られ、殺されるに決まっている。 だが、シュロスは平然と言ってきた……憎しみを込めた声で。 「君がクロの弟子だからだよ。君の無惨な死体を目にして、悲嘆に暮れた――あるいは怒り狂った彼を殺すことに意味があるんだ」 「そんな……」 「縄を解いてリングを返したのはボクなりの情けだ。君も、ただ殺されるだけでは納得できないだろうからね」 逃げた上で殺されたところで、納得などできるものか。大体それはクロとお前の問題であって、自分は関係ないではないか――そう言いたかったが、口はぱくぱく動くだけで言葉にならない。 「それじゃあ、始めようか」 実に楽しそうに、シュロス。エルはなんとか時間を稼ごうとし、必死の思いで言葉を発した。 「く、クロは……」 「ん?」 「クロはいつ頃来るの?」 「さあね。何もヒントを残していないから、ひょっとしたら何日もかかるかもしれないね。君の死体が腐る前に来てくれるといいんだが」 背筋に、冷たい汗が流れた。 「じゃあ始めよう。――よーい、スタート」 言葉が終わらないうちに、エルは走り出した。とにかく屋敷の外へ出て、闇に紛れるしかない。幸い時刻はもう夜。暗がりで息をひそめていれば、ひょっとしたらやり過ごせるかもしれない。 階段を二段飛ばしで降りながら、エルは必死で祈っていた。この場合神ではなく、クロに。 文句も不満も、絶対に言わないと約束する。 だから早く助けに来て! 「……ん?」 前に立って歩かせているハゲを小突いていたクロは、ふと顔を上げた。エルの悲鳴が聞こえたような気がしたが…… 「おい。もう近いのか?」 「は、はい。こ、ここ、ここまで来ればもうすぐです」 ハゲはひどく脅えながら答える。何もしないと約束してはいるが、だからと言って安心できるようなものでもないだろう。下手に何か言っても逆効果なので、クロは何も言わない。報復として一発殴ってはおいたし、案内が終わったら帰してやるつもりだった。 実際ハゲの言った通りだった。そこから屋敷に着くのには、五分もかからなかった。 そこそこ豪奢な屋敷だが、なぜか明かりがどこにもついていなかった。無人のようである。 訝しげに思いながらも、クロはとりあえず、後ろでビクビクしているハゲに言った。 「もう戻っていいぜ。ご苦労さん」 「は、はい。それじゃ……」 ハゲは頭を下げるのもそこそこに、一目散に逃げ出して行く。その背中が見えなくなるまで見送ってから、クロは改めて屋敷を見上げた。隣で佇んでいるフィーリアに問う。 「で、どんな奴だっけ?」 「名前はシリス。四年前に魔法使いの免許を取得した女性です。現在二十五歳。結婚はしていなくて、この屋敷で使用人と共に暮らしています。仕事らしいことは何もしていませんが、親の遺産がかなりあるようで、生活には困っていないようですね」 もっとも、別のところで収入を得ているのかもしれませんが。フィーリアは涼しげな表情でそう付け加えた。 「エルを誘拐した理由は何だと思う? 金に困ってないんなら、身代金も必要ないだろうし」 「前の町で私と接触したことで、あなたが魔法の売買を嗅ぎつけたと思ったのでしょう。エルさんはあなたの動きを封じる盾にされていると思われます」 「そうか? それだったら、警告も何もないのはおかしいだろ。ただエルを捕まえてるだけじゃ、俺に来いって言ってるようなもんだ」 「それは……確かに。ですが、他に考えられないんです。あの三人が伝え忘れたのでは?」 「ないとは言えないけどな……それは置いとくとしてだ。どう思う?」 真っ暗な屋敷を、目線で示す。 「寝てる時間って言われればまあそうだけど、それにしたって静か過ぎないか? 物音一つ聞こえないぞ」 「皆さんお疲れなのでしょうか。ですが、私達にとっては好都合です。こっそり調べて回りましょう」 「――いや」 フィーリアの提案に首を振り、クロはすっと左手を掲げた。 「こっちの方が早い」 「? クロさん? 何を――」 「雷撃」 呪文とほぼ同時に、屋敷の扉が消し飛んだ。夜闇の世界をほんの一瞬閃光が支配する。真っ白な光はやがて薄れ、轟音を残して消え去った。 「な……」 綺麗に焦げついたと思われる(暗いからよく解らないのだ)元扉の部分に目を向け、フィーリアが呆然とした声を漏らした。やがて、クロの方を向いてくる。彼女がここまで感情を露わにするのも珍しい。クロの行動は、よほど意外だったようだった。 「何てことをするんですか、あなたは……」 「俺は、エルを助けられれば他はどうでもいいんだよ」 「こんなことをしては相手も警戒しますよ。エルさんの身は、その分危険に晒されます」 「大丈夫だろ」 「推論で物を言わないでください。全く、あなたがここまで向こう見ずだったなんて……?」 フィーリアが愚痴を言いかけ、ふと顔を上げた。クロもおそらく彼女と同じ思いである。これだけ大きな挨拶をかませば、屋敷は一気に騒然となるだろう。その隙を狙ってエルを奪還しようと考えたのだったが……騒ぎどころか、屋敷の中からは相変わらず物音一つ聞こえなかった。 「まさか、本当に無人かよ?」 どう考えてもそうとしか思えなかった。この屋敷には一人もいない。主人も、使用人も……捕らわれているはずの、エルすらも。 既に逃げたのだろうか。クロの頭に一瞬その考えがよぎり、わずかに焦った。今から逃げる奴は捕まえる自信があるが、もう逃げられているというのはまずい。手掛かりが何もない。 とりあえず中を調べてみようか――そう思い、フィーリアに告げようとして、 ズン、という爆発音が、森の中から聞こえてきた。こんな場所で爆弾を使うような酔狂な人間はいないだろうから、今の音は魔法と見て間違いない。だが、誰の? エルはこんな音がする魔法など持っていない。 「……逃げ出して追われてるのかよ?」 何となく声に出すと、フィーリアも大体似たようなことを考えていたようだった。後ろから同意してくる。 「そのようですね。エルさんが自力で逃げ出したというのは、はっきり言って信じられませんが。しかし、今の音にエルさんが関係しているのは間違いないと思います。こんな時間に決闘する魔法使いもいないでしょうし」 「そうすると、急いだ方がいいな……ったく。ちょっと行ってくる。あんたはここで待ってろ。もしかしたら違うかもしれないし」 「はい」 フィーリアが頷くのを横目で確認し、音を頼りにしながらクロは森の中へ入っていった。 爆発音が再び響いていた。 |
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