魔術大全
| ここ数日、ネロはウリエルと顔を合わせていない。 以前は、事あるごとに部屋に遊びに来ていた彼女だが、さすがに今同じことは出来ないようだった。それだけではない。二人とも暇さえあれば外へ出ているし、家ではトイレと食事以外はほとんど部屋の中にいた。唯一の食事も、微妙に時間をずらしたりして、お互いに徹底的に相手を避けていた。周囲から……つまり、ハドリックやレンやクロやフィルから見れば、さぞ奇異に映ったことだろうと思う。 だが、面と向かって聞いてくることは一度もなかった。レンにはハドリックが、フィルにはクロが、それとなく察して言い含めたのだろう。この話題には触れるなと。 ありがたかった。 今聞かれたら、ウリエルのことを何と言ってしまうか、自分でも分からなかったから。 たとえどんな目的があったにせよ、ウリエルが昔の自分を救ってくれたことは事実なのだ。彼女のことを、悪く言いたくはなかった。 そして、ネロにはもう一つ問題があった。どちらかと言うと、こっちの方が深刻だった。 ウリエルの方も、もちろん状況としては最悪の部類に入るのだが、それでも避ける理由はお互いに分かっている分まだマシなのだ。ネロとウリエルの関係には口を出しづらいという理由もあるだろうが、周囲は静観してくれている。 だが、もう一方の方には、容赦なく口が出されていた。怒られた。罵倒された。最低だの冷血だの、聞いていて非常に楽しい意見を何度も何度も聞かされた。 まあ、傍から見ればそう言いたくなるのも無理はないかもしれない。この理由はネロにしか分からないし、避けられた本人が非常に辛そうな顔をしているらしいから。らしいと言うのは、ウリエルと同じくこちらとも顔を合わせていないからだった。部屋に来ても寝たふりをしていた。学校でもとにかく避け続けていた。ウリエル以上に、顔を合わせるわけにはいかなかった。 ネロは、レンを避けていた。 殺せという声が、日増しに強くなってきていた。 「あんたさ、どーしてレンを避けてるわけ?」 多分、出てくるのを待ち伏せていたのだろう。ウィザードの授業が終わり、一人後から出てきたネロに、フィルは開口一番に言ってきた。 「お昼も一緒に食べようとしないし、同じ家のくせに行方くらませて別々に帰ろうとするし。何? ケンカでもしたわけ?」 「別に」 短くそう答えて、脇を通り抜けようとした。が、それを見越したかのように、フィルが体を入れてくる。 「何よその『別に』ってのは。やる気あんのあんた? 前も明るいわけじゃなかったけど、今のあんたはっきり言って暗い! 暗過ぎる!」 そう言われても、ネロは反論できなかった。むしろ、納得してしまう。 確かに、今の自分は暗いのだろう。気力がなく、一日を惰性のように過ごしている。ウリエルの目的を知ってから、言いようのない虚無感が体を支配していた。 怒ろうと思えば怒れるし、笑おうと思えば笑えるだろう。 だが、それらは全て、仮面でしかなかった。 「とにかく一度会いなさいよ。そんで、できるなら謝るの。レンがどれだけ悲しんでるか、あんた分かってるの?」 「……悲しんでる?」 ほんのわずかに揺れた感情が、ネロに顔を上げさせる。フィルは頷いた。 「自分はネロに嫌われたんじゃないかって、そればっかり言ってるわ。痛々しくて見てらんないわよ」 「……」 勘違いもいいところである。レンを嫌うどころか、レンを慕っているからこそ避けているというのに。 もしレンと真正面から向き合ったら、あの声の衝動を抑える自信がネロにはなかった。それどころか、実を言うと、レンの話をするだけでも声が聞こえる。殺せ殺せと、今この瞬間も叫び続けている。 だが、もちろんフィルは、そんなこと知る由もないだろう。何か言ってきている。逃げ出してしまおうかと、そう考えて、 「だからさ。とにかく一度だけでも会って、何か一言――」 「フィル」 ネロの声ではなかった。 「その辺にしとけ」 クロだった。いつまでも来ないネロを訝って、戻ってきたらしい。 「その辺にってどの辺によ。誰かが言わないと――、」 「俺が言っとくから、お前はレンについといてやれ」 冷静な、しかし、強い強制力を持った言葉だった。言う通りにしないのなら、力ずくでも……そんな雰囲気があった。 それに気圧されたのかどうか。フィルは、不満顔ながらも一応頷いた。一度ネロを向き、「分かったわね」と言い捨ててから、ずんずんと大股で歩み去って行った。 「ありがとう」 フィルの姿が見えなくなってから、ネロは一言そう言って、クロの脇を通ろうとする。 そこに、クロの声がかかった。 「お前のやってることは、確かに見てて気持ちのいい物じゃない。何があったか知らないけど、あんまり感心できないぞ」 それは、「何があったんだ?」という問いかけだったのかもしれない。何かあったなら話せという、クロなりの気遣いだったのかもしれない。 だが、直接そう聞かれたわけではないし、ネロにはもともと話す気はなかった。頭の中で声がするから。そう言ったところで、理解してくれるとは思わなかった。 しかし、打ち明けたいという気持ちは強かった。こういうことの相談相手だったウリエルはもういない。誰にも、何も話せないというのは、想像以上に辛かった。 だからネロは、こう言った。 「やりたくてやってるわけじゃない」 「……」 その言葉に、クロがどんな印象を受けたのかは分からない。 ネロは答えを聞かないまま、そこから急ぎ足で逃げ出した。 ウリエルが机に突っ伏している。 書類をやっつけているハドリックの向かいに椅子を持ってきて、寝ているのか泣いているのか分からない様子で突っ伏している。呼吸はしているようだ。とりあえず命の心配はなさそうだが、何と言うか、スペースを取られて邪魔なことこの上なかった。 「あー、ウリエル。気持ちは分かる」 刺激しないように注意しながら、ハドリックは慎重に言った。 「悲しいのは理解できる。だが、そろそろ立ち直るべきじゃないか? そこにいられるとじゃ――じゃなくて、そこにいても何の解決にもならないだろう?」 「……」 ウリエルが、のっそりと顔を上げた。 何と言うかまあ、ひどい顔だった。泣きはらした目は真っ赤になっていて、むくんだ顔の色はすこぶる悪い。精神的な面での影響もあるのか、全体的に影が落ちているような感じになってしまっている。とてもじゃないが、愛とか友情とか、そういうものを司る天使の顔には見えなかった。 そして、飽きもしない涙声で、ぽつぽつと呟き始める。 「ネロがね? これ、返してきたの」 そう言って取り出すのは、ウリエル自身の羽である。ネロの元にあったときはまるで衰えを見せなかった輝きが、今ではすっかり失われていた。彼女の背中に生えている翼も似たような状態だろう。羽根の輝きは、どうもウリエルの精神状態に影響されるらしかった。 「『何度も助けられたよ。ありがとう』とか言ってね。まるで、『お前の助けはもういらない』みたいな言い方で返してきたの」 「聞いた」 そう、聞いた。もう二十回は聞いた。そして、二十一回目を聞かされそうだった。次の言葉は、これまでの頻度から言って「どうしよう〜」とかその辺だろう。 だが、その予想は外れた。二十一回目で、ウリエルはまた新しい言い方をしてきた。 「怒られたなら、まだいいの。クズだとか悪魔だとか、そう言われるなら良かったの。覚悟はしてたから」 「君って案外マゾ……いやすまない。続けてくれ」 鬼のような形相で睨んでくるウリエルを、軽く引きながら促す。 「でもね、ネロは『いいよ、もう』って言っただけだったの。他には何も言わないで、そう言っただけだったの」 おそらくウリエルには、そっちの方が何倍も辛い仕打ちだったろう。罵倒ならばまだいい。それは、相手との関係を持続させるという証だから。例外もあるだろうが、多くの場合関係は修復される。言いたいだけ言うことで感じた怒りを発散させ、相手のことも考える余裕が生まれるからだ。 だがネロは、それをしなかった。「もういい」と、ただそう言っただけだった。 その言葉に込められた意思は、恐ろしいほどに明確である。 『お前とはもうこれまでだ。だからもう、謝らなくていい』 完璧な拒絶。ネロは、謝る資格すらウリエルに与えなかった。そして、自分とウリエルとの繋がりだった羽根を返し、言外に伝えたのだ。近寄るなと。金輪際俺に関わるなと。 相手が他の人間だったら、ネロもそこまではしなかったはずだ。何だかんだ言ってもネロは甘い。例えばハドリックが同じことをしたとしても、糾弾こそすれ拒絶はしなかっただろう。 ウリエルだからこそ、ネロは許せなかったのだ。 そしてウリエルも、それが分かっているから何も言えない。自分の裏切りがネロにどんな影響を与えるか、嫌と言うほど分かるから。だからこうして突っ伏して、泣きはらして、二十一回目の悔恨の言葉を口にし続ける。 「ネロは、わたしのことを徹底的に嫌っちゃった。顔も見たくないってきっと思ってる。もーダメだよ……もー戻れないよぉ」 そしてまた、瞳に涙をため始める。ハドリックはやれやれとため息をつき、ハンカチを渡しながら言った。ウリエルのハンカチは、もう涙と鼻水で使い物にならなくなっていた。 「まだ分からないだろう。今からでもネロの部屋へ行って、謝ってきたらどうだ? ネロだって、決して心の底から君を憎んでいるわけじゃないはずだ。君が本当に反省していると知れば――」 ウリエルが、新しいハンカチで涙を吹きながら遮った。 「でも、もしそうじゃなかったら? 面と向かって『出て行け』って言われたら? お前の顔なんか見たくもないって、そう言われたら?」 「それは……」 言葉に詰まるハドリック。ウリエルは更に涙をあふれさせる。 「そうなったら、わたし生きていけない……」 泣き崩れるウリエルの姿に、ハドリックはやれやれとため息をついた。 「君達の目的は、僕は知らないことになってるんだろう? だったら、そのうち機会を見て聞いておくよ」 宥めるような言葉に、ウリエルが頭だけで頷いた。 ウリエルがネロに語った真相の中には、一つだけ嘘が混じっていた。 ハドリックは、何も知らないわけではない。レンについては本当に知らないが、ネロについてはウリエルと同じ程度には知っていた。預けられる師匠として、変な育ち方をさせないために、前もって知らされていたのだった。 ウリエルが嘘をついたのは、もちろん大部分はハドリックまでネロに拒絶されるのを防ぐためだろうが、頭の片隅、自分でも分からないほどの部分で密かに計算していたからだろう。自分はもうネロに接触できない。ならば、接触できる駒を一つ残しておいた方がいい。 どんなときでも、そういう考えを巡らせている。ウリエルの長所であり短所だった。 「……しかし、ネロはなんでレンまで避けているんだろうな?」 暗くなった雰囲気を払拭しようと、ハドリックは言った。本当に興味があるから、ということもある。レンについてはほとんど何も聞かされていない。出身地も、生い立ちも、経歴も。分かるのは、レンという名前と、ウリエルが十年間姿を消した理由であるということだけ。彼女がネロにとって何らかの意味を持つのか、それすらも教えられていなかった。 「二人の性格からして、ケンカするとは考えにくいし。何か心当たりはないのか?」 「……あるにはある」 目をとろんとさせながら、ウリエルは顔を上げてそう言った。泣き疲れて眠くなってきたらしい。 「どんなことだ?」 「……ごめん。教えられない」 申し訳なさそうに言い、欠伸を一つ。本格的に眠気が襲ってきたらしい。これ以上は聞き出そうとしてもムダだった。 立ち上がって、ソファまでふらふらしながら歩いていく。ここで寝る気か。そう思い、何か文句の一つでも言おうとして、 「……あのね。クロ君達に、話してみようと思うんだ」 「? 何を?」 ウリエルは、その問いには答えなかった。 ソファに倒れこみ、一秒するかしないかで寝息を立て始めた。何事か呟いている。友達とか、わたしのいない間にとか、そういう言葉が聞こえてきた。 友達……ウリエルのいない間にネロが作った友達。 つまりクロ達のことだろうが、一体何を話すというのだろう。魔術大全のことだろうか。それを知る権利と資格が、彼らにある? ハドリックはそう自問して……結論を出した。確実に、ある。 ハドリックやウリエルと違い、クロ達はネロが選んだ相手なのだから。 「……にしても」 真剣な気分を緩ませ、呆れた視線でハドリックはウリエルを見た。 無防備な姿である。自分を男として見ていないのだろうか? 「……見てないんだろうな」 苦笑しながら呟き、ベッドから毛布を一枚取りに行く。夜寒くなるだろうが、目覚めたウリエルに剥ぎ取られるよりはマシだった。 もし、である。 もし、ウリエルのことを怒っているのかと聞かれたら、ネロは怒っていないと答えるだろう。憎んでいるのかと聞かれれば憎んでいないと答えるし、殺してやりたいのかと聞かれれば、夢にもそんなことは思わないと答える。 ただ、以前と同じように接することができるかと聞かれれば……答えはNOだ。この先どうなるかは分からない。が、今は無理だった。 思う。どうして、こんなことになってしまったのか。 怒りを感じていないはずなのに、なぜ自分はウリエルを拒絶してしまったのか。ごめんねと言ってきたとき、なぜ彼女を許さなかったのか。 答えは、しかし分かっていた。 ウリエルが、自分の望む天使でいてくれなかったからだ。 ウリエルには、ただ自分を救うためだけに来た天使であって欲しかったからだ。 だから、裏切られたと思った。だから拒絶した。だから許さなかった。 自分勝手なワガママだということは分かっている。それでも、そういう思いは止めようがなかった。 「……ウリエル」 ぼんやりと、彼女の名前を呟いて、 『……ネロ』 扉をノックする音とともに、その声は聞こえてきた。 「!」 『……起きてる?』 頭痛がした。また声が聞こえた。殺せ殺せと言ってくる。 『……入るよ?』 「ちょ、待っ――」 制止は間に合わなかった。扉が開き、レンが中へ身を滑り込ませた。 割れるような頭痛と、絶叫のような声が同時に襲ってきた。横になっていたベッドの上で、頭を抱えて身を縮ませる。自分で自分の体を押さえなければならなかった。そうしなければ、すぐにでも襲いかかってしまいそうだった。 「大丈夫?」 心配そうに言いながら、レンがこちらへ歩み寄ってくる。 「……いや。あんまり大丈夫じゃない……レン、悪いけどまた今度に……」 ――殺せ―― 声が、耳元で聞こえるようだった。 「一つだけ、答えて」 レンはそう言ってベッドの脇に椅子を持ってくる。テコでも動かせそうにないその様子に、観念した。なんとか答えるしかない。 ――殺せ――再び声がする。 「ネロ、わたしのこと嫌いになった?」 それは昼間、フィルが言っていたレンの不安だった。 「……いや」 ――殺せ、殺せ――うるさい。黙れ。衝動を強引にねじ伏せる。 「じゃあ、どうして? どうしてわたしを避けるの?」 「……それは」 答えられなかった。まさか、レンを殺したくなるから、と言えるはずもない。 レンは、拳を握り締めていた。縋るような目で、ネロを見てくる。 ――殺せ、殺せ、殺せ―― 「それ、は……」 息が荒くなってくる。衝動を抑え切れない。レンへと伸びそうになる右手を、左手で掴んで止める。さすがに無視できなくなったのか、レンは心配そうに立ち上がった。ベッドに手をつき、顔を覗きこんでくる。 そして、ネロはそれを見た。 「……それは……」 呆然と呟く中、それはネロの目の前にあった。 レンの、首。少し力を加えれば簡単に折れそうな、白くて華奢な首筋。 ――殺せ―― 「ネロ? 大丈――」 その言葉を聞き終わらないうちに、ネロの頭は真っ白になった。 目が覚めたのは、真夜中だった。 「……レン?」 身を起こして、真っ暗な部屋の中へ呼びかけてみる。返事は、なかった。 「レン?」 不安を覚えて立ち上がろうとして……ネロは、足元にある物に気がついた。 最後に見たときレンが着ていた、まだ新しい寝間着だった。ボタンは全てはめられている。まるで、着ていた状態でレンがいきなり消えたかのような…… レンが、消えた? そう思うと同時に、ネロの中で解放された何かが、歓喜の叫び声を発した。 |
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