出来損ないの支配者

 

「ふ……フェイト」

 予想外の出来事に混乱する頭の中で、ギムルは必死に思考を巡らす。狂っていない部分の頭がどうにか判断を下し、結果ギムルは刺激を極力与えないように、小声で呼びかけてみることにした。

「……」

 反応なし。

 恐る恐る、両手を空に上げながら振り向いてみると――

「……フェイト? まさか、まさかお前が……」

 腹に開けられた馬鹿らしいほどの切り口。

 泉のように流れ出るのは、ドス黒く変色してしまった血。

 信じられなかった。

 北の領域最強の魔法使いが見せるその様が、ギムルには信じられなかった。一体何があった? これをやったのは? 人間? そんな馬鹿なっ!

 無敵に見えるフェイトの魔法には、実は一つだけ弱点がある。変化している間は攻撃全てが通じない。それは確かだ。

 だが、変化を解いて姿を元に戻す一瞬。その一秒にも満たない一瞬だけ、フェイトに隙ができる。無防備になる。そこを突かれてしまえば、本人はただの子供でしかないフェイトは相当な深手を負わされてしまう。

 と言っても、それ知っていたところで実行できる奴などいなかった。タイミングを少しでも見誤れば、逆に自分がフェイトの能力の餌食になってしまうから。

 フェイト自身が強くなれば、容易く補うことができる弱点。

 にも関わらず弱点を補う肉体的な強さをフェイトが手に入れなかったのは、それにかける時間全てを、魔法を鍛えることに費やしたからだった。一撃でしとめてしまえば弱点も何も関係ない。破壊力なら誰にも負けない自分の魔法なら一撃必殺も容易であると、そう考えたのだ。

 だが、当初は大成功のように見えたその目論見は、あるとき呆気なく打ち砕かれた。

 ――チャイルドの出現によって。

「チャイルドと、もう、やりあったのか?」

「……ああ」

 力なく頷くフェイトを見て、ギムルの頭に絶望がよぎる。

 既に一戦交えて、その結果がこれということは……フェイトは、負けたのだ。

「……チャイルドは?」

「残念ながら……ピンピンしてるよ」

 短い言葉の間にも、フェイトは大きく息を吸う。そうしなければ満足に喋ることもできないのだ。

 こちらの切り札はこんな調子で、向こうのラスボスは未だ健在。

 駄目だ。ギムルはそう思う。

 勝てるわけがない。少なくとも、今この場では。ここは一度退き、改めて北の魔族全てに声をかけるしかなさそうだった。歯軋りをしたい思いだが、仕方ない。そもそもの戦力が違い過ぎる上に、頂上決戦すら向こうに軍配があがってしまった。一筋の光すら、ギムルには見えてこない。

 このイベリアも、もう終わりだろう。

 フェイトと、今後役に立ちそうなイベリアの巫女だけでも連れて、すぐにこの場を立ち去るのだ。チャイルドに見つかる前に。

 そう考えるギムルだが、そこに制止の声がかかった。

「変なこと考えているみたいだけど……僕は、まだ諦めてないからね」

「……あ?」

 フェイトの言葉は、悪い意味で予想外だった。

 この期に及んで何をバカなことを。そんな思いを隠そうともせず、ギムルは声を荒げた。

「ふざけんな。その状態のお前に何が出来るってんだ。チャイルドも倒せてない上に、もう目の前に東の軍隊がいるんだぞ」

「……そんなに近いの?」

 呑気に首を傾げるフェイト。焦りの色を浮かべないその表情に、ギムルは苛々してくる。

「もう目と鼻の先だっ! 本当にすぐそこまで来てんだよ。ここに来る途中で見たがな、ドラゴン部隊はもう領域を越えた。いつまでもぐずぐずしてちゃ危ないんだよ!」

「ドラゴン!? ――っ!」

 大声をあげた拍子に、傷に激痛が走ったらしい。顔を歪めてうずくまるフェイトに、ギムルはしかし容赦なく告げようとする。徹底的に事実を突きつけて、一刻も早く決断させた方がいい。

 だが、ギムルが口を開く前に、フェイトが顔だけ上げて問うてきた。

「それじゃ、リヴは――」

「リヴ? あ……」

 ギムルは思い出した。リヴもまたこの近くにいる。もしフェイトを助けようとこちらに向かっているなら……それは上空のドラゴンからすれば、格好の餌食に見えるに違いない。「まずい……まずいぞ。こんなところで呑気に話し合ってる場合じゃねえ。急いで助けに行かねえと――!」

「まあ……待ちなよ」

 駆け出そうとするギムルを、フェイトは相変わらずの淡々とした口調で止めてきた。

 さすがに、キレた。

「っざけんな! お前、リヴまで見捨てるつもりか! 俺たちを裏切ったのはまだ百歩譲って許せるにしても、あいつを裏切るのは許さねえぞ!」

「……」

「黙ってないで――」

 何とか言えと、ギムルは言うことができなかった。

 フェイトはこちらを睨んで――いない。

 睨むでもなく責めるでもなく、ただ静かな疑問の瞳で、こちらを見つめてきていた。湖水のようなそれは、今の状況を忘れさせるほど穏やかで揺るぎない。

――こいつ、本当にフェイトか?

 こんな目をするような奴だったか?

「言ったはずだよ。僕はまだ、諦めていない」

 ギムルが押し黙ったのを確認して、フェイトは囁くような小さい声でそう言った。

「血が大量に出たおかげかな……熱くなろうにもなれなくて、どんどん冷静になっていく。まあ、血がないから、頭を動かすのにも苦労するけど。……でも、一応作戦っぽいものは考えた」

「作戦?」

「ああ」

 フェイトは頷く。

 力なく、頼りなく、それでも微笑みを浮かべながら。

「リヴは助ける。イベリアも。チャイルドを倒して、東の魔族を追い出す。成功すればその全てが可能になる――だから、今だけでいいから、僕の言うことを聞いてくれ」

 魔王を辞めた僕の言うことを。実際には聞こえなかったが、そんな声を聞いたような気がした。

 魔王でなくなった自分の言葉を信じてもらえるかどうか不安。そんな声音。そんな声を出さなければならないほど、フェイトは弱っている。この傍若無人の破壊魔が、他人に頼らなければいけないほどに追い詰められている。

 それを見てとりながら、ギムルは思う。正直頼りない。こいつの言うことを聞いて本当に勝てるのかと、そう思う気持ちは弱くない。

 魔王だから大丈夫。フェイトだから大丈夫。そう言えるほど、ギムルはフェイトを信用してはいなかった。ここに来たのだって、フェイトなら助けてくれるなどと思ったからではない。単に、他に誰もいなかったから。チャイルドの相手をするのには、フェイト以外の誰もが役不足だから。ただそれだけの理由だ。

 だが、それも今は怪しいものかもしれない。

 フェイトが得意とするのは徹底的な破壊活動。単純故に強い、そんなタイプの戦い方。

 ずっとそうしてきた彼が、頭を使って作戦を練って、相手を欺きながら勝つという真似が本当にできるのか……?

「……なあ」

 正直に言おう。そう思う。勝利を信じるに足る証拠を見せられなければ、とてもではないが全てを任せることはできない。

「ん?」

 フェイトの返事。

 ――お前、本当に勝てるのか?

 そう尋ねようとして、しかしギムルは、同時にふと気がついた。

「――お前、さっき会ったとき、どうして俺が来るのが分かってたような言い方したんだ?」

 無視して構わない些細な違和感。だが、ギムルは何となくそう尋ねた。

 フェイトもまた、どうしてそんなどうでもいいことを? という表情を浮かべる。答えは返ってこないかもしれない。「何か関係あるの? それ」と問われるだけかもしれない。

 そう思ったギムルだが、しかし、答えは返ってきた。

「別にギムルが来ることを予測していたわけじゃないけど……うん、誰か来るんじゃないかなってくらいは、考えてたよ」

「? そう、なのか?」

「うん」

 フェイトは頷く。

「どうして?」

「どうしてって……」

 尋ねるギムルに、フェイトは当然と言わんばかりの表情で――実に傲岸不遜な台詞を言い放った。

「チャイルドとやり合えるのは僕だけだから……誰かが絶対に来ると思ったんだ」

 ――その腹の傷は、一体どこの誰につけられたものだよ。

 即座にそう言い返したい衝動にかられるが、ギムルはそれを胸の内に押し込めた。フェイトの言っていることは正しい。悔しいが、今自分がここにいるのは正にそれが理由なのだ。反論したくでもできない。

 しかも、ギムルの心中を見透かしたかのように、フェイトは言葉を続けた。

「一度目は確かに負けたよ。……でも、次は負けない」

 顔を上げる。

 柔和な笑顔がそこにある。仮面でも何でもない、素のままの微笑。魔王だった頃の彼なら、リヴ以外には絶対に見せていなかったはずの表情。それを、憎悪の対象であるはずの自分に向けている。

 それを見て、ギムルは思う。

 こいつはもう魔王じゃない。

 魔王の塔を出奔してから今まで。何があったか知らないが、フェイトは変わった。魔族から――否、魔王から、人間へ。

「信じていいんだな?」

 その変化がこの戦いに何かをもたらすのか。ひょっとして、ただ不利になっただけなのではないか。その思いは決して弱くない。

 だが、信じるしかないのだ。彼の言う通り、チャイルドの相手をできるのはフェイトのみ。魔王の頃は互角だった二人。片方が人間となり――均衡が、こちら側に傾くことを祈るしかない。

「もちろん」

 フェイトは再度頷き、不意に手招きした。耳を貸せ、と無言で言ってくる。

 作戦の説明だろう。そう思って、ギムルは彼に歩み寄る。身を屈めてフェイトの口元に耳を近づける。

 ――そして、思わず呆然とした。

 

 ……迷った。

 瓦礫の中、シルフィはやみくもに歩き回ることしかできずにいた。

 当然の話ではあった。シルフィは別に、群を抜いて方向感覚に優れているわけではない。どこを向いても同じ景色の瓦礫の山の中を勘だけで進んで、いつまでも自分の位置を正確に把握していられるわけがなかったのだ。

 町並みの欠片でも残っていれば、まだ大体の場所くらいは見当がついたかもしれないが……瓦礫の山。もしくは森とすら言い換えてもいいこの状況で、町の面影など残っているわけもなかった。

 まあ、いざとなれば瓦礫を登って上に出ればいいので、遭難する危険はないのだが。

――これを直すの、大変だろうなあ。

 無残な姿を晒す自分の国の惨状を見ながら、シルフィは心を痛める。物理的な損害もさることながら、これを見た国民の衝撃も相当なものになるだろうと思う。国が元通りの姿になるまでに、一体何年かかることやら。

 それまでは、と思う。

 旅は続けたいし、いつまでも国にいるつもりはないけれど、国が元通りになるまでは……少なくとも人々が安心して暮らせるようになるまでは、自分はここに留まるべきだろう。

 単なる深窓のお姫様なら、残ったところで足手まといになるだけだろうが、アレスたちにくっついていたおかげで修羅場には慣れきっている。兵士たちに混じって作業をしても決して劣ることはない……はずだ。

 国が直るまで、旅はおあずけ。

 縛り付けられるのは勘弁だけれど、それでも自分はここを捨てることはできない。生まれた国の大事を目の当たりにして、放っておくことなどできない。

「……そう言えば」

 リヴは、残してきたものを捨てろと言っていた。

 状況が状況だったので今まですっかり忘れていたが、それに対する答えを出さなければならない。次に彼女に会ったとき、面と向かってはっきりと言えるように。

 結論は、今出た。捨てることなどできない。

 生まれた国を、育った場所を、旅をするからなんて理由で捨て去ることがそもそも無理なのだ。どんなに離れていても、『故郷』は絶対に頭から離れてはくれない。

 だから、捨てない。

 心に抱えたまま、時たま思い出しながら、それでも振り返らずに前を向いて旅をする。これが、彼女に対する自分の答えだ。

 ……聞いた瞬間にリヴが襲い掛かってきそうで怖いが。まあ、そこらへんはフェイトにどうにかしてもらおう。

 だが、全てはそのフェイトを見つけなければ始まらないことだった。

 こうしてシルフィが一人でいるというのに、姿を現す気配はない。もしいるのなら、シルフィがチャイルドから離れているこの機会を、彼が逃すはずがないから……

 フェイトは違う場所にいる。

 何かは知らないが、何かを企んでいるのだろう。そのことにシルフィは安堵した。自分の頭はとっくに働かなくなっている。誰かが代わりに考えていてくれると思うと気分が楽になる。

 ただ、どこかで実体化して身体を休めているとしたら、はっきり言ってそれはまずかった。あの傷を負ったまま休んだりしたら、どんなに気を張り詰めていても意識はやがて閉ざされてしまう。そうなったらもう、自分では絶対に目覚めることができない。フェイトがそれを知っていてくれればいいのだが。

 明後日の方向から、チャイルドの怒鳴り声が聞こえる。彼がフェイトのような大破壊能力を持っていないのは、この先行き暗い戦いの中での数少ない光明だった。チャイルドの武器はあくまで剣であり、戦い方は普通の剣術と全く変わりない。この瓦礫の森の中では、彼もまた地道に歩いて回るしかないのだ。更に幸いなことに、怒り狂ったチャイルドが発する怒鳴り声のおかげで、シルフィは逃げるべき方向だけは見失わずに済んでいた。チャイルドの頭の血が抜けるまでは、安心してフェイトを探すことに専念できる。

 それはいいのだが。

「……どこにいるのよ、あのバカは」

 探せど探せど、フェイトの姿は見つからなかった。

 と言うか、そもそもここにいるかどうかも分からない。ラトあたりを頼って既に手当てを受けているのかもしれないのだ。そうすると、こうしてウロウロ歩き回って体力を消耗しているのは、全くの無駄でしかない。魔法の源は体力。疲れればそれだけ効果が弱くなってしまう。

 しかし、だからと言ってここに座り込んで休んでいたとしても、フェイトが来るという保証はない。いつチャイルドが冷静になってしまうか分からない状況では、動き回っていないと不安で仕方ないというのもある。

 出口のない迷路のような状況の中、シルフィはひたすら歩き続けた。大声の一つでもあげたいところではあるが、そんなことをしたらチャイルドにも居場所が伝わってしまう。そんなジレンマに悩んでいたとき――

「……?」

 微かに、奇妙な音がした。

 チャイルドの怒鳴り声ではない。夜特有の無音の中の音でもない。遠くにいるだろう人々のざわめきが風に乗ってきたのだろうか。そう思ったが、何か違う。声として発せられる音ではない。

 とても軽い音だった。

 風が少しだけ音を立てることを学んだかのような、ともすれば聞き逃しそうな、聞こえたことが不思議なくらい静かな音だった。

 フェイト?

 一瞬そう思ったが、すぐに否定した。変化した彼なら物音など絶対に立てないし、変化していない状態ならこれほど軽い音であるはずがない。フェイト自身の運動能力は、おそらくシルフィにすら劣る。

 ラトとも一瞬考えたが、それにしたってここまで静かではないだろう。

 そもそも、そんな小さな音がどうして未だに聞こえているのかと言えば、音の主が通り過ぎることなくこの周辺を動き回っているからだった。何かを探しているかのように、音は辺りを行ったり来たりしている。

 可能性としてはチャイルドが上からシルフィを探しているのが一番考えられるのだが、彼の怒鳴り声はまだ彼方の方から聞こえてきている。

 では、一体誰が?

 こんな軽い音で動く存在を、シルフィは知らない。アレスもゲッソーもノエルも、動きは速かったが、お世辞にも風のようにとは言えなかった。彼らはどちらかと言えば溶岩流のような速さだ。

 無音に近い動きができる知り合いなど、記憶にある限りではいない。強いて言うならリヴくらい……

「……ひょっとして」

 シルフィは、我知らず呟いた。

 ひょっとして、リヴがフェイトを探してこの瓦礫の森を走り回っているのではないか。

 ありうる。シルフィを探すことは万に一つもないだろうが、フェイトを探すことは十分に考えられる。フェイトのためなら死をも辞さなさそうなあの少女だ。フェイトがここにいると思ったなら、その体力が尽きるまで探し回るに違いない。

「……」

 ほんの少しだけ考えて、シルフィは上に出ることを決めた。

 リヴが目的としているのはシルフィではない。が、出て行った瞬間に攻撃されるほど険悪な仲というわけでもない。顔を見せればリヴも立ち止まるくらいはしてくれるだろう。その後どうなるかは分からないが、少なくともここでこうして迷っているよりはマシなはずだ。

 音は、おそらくリヴの足音は、いまだにこの周辺をうろうろしている。

 急がなければ彼女は移動してしまう。下手をすれば、チャイルドのいる方に。行かせるわけにはいかない。リヴはフェイトにとって妹のような存在だ。フェイトとの戦いを楽しめなかったという理由でシルフィを追い掛け回している奴が、彼女を見逃すはずがない。

「くっ……っしょ!」

 手近な岩に足をかけて、シルフィは慎重に登り始めた。

「――っ」

 途端、足を乗せた岩がぐらりと揺れた。心臓が一瞬で凍ったかのように締め付けられ、息すらも出来なくなる。

「……」

 動けずにいること数秒。幸い岩は揺れただけだった。ほっと安堵の息をつきながら、シルフィは更に慎重に次の一歩を踏み出す。

 複雑に重なり合った岩は、気をつけていないと崩れてしまいそうで怖い。そうでなくても人が登ることなど想定していないのだから、登りづらいことこの上なかった。足を滑らさないように、足場を崩さないように、バランスを保つのに全神経を使う必要があった。

 降りるときは一瞬だったので岩の不安定さなど気づかなかったが、自分は凄まじく危ない場所にいたのだ。今更ながらそのことを認識し、シルフィの顔から血の気が引いた。

 同時に、こんな状態の場所を風のように移動できるリヴはやはり凄いなと思う。見た目もおそらく実年齢も、シルフィより下。妹にしか見えない彼女だが、少なくともこういう場面では、シルフィなど足元にも及ばないものを持っている。

 頭上にようやく、外に通じる穴が見えた。ほっと息をついて淵に手をかける。懸垂の要領で腕に力をこめ、身体を持ち上げようとして、

「!?」

 足場が、揺れた。

 足の先を蹴る反動も利用しようとしていたから、そこで大きくバランスを崩してしまった。やばい、落ちる。懸垂をするどころか腕は伸びきってしまい、足場を失ったシルフィは両手の力だけで淵にぶら下がっている状態だ。ズズン、と岩が崩れ落ちる音がした。幸い連鎖反応的に他の岩が崩れることはなかったが、今の音でチャイルドがすっ飛んでくるかもしれない。

「くっ……」

 なんとか、せめて上半身だけでも持ち上げようとするのだが、力がなかなか入らない。汗が滑る。落ちそうになる。掴まっているだけで精一杯だった。

――や、やば……

 手に力が入らない。岩が肌に食い込む。痛みで更に力を失う。

 落ちる――そう思ったとき、

「……大丈夫? シルフィ」

 声と同時に、シルフィの右手がそっと上から掴まれた。

「――!」

 聞き覚えのある声。

 聞きたかった声。捜し求めていたその声は、わずかに苦しそうな部分はあるものの、相変わらず能天気で呑気そうだった。

「探したよ。まさか下にいるとは思わなかった……チャイルドから、逃げてたんだね」

 ごめんね、と、小さな声でフェイトは謝った。

 危ない目に遭わせてごめん。チャイルドに負けてごめん。国をこんな風にしてごめん。言葉として言われたわけではないが、何となくそう言っているような気がした。

「――」

 気にする必要はない。フェイトはよくやった。そう言ってやりたかったが、

「はいはい。感動の再会は後でじっくりやってください、お二人とも」

 呆れたような声とともに、フェイトの背後から、二足歩行の虎が姿を現した。

 魔族――ほんの一瞬、シルフィの動悸が跳ね上がる。今この場にいる魔族はチャイルドの部下という可能性が最も高い。こんなところで宙吊りになっている人間はとてつもなく怪しいに決まっている。シルフィは自分でそう思う。

 が、

「大丈夫。こいつは僕の……奴隷だから」

 安心させるように、フェイトが静かにそう言ってきた。

 その後ろで、虎男が憮然とした表情を浮かべる。

「誰が奴隷だ。腹に風穴開けてる割には、ずいぶん余裕だなオイ」

 風穴。そうだ。フェイトの傷を一刻も早く癒さなければ――と、シルフィが思った瞬間、

「――って!?」

「うわっ!」

 文字通り、手が滑った。

 唯一の支えを失ったシルフィの身体が、成す術もなく落下を始める。手を掴んではいるものの、大怪我を負っているフェイトにシルフィを支える力などあるはずもなく、結果、二人の身体は呆気なく暗い穴の中へと転落していく。

「わ、わわ!」

 奇妙な浮遊感を味わいながらシルフィは考える。自分はまだしも、今のフェイトが落下の衝撃なんか食らったら致命傷になりかねない。あらゆる衝撃がとどめの一撃になりうる。

 チャイルドを倒してもらいたいからとか、そんなことは頭から抜け落ちていた。

 ただ死んでほしくない一心で、シルフィはフェイトの身体を抱きしめた。密着しているフェイトから熱い流れを感じる。心とか精神とかそういうものではなく、物理的に熱い。見れば、腹の傷から血が止め処なく流れ出ていた。

 チャイルドにやられてから今までずっと流れっぱなしだったなら、よく出血多量で死なないものだ。呆れ半分感心半分でそう思うが、さすがのフェイトも限界のようで、雪のように白い顔色と氷のような冷たさが、刻一刻と彼に迫る死をシルフィに告げている。

「――」

 躊躇している時間はない。今すぐ、この状態ででも回復魔法を――シルフィは決意にも似た思いでフェイトを見、

 次いで、衝撃がきた。

 それは思っていたよりもずっと柔らかく、優しい衝撃。とても地面に叩きつけられたとは思えない。訝しげに首を巡らせば、地面はまだ少し下の方にあった。

「瓦礫に掠りもしなかったのは奇跡だな。さすがは巫女様。運がいい」

 頭上からからかうような声。見上げれば、先ほどの虎男が獰猛な笑みを浮かべていた。その表情は獲物を狙う肉食獣のそれにしか見えないが、セリフと口調から判断するに、本人はフレンドリーに話しかけているつもりなのだろう。

 自分たちが落ちるのより速く穴の下に先回りし、地面に直撃する寸前に受け止めたのだ。風のような音の正体はこの虎男と見て間違いない。

「あの……」

「自己紹介が遅れたな。俺はギムル。そいつの元部下で、今はそいつの代わりに北の領域を管理してる。あんたの味方とは言わないが、少なくともチャイルドっつー共通の敵がいるうちは、信用してくれて構わない」

「はあ」

「詳しい話は後にして、早くそいつを治してやってくれ。癪な話だが、そいつが復活しないことには勝機が見えてこない」

「あ、は、はい」

 言われてシルフィはフェイトを覗きこむ。悪い顔色は更に悪くなっていて、もはや意識があるかどうかも怪しいほどだった。と言うか、先ほどシルフィを励ますように声をかけられただけでも奇跡的なのだ。壮絶な精神力。こいつの中の一体どこにそんな力があるのか、シルフィは首を傾げたくなる。

「チャイルドが来ても、そいつが治るまでは俺がどうにかする。あんたは回復だけを考えろ」

 背後からしたギムルの声に、シルフィは無言で頷く。

 彼のことを完全に信用したわけではないが、フェイトは冗談めいた言い方で彼を紹介していた。なら、少なくともフェイトの味方ではあるのだろう。チャイルドがいるうちは仲間――そう考えて構わないはずだ。

「……っ」

 息を吸い込む。

 フェイトの服はどす黒く変色してしまっていて、傷口は見えもしない。シルフィは一つ深呼吸。目を覆いたくなるようなその部分に手をかざす。柔らかい光が掌から発せられる。

 持てる全てを使い尽くす。

 神の申し子、奇跡の巫女――不本意だったその名前だが、今だけはやってやろうではないか。

 奇跡を起こす。

 潰えた希望を再び輝かせる。

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