魔術大全

 

 ――寒い。

 

 

 それもそのはずで、いつのまにか雪が降っていた。と言うがそれは監視用につけられた扉の小窓から見えたからで、決して外に出て確認したわけではなかった。そんなことが許されるはずもなかった。

 呼吸の一つ一つが、目の前が見えなくなるくらい白かった。ため息をつく。今日は一日何も口にできないだろう。この雪を理由に「餌係」がサボることは、容易に想像がつく。

 ボロきれと変わらないような毛布を身にまといながら、身を起こす。寝ているとか起きているとかは関係なく、唯一の防寒具を手放すわけにはいかなかった。それでも凍死しそうなほど寒かったけれど、他に何もない以上、我慢するしかなかった。

 ……静かだった。

 いつも静かには静かだけれど、木々のざわめきが聞こえない分、今日は輪をかけて静かだった。世界中の音がなくなったような感覚。自分が動く衣擦れの音だけが聞こえる中、唯一の外との繋がりである小窓から雪が見える。出ようとしたこともあった。けれど、自分が通れるほど小窓は大きくないし、鉄の扉や周囲の石壁は、一人の人間がどうこうできるようなものではなかった。物心ついたときには既にここにいて、ここ以外の場所などないように思えた。小窓から見える外の世界も、森の中なので同じ風景が続くのみ。自分にとっては何の意味もなかった。

 自分は、皆に疎まれている。

 直接そう言ってくる相手はいないけれど、自分と接する人々の態度は決して好意的ではなかった。

 嫌いだと言ってくる相手すら、自分にはいないのだ。そう思っている。そういう思いにも、特に何も感じない。慣れているから。そんな状況で当たり前だったから。

「……――あ」

 声を、出す。

 喋る相手は誰もいない。けれど、発声練習は毎日していた。相手がいないからきちんとした会話はできない。単語を繋いでなんとか意味を持たせることが精一杯で、それでも欠かした日はなかった。

「――あ……?」

 ふと、思い出す。

 昨日、自分は何か考えていたはずだ。何を考えていたのだろう。いつもの暇つぶしか、それとも、

「おい」

 その時、ひどく不機嫌そうな声とともに、パン一切れとチーズ一かけらに、皮袋に入った水……それと、今自分が身にまとっているものと大差ないような毛布が小窓から放り込まれた。放り込んだ男性は、こちらを見もしないでさっさと歩み去ってしまう。「ったく、放っとけばいいのによ」という呟きが聞こえた。

 毛布と、おそらく今日一日分になるであろう食料を見て、考えていたことを思い出した。

 ――明日は死ねるかもしれないと、そう考えていたのだ。

 しかし、現実の自分は喜んだ。諦めていた食べ物と、願ってもみなかった毛布に。死にたいと思う一方で、なぜか死にたくないと考えていた。

 そう。死にたくはない。

 自分が望んでいるのは、死ではないのだ。

 自分は…………

 

 

 …………ここから、出たい。

 

 

 …………どのくらい時間が経っただろう。

 パンとチーズを食べて、隅の方でうずくまって。もうろうとした意識の中で、確かに声を聞いた。

 ――ここから出たい?

 真っ白な意識の中で、声になっていない声で答える。

「……出たい……出して、お願いだから、ここから……」

 ――そう。

 声は、言った。

 ――なら、顔を上げてごらん。

 顔を上げた。そして……呆然とした。

「……うそ」

 扉が、開いていた。小窓とは比べ物にならない大きさの四角から、外の世界が覗けていた。

 ――早く。

 放心状態の中、どこからか聞こえてくる声を聞いていた。

 ――早くしないと、誰か来ちゃうよ?

 どこかからかうような口調に、慌てて立ち上がった。荷物など何もない。毛布だけは持ったまま、恐る恐る外へ出て、

 初めて見る外の世界は、真っ白に彩られていて――――――――――――――――――

 

 

 そして、レンは目を覚ました。

 身を起こす。外は雪でなければ森でもなく、ただ静まり返った住宅街だった。自宅で研究しているわけではないので、ハドリックの家は普通の住宅街にある普通の一軒家だった。

 時刻はまだ真夜中だった。夢のせいか目が覚めてしまって、困ったことに眠くならない。

 水でも飲もうと思った。ベッドを降りてスリッパをはく。カーディガンをはおって部屋を出ようとし、ふと思った。

 これら全て、あそこにいた時には考えられなかったものだ。それが、当然のように存在している。

 一概に喜べない。複雑な心境だった。

 ネロもハドリックも既に寝ているらしい。家の中は静まり返っていて、聞こえる音はレンの足音くらいだった。真夜中には以外と響く。

 台所に着いて、水を注ぐ。それを飲もうとして、夢を思い出した……現実の、まさに悪夢だった時のこと。今更夢に見るとは思わなかった。今日の祭りの時に、久しぶりに思い出したからだろうか。

 そして、考える。

 ――あの声は、一体誰だったのだろう?

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