出来損ないの支配者

 

 目の前の光景が信じられない。

 崩れ落ちた城の跡地。ラトと別れ、国民を激励していた時だった。信じられない物を見たような気がして、制止の声も聞かずここへ来た。

 そして、シルフィは見た。

 見たが、夢かと思った。

 ありえなかった。ありえない光景だった。

 最強であるはずなのに。

 彼に傷を負わせられる者など、一人もいないはずなのに。

 何故? と思う。

 あなたは、雷になれるんじゃないの?

 炎にでも風にでも何にでもなれる、反則のような魔法を使えるんじゃないの?

 それがどうして、チャイルドの剣が胸に突き立っているの?

 壁に縫い付けられ、呼吸すらもかすれているフェイトを見ながら、シルフィは動けない。

 信じられなかったというのもあるが、それ以上に怖かった。

 フェイトの前に立っているチャイルドが、たまらなく怖かった。

 人間など足元にも及ばないほど強い少年。その彼を倒してしまった男が、どうしようもなく怖かった。

「皮肉な光景だよなあ」

 東の魔王は言う。

 瀕死の元北の魔王に向かって、言う。

「お姫様が駆けつけてみれば、敵を倒すべき勇者が倒されていました、か。笑えねえなあフェイト。お前が死んだらお姫様はどうなるよ? 魔王に連れ去られて、苦痛と屈辱に満ちた人生が待っているのみってか?」

 シルフィの方に、わずかに目を向けてきた。

「――っ」

 わざとやっているのだろうが、目つきが妙にいやらしい。

 思わず身を固くするシルフィにニヤリと笑って、チャイルドは再度フェイトに向き直った。

「……お?」

 その目がわずかに見開かれる。驚いたように、そしてわずかに嬉しそうに。口元に笑みを浮かべながら、意地悪く声をかける。

「ようやく少しは根性見せるか?」

 自分に突き刺さった剣に、フェイトは手をかけていた。力を込めて引き抜こうとしている。

 だが、背後の壁にまで深々と突き刺さった剣は、弱々しい今のフェイトではビクともしない。身体に剣が突き刺さっているのである。少し動くだけで激痛がするはずなのに、苦悶の表情を浮かべながら、それでもフェイトはチャイルドの目の前で必死に足掻く。

 チャイルドを睨んでいた。

 別人かと思うような壮絶な目で、フェイトは宿敵を睨んでいた。

「……あっ」

「あ?」

 フェイトが漏らした声に、チャイルドが軽く耳を貸す。

 その刹那――

「あああああああああああああああっ!」

 血を吐くような叫びと同時に、壁面に縫い付けられたフェイトの身体がかき消える。変化の魔法。いっそ狂ってしまった方が楽だったであろう痛みの中で、よく発動できたものだ。

 だが、

「……え?」

 轟音も閃光もない。常の攻撃手段であった雷ではない。

 どこへ? そう思うと同時に、チャイルドの呟きが聞こえてきた。

「……逃げたか。あの野郎」

「は!?」

 まさかそんな感想を聞くとは考えていなかった。シルフィは思わず、チャイルドに対して疑問符つきの声をあげてしまう。

 チャイルドは壁に突き立った剣を引き抜き、つまらなそうに鞘に納めた。こちらを振り返る。先ほど見せた笑みも浮かべていない、淡々とした表情。この男もこんな顔をすることがあるのかと、シルフィは妙な部分に感心する。

「まあ、どこかで傷でも癒すつもりなんだろうが……お前、すっかり忘れられてるなあ」

「……」

 言われてみれば。

 フェイトが姿を消した今、シルフィの身を守ってくれる存在が皆無である。自分で戦うことも考える。勝てるなどとは思わない、せめて逃げる時間だけでも稼げないものかと考えるが――

「……うぅ」

 自分が何かすることで一瞬でも隙を見せるような相手なら、フェイトが苦戦するはずもないのだった。フェイトの魔法をどうやって防いだのかは分からない。分からないが、断言できることが一つ。フェイトの魔法を防いだのなら、自分の攻撃などは何一つ通じないということ。

 どんな力を持っているのかは分からないが、攻撃以外の方法を選ぶしかない。目くらまし? フェイント? 何をすれば、チャイルドを欺ける?

「――いや」

 思い浮かんだ作戦を考えては捨てているシルフィの前で、ふと、チャイルドが小さく呟いた。

「忘れるはずはねえ。そもそもこの国に来た理由がお前だし、フェイトの性格からして、自分が死んでもお前を守るはずだ」

 シルフィに言っているのではない。独り言のような調子の言葉。今なら逃げられるだろうか。そう思って、試しに一歩後ろに退いてみる。

 と――

「――ひっ」

「一歩も動くんじゃねえ……ぶち殺すぞ」

 注視していても分からないような、小さなシルフィの動き。

 だが、チャイルドはそれに反応した。横目でこちらを睨んでくる。ドスが利いているわけでもないのに、恐ろしく凄みのある声が向けられる。

 たったそれだけで、シルフィの身体は完全に硬直した。

 動けない。動かない。頭から指先にいたるまで、恐怖が全身を駆け巡る。チャイルドの言葉に、シルフィの全てが服従の意思を示す。

 他の誰にも何にも、こんな状態になったことはなかったのに。

 怖いと思うことは何度もあったが、身体が動かなくなることなど一度もなかったのに。

 格が違う。

 自分が今まで相手にしてきた連中とは、悲しいほどに違いすぎる。実力も、経験も。たった一言で他人の行動を抑制できるような存在が、まさか本当にいるとは思わなかった。勝てない。敵わない。手も足も出ないどころか、出そうとする意思すら挫かれる。

 ――フェイト。

 どこへ行ったのだろうか。

 まさか、本当に逃げたのか。自分を見捨てて? そんなはずはない。誰かを見捨てて逃げるような性格ではないし、それにシルフィは思うのだ。慢心でも何でもなく、状況を判断した結果からこう断言できる。

 フェイトには、自分が必要だ。

 リヴでもラトでも、アレスでもゲッソーでもノエルでもない。今のフェイトを助けられるのは、自分しかいない。

 そのとき。

「……まだいるだろ? フェイト」

 シルフィの考えと同じことを、チャイルドもまた口にした。

「巫女様がいるんだ。お前がここから離れられるわけがねえ。仲間とか守るとか以前の問題で――こいつなら、お前の傷を治せるからなぁ?」

 治癒能力。

 神の奇跡として国全体から崇められている、シルフィの魔法。

 いくらチャイルドとて、全力のフェイトとぶつかったなら消耗していないはずがない。無限の力などこの世にはないのだ。多少なりとも、チャイルドは疲れている。

 自分がフェイトを回復させれば。

 この際自分は倒れてもいい。可能な限りフェイトを全快近くまでもっていくことができれば、この戦いは絶対に勝てる。チャイルドさえ倒してしまえば、後はどうにでもなる……はずだ。多分。

 この戦いの鍵は自分が握っている。今更ながらそれに気づいて、シルフィはゴクリと唾を飲み込んだ。自分がフェイトを回復させられるかどうか。それの成否で全てが決まる。

 自分にできるのは国民を煽って戦ってもらうこと。それだけだと思っていたのに、まさかこんなところでもう一つ、重大な役目を背負うことになるとは。運命というのは気まぐれだと思う。何がどうなるか分かったものではない。

 が、一つだけ言えること。

 それを自覚した以上、恐怖に震えてなどいられないということだ。爪が食い込むほどにきつく手を握る。唇が破れてしまうほど強く噛む。ほんの少しでもいい。痛みでも衝撃でも、動かない身体がわずかでも動かせる何かを自分に与えなければ。

 ――皮肉と言っていいのかどうか。

 それを与えてきたのは、他ならぬチャイルドだった。

「出てこないのか? フェイト。なら先にこいつを殺すぞ?」

 シルフィにちらりと目を向けて、チャイルドが言う。ひどくつまらなそうな顔だ。フェイトと戦う前、シルフィの部屋で見せた顔とは似ても似つかない。あのときは無邪気さを纏う邪悪さという、悪魔のような笑みを浮かべていた。殺しを楽しいと言ってのけた。雑魚を嬲り殺すのも、強敵を死闘の末打ち負かすのも、どちらもが自分の楽しみであると口にした。

 フェイトは彼にとって、間違いなく最強の敵だったはず。

 それに勝利したというのに、この表情は何なのだろう。

 時間稼ぎと、純粋な疑問。二つの意思を込めて、シルフィはチャイルドに尋ねた。

「どうして、そんな顔をしてるの?」

「あ?」

「今のあなた、凄くつまらなそう」

「……」

 意外なことに――チャイルドはしばらく呆けたように口を開け、やがてくつくつと笑い出した。身を折って、口元をニヤケさせて。ワケが分からない反応に、シルフィが怪訝に思っていると、

「弱えんだよ」

 チャイルドは一言、そう言ってきた。

「弱い、弱い、弱すぎるんだよフェイトの野郎。散々期待させておいてこのオチ。納得できるか」

「フェイトが……弱い?」

 そんなはずはない。あれほどの力を持ったフェイトが弱いなどというのはありえない。仮に、シルフィたちと付き合ったことで実力が落ちていたのだとしても、弱者扱いされるほどではないはずだ。自分たちとフェイトの付き合いは、そこまで長くない。

 するとチャイルドは、露骨に顔をしかめながら、

「お前らが思うような強い弱いじゃねえんだよ。そりゃフェイトは強い。俺だって冷や汗はかいたが……期待したほどじゃなかった」

 だから弱い。チャイルドはそう言う。

 つまり、力は凄まじいし追い詰められもしたが、自分が想定していたほどのものではなかった。だから弱い。そういうことだ。強い、弱いの考え方が、根本的に異なるらしい。

「で、でも、弱いなら弱いで嬲るのも好きだって……」

「分かってねえな」

 シルフィの言葉を遮って、チャイルドは言った。

「雑魚なら雑魚でいいんだよ。最初から雑魚だって分かってるなら、俺もそれなりの楽しみ方をするさ。だがな、フェイトは強い。少なくとも俺はそう思ってた。それが……何だ、この有様は」

 吐き捨てるように。ずっと欲していたものが、手にいれてみれば実は大したことはなかったような、そんなときのように。

「あーあ、ったく。準備運動とは言わねえが、本番にしちゃ全然物足りねえ。中途半端ってのは嫌いなんだがな」

 そう独白しながら、シルフィの方を見ながら。

 チャイルドは、ポツリと言った。

「やっぱり殺すか、お前」

「――ッ」

「いや何つーか、正直お前にもこの国にも恨みはねえし、フェイト倒したら兵まとめて引き上げようかって思ってたんだけどよ。あまりに物足りなさすぎだ。それもこれもフェイトのバカが弱いせいだ。……ってことで、お前が後始末しろ。仲間だろ?」

 剣を抜き、こちらに近寄ってくる。

「後始末って……」

 思わず後ろに足を引く。が、チャイルドは追ってくる。距離を詰めたりはしてこない。こちらの恐怖をかき立てるように、シルフィが下がった分だけ前へ進んでくる。

 だが、後始末をしろと言われても、自分がチャイルドの相手などできるわけがない。フェイトが負けた相手に何ができるというのか。逃げることすらままならない相手と、どうやって戦えというのか。自分がやるくらいなら、アレスかラトでも連れてきた方がいくらかマシだろうと思う。

 そう言えば、アレスたちは無事なのだろうか。ふとシルフィは思い出した。この短時間に起こった目まぐるしい事態の変化に振り回されっぱなしだったが、彼らの安否をフェイトから聞いていない。まさか彼らを放ってこっちへ来るような真似はしないだろうから、とりあえずの安全は確保してあるのだろうが……。

 それに、リヴ。フェイトがいなくては生きていけないようなあの少女。フェイトが最大の危機に陥っている今、仲間内ではおそらく第二位の実力を持つ彼女はどこへ行ったのか。アレスやラトではチャイルドの相手は荷が重いかもしれないが、彼女ならしばらくは持ちこたえられるかもしれないのに。

 肝心なときに限って、誰もいない。

 この役立たずども――ッ 脳裏に浮かんだ顔を次々と罵りながら、シルフィはなんとかこの場を脱出する手段はないかと考える。

 と、

 ドン。

「……?」

 あまり認めたくない感触に、シルフィは思わず足を止めた。

「行き止まりだな」

「……」

 泣きそうになった。

 どうしてこんな、お話の中でも使い古されたような、敵に行き止まりまで追い詰められるなどという現象が、よりにもよって今このときに起こるのか。

 半分涙目になりながら後ろを見ると、おそらくフェイトとチャイルドが激突したときに破壊された城の残骸だろう、巨大な大理石の塊が山のように積み重なっていた。一歩や二歩横に動いて避けられる規模ではない。更に後ろへ行こうと思ったら、この塊の上を越えなくてはならない。

 この山を乗り越える暇をチャイルドが与えてくれるとは、とても思えない。

 かと言って、乗り越える以外に道はなさそうだった。横に逃げても追いつかれる可能性が高い。横へも前へも行けないなら、後ろへ行くしかない。

 目くらましの術を使って、どれくらい時間が稼げるか。それが勝負の分かれ目。追いつかれれば負け。逃げ切れば、とりあえずは勝ちとなる。とりあえずの勝ちが全体での勝ちに繋がるかどうかは分からないが、チャイルドから離れなければ勝機は見えてこない。そうしなければフェイトを回復させることができない。物陰に隠れるか、ラトに助けを求めるか。とにかくフェイトと自分が接触できる状態にしなくては。

「どうした? 逃げねえのか?」

 チャイルドの、強者故の自信に溢れた言葉。

 それが過信になっているのかは、シルフィには分からない。ひょっとしたらチャイルドは驕ってはいないかもしれない。弱者を、シルフィを、己の全力でもって徹底的に嬲り殺すつもりかもしれない。

 分からないし、どうでもよかった。

 チャイルドが全力であるかどうかなど、関係ない。弱者は自分の全力を尽くすのみだ。

 チャイルドが一歩進むために足を上げ、その瞬間にシルフィは膝を折った。

「――地裂!」

 言葉とともに大地に手をつく。そこを起点にして、大地がチャイルドに向けて裂けていく。

「何だそりゃ?」

 呆れたような声で、チャイルドはひょいと横に避けた。途中で方向転換などできるわけもなく、大地の裂け目はチャイルドの横を走っていく。チャイルドは更に近づいてくる。

 シルフィは、言葉を止めない。

「乱扇舞!」

 風が巻き起こる。

 自らの周囲に発生した竜巻を、シルフィはチャイルドに向けて飛ばした。風の刃の群れが魔王に襲い掛かる。大地を傷つけながら、大気を切り裂きながら。風の刃はチャイルドの身体を傷つけ――なかった。

「バカか? お前」

 再度、呆れたような声。

 周囲に蒼い障壁を顕現させて、チャイルドは風を防いでいた。だが、元々大した破壊力もないこの術では、たとえ直撃したとしてもそれほどの効果は期待できないだろう。

 地割れと風は、単なる目くらまし。

 一撃目、二撃目と攻撃をし、三撃目もまた攻撃の手段であると思わせるための布石。

 風がやみ、蒼い障壁が消失し――その瞬間を狙って、シルフィは叫ぶ。

「幻身!」

「――?」

 怪訝な顔をするチャイルド。

 二人の間で閃光が発せられ、それが消えると同時に、シルフィは身を翻して大理石の山を登る。

「……さっきから何やってんだ」

 心底あきれ果てたようなチャイルドの声が、後ろから追いかけてきた。

 だが、それでもシルフィは山を登る。気を抜くと落ちそうになるから、チャイルドの言葉などは半ば意識の外だった。逃げる以外に道はないのだ。やることが単純だというのは、この状況においてせめてもの救いなのかもしれない。

 こんな救い、欲しくもなかったが。

 後ろからの声に構わず、シルフィは冷や汗ものの斜面を登りきる。

「……」

 うんざりした。

 残骸が重なってできた山である。あちこちに暗い落とし穴があったり、人が突き刺さりそうな部分があったりと、危ないことこのうえない。一体どうして自分がこんな目に……思わずそう考える。

 考えると同時に、シルフィは足を踏み出した。

 行くしかないのだ。地獄への道だとしても。

 チャイルドはまだ追ってこない。高みの見物のつもりなのか、笑い声だけが聞こえてくる。必死に逃げるシルフィがそんなに可笑しいらしい。

 ――笑っていられるのも今のうちだ。

 チャイルドは幻身の効果を知らないらしい。あの術は、シルフィの切り札の一つ。攻撃できるものではないが、何と言うか、逃げるのには非常に役立つものだった。

 と、

「――ッ!」

 後ろを気にするあまり、前の方に注意を向けるのを忘れていた。

 足を滑らせて、シルフィは危うく瓦礫の隙間に落ちそうになる。冷や汗が全身から吹き出す。どうして見えているのか知らないが、チャイルドの笑い声が更に高くなった。

 怒鳴り返したくなる。こちらの思惑も知らずに、高笑いなどしていていいのか、と。

 だが、それでは何かを企んでいることがバレてしまう。謀略は隠しているから価値がある。こんなつまらないことで暴露してしまうわけにはいかない。

 欺き通すことが勝利なのだと、そう自分に言い聞かせて、シルフィは黙って立ち上がった。後ろを気にしつつも、歩きにくい瓦礫の山を慎重に進む。

 半ばまで進んだところで、後ろからの笑い声がふと途切れた。

 それなりに距離は開いているから、もう普通に喋っただけではお互いの声は聞こえない。

 だが、何が起きたのかは簡単に想像できた。チャイルドが笑い声を止めたなら――来る。

 一瞬だけ、背後を確認するために、シルフィは振り返る。

 そして、見えた。

「なっ!?」

 来た。

 笑い声が止んでまだ数秒。それなのに、シルフィが決死の思いで乗り越えた壁は既に突破され、チャイルドがこちらに向かって凄まじい速さで駆けてくる。

 反則だ、あんなの。

 身体能力とかそういうレベルではなく、もはや自分たちとは格が違う。フェイトが割とあっさり負けたのも頷ける気がする。

「――オラどうしたぁ!? もう逃げねえのかぁ!」

 煽るように。ヤジのように。追跡者であるはずのチャイルドは、シルフィにそう怒鳴ってきた。

「……ッ に、逃げるわよ!」

 聞こえるはずもない小さな声で叫び返し、シルフィは止めていた足を再び動かした。追いつかれることは必至だ。それでも前を向く。自分に出来るのは距離を稼ぐだけだ。助けを誰かに求めるしかできない。誰かに戦ってもらうしかない。

 情けない。そう思う。

 そう思うが、無謀に戦いを挑んで犬死にするような、もっと情けない奴にはなりたくなかった。自分にしかできないことが確かにある。それが鍵を握ることを知っている。そのためには逃げ切らなければならないことを理解している。

 それならば、逃げてやるのだ。

 地獄だろうが地の果てだろうが、逃げられるところまで逃げるしかないのだ。

 そう決意したところで、不意に静かな声が聞こえた。

 

「――終わりだ。イベリアの巫女」

 

 その声は、後ろから聞こえなかった。

 頭上。

 思わず見上げるシルフィの瞳に映ったのは、夜闇を舞う漆黒の影。

 影の動きに目の動きがついていかない。漆黒の影は一瞬で姿を消し、シルフィは呆然と夜空を見上げる。星が綺麗な夜だ。そんな間抜けな思考が頭をよぎる。

 影は――

「まずは腕」

 シルフィの目前に着地した赤髪の魔王は、血塗られたままの剣を水平に、シルフィの右腕へと突き立てた。

 避けることも、防ぐことも。そちらに目を向けることすら、シルフィは出来なかった。

 

「……」

「……なん、だと?」

 初めて聞いたチャイルドの驚愕の声。

 笑みが漏れるのを抑えられない。あのフェイトですら敗北した相手に、自分が一矢報いている。何の戦闘能力も持たない、回復しかできないひ弱な自分が。

「幻身っていうのはね」

 今、自分は本当に嬉しそうな顔をしているのだろうなと思う。呆然と口を開けるチャイルドを見ていれば分かる。こんな間抜けな彼を見て、散々バカにされた自分が笑わないはずがない。

「あなたの身体を幻にする術なの。だから、今動いているのは幻の身体。本物は、最初の場所から一歩も動いてないわ」

「ッ!」

 愕然とするチャイルドに向けて、シルフィは小さく呟いた。

「また最初からやり直し。頑張ってね」

 その瞬間、シルフィの目の前からチャイルドの姿が消える。幻の身体が消え、本体に戻った証拠だった。

 ともあれ、それなりに距離も稼げた。これでひとまずは安心。

 ……と、そう思ったのだが、

「……隠れた方がいいかも」

 傷一つついていない右腕でポリポリ頬をかきつつ、呟く。

 直後、夜闇を切り裂くような、チャイルドの怒りの声が響いた。次に見つかったら、多分問答無用で八つ裂きにされるだろう。

 シルフィは小さく肩を竦め、滑り台のようになっている瓦礫の隙間に自ら滑り込んだ。ある程度の距離がある今、身を隠すにはこっちを移動した方が有利だ。

 

「……派手にぶち壊したなあ」

 半ば呆れながらギムルは呟いた。何回か目にしたことのあるイベリアの王城は見事に崩れ去り、叩き起こされたのであろう人々の怒号があちこちから聞こえてくる。嵐と地震が同時に襲ってきたかのような有様だ。一体何があったのか。

 少し考えていたギムルだが、すぐに結論を出した。フェイトが何らかの理由で暴れたのだろう。彼の他に、これほどの大破壊を成せる人間などいない。人間になりたくて魔王を辞めた奴が、どうして人間の国を壊したりするのか。そこが疑問ではあったが、まあフェイトに会えば分かることだ。

 ギムルは後ろを振り返り、リヴがついて来ていないことを確認する。すぐにでも追いついてくるかと思っていたので、意外だった。エヴリスが存在していられる夜が終わり、空はいよいよ白み始めているとは言え、彼女ならば自分の足で走っても相当な速度を出せるはずだ。よもや、一緒にいた人間を気にかけているわけでもあるまいし。

 何かトラブルでもあったのだろうか。まさか、敵と交戦しているとか……?

 ギムルは一瞬そう思ったが、その考えはすぐに捨てた。多少の敵ならリヴの相手ではないし、多少でない敵なら北の魔族が放っておかない。心配は無用だし、心配していられるほど自分には余裕があるわけでもない。

 フェイトを探して、何としてでもチャイルドと戦わせなければならない。魔王に対抗できるのは魔王しかいないのだから。

 皮肉な話だとは思う。人間の敵であるはずの魔族が人間を王としていて、そいつが本気になったら束になっても止められなくて、挙句の果てには恥をしのんで助けまで求めなければならない。もし人間が知ったら呆れ返るだろう、これが魔族の異様なほど情けない実態だった。

 だが、ギムルを含め、魔族の誰もそのことに文句を言わない。

 皆知っているからだ。自分たちでは人間には敵わないと。

 魔法。反則のようなその力。イベリアの巫女の治癒能力、フェイトの変化能力、チャイルドの防護能力。人間にあり魔族にはない力。それ故に、二つの種族の間には絶対的な差があるのだ。

 似たような力を持つ魔族ならいる。北を裏切ったグレンが持っていた変化能力は、人間の魔法に近いものがあった。他にも何人か、魔法のような力を持つ魔族がいる。

 しかし、それは魔法ではない。

 魔法には敵わない。どう足掻いたとしても。だからこそ魔族は人間の、魔法を持つ子供を王とすることにしたのだ。

 ――思考が逸れた。

 フェイトと顔を合わせるのは憂鬱だ。彼はおそらく自分を恨んでいる。人間としての生活を奪った、北の魔族全てを。

 出会い頭に消し飛ばされる可能性も、ないわけではない。言葉でやり込めるにしても、どうやって言葉を交わす段階にまでもって行くか。それがまず問題だ。

 腕を組み、唸る。最初にリヴのことを言うのはどうだろう。思わせぶりに、いかにも何か知っていそうな口調で……いや、それよりもチャイルドのことを話した方が効果的だし手っ取り早いかもしれない。おそらくは既に知っているだろうが、それでも気を惹ければなんとか――

「ギムル」

「っ!」

 正直、背筋が逆立った。

 背後からの声。尻尾の先まで衝撃の波が駆け抜けて、ギムルの身体が石になる。

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