魔術大全

 

 夕飯の時間になっても、レンは起きてこなかった。

「寝たのかな。それならまあいいけど。いつまでも怯えてるようじゃ、こっちとしても困るからな」

 誰にともなく、ハドリックは呟いた。

 半狂乱だったレンをフィルがなんとかなだめ、クロと自分とフィル、三人がかりであれこれ気を使いながら、なんとか家まで連れて帰ってきた。人を落ち着かせたりするのは天使の十八番であるはずなのだが、ウリエルは本の方に忙しいようで、まるでこちらに興味を示さなかった。おまけに、レンから一番の信頼を得ているネロは意識のないまま。大変だった。家へ帰るのがあれほど大変だとは思わなかった。

 そして、帰るなりレンは部屋に閉じこもってしまった。あまり良くないとは思いながらも透視の魔術で見てみると、毛布にくるまって震えているのが見えた。心配には心配だったが、何かができるはずもなく、ただレンの気が落ち着くのを待つしかなかった。

 ほとんど何もかも分からないが、ただ一つ分かることはある。

 レンは、あの本に怯えていた。ネロが読んでいたという、ウリエルが今持っている本。何の本だと聞いても、ウリエルは一言も答えてくれなかった。と言うより、自分の言葉を聞いていなかった気さえする。

『領域を侵した者』 あの本の題名だ。そもそも題名からしておかしい。一体何を意味しているのか、さっぱり分からない。小説のタイトルのように見えなくもないが、ただの小説ならネロは倒れないだろうしレンは怯えないだろう。そして何より、本アレルギーのウリエルが興味を示すはずがない。

 それに、妙だった。

 学校の蔵書は、毎日魔術をかけているから比較的綺麗なのだ。それなのに、あの本は古ぼけて埃まみれ。他の本に異常はなく、あれだけが例外のように汚れていた。

 まるで、世界から忘れ去られていたかのように。

「……ま、僕が考えたところで仕方ないか」

 そう思う。答えはウリエルが出してくれるだろうし、ウリエルに出せない答えなら自分など考えるだけムダだろう。ウリエルはあれでも天使。ハドリックなど及びもつかない経験と知識を持っている。

「二人とも、夕飯は食べるかな」

 レンは食べないかもしれない。飯が喉を通るとはとても思えない状態だ。ウリエルはどうだろう。やはり、調べ物に集中して飯どころではないかもしれない。

 それでも一応、声をかけるだけかけておこうと思った。

 

 

「昔々、あるところに一人の女の子がいました」

 ラストは、そんな風に語り始めた。それが何の話か、ネロは一瞬で理解する。昔、ウリエルが全く同じ口調で聞かせてくれていた。

 夢の迷い子だ。

「女の子はとても強い魔力を持っており、それは神様と同じくらい強いものでした。人間としては分不相応なその力は、神様を信じる人々にとって、蔑みの対象でしかありませんでした。女の子は周囲の誰からも苛められ、悲しい毎日を送っていました」

 ウリエルは、この間にいくつかエピソードを入れていた。女の子が子供を助け、その子供から石をぶつけられる話。盗賊に襲われていた人々を助け、その人々に怒鳴られる話。どれもこれも、全く救いのないものばかりだった。そもそもこれはそういう話なのだから、仕方ないと言えば仕方ない。だが、子供に聞かせる話としては、果たして適切なのかどうか。

 ラストはどうやら、そういう部分は省いてしまうつもりらしい。どうせ知っているものと思ったのだろう。

「女の子の力は、ついに神様にも知られてしまいました。人間が持っていい範囲を大幅に逸脱した女の子の力は神様の逆鱗に触れ、女の子は神様によって処刑されてしまいました……どう? 大体こんな感じだと思うけど」

 と、どうやら終わったらしい。感想を聞いてきた。

 聞き流しても良かったし、元々そうするつもりなのだが、この女はどうせ何のかんのやって自分の口をこじ開けるだろう。返事だけはしておいた方がいいかもしれない。ネロはそう思い、最後の抵抗として、口だけ動かして返事をした。

「最後に話が一つ抜けてる。女の子の人生を知った神様はさすがに可哀想になって、でも自分の手で処刑した手前簡単に許すこともできず、最終的に、牢獄と称して一つの世界を女の子に与えた。女の子を苛める者は誰もいない、静かで平和な世界を。女の子は今もそこで、一人静かに平和を楽しんでる……あと、おとぎばなし風な喋り方にしては、小難しい言葉が多すぎるような気がする」

「どうせ聞き手はあなたなんだからいいじゃない。それにしてもさすがね。最後の話は後で話そうと思ってたんだけど、手間が省けちゃった」

「わざわざ分ける必要ないだろ」

 ネロの言葉を、ラストは否定した。

「必要があるのよ。だって、あの話には裏があるから」

「……なんだって?」

 不覚にも一瞬、ラストの方を向こうとしてしまった。頭を持ち上げ、慌てて元に戻す。

「別にいいじゃない。つまらない意地なんか張らなくても」

「うるさいっ 裏ってなんだよ!?」

 声を荒げる。ため息をつく気配の後に、声がした。

「神様が女の子に与えたのは、平和な世界なんかじゃなかった」

 ――でもね、本当は、この話には救いが一つもないんだ――

 この話を自分に聞かせたとき、ウリエルはいつもそう言っていた。何のことかと聞いても、ただ寂しげに首を振るだけだった。

 救いがない?

 女の子は死んでしまったから? だが、最後に行き着いたのは楽園ではなかったのか? そりゃ喜劇とは言えないだろうが、少なくとも女の子は幸せになった。本当に幸せかどうかはともかく、苦しみからは救われたはずだ。

 それなのになぜ、救いが“一つも”ない?

 何度も聞き、その度にはぐらかされた答えを、ラストが言ってくれた。

「女の子がいるのは、文字通り牢獄。より正しい言い方をするなら、牢獄兼金庫ってとこかしら」

 

 

 ……時間は、ハドリックが呼びに来る少し前。

 レンは毛布にくるまりながら、ただひたすら震えていた。

 怖くて、寒かった。まるであの頃のように。最低限の生きる力しか与えられなかった、あの頃のように。

 あの本を見たとき、その気持ちが溢れてきた。捕まってしまう。捕まって、連れ戻される。あそこへ。光のない、真っ暗な牢獄へ。

 そう思ったら、頭の中が真っ白になった。懸命に励ましてくれていたフィルの声も、どこか遠くに聞こえていた。

 あの声が聞きたい。

 自分を逃がしてくれた、あの声をもう一度聞きたい。あれは誰だったのだろう。分からない。男だったのか女だったのか、それすらも分からない。ただ、優しかった。優しくて、暖かな声だった。

 助けて欲しい。ここには誰もいない。連れ戻しに来たらどうしよう。誰か気付いてくれるだろうか。自分は誰か呼べるだろうか。呼べたとしても、来てくれるだろうか。来ないかもしれない。だって、自分は一人だから。孤独だから。ずっとずっと昔から、たった一人で――

「――大丈夫。ここには、わたしがいる」

 突然、声が聞こえた。心臓が跳ね上がる。誰か入ってきた気配など、微塵も感じられなかったのに。誰だろう。声に嫌な感じはしなかったが、誰だろう。恐る恐る毛布を除け、そっと頭上をうかがって、

「すごく震えてたから、どうかしたのかなーと思って。邪魔だった?」

 ウリエルが、能天気な笑みを浮かべていた。

「邪魔なら出てくけど」

「う、ううん。大丈夫」

 慌てて返事を返す。邪魔などとんでもない。むしろ、ありがたい限りだった。

 ウリエルは嬉しそうに頷き、「じゃあ失礼」と言いながら椅子に勝手に座った。足を投げ出し、ふしだらな格好でくつろぐ。他人の部屋だろうと何のお構いもなしである。

「で、本当に平気? 何かあるなら相談に乗るよ?」

 人生経験だけは豊富だから、と胸を張る。レンはしばし躊躇い、口を開いた。ウリエルなら何か知っているかもしれない。そう思った。

「……あの本は」

「ん?」

「……あの本は、何? 何か特別な本なの?」

「……」

 ウリエルは黙り、それまでとは打って変わった真剣な声で聞き返してきた。

「なんでそんなこと聞くの?」

 一瞬、聞いたのは間違いだったかと思った。聞かれたくないことを聞かれたかのうような、そんな言葉だったからだ。

 しかし、口調には少しもトゲはなかった。本当にただ聞いているだけという雰囲気だった。

 躊躇するレンを、ウリエルは辛抱強く待っている。急かすでもなく、ただ返事を待っている。

「……怖いの」

 気がついたら口が開いていて、その後はもう止まらなかった。

「あの本を見たとき、凄く怖かった。今も怖い。あの本を思い出すだけで怖い。あの本は何? なんでこんなに怖いの? あの本には何かあるの?」

 見た瞬間、嫌な感じがした。体中を悪寒が走り、頭の中を恐怖だけが支配した。そして気がついたら、外でフィルになだめられていた。

 我を失うほど、あの本は怖かった。見てはならない。触れてはならない。関わってはならない。頭の中で、そういう警告がうるさかった。

 あの本は何なのだろう。なぜこんなにも恐ろしいのだろう。

 ウリエルに聞けばその答えが分かると思い、聞いた。そして、

「あれは、」

 ウリエルが、言ってきた。

「あれはただの本だよ。何もおかしいところはない、本屋さんで普通に買えるようなもの。レン、この間海で危ない目に遭ったばかりだし、疲れてるんじゃないかな?」

「そんな…こ、と……?」

 思わず反論しようとして、急に意識が薄れた。

『スリープ・ダウン』 相手を眠らせる魔術。それを使われたのだと思い当たって、

「……ごめんね。でも、あなたは知らない方がいい……」

 そんな言葉を夢見心地に聞いたまま、レンの意識が途絶えた。

 

 

「牢獄?」

 抵抗など吹き飛んでいた。ネロは思わず上半身を起こして、振り返った。

「そう。牢獄兼金庫。神様はその世界に女の子を封じ込めたのよ。二度と出てこられないように、そして、誰であってもそこから出せないように」

「嘘だ」

 即座に否定する。そんなはずはない。あるわけがないのだ。

「なぜ?」

「ウリエルは、そんなこと一言も言っていなかった」

 ――でもね、本当は――

 言葉が蘇る。分からなくなる。彼女の語ったことが真実なら、なぜあんなことを言ったのだ?

 ラストの、小ばかにしたような声がする。

「意外と鈍いのね。彼女はあなたにとって母親であり姉みたいなものだっただろうから、その分判断がおかしくなってるのかしら」

 聞きたくない。これからラストの言う言葉は、自分の全てを崩壊させる。

 その通り。ウリエルは母親で、姉だった。今まで会った誰よりも、彼女のことを信頼していた。ハドリックよりも。クロよりもフィルよりも、レンよりも。

 ウリエルはいつも、自分の味方だった。どんなときでも、あの最後の瞬間まで守ってくれた、自分だけの天使だった。

 耳をふさぎたい。腕が、動かない。

「天使は神の使いなのよ? 自分達に都合の悪いことを、言うわけがないでしょう」

 ……聞いた。

 聞いて、それは自分が思ったことと同じだということに気付いた。

 ウリエルは、天使だ。天使は人間の味方だ。魔物から、人間を守ってくれる。

 だがそれ以上に、天使は神の味方なのだ。

「神様や天使は、女の子を封じ込めたことを秘密にしておきたかった。だって、境遇を不憫に思う輩がいつ現れるか分からないから。だから、一応はハッピーエンドどいう形で幕を下ろした」

「……黙れ」

「もちろん、ちょっとやそっとじゃ女の子は助け出せない。神様が直々に造った世界だもの。そう簡単には侵入できやしないわ……一人の人間を除いては、ね。神様はそのたった一人をも、一人の天使を使って手中に収めた」

「黙れ」

「その一人は、まだ自分の力に目覚めていない。目覚めるにはある条件を満たす必要があるから。さっき言ったわよね? その世界は、牢獄兼金庫だって。目覚める鍵も、その世界にあるのよ」

「黙れっ!」

 とうとう怒鳴った。これ以上聞きたくない。頭が痛い。ズキズキする。夢の声が蘇る。殺せ殺せと、しつこいくらいに言ってくる。

 ラストは、黙らなかった。

「その女の子……夢の迷い子がどういう人間だったか、あなたは知ってる?」

 だが、話は変わっていた。頭痛が多少和らぐ。安堵しながら、ネロは首を横に振った。

「彼女は孤独だった。友達どころか、話し相手すら一人もいなかった。一応言葉を喋ることはできたけれど、誰かと話すことなんてないから、単語を途切れ途切れに口にすることしかできなかった。性格もおとなしいなんてもんじゃないわ。感情があるのかと思うほど、彼女は無表情で、何事にも動じなかった」

 にやり、と。

 不気味な笑みを見せ、ラストは言ってきた。

「誰かに似てると思わない?」

「誰か?……っ」

 そんな奴がいただろうかと首を傾げかけ、その瞬間、思い出した。最近はかなり変化が見られてきたから気がつかなかったが、ラストの言った特徴にぴったりの人間が一人いる。

 出会ったばかりの頃の、レンだ。途切れ途切れの喋り方。おとなしいなんてもんじゃない性格。感情の有無を疑うほどの無表情。全てがぴたりと一致している。

 ……だが。

 それはただの偶然だ。彼女が夢の迷い子であるはずがない。なぜなら、

「……レンはこの世界にいる。夢の迷い子なら、そもそもこの世界にいないはずだ」

 ラストは、我が意を得たとばかりに頷いた。頷いて、言ってきた。

 また、頭痛がした。

「彼女は夢の迷い子の一部。言うなれば“鍵”の部分よ。楽園という名の牢獄から切り離され、彼女はこの世界に落とされた。もっとも、こっちの世界では本物の牢獄に入れられていたみたいだけど」

「……嘘だ」

 ますます激しくなる痛みの中で、なんとかそう言った。今の言葉はおかしい。それまでの話から判断すれば、明らかにおかしい。

「なんでそう思うの?」

「……わざわざこっちの世界に来させる必要がない」

 そう。本体のいる世界が牢獄なのであれば、鍵だけをわざわざ切り離す必要はどこにもないのだ。神様直々に造った世界だ。世界最強の牢獄兼金庫である。一緒にしておけばいい。

 ラストはなぜか満足そうな笑みを浮かべ、また話を変えてきた。

「魔術大全っていうのはね」

「……その話はやめろ」

 声を出すのさえ一苦労だった。頭痛が、更に激しくなっている。

 やめてくれるとは思わなかったが、案の定、ラストは無視して話を続けていた。

「この世のあらゆる魔術が納められた存在……と言われてるけど、それは半分当たってて半分間違ってる。納められているのはたった一つだけ……奇蹟を起こす魔術」

「……きせき?」

 ぼんやりとしたネロの言葉に、ラストは頷く。

「普通ではとうてい考えられないこと。起こりうるはずがないこと。魔術という枠を超えた現象。それを、膨大な魔力によって人為的に引き起こす。それが、魔術大全と呼ばれる力。あなたの中にはそれが眠っている……まだ封印されている力がね」

「……じゃあ、鍵っていうのは」

 ラストは頷いた。

「察しがいいわ。そう、夢の迷い子が持っている鍵は、あなたの中にある魔術大全を解き放つもの。どんな風にして解き放つのかは……分かるわよね?」

 分かりたくないが、分かる。夢の中で散々言われた。

 殺せ、と。あの娘を殺せと。

「……俺に、レンを殺せっていうのか?」

「別にあなたがやる必要はないけど。でも、そうね。一番信頼を得ているあなたなら、一番簡単にやれるでしょうね」

 至極あっさりと言うラスト。自分がレンを殺す? ばかげているにもほどがある。レンを殺すくらいなら、レンに殺されたほうがましである。心の底からそう思う。

 ……だが。

 もし仮に、あの声が自分の意識をも乗っ取ったとしたら、自分はそれを抑えることができるだろうか。

 自分が、レンを殺す。

 ありえない話だと、本当に言いきれるのだろうか。

「……やっぱりありえない」

 悩んだ末に、ネロは言った。

「お前の話には矛盾がある。夢の迷い子をこの世界にいさせる意味がない」

「あるわよ。ウリエルがいるのが何よりの証拠」

 怪訝に思い、ネロはラストの顔を見る。

 ラストは、余裕の笑みを浮かべていた。

 

 

 目覚めれば、あの本の恐怖は綺麗さっぱり忘れているはずである。クロやフィルに聞かれても、大丈夫だと答えるはずだった。

 レンの方はそれでいいとして、ネロにも同じことをする必要があった。だからウリエルは、学校へと向かっている。空を飛んで、だ。歩くとそれなりの距離があるが、飛べば数分もかからない。見る見るうちに学校に近付き、

 正門に寄りかかるようにして、ラストがこちらを見上げていた。

「なっ」

 慌てて停止し、急降下。頭から一直線に突っ込み、地面すれすれのところで上下を反転させる。

 地面に足をついたところで、拍手が聞こえた。

「上手いじゃない。さすがに経験だけは豊富なのね。でも、スカートでやるのはあまり良くないんじゃない?」

「どうせ見てる人間なんかいないわよ。それより、どういうつもり? こんな時間にこんな場所で」

 嫌な予感がする。今すぐネロの様子を確かめたいが、ラストの存在は無視できるほど軽くない。

「時間と場所は人のこと言えないと思うわよ。ちょっとね、ネロ君に会ってきたの」

「ネロに!?」

 当然のこと、と言うかこの女が学校に来る目的としては、それくらいしかないのだが。それでも、声を荒げずにはいられなかった。

「大丈夫よ。今日は誘ったわけじゃないから。彼は、まだかろうじてそちら側」

「……ネロに、何を話したの?」

 答えは既に分かっている。話すことと言ったら、それくらいしかないはずだ。

 ラストは、回りくどい答え方をしてきた。

「気をつけることね。彼はもう、真実を知ってしまった。下手に近づくと噛まれるわよ」

「あなたが教えたんでしょう。知らなくてもいいことを」

「彼は当事者だもの。天界のエゴに巻き込まれるのを、黙って見ているのは忍びなくてね」

「……どうせ、自分の目的のためでしょう。ネロがいれば達成したも同然だものね」

 掃き棄てるように言うが、ラストはさしてこたえた様子もないようだった。それどころか、笑みさえ浮かべていた。

「後悔してる? あのとき私を逃がしたこと」

「……別に、今からでも遅くはないわ」

「あら怖い。それじゃあ、殺されないうちに退散した方が良さそうね」

 声と同時に、ラストの姿が闇に溶けこんだ。

『じゃあね。天使のお嬢ちゃん』

 ばかにしたような声で、最後にそう言ってきた。気配が消える。

「……今度会ったら殺してやる」

 歯ぎしりしながら呟き、ネロのことを思い出す。まずい。ラストがどこまで話したか知らないが、それは決して自分に都合のいいことではない。

 翼を広げ、閉められた正門を飛び越える。保健室は確か一階だった。校舎に近付き、地面に降りて、

『トゥルー・ゲート』

 校舎内に忍び込む。左手の一番奥に、保健室のプレートが見えた。足音を忍ばせながら、そっと一歩を――

「何しに来たんだよ。忍び込むのは犯罪だぞ」

「ぅわっ!?」

 背後からいきなり声をかけられ、ウリエルは文字通り飛びあがった。天井に頭をぶつけ、その反動で廊下に顔をぶつける。ごろごろとのたうちまわり、いたたたたた、と顔を上げて、

 ネロと目が合った。なんだかとても冷たい目で、こちらを見下ろしていた。

「あ、あはははは……ネロ、元気?」

「おかげさまでな」

 取りつく島もない声。まずい。保健室へ行く間に何か言葉を考えようと思っていたのに、まだ何も考えていない。とりあえず笑ってごまかそうか。そう思ったところで、気付いた。

 ネロの目は、ひたすらに冷たかった。自分の失態に暖かな苦笑を浮かべていた目が、今は氷のように無感情だった。

 悟った。

 ネロは、知ってしまったのだ。全てを。一番知られたくないことも、何もかも。

 観念するしかなかった。

 

 

「ラストに聞いたんだ」

 どこか諦めた気持ちで、言った。

「ああ」

「どこまで?」

「全部」

 決定的だった。

 だが、ネロはこうも言ってきた。

「……俺は、正直信じられない。信じたくもない。本当はどうなんだ? ラストの言ったことは、本当なのか?」

 感情が揺れていた。

 ネロはまだ、自分を信じてくれている。嘘だと言ってくれと、口調で訴えてきていた。

 痛い。その訴えが、たまらなく痛い。

 なぜなら、ラストの言ったことは真実だから。聞いていなくても分かる。ネロの態度が示している。本当のことを聞かされなければ、こんな態度をとるはずがない。

「……本当だよ」

 そう言うしかなかった。ネロをごまかすだけの言葉を、自分は持っていない。

「全部本当。ネロの中に魔術大全が眠ってるのも、レンが夢の迷い子の一部で、本当の彼女は今も楽園っていう牢獄の中にいることも。レンが持っているのが魔術大全を解き放つ鍵で、その鍵を手に入れるにはレンを殺す必要があることも」

 一気に言ってしまいたかった。だが、ここから先は躊躇った。口が動かない。開いたまま、言葉が出てこない。

 ネロの顔を見れなかった。俯いて、押し出すようにして言った。

「レンがこの世界に落とされたのは、魔術大全の力が必要となったとき、すぐにわたし達の手で殺せるようにするため。わたしがネロに会ったのも偶然じゃない。ネロを手なずけて、いざというとき味方につけるため。全部……本当の話」

「……俺に両親がいなくて、周囲から異常なほどに嫌われていたのも?」

 そんなことまで聞いたのか……ウリエルは、ほとんど絶望的な思いで口を開いた。

「……それも本当。周囲から嫌われていれば、その分わたしに懐くだろうから」

 全ては自分達が、天界が仕組んだことだった。魔術大全は強力な切り札となる。だが、常に目覚めさせておくには危険過ぎるし、自分達の味方にならないのでは意味がない。だから力に鍵をかけ、周囲から孤立させた。“人”というものに飢えさせた。寂寥感がピークに達した頃を見計らって、自分に出会わせた。そして目論見通り、ネロはまんまと食いついてきた。

「……完全に手駒にされてたわけだ。俺も、レンも。師匠は?」

「……ハドリックは何も知らない。ただ、わたしの知り合いでそこそこ強いから、当分の世話役として選ばれただけ」

 沈黙が降りた。ウリエルは言葉もないし、ネロはネロで何かがさごそやっている。どんな罵声が飛んでくるのだろうか。反論できる要素は何もない。自分は、それだけのことをしたのだから。

 ――やがて、

「これ、返す」

 差し出されたのは、十年前に渡した、自分の羽根だった。光を全く失っていない、今自分の背中に生えているのとまるで変わらない姿。それが、十年間如何に大切にされていたかを物語っていた。

 手を伸ばして受け取ると、ネロは歩き出した。静かな足音に混じって、声がした。

「何度も助けられたよ。ありがとう」

 それは感謝であり、同時に拒絶の言葉だった。

 涙が溢れる。

 どうしてこんなことになってしまったのか。考えるが、答えは始めから決まっていた。自分がネロを騙したからだ。しかし、それでも、

 ――どうして、もっと、別の出会い方ができなかったのか。

「……ごめんね」

 かろうじて、それだけ言った。声に、嗚咽が混じっていた。

 自分の横を通りすぎるとき、ネロは静かに言ってきた。

「いいよ、もう」

 足音が遠ざかっていく。それはそのまま、自分とネロとの精神的な距離になる。

「……っ」

 涙が、止めど無く零れ落ちた。

 出会った最初の頃は、生意気なガキだと思った。妙に大人びていて、冷めていた。まだ何年も生きていないくせに、全てを分かったかのような顔をしていた。

 段々、可哀想な子供だと思った。自分達の思惑に巻き込まれて、誰にも優しくされないまま育った。せめてもの償いとして、自分が側にいてやろうと思った。

 最後には、愛しくなってきた。本物の弟のように感じられた。ネロを守るためなら死をも辞さない……そう思って、魔物と戦った。

 そして。

 先週の海で。成長したネロの姿を見たときは、叫び出したくなるほど嬉しかった。また一緒に暮らせると思ったときは、それこそ夜も眠れないほどだった。

 ――それなのに。

 どうして、こんなことになってしまったのだろう。

「……ぅえ」

 嗚咽が漏れる。

 両手で握りしめた羽根に、涙が一粒零れ落ちた。

 透明な雫は、羽根の光で銀色に輝いている。

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