魔術大全
| 真っ白な服を着ていた。髪はやや長めで、表情も割と豊かだった。普通に比べれば十分乏しい部類に入るだろうが、今まで見てきたレンと比べれば、驚いていると一目でわかる分、豊かだと言わざるをえなかった。 「……ネロ、だよね?」 確認をするように尋ねてくる。ネロは、頷いた。 「ああ」 「……こんなところまで来れたんだ」 感心したように、レンはそう漏らした。おとなしい印象は変わらないが、表情があるだけずいぶんと明るく思えた。 「もう二度と会えないかと思ってたのに……凄いんだね、魔術大全って」 えらくスムーズに紡がれる言葉。今までのような単語を繋ぎ合わせたような喋り方ではない。“本物”はここまで違うのかと、ネロは思う。 それを察したのか、レンは付け足してきた。あろうことか、微笑んで。 「ウリエルが来てから、ずっと一緒にお喋りしてたから。普通に話せるようになったのは、ネロがわたしを避け始めた後のことだったけど……何か、変?」 変だった。姿が見えなければ、レンだとはとても思えない。喋り方一つで人間は変わるものだと密かに思う。 「なんか……レンじゃないみたいだ」 正直にそう言う。と、レンはまた微笑んだ。笑顔は何度か見たことがあったが、その全てと同じようで、全てと違うような、そんな笑みだった。 「わたしはレンだよ。でも、向こうであなたが会っていたのも、紛れもない“レン”。偽者なんかいない。どっちも、本当のわたし」 「分かってる……あの、さ」 後ろめたい気持ちで、ネロは呟いた。正直、言いたくはない。せっかくの和やかな雰囲気を、壊してしまいかねない。 だが、言わなければならないのだ。絶対に避けてはならない。 「……苦しかった?」 それでもはっきりと言う覚悟はできず、婉曲な言い方をした。自分があの行為に及んだとき、果たして苦しかったのか――そこまではっきりと言う度胸はなかった。 言葉の意味を察したらしく、レンはわざとらしく顔をしかめた。 「ちょっとだけ」 「ご、ごめん……」 レンの顔を直視できず、ネロは俯いた。分身だし、ひょっとしたら何も感じなかったかもしれない。微かな期待とともにそう思っていたが、やはり苦しかったのだ。そりゃそうだろう、首を絞められたのだから。分身とは言え、自分が手にかけた彼女は紛れもないレンだった。苦しみや痛みも、伝わっていて当たり前―― 「……ごめん。嘘」 「……は?」 思わず顔を上げると、レンは、申し訳なさそうな笑みを浮かべていた。 「分身のわたしが感じた痛みや苦しみは、わたしには伝わってこないの。だから、苦しくはなかった」 「……」 間抜けな顔をしている自分が見えるような気がした。騙されたということよりも、レンが自分に嘘をついたというショックの方が大きかった。あのレンが。まず嘘をつくことから始めなければならないようだったレンが。まさか、よりにもよって自分を謀るとは…… 「……変わったなあ、レン……」 そう思った。あらゆる意味でレンは変わった。そして……おそらく、自分も。 「ネロに会いたかった……分身じゃなくて、わたしがあなたに会いたかった」 閉ざされた世界の中で、レンはそう言った。顔が歪んでいる。目に、涙がたまっていた。 「分身の目を通せば、ここからでも色々なことが見えるの。ネロに会ったこと。ハドリックに教わったこと。フィルやクロと一緒にいたこと。わたしはずっと見てきた……でもそれは、わたしの体験じゃなかった」 言って、俯く。溜まった涙が、一つ二つと地に落ちる。 自分であって自分でない者。分身とは、そういう存在だ。分身が見たことは自分も見たことだし、経験したことも体感したことも共有することになる。例えば分身が魔術を覚えれば、それは自分も覚えたことになる。 だが、どこかに違和感があることは否めない。自分がその身で覚えたことではないからだ。 レンは楽しいことも悲しいことも、全て体験してきた……つきまとう疎外感を感じながら。レン以外の誰も味わったことのない、寂しさを噛み締めながら。 何か言ってやろうと思う。だが、何を? レンが感じた寂しさがどんなものか全く分からない。それなのに、何を言ってやれる? 様々な言葉が頭を駆け巡り、結局ネロは、こう言った。 「……今は分身じゃないよ」 「……うん」 頷いて、レンが顔を上げた。 泣き笑いのような表情だった。 「幻じゃないよね?」 「ああ」 「本物、だよね?」 「そうだよ」 「……ありがとう」 突然、レンがお礼を言ってくる。何のことか分からず訝るネロに、 「来てくれてありがとう……人と会うなんて、それこそ何千年もなかったことだから……すごく嬉しい」 感触を確かめるように、レンはネロの手をとってきた。白くて華奢な手は、暖かかった。 「全部、話してあげる」 「? 何を?」 「ここに来てくれたお礼。わたしが今まで聞いてきたことや見てきたことを、全部話してあげる」 突然のレンの言葉。戸惑うネロに、少女……“夢の迷い子”は微笑んだ。 「結論を出すのはまだ早いよ、ネロ」 フィルは、クロの戦うところを見たことがない。海ではウリエルとネロが片をつけてしまっていたし、学校では本格的な戦闘などやらない。ネロとは何回かペアを組んだことがあるので、ネロの実力は分かる。正直、強いと思った。後に聞いた話によると、ウィザードの中でもかなり優秀な部類に入るらしかった。 そして今、フィルは、クロの戦うところを目の当たりにしている。 正直に言う。 彼に比べると、ネロは素人同然だった。 『ストーム・シールド!』 『エア・シールド』の強化版である。大砲の弾一発くらいなら防ぐことができるが……それでも他の防御呪文と比べると見劣りがする。使用する魔力は半分以下だが肝心の防御力が低い。そのため、風系の防御呪文はほとんど使われることがないのだが……クロはそれをあえて使った。 それでそのまま、ラストを殴りつけたのだ。非常識にもほどがある。 「あ、あんた何考えてんのよ!?」 ラストと交差して戻ってきたクロに思わず怒鳴る。が、クロは平気な顔をして、言ってきた。 「遠くから攻撃しても避けられるのがオチだろ。だったら肉弾戦に持ちこむ方がいい。知ってるか? これで殴るのと肉体強化の呪文を使うのと、どっちが魔力消費少ないか。こっちの方が三倍少ないんだぞ?」 確かに、それは得だ。ただでさえ使われることのない『ストーム・シールド』である。誰も思いつかなかったのも無理はないだろう。そういう点でもクロは凄い。以前ペアを組んだとき、ネロが「クロにだけは勝てない」と言っていたが、その意味がよくわかる。 こと戦闘に関しては、クロは紛れもない天才だ。ほんの少し見ただけなのに、才能の片鱗を嫌と言うほど見せつけられている。用途別に呪文を分けるということをしない。必要とあらばどんどん防御呪文を攻撃に使うし、逆に、攻撃呪文も躊躇なく防御に使う。色々な意味で、これほど強烈な発想を持つ人間も珍しいだろう。 だが、違う。フィルの思い描いていたウィザード像とは、明らかに違う。違いすぎる。 「ウィザードって言ったら、あんたアレでしょ! 山を吹き飛ばすような強力な攻撃呪文使ったり、雪崩だって防げるような防御呪文が当たり前だったり! とにかく派手なイメージなのに!」 「……誰に聞いたんだ? いくらウィザードでもそんな真似はしないぞ。もしそうだったら、ウィザード同士が戦うたびに地形が変わるじゃないか」 「そ、そりゃそうだけど……でも! あんたの戦い方はなんか違う! そんなのウィザードじゃない!」 フィルは、実は攻撃魔術が苦手である。初歩的なものなら大丈夫なのだが、ネロの得意技である『ウィング・フレア』級になるともうダメである。羽根の形を成していないなど、必ずどこかにボロが出てしまう。 完全な形状でないと、魔術の威力は激減する。だからフィルはウィザードの道を諦めた。だが、せめてウィザードとペアを組むことが多いエンチャンターになろうと思った。憧れだった攻撃魔術の使い手、ウィザードとの距離を、少しでも縮めていたかったから。 そんなフィルにとって、クロの行為はある種の裏切りですらあった。しかも、彼はふてぶてしくこう言ってくる。 「派手な呪文を使うのがウィザードじゃない。如何に効率良く、最小限の労力で相手を仕留められるか……それがウィザードの本質だ。派手な呪文を使うのは攻撃力が高いから。相手を一発で吹き飛ばせる可能性が高いからでしかないんだよ」 「だったら何で使わないのよ!」 「俺は節約主義者なんだ。ムダなことはしたくない」 「〜〜〜〜〜っ あーんーたーねーっ!?」 思わず、隠れていた場所を出ようとする。出ていって、目の前の節約バカにウィザードの何たるかを小一時間ほど諭してやろうと思った。クロが実際のウィザードであることも、さっきあっさりと言い負かされたことも、ラストとの交戦中であることも。全てフィルの頭から消え去っていた。 フィルはずかずかとクロに近寄る。彼はちらっと視線を向けて、言ってきた。 「そこ、危ないぞ」 「は!? 聞こえないわよ、ここが何だって――」 一瞬遅れて、それを感じた。強大な力の気配。真っ直ぐに、猛スピードでこちらに飛んでくる。 『ウォーター・ウォール!』 思わずそう叫ぶと同時に、目の前を真っ白な閃光が覆った。刹那、その閃光からフィルを守るように水の壁が出現する。ジュゥゥゥゥゥゥと、水が蒸発する音が聞こえる。立ちこめる水蒸気。 「な、何よ今の!?」 慌ててそう問いかける。が、クロの返事はなかった。 ラストは微かに舌打ちした。立ちこめる水蒸気で、周囲が全く見えない。炎系の魔術は失敗だった。 なるほど。クロは確かにネロより強い。それも相当。ある程度の天使や悪魔なら互角に渡り合うだろう。さっき自分が葬った天使は……おそらく、話にもなっていなかったと思う。あの少年はそれほどまでにケタ違いの実力を持っている。人間相手に苦戦することなど、今まで経験したことがなかった。 一体どうやってそこまでの力をつけたのか知らないが、強敵であることはもう疑いようがない。魔術の威力や魔力の絶対量は自分の方が何倍も上だが、クロはそれを補って余りあるほど戦闘慣れしている。ひょっとしたら、ウリエルやハドリックよりも強いのではないだろうか? 完璧な誤算だった。まさか、これほどの相手がいるとは思わなかった。手を抜けば確実に負ける。 意識を集中させる。遠くの気配を探るのを止めて、周囲だけに全てを費やした。視界がきかないのは向こうも同じはずである。魔術による遠距離攻撃は、考えなくていい――はずだった。 「なっ!?」 気付いたときには遅かった。おそらくは『ウイング・フレア』 真正面から、無数の炎の羽根がこちらに殺到してきていた。 「くっ」 それでも、さすがに狙いを正確にとまではいかなかったらしい。わずかに左に逸れていた。反対側……右斜め上へ跳ぶ。 そしてそこには、まるで図ったかのような位置で、クロが何かを振りかぶっていた。 『精神崩壊の剣』――漆黒の刃が、ラストの体を通り抜ける。 心の中でほくそ笑んだ。その剣は、自分には効かない。カウンターを食らわせようと、手に魔力を集中させ―― その直後に、クロの方から距離をとった。魔術の対処可能範囲まで、一瞬で退避している。 あまりの反応の良さに呆然としていると、刃を消しながらクロが言ってきた。 「この剣が効かないとはな……お前、何者だ?」 精神崩壊の剣は、魔術師にとって切り札である。人間全てに、気付かれないようにすれば魔術師相手にも有効なのだ。意思を持つあらゆる生物に対して、絶対の武器なのである。 これが効かないというのは、本来は驚愕に値することなのである。普通は呆然として隙だらけになるのだ。ラストに初めて会ったときの、ネロのように。 「驚かないのね。ネロ君は、そのことでかなり動揺してたのに」 「全てに対して絶対の武器なんて、あるわけないんだよ。お前みたいな奴がいたって別に不思議じゃない。だから驚かない……言わなかったか?」 全身を魔力で満たしている。いつ、どこからでも放出できるように。見たことがないが、おそらくクロ独特の戦闘モードなのだろう。そのまま、言ってくる。 「俺はネロより強いって」 「……そうね。確かに、あなたと比べるとネロ君は話にならないでしょうね」 別にネロが弱いわけではない。ケルベロスなど並の魔術師では扱えないし、剣技もそこそこの腕ではあった。独り立ちしても十分やっていけるレベルだとラストは思う。 ただ、クロが別格過ぎるのだ。史上初と言っていいほどの天才――どこかで聞いたその言葉は、あながち間違いではなかった。 「少し不思議に思うわ。あなたほどの人間が、ネロ君達みたいな人と付き合ってるなんて……天才って、もっと孤独なものだと思ってたけど」 「俺も不思議だな。なんであんたはネロに執着するのか……魔術大全、か?」 「分かってるんじゃない。そう。魔術大全が私の目的よ」 「何のために? あんな大層なもの、そうそう使い道があるとも思えないが」 「……世界を壊したいのよ」 クロが虚を突かれたような顔をする。妙な優越感を感じながら、ラストは告げた。 「私はね、この世界が創造されたときに出来た異分子なの。私はこの世の何にも属さない。生物にも、植物にも、何にも。魔物や天使にすらね」 生まれて初めて感じたのは、孤独だった。 何千年、何万年にもなるだろうか。生まれたその瞬間から、ラストは今の姿だった。成長も老いもなかった。眠る必要も、食べる必要もなかった。もちろん、誰かに育ててもらう必要も。 本来この世界に生まれるはずではなかったのだから、当然だ。 たまに人間と暮らすことはあったけれど、いつまでも変わらない姿を恐れられ、同じ場所には数年しか留まれなかった。いつしか自分から人間を避けるようになっていた。 どうしようもない孤独感に苛まれるうちに、ラストはあることを思いついた。極論だとは自分でも思うし、それがただのエゴであることも分かっていた。それでも、思いついてしまった。 自分のいるべきでない世界は、いらない。 手始めに、禁術とされる魔術の研究を始めた。今までは何となく守ってきた戒律をあっさり破り、何人かの人間をそそのかして実験を繰り返した。ゴーレムの製造、悪魔の召喚、不死の研究――時間の操作。 そして、ラストは見つけた。 あらゆる奇蹟を自在に引き起こす、究極の秘術を。その持ち主を。鍵に出会ったことによって、持ち主……つまりネロの中に眠る魔術大全が活性化し始めたのだ。そうでなければ気付けはしなかった。 最後にして、最高の切り札だった。絶対に、何があっても逃してはならない――自分の望みを叶えるまでは。 世界を一度壊す……そして、その後もう一度世界を構築し直す。 自分が孤独でない世界を。自分がいるべき世界を。 「私は世界を壊したい……そして、そのためには魔術大全の力が不可欠なの。それが、私がネロ君を求める理由」 「……一つ聞くが」 少し考えた後、クロは聞いてきた。 「その壊す世界の中には、俺も入ってるのか?」 「もちろん。あなただけじゃないわ。要であるネロ君以外には全員消えてもらうつもり」 「……そうかい」 その言葉と同時に、 クロが魔力を解放した。風にも似た圧力が伝わってくる。あからさまな宣戦布告。 「それじゃあ、あんたをネロに会わせるわけにはいかないな。ここで死んでもらう」 「できるかしら。精神崩壊の剣が効かない私を殺すことが」 「できるさ」 挑発は、しかしあっさりと返される。何の躊躇いもない返答に眉根を寄せる、と、 「効かないのなら、魔術も避ける必要はない……魔術によるダメージは受けるんだろ? だったらいくらでも手はある」 心中で舌打ちした。確かに魔術ならば効果はある。異分子と言えど無敵ではないのだ。弱点とまではいかないが、普通の人間と同程度のダメージは食らう。だが―― 「確かに効くけど……あなた、私に魔術合戦を挑む気?」 クロとて所詮は人間。魔力の絶対量も、魔術の威力も、全て自分が上回っている。魔術の撃ち合いでなら、負ける要素はどこにもない。 それなのに…… 「……ケルベロスを防いだくらいでいい気になるなよ」 クロは、笑った。不敵に。自分の勝利を信じて疑わない、傲慢なほどの自信を浮かべて。 ケルベロスは、人間が扱える中では最強クラスの呪文である。これを防ぐことができるということは、人間の魔術はほとんど通じないということだ。しかも、ラストは防いで尚余力が残っている。 負けるはずがない。クロがどんな呪文を使って来ても、防ぎきる自信がある。天才故の行き過ぎた自信――そんなところだろうと思い、ラストは何の行動にも出なかった。自信を打ち砕かれたクロも見物である。 ――だが。 『……纏いしは黒き衣、抱きしは死者の魂』 その呪文に、ラストは反応せざるをえなかった。ありえない。“あの呪文”を人間が使えるはずがない。 『汝が右手に漆黒の鎌、汝が背に暗黒の翼。闇夜の王にして支配者、光なき夜の申し子』 だが、間違えるはずもない。この気配。威圧感。全てが、呪文の正体を物語っている。ケルベロスなど比べ物にならない力。凶悪なほどの魔力が、周囲に満ち溢れている。正気かと思う。この呪文を、使った場所は向こう数千年に渡って焦土と化すような禁術を、よりにもよって人間が使うなど。 「くっ」 だが、もう発動一歩手前まで来ている。ぐだぐだ言っている暇はない。右手をクロに向ける。呪文の詠唱中に激しい動きはできない。ならば―― 『グラン・ボルト!』 雷光がラストの手から放たれる。文字通り一瞬で、その光はクロを貫き、 直後に、クロは霧散した。 「なっ!?」 そこには、体の破片も残っていない。そんなはずはない。『グラン・ボルト』にそういう効果はないはずだ。一体何が―― 少し向こうに、人影。フィルとかいう少女……何か魔術を使ったらしい。勝ち誇った笑みでこちらを見ている。確か彼女はエンチャンターだった。戦闘においてウィザードを補佐する役目。主な能力は…… ……幻覚や分身などで、敵を惑わすこと。 背後から、声。 『降臨せよ、汝の名は――』 なぜだろう。 どこで、計算が狂ったのだろう。 ……分からない。 『冥王、ハデス!』 その声と同時に、ラストの意識が弾けた。記憶が、望みが、全て黒く染まって行く。 どこか遠くで、クロの声がした。 「……あんたの気持ち、分からないでもなかったけど……」 ――どこで計算が狂ったのか。それは分からない。強いて言うならクロとフィルだろう。魔術大全……ネロに、これほど強力な護衛がついているとは思わなかった。 ――ただ、 「……悪いけどな。俺達が生きてく上で、あんたは邪魔なんだ……」 ――分からないなら、それもいいと思った。 何から聞きたい? とレンは言う。 だが、ネロには特に聞きたいことなどなかった。知るべきことは全て知っているような気がした。ラストやウリエルの目的も。分身のレンの意味も、自分の持つ力の能力も。そう言うと、レンは苦笑してこう告げた。 「それは、外側だけしか知らないっていうことだよ。本当に知るためには内側を見なきゃいけないの。その人が何を思ってそうしているのか。それを知らなきゃ、本当に知っているっていうことにはならないの」 まさかレンに説教される日が来るとは思わなかった。ネロは焦り、聞いてしまった。じゃあレンは知っているのかと。 レンは、あっさりと頷いた。分身の目を通して見ている間、他人の心の内まで覗いていたのだという。さすが“夢の迷い子”。魔術大全と並ぶバケモノ魔術師なだけのことはある。 そして聞いた。ラストが何を思って世界を壊そうとしていたのか。 「わたしも、少しだけ分かるの」 話し終えた後、レンは寂しげにそう言った。 「わたしもずっと一人だったから、少しだけ気持ちが分かるの。ただわたしの場合、この結界があるから出来なかっただけ……もし外に出ることができたら、同じことをしてたかもしれない」 何も言えなかった。なぜなら、ネロにもその気持ちは分かるから。ウリエルと出会う前が、正にその状態だった。 「多分ね……」 独り言のようにレンは言う。 「わたしは、こういう考え方をするから、ここに閉じ込められたんだと思う。だって、危ないもんね。世界を壊す力を持っていて、実際に壊したいって思うんだから」 「それは……」 違う。そう言う前に、レンがそれを遮った。 「そうだよ。そうに決まってる。人を殺したいって思ってる人がいて、その人が魔術を使えたらどうする? 閉じ込めるしかないでしょう? それと同じだよ。人を殺さないように、世界を壊さないようにっ。そのために神様はわたしを閉じ込め――」 「それじゃあっ」 わざと大声を出した。レンがビクッと反応する。怯えたような目でこちらを見ている。 ネロは、静かに問いかけた。 「それじゃあレンは、今も世界を壊したいと思ってるの?」 不思議そうにこちらを見てくる。更に続ける。 「レンが世界を壊したいって思って、それでここに閉じ込められてるんだとしたら……レンは今も世界を壊したいって思ってるってこと?」 レンは、しばらく黙り込んだ。そして……首を、ゆっくりと横に振る。 「思ってない」 「だったら――」 「でも、ダメ」 先回りの拒絶に、ネロは思わず口をつぐんだ。レンが微笑む……泣き笑いのような笑みを浮かべる。 「わたしはここから出てもいい……そう言おうとしたんでしょ? でも、それはダメなの」 「なんで? そりゃ結界は解けてないけど、俺の力なら――」 「神様の裁き」 全てを諦めたような、そんな声だった。 「無理やりここから逃げ出したら、わたし達は神様に裁かれる。わたしやネロは大丈夫かもしれない。でも、他の人達は? クロやフィルやハドリック、ウリエルが共犯にされたら? あの人達は逃げられない。神様から逃げる術を、あの人達は持っていない」 「あ――」 そうだった。彼らは全員強力な魔術を使える。だがそれも、神に与えられた中での強力さだ……神を相手にして勝てはしない。ネロやレンのような、突然変異でない限り。 「わたしは、いいの」 優しい声で、レンはそう言ってきた。手を伸ばし、ネロの頬に触れてくる。 「ネロが会いに来てくれたから……わたしはそれだけで十分。他には何も望まない」 「でもっ――」 話がまとめられようとしている――そう危惧して、ネロは慌てて遮ろうとし……何か柔らかいものに、唇を塞がれた。 (レ……ン?) 頭が真っ白……と言うか真っ赤になる。閉じられた瞳が目の前にある。頬に触れていたはずの手が首の後ろに回されていることに、今更ながら気がついた。 ――数秒。レンが離れた。さすがに顔が紅潮しているが、今の自分の比ではないとネロは思う。男って意外と弱い……ふにゃけた頭でぼんやりとそう考えた。 「……ごめんね」 「……いえ、ごちそうさま」 妙なことを口走るネロに、レンは笑った。そして、 「もう帰らないと。皆、心配してるよ?」 その言葉で我に返る。すぐに言い返そうと口を開くが……言葉は、出なかった。レンの言った状況を回避する方法が、どうしても思いつかなかった。 仕方なく、ネロはこう言った。 「……また来るよ」 それが、ネロにできる精一杯のことだった。自分がこの世界に来るのなら、裁かれるのは自分だけで済む。 ところがレンは、それすらも拒絶した。 「禁忌を犯しちゃダメだよ……来てくれて凄く嬉しかったけど、ここは本当は来ちゃいけない場所。来ることが分かったら、全力で追い返すからね」 「ちょ、レン……いくらなんでもそれは……」 「ダ・メ」 子供に言い聞かせるようにそう言った後……レンは再び抱き着いてきた。ネロの心拍数が再度跳ね上がる。 どこで覚えたのやら、ひどく艶かしい声で、レンは耳元で囁いてきた。 「……お願いだから、もう、来ないで……」 「……本当にそれでいいの?」 正直、もう来ないというのは辛い。できるなら連れ出してあげたいし、それが無理ならせめて何度も会いに来てあげたい。そうでなくても、二度と会わないというのは、互いの精神にかなりきついものがある。 ――しかし。 「……うん」 ――それがレンの望みなら、自分は耐えなければならないのだ。 実際に帰ろうという気になったのは、それから数時間した後だった。 「それじゃ」 「ん……あ、一つ言い忘れてた」 レンの顔には、微かに涙の跡が見える。やはり無理にでも会いに来るべきだろうか――そう思ったが、やめた。そんなことをしても、レンは喜ばない。 何かを思い出したかのように口を開け、ネロに言ってくる。 「ウリエルを、許してあげて」 「……」 その話をされるとは思わなかった。抑制のきかぬまま、ネロの顔が渋面になっていく。 「それは、」 「確かにウリエルは魔術大全の監視が役目だった」 そう。ウリエルの目的は別にあった。ネロは俯く。この話には、未だにショックを受ける。 だが、次のレンの言葉に顔を上げた。 「でも、ウリエルがネロのことを大事に思ってなかったわけじゃないの」 「……え?」 今の自分は、さぞ間抜けな顔をしているだろうと思う。レンは微笑んだ。そして、言った。 「ウリエルの心の中を見たの。ネロと再会したときの嬉しさ、また一緒に暮らすことが決まったときの喜び、そして……拒絶されたときの悲しみ。全部、ネロを本当に想ってなければ持てない感情だった」 「でもっ ……それじゃ、なんで十年も……」 本当に大事に想っているのなら。十年も放っておくはずがないと思う。無事だと知らせるだけでもいい。なぜ一度でいいから会いに来てくれなかったのか。 「それは……わたしの分身を助けたからなの」 「……分身を?」 コクリと、レンは頷いた。 「わたしの分身は、最初牢屋に閉じ込められていたの。ウリエルはそれを見かねて、助け出して……その罪で十年間幽閉されてたの。堕天使呼ばわりされながら、ね」 「……」 だから、来れなかったのだ。 幽閉されていたから。だから会いに来れなかった。それならそうと一言いえばいいものを、ウリエルは何も言わなかった。おそらく、いらぬ心配をかけさせまいとして。 だが――それとこれとは話が違う。ひどいことを言ってしまったとは思う。顔を合わせれば、謝ることもできると思う。 しかし、それでも、心のどこかにしこりが残る。 「……彼女は、ネロの望む彼女ではいられなかったけど」 呆れたようなレンの声。言うことをきかない子供を諭すかのような。 「それだけの理由で、ネロは自分を大切に想ってくれていた人を拒絶するの?」 「……いや」 しこりが、消えた。嘘のようにあっさりと。 「……行ってあげて」 満足げな声に顔を上げる。 「ウリエル、待ってるよ。早く行って、許してあげて」 「……レンは」 「わたしは、ここにいる」 目に映るレンの顔は、笑っていた。 満面の笑みで、こう言っていた。 「さよなら、ネロ」 ……おそらくこれが、最善の選択なのだと思う。 ……無理にでもそう思わなければならなかった。 「……さよなら、レン」 ……ここがハドリックの家だということに気がつくのに、しばらくかかった。自分の部屋だということに気がつくのにもうしばらく。真夜中だということには、更にしばらく時間がかかった。 静かだった。不気味なほどに静まり返っていた。 ふと、ウリエルのことを思い出した。廊下へ出る。急ぎ足で彼女の部屋へ向かい、 「ウリエル……ちょっといいか?」 ……返事はない。もう一度ノックをするが、それでも。不審に思いながら扉を開ける。 ウリエルは、いなかった。ひょっとして、自分を探しに出たのだろうか? 「……ネロか?」 後ろの方から、ハドリックの声がした。暗がりの中でも、目の下のクマが確認できた。 「どこへ行ってたんだ?」 「師匠、その……ウリエルは?」 質問に質問で返す。ハドリックは怪訝な顔をし、言ってきた。言いにくそうに。 「……君の魔術大全の封印が解けたから、天界へ帰還した。……知っているだろうから言っておくが、彼女は君の監視役だった。封印が解けたというのは……正直、あまり良い状況じゃない」 「……ウリエルはどうなるんです? まさかまた幽閉なんて――」 「? そのことをどこで知ったんだ?」 「どうなるんですか!?」 切羽詰って聞くネロに、ハドリックは渋面で首を振る。 「分からない。そうなる可能性もゼロじゃない」 「そんな……」 足元が崩れるような気がした。 幽閉となれば、おそらく、ネロがレンに会いに行ったことも罪に加算される。そうなると……もう二度と会えないかもしれない。 遅かったのだろうか? 何もかも、手遅れだったのだろうか? 混乱がうずまくネロの耳に、午前二時を告げる時計の音が微かに届く。 ……そして。 半年経った今も、ウリエルはその姿を見せていない。 |
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