出来損ないの支配者

 

 直後の轟音。

 何が起きたか分からないまま、ただ突然の衝撃に精神が吹き飛びそうになる。

 フェイトが飛び込んできたときと似た、だが比べ物にならないほど大きい衝撃。凄まじい圧力と熱風が室内の全てを消し飛ばそうとする。咄嗟に自分をかばったラトに抱かれたまま、シルフィはそれを見る。

 血のように赤い肌の、ドラゴンだった。

 物語でしか聞いたことのない伝説の魔獣。それが目の前に、少し歩けば触れられるような距離にいる。あまりに現実感のないその光景に、幻覚でも見ているのかと一瞬思う。

 目を焼き潰すほどの白色の光の中、その肌の赤は尚浮いて見えた。口から咆哮と紅蓮の炎を撒き散らし、シルフィが趣味で集めていたオルゴールを、ほとんど読んでいない聖書を、それらが収められていた棚を、炭すら残さず焼き滅ぼす。

 もはや伝説級の生き物であるドラゴンの、更に伝説級である全てを焼き尽くす炎。トカゲに翼が生えたような外見だが、あれに比べたらトカゲなど愛玩動物以上に可愛らしい。

 だが。

 そのドラゴンは、よく見れば外へ押し戻されていた。

 炎の数倍もの熱風を発している白い光。炎の数倍の勢いで室内を破壊している雷光。変化したフェイトがドラゴンを滅ぼそうとしている。思考の止まった頭でそれが感じられた。凶悪なまでに赤い肌を、明確な殺意を持った白い光が埋め尽くし、ほんの一瞬更に光が強まり、シルフィの目が眩む。

 その直前、光の中から黒い影が飛び出し――

 

 爆音が響いた。

 

 シルフィの耳と目が一瞬機能を失い、ただ自分をかばうラトの腕だけが頼もしい。

「ラト……兄ちゃん?」

 自分でも何を言っているのか聞き取れない声だが、返事の代わりとでも言うように、ラトが腕に込める力を強くした。

 発狂したくなるようなこの状況の中で、その腕は何よりも心強かった。思わず握り返す。腕の力が更に強くなる。

 そのうちに、目と耳が機能を取り戻した。薄っすらと目を開ける。惨憺たる有様の部屋の中。自分を押し倒すような形で覆いかぶさっているラトも、頭を振りながら目を開けている。

 その向こう。変わり果てた部屋の中央。

 そこに、一人の人間がいた。

 二本の剣を帯びた長身。燃えているような赤い髪と、同色のコート。見知らぬ男が、場の雰囲気に全くそぐわない暢気な空気をまといながら、周囲を見回していた。

「フェイトは落ちたか……? たかがドラゴン相手にあんなに手こずるたあ、やっぱり予想した通りだな。相当弱くなってやがる」

「……」

「しかしひでえ有様だな。突っ込んだ俺が言うのも何だが、この状況だけ見たらとても女の部屋とは思えねえ。まあ女っつっても俺の守備範囲にはあと数年しないと入れねえけど……しかしまあ、将来有望そうではあるな」

 その男。

 やけに軽い男は、シルフィに目を向けつつ、ニヤリと笑みを浮かべた。

「愛人は多いほどいい。この命尽きるまで募集中だから、五年後以降に気が向いたらいつでも来い。なあ、イベリアの巫女」

「……て言うか、誰?」

 眉をひそめて尋ね返した。ニヒルに決めた彼には気の毒だが、まずそれを聞かずにはおれなかった。ラトもまた身を起こし、剣に手をかけた状態で睨みをきかせている。

 そんな二つの視線に晒されて、男が「は?」という表情をした。

「何だよ何だよお前ら、俺を知らないのか? フェイトから聞いてないのか、この赤い髪とか赤いコートとか。まさか。今のショックで頭がボケてるんだろ? よく思い出せ。聞いてるだろ、俺のこと」

『聞いてない』

 異口同音で首を振るシルフィとラト。

 男はそれを見て、大仰に天上を仰いだ。

「何てことだあのバカガキが。他の何を忘れても俺の特徴を教えるのは忘れんじゃねーっての。思いっきり愛人に誘っちまったじゃねえかよ。名乗りもせずに。バカみたいじゃねえか」

 名乗ったってバカみたいだと思う、とは言わないでおいた。男が続けて何か言いそうだったからだ。

「仕方ねえ、自己紹介するか。幾らなんでも存在だけは聞いてるだろうとは思うが、何を隠そう東の魔王チャイルドとは俺のことだ。遠目からも分かるように、この赤い格好を目に焼き付けておけ」

『……は?』

 シルフィとラトは、再び異口同音にそう言った。

 魔王? 東の? さっきフェイトがやたら危ないヒトと強調していた? なぜここにいる? と言うか何ゆえ突っ込んで来るの?

 様々な疑問が浮かんでは消え、ただでさえぐらぐらしているシルフィの頭が臨界点を突破しそうになる。フェイトは――ともはや存在を保っている部分の方が少ない壁の方をうかがうが、チャイルドの言葉通り、ドラゴンと一緒に落下したのだろうか。姿を現す気配はなかった。

 魔王とやり合うには、同じ魔王をぶつけるのが一番手っ取り早い。

 それなのに、肝心のぶつける魔王がいないのでは、話にならなかった。

「ところでお前ら。殺しは好きか?」

 好きな食べ物でも尋ねているように、チャイルドはそう言った。

 殺し? えっと殺しは自分は――そこまで考えた時点で、殺しというのが具体的にどういう行為を示すのかに思い当たった。シルフィは大慌てで首を振る。目の前のラトも同じことをやっていた。

 それを見て、チャイルドはわずかに残念そうな顔をする。

「そうか。まあ、中身がどーとかいう話はこの際抜きにして一応仮にも表向きは清純で汚れを知らない巫女様が、よりにもよって人殺しが好きだなんて言ったんじゃ示しはつかねえな。そこにナイト気分の聖騎士様もいることだし……あ、聖騎士なんざナイトそのものか」

 わざと言っているのか、勘に触る言い草のチャイルド。巫女じゃなくたって嫌いだと言ってやりたいが、シルフィの口は未だ思うように動かない。

 痺れたように動かない身体に悪戦苦闘していると、チャイルドは実に無邪気に言い放ってきた。

「俺は大好きなんだよ」

 知ったことかと思うが、それに全く構うことなく続けてくる東の魔王。

「強い奴を死闘の末に倒すのもいい。雑魚を小突き回しながらゆっくり嬲り殺すのもいい。時によってまちまちなんだが、今の俺は……後者だな」

 チャイルドの目が、危なげな光を放った。猫がネズミを弄ぶように、高みから見下ろしながら殺していく。何と趣味の悪いことか。

 見下ろすのは当然、チャイルド本人なのだろう。

 では、見下ろされるのは……?

 チャイルドの目が楽しげにシルフィとラトを見る。口元にニヤリと笑みを浮かべる。剣を抜き、こちらに一歩を踏み出してくる。

 思わず身構えるシルフィとラトに、チャイルドは大仰に笑いかけた。

「そんなにビビんなよ。心配しなくても、お前らはまだ殺しはしねえよ。フェイトをマジギレさせるのも一興だが、とりあえずは理性のあるあいつと話をしておきたいんでな」

 とても安心できるような言葉ではなかった。

 仮に彼の言葉が本当で、少なくとも今はまだ、シルフィやラトに危害を加えるつもりはないとしよう。だが、誰かを傷つける気は絶対にある。間違いない。対象がシルフィとラトでないだけ――それだけの話でしかない。

 そうでないならば、なぜチャイルドは剣を抜いた。

「……この国の兵どもも、案外間が抜けてやがるな」

 唐突に。チャイルドは話の矛先を変えた。

「は……?」

「大事な大事な巫女様の部屋に妙な奴が突っ込んだってのに、俺とお前らが話をする間誰も駆けつけて来ねーってのはどうかと思うぜ。そこの聖騎士がいなかったらどうするつもりなんだか。つーかよ、俺が突っ込む前に既に壁には穴が開いてたみたいだが、ありゃフェイトだよな? 普通あいつが来た時点で人がどやどや押し寄せるだろ。どうなってんだこの国の警備は」

「……」

 痛いところを突かれたのか、ラトが押し黙っている。チャイルドはそれを見て、愉快そうに笑いながら、

「だがまあ、さすがにさっきの轟音で叩き起こされたみたいだな。緊急事態よろしくドタバタ走って来てやがる。ひい、ふう、みい……けっこうな数がいるな。楽しませてくれそうだ」

 実に嬉しそうに、歓喜の笑みを顔中に貼り付けて。チャイルドはそう言った。

 そしてその言葉で、シルフィは察する。チャイルドが待望した相手が誰なのか。抜かれた剣を向けられるのは誰なのか。てっきりフェイトかと思っていたが、違うのだ。彼が現れればチャイルドの目は彼に向くだろうが、その間の退屈しのぎとして選ばれたのは――

「に――」

 逃げて、と、届くはずがないと分かりながらも叫ぼうとした。

 そしてその言葉が終わらないうちに、部屋の扉が開け放たれる。

「巫女さっ――……ま?」

 ――死んだことが分からないまま逝ける。それだけでも、先頭にいた男は格別に運が良かったのかもしれない。

 軌跡すら見えなかったチャイルドの剣は先頭の男の首を刎ね飛ばし、振り抜いた状態のまま停止した。突然の凶行に慌てて止まる集団の目の前で、魔王が口を開く。今しがた斬った男を、そしてこれから斬る者たちを、哀れむように。あるいは嘲笑うように。遥かな高みから見下ろした、傲慢極まる声で言う。

「記念すべき一人目だ。さあ、二人目以降もどんどん来い。――ああ、ちなみに、逃げようとする奴から殺す」

 シルフィの耳朶に触れたのは、果たして怒号なのか悲鳴なのか。

 

 夜闇の化身が、暗闇の中を凄まじい速度で駆けて行く。

「ちょ、リヴちゃ、――待っ!」

 ノエルの途切れ途切れの叫び。なぜ途切れ途切れになっているのかと言えば、自分と主人以外は知ったことではないと言う風に疾走するエヴリスの背中に乗っているからだ。アレスとゲッソーも一緒に乗ってはいるが、男二人は既に気絶一歩手前という状態である。情けないことだ。

 リヴは、

「黙ってて! 話なんかしてる暇ないんだからぁ!」

 恐怖にかられた声でそう怒鳴り返してきた。もちろんエヴリスの速度は一向に緩んではいない。

 何か非常に急いでいることは分かるが、ともかくこんな速さで走られてはいずれ自分たちが死ぬ。ノエルはそう思い、必死にリヴを説得しようとした。この子はどうしてこの振動に何も感じないのだろう――と、少しだけ首を傾げつつ。

「待って、ちょっと、止まっ――て! どうした、の! 何をそんなに急いでるの!?」

 エヴリスが大きく跳躍し、ノエルの身体が浮いた。命が危ないと思ったことはこれまでにも数え切れないほどあったが、今の一瞬の浮遊感はそれら全てを合わせた恐怖よりも勝っていた。

「チャイルドが来るの!」

「チャイ? なに、誰!?」

「東の魔王よぉ! もううるさいから黙ってて!」

 魔王はフェイトじゃないの? と尋ねたかったが、有無を言わせないリヴの言葉がそれを許さなかった。

 ノエルは思わず押し黙る。言葉に従ったと言うより、驚いて声が出せなかったと言う方が正しい。

 フェイトから紹介されてから今まで、リヴは大人しく無口な娘だと思っていた。実際彼女はフェイト以外とはほとんど話さない。こちらから声をかければ返事はするが、それ以上関わることを望んでいないような様子だった。その様子から、人見知りが激しい性格などと思っていた。

 だが、この豹変ぶりはどうだろう。

 寝ていたノエルをベッドから文字通り引きずり降ろし、半ば脅しのような口調で自分に従うよう命令してきたリヴ。ノエルはもちろんだが、おそらくゲッソーとアレスも、寝る前にちょこんと頭を下げておやすみを言った少女と同一人物だとは思えなかっただろう。

 説明を求めた男二人を殴り倒して無理やり自分に従えさせたときなど、悪い冗談にしか見えなかった。

 シルフィをどうするのか。

 フェイトはどこにいるのか。

 これから一体、何が起こるのか。それらを全く説明されないままイベリアを離れた。まだそれほど時間は経っていないにも関わらず、もうかなりの距離を走っている。それでも尚エヴリスは速度を緩めなかった。

 リヴがどういう仕組みでこの速さに耐えているのかは、この際どうでもいい。だが、何とかしてくれなければ自分たちが振り落とされてしまう。

「リヴ、ちゃん! お願いだから少しだけゆっくり! これだけ離れればそのチャイルドって奴も――」

「あなた、ばか!?」

 あまりと言えばあまりな言い草に、思わずノエルは言い返そうとして――言葉を失った。

「これ以上遅くしたら捕まっちゃうのに! あなたたちが耐えられる速さにしてあげてるのに! 本当はもっともっと速く走らないといけないのに!」

 振り向いたリヴの表情は、焦燥と恐怖に彩られていた。自分たちの前では常に無表情を繕っていたリヴのこんな顔は、当然ながら見たことがない。

 目の前のことに必死で、表情を作る余裕などない。怯えきったリヴの瞳は、ノエルにそのことを告げていた。

「捕まる……? 何? どういうこと?」

 気になる言葉を尋ねてみると、震える声が返ってくる。

「追いかけられてる」

「?」

「イベリアからずっと。物凄く速い何かがわたしたちの後を追ってきてるの。エヴリスでも逃げ切れない……追いつかれはしないけど、今のままの速さじゃ逃げ切れない」

 その言葉を、ノエルは少し信じられなかった。自分たちの意識など、油断すればたちまち途切れてしまいそうなほどの速さ。それについてくる追手というのは、一体どんな化け物だというのか。

 まさかという思いで背後に目をやる。吹っ飛ぶように過ぎ去っていく景色は闇一色に彩られていて、今が夜だということをノエルは何となく思い出した。地面が物凄い速度で現れては消えていく。あまりに早すぎる変化の連続。じっと見ていると気持ち悪くなってくる。

 しかし、追手の姿など、どこにも見当たらない。この速さで動いているエヴリスについてくるのなら、消し飛んでいく景色の中では絶対に浮いてしまうはずである。エヴリスの背中にしがみつくように腹ばいになりながら、弓を構えてみた。一本だけ試しに放ってみる。

 瞬きする間もなく闇に矢が飲み込まれて行くが、視界の中には何の変化もない。

「……何もいないみたいだけど」

 呟いた言葉に返されたのは、リヴの心底呆れたような声だった。

「相手は魔族なのよぉ? それも今は夜。闇が世界を支配する時間。姿を見せるわけがないじゃない」

「でも、矢は――」

「矢の一本でどうにかなる相手なら、最初から逃げずに戦って倒してるわよぉ」

 別に倒すのが目的ではなく、不意を打って何らかの動揺を誘おうとしただけだ。ノエルはそう言おうとしたが、やめておいた。リヴのことだから、そんなのは無駄な行為と切り捨てるだけだろう。ノエル自身もそう思う。

「エヴリスがそう言ってるんだから間違いないの。変に疑うようなことしないでよぉ」

 怒ったように言い、プイと前を向いてしまった。

 何も怒らなくてもいいのに、と苦笑しながらノエルは思った。本当に追手がいるなら苦笑などしている場合ではないのだが、姿は見えないし何の反応もない相手を警戒しろと言われても、いまいち現実感が湧かないのである。

 リヴの言う通りなら、ノエルにはその相手はどうしようもないらしいのだ。やきもきするだけ無駄でもあった。

 軽く息をついて、ゲッソーとアレスが落ちていないことを確認。微かに繋がっている意識でかろうじてエヴリスの体毛を掴んでいる。エヴリスは痛くないのだろうかと思うが、まあ何の反応もない以上、痛くないのだろう。

 そのとき――

「……え?」

 リヴの声がした。

 何か、あまり思わしくない報告をされたらしい。顔が強張り、エヴリスに対してふんふんと頷いている。

「どうかしたの?」

 リヴが一人思案顔になったところで、尋ねた。

「……変」

「なにが?」

「わたし今まで、後を追ってくるのはチャイルドの手下だと思ってたんだけどぉ」

「違うの?」

「違うみたい」

 自分でもわけが分からないのか、リヴは首を傾げて困惑している。リヴに分からないものをノエルが分かるはずもないが、それでも一応、思いついたことを口にしてみた。

「チャイルドの手下じゃないってことは、敵じゃないのよね」

「だと思うけどぉ」

「それじゃ、いっそ止まって会っちゃえば?」

「う〜ん……」

 その案も考えてはいたのだろうが、リヴは決断しかねている。まあ、悩むのも分かる。速度を落とすのは相手に決定的な攻撃のチャンスを与えることになるのだ。もしも敵だったらと思うと、おいそれと減速もできないのだろう。

 だが、何らかの対応を取らなければ、追いかけっこはいつまでも続くことになる。それに、朝が来ればエヴリスはリヴの体内に戻らなければならないのだ。追手を振り切らない限り、いつかは追いつかれてしまうのである。

 それを考慮したのか、リヴは渋々といった感じながらも、頷いた。

「分かった。一応、弓矢で狙ってみて。無駄だとは思うけどぉ」

 余計な一言を口にしつつ、リヴはエヴリスに話しかけた。腹ばいになったら少しはマシになっていた風圧が徐々に消えていく。ノエルは相変わらずの体勢のまま、後方にじっと目を向ける。

「――っ!」

 ほんのわずかに、動く影が見えた。

 弓を構えた手がピクリと動くが、放ちはしなかった。正確に言うなら放てなかった。狙いがつけられないのだ。闇に紛れて見えづらいというのもあるが、恐ろしく速いためにすぐに見失いそうになる。

 それほど大きい相手ではない。少なくともエヴリスのような巨体ではない。はっきりとは分からないが、どうも人間とそう変わらない大きさのように思えた。

 あれくらいの大きさなら、エヴリスなら倒せるのではないか。ノエルはそう思う。戦いにおいて大きさとは絶対ではないが、かなりの要素を占めることは事実なのだ。

「ねえ――」

 と呼びかけてから、ノエルは相手が魔族であることを思い出した。

 人間にはない様々な能力を持つ魔族にとっては、大きさはさほど重要なものではないのかもしれない。身近な例を考えてみる。実際に戦うことはまず絶対にありえないだろうが仮の話として考えた場合、エヴリスが本気で襲い掛かったとしても、フェイトに勝てるとは思えない。

「なに?」

 苛立たしげなリヴの返事。「あ、ごめん。何でもない」と、叱責覚悟でそう言おうとして、

「――い、おい、リヴ! 安心しろ、俺だ!」

 その声は、速度を落としつつあるエヴリスのすぐ後ろから聞こえた。

 誰のものかと考えるまでもない。追手が語りかけてくる。それも、リヴを名指しで。

「……?」

 ノエルが目を向ければ、困惑顔で首を傾げるリヴがいる。心当たりはないらしい。口調からしてフェイトとは違うし、何者なのだろうか。

「誰ぇ?」

 ノエルの隣まで這ってきて、リヴは眼下にいる影に問いかけた。影が少し転びかけたような動作を見せた。

「誰と来るかよ! 忘れんなよ! 俺だ俺、ギムルだよ!」

 心外そうな怒鳴り声に、リヴはそれでもやはり首を傾げた。が、一応「どこかで聞いたような名前の気もする」といった表情に変化はしている。基本的にフェイト以外は眼中にないこの少女。その他大勢の一員であった魔族など、最初から視界に入ってはいなかったのだろう。名前に反応するだけでも上出来なのかもしれない。

 とりあえず分かるのは、敵ではないということだ。チャイルドの手下ならリヴのことなど知るはずがないし、そもそも制止などせずに最初から襲い掛かってくるはずだ。

「止まれば分かることじゃない?」

「それもそうね。誰だか知らないけど、今止まるからちょっと待っててぇ」

「誰だか知らないけどって何だよ! 思い出せよ頼むから!」

 記憶として残っているはずだと確信するほどには、リヴの身近な場所にいたらしい。ギムルと名乗る魔族は、リヴの言葉に悲痛な叫び声を返してきた。

 そうしているうちに、風が弱まっていく。ゆっくりとしたエヴリスの減速だが、これは仕方ないのだ。速さが速さだった上、急停止するとリヴはともかくノエルたちは前方に吹っ飛ばされてしまう。そのことを気にかけてくれているのだ。

 リヴがそんなことを考えてくれることに少し驚くが、大方フェイトからの言いつけだろう。ノエルたちを傷つけることのないように、という。

 まあ、怪我さえしなければ何でもいい――短い旅路の間にリヴがフェイト以外には懐かないと悟ったノエルは、少し寂しげにそう思った。

 やがてエヴリスが、完全に立ち止まる。くるりと身体を回転させ、同じく速度を落としたギムルに向き直る。

 動きを止めたギムルは、体型は人間のそれだった。

 ただ、彼は虎だ。

 比喩でも何でもない。人間が虎の顔を持っていると言うより、虎が二本足で立っていると言ったほうがしっくり来る。それほど自然に虎をやっていた。闇の中に浮かぶ金色の体毛は、どうして彼を今までとらえられなかったのかとノエルが不思議に思うくらい目に映える。

 エヴリスの頭の上から、ノエルはリヴの隣で彼を見下ろしていた。人間がエヴリスの上にいることには、特にギムルは騒がない。

 彼はニッと笑って、リヴに問いかけた。

「思い出したか?」

「……全然」

 ノエルの横で呟かれた答え。ギムルは笑顔をピシリと固まらせ、何かを否定するように震えている。

 が、現実を受け入れる決心がついたのか、少しして震えを抑え、怒鳴った。

「こっの恩知らず! 薄情者! 十年前、泣いてばかりのお前を見かねた魔王様の命令で、朝から晩までお前のお守りをさせられたこの俺を忘れたか!? 毎日毎日ビービー泣きまくって人をノイローゼ気味にしておいてよくもぬけぬけと……っ こ、この……親不幸者!」

「あなたわたしの親じゃないでしょぉ?」

「言うことはそれだけかてめぇ! ちょっと降りて来い! お仕置きだコラッ!」

「お仕置きって……エッチ。変態」

「そっち方面に思考を向けるオノレの方がよほど変態だ! それにな、お前なんか女のうちには入らねえよボケ!」

 これにはリヴもカチンときたらしい。ノエルの横で、湖面のように静かだった瞳に炎が灯った。

「エヴリス、食べちゃっていいよぉ」

 かなり嫌な感じの命令に、しかし夜闇の化身と呼ばれる化け物は珍しく戸惑っている。どうやら彼はギムルのことを憶えているらしい。「いいの。生かしておくだけで害悪だから」などとリヴが言い聞かせていることから推測するに、エヴリスは「こいつを食べてはまずいのではないか」とでも問うたのだろう。

「誰が害悪だコラ! てめぇのペットも憶えてるような相手を忘れるなんざ、どういう神経だ!」

「エヴリスはペットなんかじゃないの」

 ギムルがぎゃーぎゃー怒鳴れば、リヴはいかにも迷惑そうに首を傾げる。放っておけば永遠に続きそうな不毛な争いに終止符を打ったのは、意外なところから聞こえた声だった。

「ノ、エル」

「? ああアレス、起きたの」

「これだけ騒がれていれば、うるさくて眠れやしないさ。それよりお前、ギムル」

「? 何だよ人間。馴れ馴れしく呼ぶんじゃねえよ」

「子供相手にムキになってないで、さっさと話を進めてくれ。お前は何者だ」

「……子供ぉ?」

 アレスの言葉に、リヴがピクリと矛先をこちらに向けた。

 が、それを制するようなギムルの言葉が一瞬早かった。収拾のつかなくなるところだった言い合いに水を差してくれたことを密かに感謝しているような、わずかに親しみのこもった声で彼は言った。

「さっきも名乗ったが俺はギムル。自分で言うのもなんだが、これでも北の地域では五本の指に数えられる力を持っている。もっとも、ゴンザレスっていう五人のうちの一人は魔王様が出奔したときに殺されちまったから、実際にいるのは四人だがな。魔王様がいない今、北の地域は俺たち四人が動かしている状態だ」

「お前が偉いことは分かったが、だから何の用なんだ?」

「そうだそうだ。時間もあまりないから単刀直入に言うとだな――リヴ、魔王様はどこにいる?」

 ギムルは突然、話に置いていかれて面白くなさそうな顔をしていた少女に矛先を変えた。

 自分に話題が向いたことに一瞬きょとんとしていたが、やがてリヴは見る見るうちに表情を強張らせる。

「それを聞いて、どうするのぉ?」

 対するギムルは、警戒心に満ち溢れたリヴを見て苦笑する。

「トロイ山脈と逆の方向に一直線に走ってたんだ。チャイルドが来ているのは知ってんだろ?」

 コクリとリヴは頷く。

「なら分かるだろ。お前だって馬鹿じゃねえんだからよ」

「……チャイルドの相手をさせるつもりなのね」

「そういうことだな」

「フェイト様は魔王を辞めたのに、まだ貴方たちはフェイト様を頼るの?」

 嫌味がたっぷりこめられたリヴの言葉。

 てっきり渋い顔をするのかと思いきや、ギムルは、それに心底嫌そうな顔をした。

「俺だって頼りたかねえよ。自分勝手に魔王を辞めたクソガキなんてな。でもな、仕方ねえんだよ。魔王とかそういうのを抜きにしても、チャイルドに対抗できるのは魔王様――フェイトしかいねえんだ。北を守るには他に方法がねえんだよ」

 その通りだと思ったのか。リヴは何か言いかけたものの黙り込み、悔しげにギムルを見上げるに止まった。

 しかし、リヴはともかく魔族の中でもトップクラスであるはずのギムルまでもが、フェイト以外には誰も太刀打ちできないと言うチャイルド。相当強烈な相手のようだった。

「だからさっさと教えろ。フェイトはどこだ?」

 魔王様と呼ぶのもやめて、顔をしかめながらギムルは言う。これから頼る相手に対してその態度はないのではないかと思うが……しかし、フェイトは多くの魔族を殺して魔王を辞めたのだ。嫌われていても仕方ない節もある。

「……イベリア」

 じっと黙り込みながら、リヴは微かにそう呟いた。

 それを聞いた瞬間、ギムルの表情に焦燥が走る。

「トロイ山脈の目の前じゃねえか! チクショウ、暢気に追いかけっこしてる場合じゃなかった!」

 言い捨てて踵を返し――ふと振り返って、リヴに向かって言ってきた。

「フェイトを死なせたくないなら、お前も来てあいつを助けるんだな。エヴリスとお前ならチャイルド相手でも手伝いくらいはできるだろ。あいつがそれを望むかどうかは分からんが」

 それだけだった。それだけ言って、ギムルは振り返ることなく駆け出した。リヴもすぐに後を追……うのかと思いきや、

「……」

 意外にも、リヴはじっと俯いたまま黙り込んでいた。

「どうしたの?」

 ノエルはそう尋ねる。イベリアにはシルフィもいるのだ。フェイトが残っているなら心配は要らないとも思うが、それでもこの目で無事を確かめておきたいというのが本音だった。連れられるままにリヴと逃げていたが、できるならば引き返したい。

 早くしないと夜明けが来てしまう。そうなれば、後は歩いてイベリアに向かうしかない。戻るならば、その前にできるだけ距離をなくしておきたかった。

 だが、何やら葛藤をしているらしいリヴを急かすのも、それはそれで気が進まない。

 心中でやきもきしているノエル。そんなとき、リヴはポツリと呟いた。

「わたしは、フェイト様からあなたたちを守るように言われたの」

「……? うん」

「フェイト様は逃げろって言ったの。振り返らず、イベリアからできるだけ離れろって。もしその言いつけを破ったら、わたしきっとフェイト様に怒られる。フェイト様に怒られるのが、わたしは凄く怖い。捨てられちゃうんじゃないかって、わたしのことなんかもう要らなくなっちゃうんじゃないかって、そう思うの」

「……」

「……でも」

 道に迷った子供のような顔で、リヴは頭を振りながら言った。

「わたしが戻らないせいでフェイト様が死んじゃったらって思うと、それも、捨てられるのと同じくらい怖い……わたし、どうしたらいいのか分からない」

 頭を抱えて、救いを求めるような目をして。この娘のこんな顔など初めて見るが、年齢から考えて、おそらくこちらが素の表情なのだろう。リヴは普段は仮面を被っている。冷たい無表情と無関心。冷徹にも見える、しかし今のようにどこかが必ず綻んでいる薄い仮面を。

 フェイトの前でだけ、彼女は仮面を外すのだ。

 フェイトは、彼女が心を許せる唯一の相手だから。だからこそ捨てられるのが恐ろしい。フェイトがいなくなってしまったら、リヴは一生仮面をつけたまま過ごさなくてはならなくなるから。

「リヴちゃんは、どうしたいの?」

「……え?」

 ノエルの問いに、リヴは顔を上げた。

「どっちを選んでも怖いことが待ってるならさ、やりたい方を選べばいいじゃない。大丈夫。フェイトがあなたを捨てようとなんかしたら、そのときはわたしたち皆であいつを捕まえてあげるから」

 もっとも、そんなことはありえないだろうけど。

 自分にくっついてはしゃいでいるリヴを見ているフェイトの目は、それまで見たことがないほど優しいものだったから。

 そう思うノエルの隣で、リヴはしばらく思い悩んでいた。

 が、やがて意を決したように顔を上げた。その目は真っ直ぐにイベリアの方向へと向けられている。

「戻りたい」

「じゃ、戻りましょう」

 そこから先は即決だった。地獄の行程がまた繰り返されると知ったアレスとゲッソーは少しだけげんなりしたような表情を浮かべたが、文句を口に出すことはなかった。もっとも、出すような文句など最初からなかっただろうが。彼らもまた、シルフィやフェイトのことが心配だったに違いない。

 ただ、

「少し急ぐから、ちょっと速さを上げるから。振り落とされないようにしっかり?まっててねぇ」

 その言葉を口にしたリヴは前を向いていたから、アレスとゲッソーの物言いたげな表情にはきっと気づかなかっただろう。

 男二人と似たような顔をしていたであろうノエルは、せめて来るときと同じくらいの速さにしてくれないか、と頼もうとする。

 が――

「行って、エヴリス。フェイト様のところまで」

 リヴの言葉の方が、一瞬早かった。

「――っ!!」

 後ろへ吹き飛ばされるような強烈な風圧が、ノエルの全身に襲い掛かった。慌てて、と言うよりかろうじて仰向けになることに成功し、不安定な格好のまま必死にエヴリスの体毛にしがみつく。なりふり構うどころではない。そうしなければ、たちまち振り落とされてしまう。

 自分の言葉が、リヴを勢いづけたのだ。

 そう思うと、後悔すると同時にわずかに嬉しくもあるノエルだった。

 白み始める気配を漂わせた星空の下、夜闇の化身が、来た道を凄まじい速さで駆け戻っていく。

 

 人並み以上には、修羅場や危険というものを潜り抜けてきたつもりだった。

 血を見ることだって、半ば日常茶飯事のようになっていた。

 殺し、殺される。そんな空気を体験したことも、一度や二度ではない。

 だが、

「――ぁ」

 悲鳴すらあげられないまま、シルフィはその光景を凝視していた。

 目を逸らせない。

 自分のものではないかのように、身体がピクリとも動かない。

 悪夢。そう言うのが最もしっくりくる目の前の惨状。その中に一人立つ赤い男は、正に悪魔そのものだった。双剣を操る魔性の王は、血染めの己が身をしばし恍惚とした表情で眺めていた。

 十分も経っていなかった。

 たったそれだけの間に、シルフィの部屋に押しかけてきた人間は皆殺しにされたのだ。その中には聖騎士もいたはずなのに。イベリア最強の精鋭が、何人もいたはずなのに。チャイルドの身体には傷一つついていない。彼の浴びた血は彼が屠った者の血だ。

 動けないのは、シルフィだけではなかった。

 シルフィを庇うような位置にいるラトもまた、目の前の悪魔の存在を信じられないように凝視していた。

 二人して竦む中、チャイルドがふと顔をあげ、ゆっくりと口元を歪め始めた。恍惚の表情を消し、ラトに向けてかシルフィに向けてか、はたまたただの独り言なのか。判別のつかない一言を口にした。

「弱え」

 ポツリと、それだけ。

 彼が何を言っているのか分からないシルフィとラトは、怪訝に顔を見合わせた後、再びチャイルドの方を向く。彼は、はーっと盛大にため息をついて、独白を始めた。

「弱すぎんだよ。全く呆れるくらい弱え。殺しは楽しかったけどよお、いくらなんでもこりゃねえだろ。俺を傷つけることは絶対に不可能だけどな、それでも一太刀も浴びせてこねえってのはどういうことだっつーの。それも、大臣とかそういう頭脳労働なヤツならともかく、コイツなんかは聖騎士だろうが」

 と、足元に倒れ伏している男を示す。確かに彼は聖騎士の一人だった。シルフィも見覚えがある。

「拍子抜けだ、こりゃ。軍隊なんか率いて来るまでもなかった。こんな国は俺一人で潰せちまう。フェイトがいるって聞いたから、少しは楽しみにしてたのによぉ」

「……お前一人で、だと?」

 ボソリと。

 シルフィの目の前にいる人物が、怒りを押し殺したような声をあげた。チャイルドがラトを見ながら、挑発めいた笑みを浮かべる。

「一人前に怒ったか? 動けもしない腰抜け騎士が」

「……っ」

 呆気なく挑発に乗り、立ち上がってずいっと一歩前へ出るラト。手は既に腰の剣にかけられている。チャイルドがもう一言何か口にすれば、その内容が何であれ、彼に向かって襲い掛かることは必至だった。そして――その結果もまた、明らかだった。

 ラトは決して弱くない。むしろ、聖騎士の中でも一、二を争う使い手だったはずだった。剣のことなど分かりはしないから断言はできないが、おそらくアレスと同等かそれ以上。人間としては間違いなく最強の部類に入る。

 だが、チャイルドが相手では、あまりにも次元が違う。

 十数人を相手に傷一つ負わず、飄々と感想を述べるような化け物。そんな相手にラトが、“人間”が勝てるはずがない。

 わらにもすがる思いで、シルフィは崩壊した壁に目をやる。頼みの綱の少年はいまだ姿を現さない。死んではいないだろう。それだけは断言できる。変化した状態のフェイトにダメージを与えられる者など、この世には絶対に存在しないはずだ。

 待っていれば、必ずやって来る。

 そう信じながら、シルフィはラトの服を掴んだ。ラトが動きを止め、振り返ってくる。

「シルフィ」

「……」

 声も出せず、ただ首を横に振って意思を示した。

 ラトの瞳に少しだけ冷静さが取り戻される。シルフィはそれを見てほっと息をついた。よほど頭に血が昇っていなければ、あの化け物に挑もうなどという無謀なことはしないだろう。

「行かないでってか。見せ付けるなオイ。こっちが照れるぞ、色男」

 二人のやりとりを見ていたチャイルドが、揶揄するように言ってくる。ラトが再び彼の方を睨むが、今度は挑みかかるようなことはなかった。

 ニヤニヤ笑みを浮かべながら、チャイルドは再度口を開く。

「正直羨ましいぞコラ。どーすっかな、目の前でイチャつかれるのもムカつくし……男だけ、それとも二人とも殺すか? 絶望している女は好きだが、泣き壊れた女は苦手だしなあ。おい、どっちがいい?」

 そんなことを尋ねられるが、腰が抜けているシルフィは返事もできないし、ラトは無言で睨み返すばかり。チャイルドはしばし待ってから肩をすくめ、

「希望がないなら俺が決めるぜ。――二人とも殺す。そっちの聖騎士はどうでもいいが、巫女の死骸を民衆に晒したら、そりゃあ面白いことになるだろうなあ」

 その言葉にビクリと身を震わせたシルフィを、ラトが自分の身体で隠した。チャイルドの笑みが更に深まる。

「そう緊張するなよ。なに、今すぐ殺したりはしねえさ。餞別に面白いもん見せてやる。多分、人間じゃお前らくらいだぞ、これ見れるのは」

 何を言っているのか分からない。ただ、今すぐ殺す気はないという言葉に、少しだけ頭が働いた。フェイト、生きているならそろそろ来てもいいはずだ。それとももう来ているのだろうか。この部屋のどこかから、じっとチャイルドの隙を窺っているのだろうか。

 だが彼の魔法なら、隙を窺うことなどせずに問答無用で吹っ飛ばしてしまえばいいという気もする。一体――

 そう思った直後、チャイルドの心底楽しそうな、喜びに満ちた声がした。

「魔王同士の殺し合いだ。滅多に見られるもんじゃねえから、その目にしっかり焼き付けとけ」

 ――? 疑問を感じたのは、ほんの一瞬。

 強烈な閃光と熱波と爆裂は、床の下からせり上がってきた。

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