魔術大全
| ひょっとしたら単に部屋に戻っただけかもしれない。明日の朝になれば、平気な顔で朝食を食べているはず。そう思った。人が、そんなに簡単に消えるはずはない。レンがいなくなったからか、頭痛も声もしなくなっている。このまま寝てしまおうと、ネロはベッドに横になった。 「……」 気になった。妙な胸騒ぎがずっとしていた。部屋に戻ったのなら、寝間着は一体何だ? 露出狂じゃあるまいし、服だけ脱いで行ったわけでもないだろう。 「……レンの部屋、行ってみるか」 寝ているだろうが、それが確認できればいい。ネロは身を起こし、上着をひっかけて部屋を出た。素足に廊下の冷たさが伝わる。 行くと言っても、レンの部屋は隣である。二歩も歩けば、そこは扉の正面なのだった。 ゴクリと唾を飲み込む。もしいなかったら……そんな思いが頭をよぎるが、考えないことにした。腕を上げて、ノックする。 「……レン? 開けるぞ?」 返事は、ない。ネロの背筋に冷たい汗が流れる。だが、よく考えれば今は真夜中だ。返事がある方が不思議なのだ。半ば無理やりにそう思いながら、ゆっくりと扉を開ける。 そう言えば、レンの部屋に入るのはこれが初めてだった。何となく興奮する。女の子の部屋など初めて見るのだ……いや、昔ウリエルと一緒に住んでいた部屋を除けば、の話であるが。 ウリエルのことを思いだし、やや沈んだ気分になりながら、部屋の中に目を向けた。月明かりがあるにはあったが、正直分かりづらい。 『プチライト』 呪文を唱えた。『リトルライト』の更に下、ランプ程度の明かりでしかない呪文である。こんな呪文に意味があるのかと前々思っていたが、こういう使い道だったらしい。普通にロウソクを持ってくればいいだけの話ではあるが、あればあったで便利な呪文だった。 弱い光に照らされたレンの部屋は……何と言うか、殺風景だった。 ネロの部屋の床は、本やら脱ぎ捨てた服やらが散乱しているが、この部屋は綺麗なものである……と言うか、それ以前に散らかすものがないのだろう。服にはあまり関心がないらしく、持っているのは精々三、四着。本はよく読んでいたが、それは大体ネロが貸したもので、自分で買うということをほとんどしていなかった。結果、本棚には二、三冊が寂しそうに置かれているだけとなっている。机の上にもペンが一本転がっているだけ。引出しの中もほとんど空なのだろう。唯一異彩を放っているのが古ぼけた壁掛け時計で、骨董市場でハドリックが買ってきたこれだけが、寂しげなレンの部屋の中で、微かに暖かみを醸し出していた。 そして、色気も何もない、質素なベッドの上。 毛布はきちんと整えられていて、人が寝ていた形跡などどこにもなかった。もちろん、人影もない。 部屋を出ているという可能性もあるにはあるが、ネロはそれはないと思っていた。夜中に出かけるというのは、レンの性格上ありえない。家の中にいるとしても、起きていたなら明かりくらいついているはずだし、寝ていたならベッドに形跡があるはず。そのどちらも、この部屋には見当たらない。 ……諦めるしかないのかもしれない。 レンは、消えたのだ。自分が殺した。おそらくは……首を絞めて。最後に見た光景がレンの首筋だったことから考えて、それが一番ありそうだった。抵抗はなかったはずだ。レンは、自分が誰に何をされているか、信じられないまま死んだのだろう。 ペタンとその場に座り込んだ。猛烈な自己嫌悪とともに、これでウリエルを責められなくなったな、という気持ちがあった。どんな形であれ、自分を信じてくれている人間を裏切ったのだ。許されるはずがない。自分が、ウリエルを許せないのと同じように。 殺風景な部屋の全てから、睨まれているような気がした。壁時計が、静かに時を刻んでいた。 「……ネロ」 背後から、声。振り向かなくても一発で分かった。 「ウリエル」 相手の名前を呟いた。嫌悪感は、なかった。 ウリエルは、申し訳なさそうに言ってきた。 「……ごめんね。わたしがもっと早く気付いてれば、こんなことにはならなかったのに」 「もういいって言っただろ」 お前のことはもう頼りにしない。あの夜、学校で、ネロは彼女にそう言った。婉曲な言い方だったが、伝わっていたはずだ。 けれど今は、別の気持ちがあった。 ウリエルは黙り込む。ネロの言わんとすることを理解したのだろう。それでいい。そのまま背を向けて、ここからいなくなって欲しい。 「……一つだけ、言わせて」 ……やめてくれ、と思った。後ならいい。一つと言わず、二つでも三つでも聞いてやる。だから、“今は”やめて欲しい。 「おそらくあなたは、魔術大全に目覚めてる。使おうと思えば、いつでも、いくらでも使えるはずよ」 そんなことを言いたいのだろうか。そんなことは、言われなくても感覚的に分かっている。散々うるさかった声が、力となって体中を巡っていた。 「ラストから聞いたと思うけれど、魔術大全に不可能なことは、はっきり言ってない。その気になれば世界を滅ぼすことだって可能だと思うわ。それは、神とだって互角に戦える力なの」 ラストと聞いて思い出した。あの女も遠からず自分に接触してくるはずだ。今も、ウリエルがいなくなるのを狙っているかもしれない。 そう思うと、煩わしくてたまらなかった。会いたくない。ラストとも、ウリエルとも……他の誰とも。 「その力なら何だってできる。でも、だからこそ使うときはよく考えて。おそらくあなたは――」 「ウリエル」 遮って、ネロは立ち上がった。振り向く。ウリエルが、怯え混じりの怪訝な表情を浮かべていた。また拒絶されるのではないかと、不安に思っているらしかった。こちらから離れていったのに、まだ想っていてくれているのだ。 一度ゆっくりと話し合えば、もしかしたら仲直りできるかもしれない。それは、ひどく魅力的な想像だった。 ……だが。 「ごめん。今は、誰とも会いたくない」 「え? ちょ、ネロ?」 慌てて駆け寄ってくるウリエルの姿を見ながら、ネロはその場から消えた。 行き先はどこでもいい。とにかく、人のいない場所であれば。 クロという少年は、関心のないことは何一つ知ろうとしない。逆に、関心のあることには恐ろしいほどの執念を見せる。 ウリエルとはともかく、レンと接するときのネロの態度は、大抵のことは笑って流すクロから見ても、さすがに異様だったに違いない。なんと言うか、お前ら幾つだ? とこちらが聞きたくなるような純粋極まる仲だったのに、たった一晩で、まるで一方的な理由で女を振った男のようによそよそしい。例えがアレだが、とにかく奇異なことは確かだった。 クロは、気になることには全く遠慮をしない。持てる力を全て使い、徹底的に調べ上げる。 ……知るためであれば、どんな手段を使うのも躊躇わないのだ。 そういう性格のクロであるが、さすがにこれは聞いてはいけなかったか、という気分になっているだろう。少なくともフィルはそう思う。単にケンカでもしただけかと思いきや、凄まじく重い問題ではないか。クロに誘われて何となく聞いてみたのだが、はっきり言って後悔した。 盗聴器である。クロが以前ネロの……もといハドリックの家へ遊びに行ったとき、こっそり仕掛けたものらしい。若手の中ではかなり名のある魔術師なので、面白い話でも聞けると思ったのだと言う。魔力も何も使っていない、正真正銘の盗聴器なので、ハドリックやウリエルも感知はできないのだ。 まあ実際は、ペンを走らせる音とたまに呟かれる独り言のみで、すぐに飽きてしまったらしいが。まさかこんなところで役に立つとは思わなかったと、それはもう嬉々として語っていた。 そして聞いた内容は、ネロの持つ魔術大全の話。しかも、たった今ウリエルの口から語られたことによれば、ネロは魔術大全に目覚めて、あろうことか姿をくらましたらしい。 『な、なぜ? なぜそこで消えるんだ?』 ハドリックの声。フィルも全くそう思う。クロはただじっと話を聞いており、答えたのはウリエルだった。 『見られたくない、って言ってたわ。多分、レンを殺した罪悪感だと思う』 『レンを……殺した? ちょっと待て。それは一体――』 『鍵だったのよ、レンは。ネロの魔術大全を封じておく鍵で、だからネロはレンを避けてたの。解き放ちたいっていう衝動と戦わなきゃいけないから。でも、今夜とうとうそれに負けた。魔術大全が目覚めたのは、そのためよ』 ハドリックとフィルの頭の整理が終わらぬうちに、ウリエルが慌てたように言っている。 『とにかく、わたしは一度天界に帰らなきゃならないわ。ハドリック、あなたはネロを探して。ラストに見つかったら何を吹きこまれるか分からないわ。できるだけ早く!』 『わ、分かっ――』 プツッ。 ハドリックの返事が終わらないうちに、クロが手を伸ばしてスイッチを切った。なぜか憮然とした表情をしている。 怪訝に思うフィルの前で、口を開いた。蔑むような口調で。 「衝動に負けて、ねぇ……魔術師の面汚しだな、あの野郎」 あまりと言わなくてもあまりなその言葉に、さすがにカッとなる。自分でも驚くほどきつい調子で、言い返した。 「そんな言い方ってないんじゃない? ネロだって苦労してたんだからさ。何もできなかったあたし達が何か言える問題じゃないでしょ?」 クロは、憎たらしいほど冷静に顔を上げた。睨むでもなく、蔑むでもない。もちろんビビってもいなかった。 「何もできなかったのは、誰にも何も聞かされなかったからだ」 「へぇ? じゃ、あんたは何かできたって言うの?」 元から変な奴だとは思っていたが、嫌な奴だとは思わなかった。だが、今は憎たらしい思いで一杯である。知っていたところで何もできないクセに。そういう気持ちを隠そうともせずに、フィルは言った。 ところがクロは、迷わず即答してきた。 「俺なら、レンをお前の家にでも泊めておいた」 「……は?」 あまりにも単純な返答で、かえって混乱してしまう。そんなフィルに構わず、クロは続けた。 「殺したいと思うなら、殺せないよう離しておけばいい。近寄らせたりするもんだからネロは悩んでたんだろう? だったら近寄らなければいいだけの話だ。違うか?」 一瞬その通りだと思いそうになり、フィルは慌てて考える。何か穴があるはずだ。何か、何か―― 「で、でもそれじゃあ」 一つだけ、思いついた。 「それじゃあ、一時しのぎにしかならないじゃない。ネロの衝動はどんどん大きくなるだろうし、あたしの家にはいつまで泊まっててもそりゃ構わないけど、二人は一応両想いだったのよ? 会いたいって思うに決まってるじゃない」 えらく庶民的な理由である。だが、反論できるものならしてみるがいい。世界のためだとか、そういう理由では納得などできはしない。咄嗟に思いついたにしては、意外に論破は難しいかもしれない。フィルがそう思った直後、 「もう一度封じてもらえばいいだろう。ウリエルが監視に出張ってきてるほどの力なんだ。目覚めかけてるとなれば、天界だって黙っちゃいないだろうさ」 ……あっさりと論破されてしまった。フィルはもう一度考える。これを破る言葉は何かないか……あるはずだ、きっと……そう思ったとき、クロが呆れたように言ってきた。 「ネロだって苦労してた、ってお前言ってたけどな。そんなことは問題じゃないんだよ」 「……どういう意味よ」 突然の話題のすり替えに戸惑いながら、なんとか返事をする。と、クロは唐突に、こう言ってきた。 「例えば、俺は今、お前を殺したくて殺したくてたまらないとする」 「……何言ってんのよあんた?」 思わず呆然としながら、フィルは呟く。 「まあ聞け。で、俺はお前を殺す手段をいくつか持ってる。首を絞めてもいいし、殴り続けてもいいし、攻撃魔術で吹き飛ばしてもいいし。つまり、殺そうと思えばいつでも殺せるわけで、そうするかしないかは俺の理性一つにかかってるわけだ」 「……」 何となく、言いたいことが読めてきた。 「分かってきたみたいだな……つまり、それと同じことなんだよ。ネロのやったことは、どんな理由があったとしても『殺したかったから殺した』以外の何でもないんだ。そういう衝動は抑えなきゃいけないんだよ。その気になれば何百単位の人間を殺せる魔術師であれば、尚のことな」 納得してしまった自分が悔しかった。ネロは友達だ。その友達が悪人であるなどと思いたくはない。やむを得ない事情があったからと、正当性を見出したかった。 だがクロは、その微かな正当性をも、木っ端微塵に打ち砕いた。悪いことは悪いこと。そう言っているだけなのだが、やたらとショックが大きかった。 「……で、あんたはどうしたいわけ? ネロを捕まえてウリエルの前に突き出すの?」 悔し紛れにそう言うと、クロはゆっくりと首を横に振った。 「直接会って、何もできなかったことをわびたい」 ……と、そういう言葉も実は少しだけ期待していたのだが、そこはやはりクロだった。 「直接会って、とりあえず殴るな。んでもってレンに謝らせる」 「……レンにって。レンは死んだのよ? ウリエルの話聞いてなかったの?」 フィルのその言葉を聞いて、クロは心底呆れたようにため息をつく。 「魔術大全には、不可能なことはないんだぞ?」 「それがどうし――あ」 クロの言いたいことに、フィルは気付いた。 単純すぎて気付かなかったが、思い当たってみれば、何で気付かないんだと言いたくなるほど簡単なことだった。 要するに、レンを生き返らせればいいのだ。死者の蘇生は、歴史に名を残すような大魔術師の中でも更に一握りとは言え、できた人間がいる。人間以上の力である魔術大全ならば、朝飯前に違いない。 「土下座くらいはさせるべきだな。んで、一週間くらいはレンの奴隷、と」 クロはあくまで淡々と。何だかんだ言っても、ネロを見限ったわけではないようだ。ほっと息をついた……その時だった。 フィルは突然、クロに押し倒された。 「〜〜〜〜〜〜〜っ!」 頭の中が真っ白になり、顔が熱くなり、何か文句を言おうとしたところで、 衝撃が来た。 二人して潜んでいた町外れの空家の天井が、吹き飛んでいた。 「な! な? な!」 言葉になっていない悲鳴を上げる。と、クロが身を起こした。 「大丈夫か?」 「う、うん……今の、何?」 手を貸されながら起き上がると、空家はものの見事に消し飛んでいた。夜空がはっきりと見える。クロが押し倒してくれなければ、フィルの上半身も一緒に吹き飛んでいただろう。 フィルの質問に、クロが答えた。 「まあ、攻撃魔術だろうな。どんなのを使ったかはあいつに聞いてくれ」 と言って、空を指差す。つられて目を向けると、そこには、 「……天使?」 「いかにも」 その天使は、ひどく傲慢な態度で頷いた。小ばかにした口調で、口上を述べてくる。 「お前達は、知ってはならないことを知った。よって、ここで処刑する。覚悟はいいな?」 「しょ、処刑!?」 フィルは思わず叫ぶ。知ってはならないこととは、無論魔術大全のことなのだろうが……そんなにヤバイのだろうか。知っただけで殺されるほどに? 「……」 クロは黙ったままだったが、やがてぽつりと口を開いた。 「おい、お前」 天使をお前呼ばわりである。命知らずもいいトコだ。気を悪くしてるだろうなあ〜と思いながら見ると、案の定、憤慨していた。 「お前とは何事だ!? 我は神に仕える、誇り高き天使の一族の――」 「お前、ウリエルよりも位が低いだろ? それも相当。ご主人様と奴隷くらいの差があるんじゃないか?」 天使が、言葉に詰まった。本当にご主人様と奴隷なのかはともかく、かなり差があることは間違いないらしかった。 「図星か……そうだろうな。態度とか全っ然違うもんな。ウリエルはレギュラー張れるけど、お前どう見てもチョイ役として出てきた天使Aって感じだもんな?」 グサグサグサグサ。そんな擬音が聞こえてくるようだった。天使Aは、顔から湯気を立てながら憤慨している。そこらへんが天使A止まりの理由の一つだとフィルは思うのだが、あいにく彼は気付いていないようだった。 「……あ」 「あ?」 天使Aは、キレた。 「あんな堕天使と比べるなぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」 急降下してくる。目標は、まあ当然と言えば当然だが、クロだった。それにしても、堕天使? クロが、やれやれといった顔をしながら、構え―― その時、光が天使Aを貫いた。 「がっ!?」 たった一言。 そのたった一言の悲鳴を残し、天使Aは地に落ちた。フィルの側に。少し目を向け、それだけで分かった。 既に、死んでいる。 クロではない。クロは、攻撃しようとする最中だった。もちろんフィルでもない。 肩透かしを食らったような顔をしていたクロが、誰もいない場所へ顔を向けた。 「おい、出て来い。人の楽しみ邪魔しやがって」 「……ずいぶんと威勢がいいのね」 という声とともに、闇から染み出るように、女性が現れた。彼女の姿を一目見て、フィルの背筋に寒気が走る。誰だか知らないが、ヤバイ。敵対してはいけない。そんな感覚。 「でも、相手は天使よ? 手助けしてあげたつもりだったんだけど?」 からかうような女性の笑み。プレッシャーを感じないのか、クロは平然と言い返す。 「余計なお世話だね。あの程度の奴を倒せないほど俺は弱くない」 「……本当に威勢がいいわね」 クスクスと、笑う。目がフィルに向けられた。冷たい、虚無のような目。全く笑っていない。 思わず悲鳴を上げそうになり、その前に視線は遮られた。クロが、フィルを庇うような位置に動いてきていた。そのまま静かに言う。 「お前、ラストだな? ウリエルが言ってたぞ。お前より先にネロを見つけろって」 「……なら、私の用件も分かるわね?」 女性、ラストはそう言った。用件とはおそらくネロの居場所だろう。自分達であれば、ネロが隠れそうな場所を知っていると思ったらしい。 だが、自分はそんな場所は知らないし、クロにしたところで同じはずだった。知らないと答え、その後どうなるか……フィルはそこまで考え、クロは一言でその考えを無に帰した。 「教えない、って言ったら?」 「は!?」 思わずクロの顔を見る……と、ひどく獰猛な笑みを浮かべていた。どうやら、天使Aを倒し損なったことで欲求不満になっているらしい。こういう状態のクロは、やりたいことだけやる、などという謙虚なことはしない。何でもかんでも首を突っ込み、自分の欲求を満たそうとするのだ。 そして今、クロの前には、彼から見れば最高の玩具に見えるであろう女性がいる。ケンカを売らないわけがない。 「力ずくで聞くしかないでしょうね」 おまけに、ラストも挑発するようなことを言ってくる。戦闘は避けられそうになかった。ただ一つ幸運なのは、どうやらクロ一人でラストの相手をするらしいということだ。自分は高みの見物を決めこんでいればいい。 「言っておくけど……」 安全な隠れ場所を探すフィルの耳に、嬉しくてたまらないといった感じのクロの言葉が聞こえてきた。 「俺はネロより強いぞ?」 目の前に広がるのは、一面の花畑だった。その先には水のきれいな小川があり、右手には森がある。空は雲一つない快晴で、春のような心地良い陽気だった。 とんでもないところに来たものだと、ネロは思った。自分が住んでいた場所は今、冬の真っ盛り。季節が違うということは、まったく見知らぬ場所であるということに他ならない。 昔ウリエルと住んでいた家にでも飛ぶのかと思っていた。町外れの辺鄙な場所であったため、ほとんど人が来ない。しかし、あの家の近くにこんな場所はないし、第一季節は変わらないはずだった。 ここはどこだと素直に思う。見たところ、そう悪い環境ではなさそうだが。むしろかなり良いと言っても過言ではないかもしれない。気持ち良さそうだし、静かだし。森に目を向けると、果物の樹もありそうだった。 こんな場所が本当にあったと思うと、信じられない。これほど良い環境であれば、人の手が入っていてもおかしくなさそうなのだが。これではまるで、おとぎばなしに出てくる楽園のような―― 「……ネロ?」 聞き覚えのある声が、自分を呼んだ。耳を疑う。そんなはずはない。“彼女”は、自分がこの手で―― 「……」 ゆっくりと、振り向く。 ネロはそこに、予想した通りの人物を見た。 「……レン」 |
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