モンスター・ハンター

 

 舞花は人間ではない。いわゆる人狼という種族の末裔である。

 吸血鬼などと違って、人狼というのは知名度の割に詳細はよく知られていない。例えば吸血鬼は鏡に映らなかったり日光に弱かったり十字架を持つと火傷したりニンニクが弱点だったりする。それが本当に正しいのかどうかはともかく、そういう話はあちこちで聞くことができる。

 対して、人狼にはそれほど細かい設定はない。いや、あるのかもしれないが、一般にはあまり知れ渡っていない。人間離れした身体能力や、満月の夜のパワーアップが精々である。

 結論から言おう。どっちも本当である。ただし、人間がそうであるように人狼にも能力の個体差はある。舞花の身体能力は人間から見れば間違いなくバケモノであるが仲間内では鈍くてとろいという評価が下される。満月の夜のパワーアップだって、いつもはどんなに頑張っても十一時頃が限界だけれど満月の夜は二時まで起きていられるという程度。まあパワーアップと言えばパワーアップだ。何の役にも立たないけれども。

 住んでる場所だって、山奥の洞窟とかそういうところでは全然ない。駅付近の都市化が進むにつれてそこだけ浮いているような、家賃が月二万という異常な安さの木造家屋。一戸建てである。しかも広い。そして、嵐が吹けば飛んでいってしまいそうに古い。中はもちろんあちこちがボロボロで、雨戸は外れ障子は破れ、挙句の果てになんと水道がなくて井戸だったりする。こうなると月二万でも高いような感じである。地図にも載らないような田舎ではあるまいし、井戸なんか危なくて使えるわけがない。水道を引く金なんぞあるわけがなく、おかげで舞花は毎晩毎晩、近所の公園までバケツを持って水を確保しに行っているのだ。ちなみに食器は向こうで直接洗っている。夕飯のおかずなんかをおすそ分けすると、ベンチで寝ている人達が洗い物を手伝ってくれる。

 そして今ちょうど、バケツの水をえっちらおっちら運んで帰ってきたのである。かろうじて台所と班別できる場所の床にバケツを置き、重労働でくたびれた体のあちこちをマッサージしながら自室の襖を開いて、

 少年と目が合った。

 

「もん……すたあ?」

 茫然自失の体にある舞花に、少年は頷く。

「聞いたことくらいあるだろう? 人間の中に潜伏してる妖怪とかそういった類の奴らを捕まえるのが仕事。ちょうど、君みたいな」

 舞花の心臓が跳ね上がる。混乱する頭を必死に制御して、口を開く。

「い、一体なにを証拠にそのような!?」

「血液鑑定すればすぐに結果が出る。人狼は人間と犬の血を混ぜたような独特の血液だから。どうする? 身の潔白を晴らすために、今から病院へ行こうか?」

 舞花は詰まった。

 少年の言ったことは事実である。人狼は一般的にモノノケと分類される輩の中でもかなり特殊な血液をしている。もちろん血液検査を受けたらアウトだし、輸血だってするのもされるのも厳禁である。相手が同じ人狼であればともかく、人間だった場合はまず間違いなく死に至る。「A型の人にB型を輸血しちゃった」なんてレベルを遥かに越えてやばいのだ。

 が、だからと言って「はいわたしは人狼です」などと言えるわけがない。モンスターハンターというのは多くのモノノケにとっては天敵である。見つかったが最後、地獄の果てまで追い掛け回されて最後には殺される。殺されるならまだしも、下手すると実験体にされることもあるという。人狼族は特にそうだ。個体数が少ないから研究機関は喉から手が出るほど欲しているに違いない。舞花の頭に、窓も何もない部屋で反応を見るためにクスリを打たれたり、電流にどれだけ耐えられるか調べるために電気椅子で拷問まがいなことをされたり、荒縄で縛られてムチで打たれたりしている自分の姿が浮かぶ。最後のはちょっと違う気もしたが、とにかくそういう目に遭わされる可能性は大である。

「さて」

 少年の呟き。舞花はビクリと身を竦ませる。

「間違いないようだな」

 少年が一歩舞花に近づく。舞花は同じように一歩後ずさり、

 身を翻した。部屋を飛び出る、長い廊下を一目散にかける、普段きちんと雑巾がけしているから滑りやすい、こんなことならちょっとくらいサボっておけば良かった、靴なんか無視して、玄関扉を勢いよく開けて、

 首にきた。

「きゃっ!!」

 突然何者かに首を掴まれて、舞花は家の中に押し戻された。何者かはまだ手を離さない。舞花を壁に押し付けている。これがまたけっこうな馬鹿力で、種族内では非力な舞花の人間界ではプロレスラーな力をもってしてもビクともしない。

「あまり暴れない方がいい。死にたくはないだろう?」

 舞花を拘束して離さない何物かが言った。舞花は目を向ける。ある程度予想はしていたが、案の定さっきの少年だった。窓から先回りでもしたのだろうか? いや、それにしても早すぎる。舞花はカール・ルイスくらいなら置いてけぼりにできる走力を持っているし、部屋から玄関への最短ルートは廊下を通ることだ。先回りなどできるわけがない。

 ではなぜ、ここにいる?

 分からない。分からないが、今はそんなことを考えている場合ではなかった。

「離してよ!!」

 舞花は、拘束されていない足で蹴りを繰り出した。あっさり避けられる。今度は殴りかかる。押さえられているのは首だから頭突き以外の攻撃なら大抵はできる。当たりさえすれば人間である少年など簡単に吹っ飛ばせる。

「やれやれ」

 少年が聞こえよがしにため息をついた。

 直後、

 舞花の全身に、強力な圧力が加えられた。川に流されるとき途中で止まったりしたら多分こんな感じだ。息苦しい、身動きがとれない、喋るのにも苦労する。

「反抗的な態度は感心しない」

 少年が淡々と呟く。

「……はんこう……くらい……するわよ」

 精一杯の抗議を試みるが、圧力が強すぎてなかなか言葉にならない。

 少年が、可笑しそうに笑った。

「元気なのは構わないが、あまりそういう態度ばかりとっていると、」

 ダンッと、舞花の顔の横を打ち付ける。ビクッと怯える舞花の顔を上から覗き込み、少年は冷たい声で、

「……研究所でも相応の待遇を覚悟してもらうことになる。それでもいいのか?」

 研究所。

 絶望的な単語を聞き、舞花の目に涙が浮かぶ。こんなことなら人間の街でなんか暮らさなければよかった。お父さんお母さんがあれだけ一緒に住もうって言ってくれたのに。街は危ないってあれほど心配してくれたのに。山は不便だからなんて理由で断ったバチが当たったんだ。親の想いをなんだと思ってるって、神様が怒ったんだ。

 ごめんなさい。

 謝りたかった。優しい両親の心遣いを無下にしたことを。言いたかった。今度こそ自分は安全を選ぶと。そして、何よりも、

 もう一度、会いたかった。

 舞花の目から、涙が零れ落ちた。

 

 異変は突然だった。

 涙で滲む舞花の視界の中、少年がいきなり、身を折ってくつくつと笑い出したのである。

 泣いている自分を嘲笑う気か、とも思ったが、どうも嘲笑とは感じが違う。そう、それはまるで、

 悪戯が成功したときの子供のような笑い方。

 そして直後、少年は弾かれたように顔を上げた。

「あはははははは!! ごめんごめん、まさかこんなに上手くいくとは思わなかったよ!!」

 態度も口調もガラリと変わり、声だけ聞くと別人のようである。さっきまではひたすら冷酷で無機質だったが、今は快活な調子がありありと窺える。

 ポカンとしている舞花は、自分を拘束していた力が消えていることにも気がつかない。

「いやー楽しかった。でも、怖がらせちゃったかな。まさか泣くとは思わなかったからさ。ごめんね」

「あ、あの……」

 言葉通りとても楽しそうな少年に、舞花はおずおずと声をかける。

「ん?」

「え? あ、その……」

 声をかけたものの、舞花は咄嗟に言葉を出せない。が、少年はそれでなんとなく理解したのか、助け舟を出した。

「さっきの話はどうなった? とか聞きたいの?」

「は、はい」

 勢い込んで頷く舞花に、少年は満面の笑みで、

「あれね、全部嘘」

「……は?」

「だから、嘘。僕は君を捕まえる気なんてないよ」

「で、でも、人間の社会に潜伏している魔物は……」

「そりゃ犯罪起こしてたりしたら捕まえるけどね。君がやった犯罪なんて精々信号無視と戸籍の偽造くらい……戸籍なんてどうやって偽造したのか知らないけど……大した問題を起こしてるわけでもないし、全然おっけーだよ。まあ捕まりたいって言うなら捕まえてあげるけど」

 舞花は首をぶんぶん横に振る。「だよねぇ」なんて呟きながら、少年はにこやかに首肯する。

「じゃあ、モンスターハンターっていうのも?」

「いや、あれは本当」

「え? でも……」

 何か言いかける舞花を遮って、少年は言う。

「『モンスターハンターは魔物を狩る。殺す場合もあるけれど、研究所に連れ帰ってほとんど拷問みたいな研究をする』 君が聞いてた噂はこんなところかな?」

 舞花は頷く。

「それはデマだよ。モンスターハンターの対象はあくまで犯罪を犯した魔物を捕らえること。捕まえたって別に研究したりしないさ……信じてないね?」

 舞花の胡散臭そうな表情を見て少年は苦笑する。その通りで、舞花は全然信用していなかった。

「じゃあ聞くけど、君は今まで一度でも、人間にさらわれた仲間を見た?」

「それは……」

 そう言われては首を横に振るしかない。だが、

「わたしが知らないだけかもしれないじゃないの」

「うーん、まあそうなんだけど……」

 こめかみをぽりぽりとかきながら、少年は困ったように笑う。舞花は訝しげに目を細めて言った。

「そもそもなんでここにいるの?」

「ああ、そうそう。この際だからデマかそうじゃないかは忘れ……られそうにない、か」

「?」

「いや、ここにきた理由ってね……」

 少年はしばらく言いよどんでいたが、やがて諦めたようにため息をついた。

「君に、あるところに来て欲しいんだけど……ダメ、かな、やっぱり」

 目に見えて警戒心を増した舞花を見て、少年は苦笑した。

「でも、僕としても君をつれてかないと帰れないんだよね……どうしようか」

 勝手に思案する少年を警戒心も露わに睨みながら、舞花は言葉にならない声を出す。

「あ、あ、あ、」

「ん? ああ、『あるところってどこよ!?』か。モンスターハンターの事務所だよ。僕はそこの助手をやってる」

 言いたいことを一字一句完璧に読み取られ、舞花は更に混乱する。

「な、な、な、」

「『なんで!?』って、うん、当然の疑問だね。いろいろあるんだけど、そうだなぁ、君の保護、かな?」

「ど、ど、ど、」

「『どういう意味?』か。君ね、ぶっちゃけると狙われてるんだ。『本当に』魔物をさらってく奴らにね。だから一時的にでも僕らの傍にいないと危ないんだよ。ところでそろそろ喋らない?」

 言われて舞花は深呼吸をし、気分を落ち着けようとする。スーハースーハー、少年の言葉が蘇る、呼吸が再び乱れ、慌てたようにスーハースーハー。結果としてあんまり落ち着かなかったが、とりあえずまともに言葉を発した。

「狙われてる? 『本当に』って一体……」

 少年は複雑な表情で、

「いることはいるんだよ、魔物をさらって研究対象にしようとする馬鹿。で、僕らはそいつらから君達を守るのも仕事の一つなんだ……こんな風に」

 突然だった。

 突然少年が舞花を押し倒した。いきなり何をするのかと舞花は思う。まさか守ってやる代わりに身体をよこせとか……? 怖いけど自分はそれだけ魅力的なのだと思うとちょっと嬉しいなんてそんな馬鹿なことを思うわけもなく、舞花はとっとと離れろこの変態とばかりに暴れようとして、直後に響いた着弾音にピタリと止まった。壁に穴があいていて、粉状の物がぱらぱらと舞花の上に降ってくる。

「危ない危ない。君の分は麻酔弾だったみたいだけど……お互い無事で良かった良かった」

 次が来ないのを確認してから、少年は慎重に舞花から身を離す。仰向けの状態で事態を上手く把握できない舞花に向かって、

「これで分かってもらえたかな?」

 舞花はコクコクと頷いた。少年も一つ頷き、もう一度口を開く。

「あんまりぐずぐずしてると今度はアタックチームが乗り込んでくるから、その前にここを出よう。いいね?」

 しばし躊躇った後、舞花は静かに頷いた。

「じゃあ、部屋へ行って荷物をまとめて来て。匍匐前進でね。十分経ったら迎えに行くから、それまでに準備しておいて」

 言われた通り、舞花はひっくり返り、匍匐前進で自室を目指す。

 

 母親からもらった首飾り。見せる相手がいないのでずっとしまい込んでいた。父親からもらったオカリナ。吹けないのでずっとしまい込んでいた。他、衣服に下着、どこで手に入れたのか全く思い出せない携帯洗面用具、公園で寝ている人達からもらった安物のアクセサリー、お別れを言えないのを残念に思う、半紙がないから一度も使ったことのないすずりと筆と墨、まとめて縛ってリュックに放り込む。

 これだけだろうかと記憶を探り、あと二つ、とても大事なものを忘れていたことに気づいた。

 部屋の隅にたたまれた布団の上に乗っている。

 愛用の枕である。

 リュックに入らないので小脇に抱える。なんだかすごく変な格好のような気がするが考えないことにする。

 最後の一つ。

 どっしりとした文机。

 父親からのもう一つのプレゼント。

 これには困った。小脇に抱えるには大き過ぎるが、かと言って置いていくわけにもいかない。あの少年に運んでもらおうか、そう思ったとき、襖が物凄い勢いで開け放たれた。少年が駆け込んでくる。

「まずい、奴らもう来た。行ける?」

「ま、まだあれが」

 文机を指さす。

「まためんどくさそうなものを……置いてくわけにはいかないの?」

「……父さんがくれた机だから」

 少年は俯いて、息を吸い、息を吐き、黙考してから言った。

「分かった。後はない?」

「うん」

「よし」

 その瞬間、玄関扉が荒々しく壊される音がした。が、他の場所からは音がしない。壊すくせになぜか全員玄関から入ってきているらしい。律儀な侵略者である。

「き、来た……っ」

 扉を壊して入って来たり銃でいきなり狙撃したり。おまけに少年の保証つきである。どこから見ても疑いようのない事実に、舞花は怯えた声を出す。

「へーきへーき。さ、掴まって」

 励ますように少年は言って、舞花に右手を差し出した。すがりつくようにそれを掴む。少年が味方であるという保証はどこにもないが、今は他に頼れるものがない。

 少年は文机を左手で掴んだ。廊下を走る音がする、廊下を滑る音がする、あ、誰か転んだ、毎日雑巾がけして正解だったと思う、ところがその誰かは毎日雑巾がけしていた舞花のことを激しく罵り、舞花にも聞こえる大声で「FUCK YOU!!」とか叫んでいる。多分あんまり良い言葉じゃないんだろう。英語が分からなくて良かったと思う。

「じゃあ行くよ。目を閉じてる方がいい」

「う、うん」

 舞花は素直に目を閉じる、廊下をずんずん進む音、襖に手をかけ、開けられる寸前、

 重力がひっくり返った。

 

「もう目を開けていいよ」

 少年の声に目を開ける。すると、

「あ……れ?」

そこは見慣れない街の、見慣れない建物の前だった。

「ここは……?」

 呆然としている舞花に、少年はにっこりと笑って、

「自己紹介がまだだったね。僕は神崎草一。モンスターハンターの助手。まあ、年齢制限のせいで試験が受けられないってだけなんだけど」

 舞花の右手を取って、強引に握手。

「君は今日から僕達の保護下に入る。詳しい説明は姉さんからされるけど分からないことがあったらなんでも聞いて。僕は一応君のサポート役も兼ねてるから」

「え、あ……え?」

 混乱している舞花に微笑んで、少年は建物を背に、小さくお辞儀した。

「モンスターハンター、神崎事務所へようこそ」

 

「あなたが舞花ちゃんね? わたしは神崎水穂。よろしくね」

 草一の姉でモンスターハンターらしい女性は、そう言って舞花に握手を求めた。妙に緊張しながら舞花は握り返す。知らない人と話すなど、数年ぶりのことなのだ。

「ここに来たからにはもう安心だから。何もないけど、くつろいで行ってね」

「は、はぁ……どうも」

 曖昧に返事をしながら、舞花は室内を見回す。怪しい資料が入っている本棚、座ったら沈没しそうなソファ、男五人くらいでようやく持ち上げられそうな机。どれもこれも、舞花が初めて見るものばかりである。

「そんなに珍しい?」

 舞花の視線を察してか、水穂が聞いてきた。いきなり声をかけられて面食らった舞花は「あ〜」とか「え〜」とか呟いた後、ぼそぼそと、

「は、はいっ と、とても趣があって……」

「そんな無理しなくていいわよ。リラックスリラックス」

 と言われてリラックスできるわけもなく、舞花はひたすら赤くなって俯いてしまう。「う〜ん」と苦笑気味にしていた水穂だったが、やがて頷いて、

「それじゃ、今日は疲れてるだろうから、詳しい話は明日にしましょうか……と、その前に」

 いきなり水穂が舞花に顔を近づける。何事かと後ずさる舞花の肩をがっしり掴んで離さない。一切の身動きを許さないその力に、この姉弟は本当に人間か? と思う。

「あいつに何かされなかった……草一、どこ行くの?」

 扉からこそこそ出ようとしていた草一を、水穂は呼び止める。「ギギギギギ」という擬音がぴったりな仕草で、草一は振り返る。

「いや、お茶でも淹れようかな、と」

「後にしなさい。で、舞花ちゃん、正直に答えて。あいつに何かされなかった?」

「……これといって何も」

「本当に? 何か悪戯されたりもしなかった?」

「……あ」

 舞花の呟きと全く同時に草一が反応を見せる。不審に思いながらも、舞花は言われた通り正直に、

「わたしを捕まえて研究する、とか言われました、けど……!?」

 いきなりだった。

 水穂の雰囲気が一変した。体中から赤いオーラが立ち昇る。戦闘力が跳ね上がるのが一目で分かった。

「そーいちくん♪」

 不気味なほどに優しい声で、水穂は草一を呼ぶ。顔に笑みを貼り付け、同じように作り笑いをしながら冷や汗を流している草一に視線を突き刺す。

「な、何?」

「おねーさんが言ったこと、覚えてる?」

「……もちろん」

「何て言ったっけ?」

「……『今度こそ絶対に、仕事中に悪戯なんかしないように』」

 ぼそぼそ呟く草一。直後に、

 水穂の姿が消えた。「あれ!?」と目を見張る舞花。そして、

「分かってんならやるなぁ!!」

 という怒鳴り声と、

「ぐぎゃあああああああああああああ!!」という叫び声と、

 グシャアアアアアアアアアアアアア!!

 という非常に気持ちのいい音が、同時に響いた。

 舞花が慌てて目をやると、そこには背負い投げのポーズと取った水穂と、床に頭から突き刺さるように突っ込んでいる草一と、見事に粉砕された花瓶があった。

 水穂は体勢を整え、ピクリとも動かない草一に、

「あれだけ悪戯するなって言ってるのに、毎回毎回毎回毎回、どーして懲りないのあんたはっ!!」

 草一は答えない。

「あんたの悪戯のおかげで今まで何回迷惑を被ったと思ってんの!! 少しは反省しなさい反省を!!」

 草一は答えない。

「ちょっと聞いてるの!? 草一!! いつまでも寝てないでさっさと起きる!!」

 草一が、ようやくのっそりと起き上がった。

「姉さん、いつか僕を殺そうと思ってない?」

「くだらないこと言ってないで、ほら、さっさと案内しなさい……舞花ちゃん?」

 水穂は、正確に言えば神崎姉弟は、そこでようやく、部屋の隅で縮こまっている舞花に気づいたのだった。

 

「びっくりした?」

 さっき投げ飛ばされたばかりなのにもうピンピンしている草一が、後ろでおどおどしている舞花に笑いかけた。

「は、はい」

「僕にはタメ口でいいよ。ま、気にしないでいいよ。あんなの日常茶飯事だし」

「日常茶飯事……」

 なんで死なないんだろう、と純粋に不思議に思う。しつこいようだが本当に人間だろうか。

「君には間違っても技なんか仕掛けないだろうから、安心していいよ。今の所投げられてるのは僕だけだしね」

「そうなんだ……よく生きてるね」

「まあ、姉弟のスキンシップってやつだよ」

 過激なスキンシップもあったものだ。そう思っている舞花の前で、草一が立ち止まった。

「ここだよ。ちょっと狭いけど」

 扉を開ける。言っては難だが、舞花の自室よりよほど広い部屋だった。ここが「ちょっと」狭いのならば、自分の部屋は「かなり」狭いのだろうか。そりゃボロ屋敷だけど、あれでもアルバイトとか必死でやってようやく家賃払ってるのに、と、なんだか悔しい気分になる。

 そこで、ふと思った。

「ねえ」

「ん?」

 文机を中に運び込もうとしていた草一が、首だけで振り向く。

「わたし、どのくらいここにいるの?」

 草一は思案顔で、

「いつまで、とは言えない。奴らが君を諦めるまでかな、強いて言うなら」

「そ、それじゃあ一生……」

 帰れないじゃない、と言おうとした舞花を遮って、

「それか、僕達が奴らを一網打尽にするまで。魔物がいること自体、知っているのは人間の中のごく一部だから、根絶やしにするのはそんなに難しいことじゃない」

「……」

 難しい顔をしている舞花に草一は笑いかけ、

「奴らは潰すよ。必ずね」

 えらい軽く言った。その後続けて、

「その後は自由だよ。あの家へ戻ってもいいし、両親のところへ帰ってもいい。あ、あそこの家賃は払っとくから」

「……ん」

 それが最良策であることは、舞花にも分かった。

 だから今は、頷くしかない。

 

 翌朝。

 舞花は日が出る前に目が覚めた。別に緊張しているわけではなく、元々そういう生活リズムなのである。健康ここに極まれり。

 上半身を起こして、少し動いてみる。慣れないベッドで寝たためか、少し寝覚めが悪い。

 大きく伸びをし、裸足の足を床につける。なんか妙に暖かい床だ。絨毯なんか敵じゃないほど柔らかいし。でも踏んだ感触が「ふわ」じゃなくて「ぐにゅ」な感じなのはなぜだろう。暖かさだって、どちらかと言うと生物のような……

 犬だった。

「はわわ、ご、ごめんなさいっ!!」

 自分が思いっきり足蹴にした犬に向かって、舞花は慌てて頭を下げた。どけた足の小指がベッドの脚にぶつかる。死ぬほど痛い。舞花の目に涙が浮かぶ。

 犬はその様子をひどく冷めた目つきで眺めていた。が、やがて、

「どんくせぇなあ。お前本当に人狼か?」

 舞花は驚いて目を見張る。犬は構わずに、

「寝ぼけて人を踏んづけたりぶつけて痛がったり……情けねえったらありゃしねぇよ。お前も犬のはしくれだろうが。もう少しシャキっとしろシャキっと」

 舞花は口をぽかんと開けて、なぜか左右をきょろきょろし、持ってきた愛用枕を抱いて、

「きゃああああああああああああ!!」

 

二秒としないで草一が駆け込んできた。実は待機してたんじゃないかと疑いたくなるくらいの反応速度である。

「どうした!?」

「い、犬、犬が喋った」

「自分だって犬じゃないか」

「わたしは人狼!! それより誰これ?」

 舞花に震える指でさされた犬は、草一を見て器用に片手を上げた。

「よう、ボウズ」

「おはよう。ゴエモン」

 極めて普通に挨拶を交わす草一。それから舞花の方を向いて、

「紹介がまだだったね。こいつはゴエモン。うちで飼ってる犬だよ。頭と口と寿命は人以上だけどそれ以外は完璧に犬だから。まあ仲良くね」

「よろしくな小娘」

「小娘って……」

「俺はこれでも齢五十の老犬よ。そんな俺から見りゃあお前なんかまだまだ小娘だってことさ。身体も貧相だしな」

「な……!?」

 言わせておけば、と反論しかけ、そこに、

「ああ、それは言えてる」

 と草一が余計な横槍を入れる。鬼の視線で彼を睨み、そして、トランクス一枚で立っている彼の姿を網膜に映した。

 草一を責めてはいけない。冬ならともかく夏である。トランクスだけで寝る男なんかこの世界にゴマンといる。おまけに彼がここにいるのは舞花の悲鳴に反応したからであって、決してセクハラとかそういう概念があったわけではない。

 そんな事が関係あるわけがない。

 舞花は二度目の悲鳴を上げた。

 今度は水穂が、草一の背後に立っていた。

 

 舞花は犬のくせに魚が大好きである。

 だから、朝食に出た鮭の切り身も非常に好意的に受け入れられた。

 朝の騒動から三時間ほど。水穂は舞花の前でパンを食べていて、ゴエモンは舞花の足元でヘルシージャーキーを食べていて、草一はまだ舞花の部屋の入り口付近で死んでいる。しばらくは蘇りそうにない。

「美味しい?」

 コーヒーの入ったカップを傾けながら、水穂が尋ねてきた。

「はい」

 納豆ご飯をかきこみながら、まんざらでもない顔で舞花は答える。

「そう、良かった。私和食なんか作るの久しぶりだから、不安だったんだけど」

「とっても美味しいです……あ、ところで」空席になっている隣に視線を向ける。

「草一君の手当て、しなくていいんですか? なんかすごい死にそうに見えたんですけど」

「いいのいいの。そのうち起きてくるから……ほら」

 がちゃりと扉が開いて、夏服姿の草一が顔を出した。欠伸をしながら舞花の横に腰掛ける。はらはらして見守る舞花に笑いかけて、

「さっきはごめんね」

 そしてパンにジャムを塗り始める。その表

情からはダメージの欠片すら窺えない。

「? なんかついてる?」

「だ、大丈夫なの……?」

 草一はけろりとした顔で、

「へーきへーき。こう見えても身体はけっこ

う丈夫なんだ」

 丈夫とかそういう範囲を逸脱しているよう

にも思えるが、心配はなさそうなので一応は

安堵する。

 「そう言えば舞花ちゃん、しばらくここにいるっていう話は聞いた?」

  水穂の言葉に、舞花は頷く。

「ご迷惑おかけします」

「気にしない気にしない。見方によっては迷惑かけてるのはこっちなんだから。それじゃあ、制服とかはあとで渡すから」

「制服? ここで働くんですか?」

 舞花は不思議そうに言う。世話になるのだから働くことに異存はないが、それにしても急な話だ。新人研修みたいなのはしなくていいのだろうか。

 水穂はそんな舞花を怪訝そうに見て、

「草一。あんた話してなかったの?」

「? なにを?」

「なにをって……あー、そっか。あんたにも言ってなかったっけ」

 一人で納得して、水穂は額をぺちりと打つ。何のことだか分からない舞花は草一を見るが、彼も「分からない」と首を振る。

「舞花ちゃんね、今日から草一と一緒に学校行くことになってるから」

『は!?』

 二人の声が重なった。舞花と草一はお互いの顔を見合い、「先にどうぞ」「いや、そっちが先に」と譲り合って、結局舞花が口を開いた。

「あの、学校っていうのは?」

「知らない? 学校って言うのは人間の子供が何の役にも立たないことを必死に頭に詰め込む、別名現代の牢獄と呼ばれる……」

「いや、それは知って、あ、牢獄は知りませんけど……わ、わたし学校なんて、」

「大丈夫よ。転入届その他もろもろは全部偽造しといたから。ちなみに名字は神崎ね。私たちの親戚って設定になってるから。転校する前は静岡県浜松市ってとこの城西高校の二年B組で、部活はこっちにはない百人一首部。草一のことは呼び捨てにすること。間違っても『神崎君』なんて呼んじゃだめよ。何か質問は?」

「わ、わた、わたし学校の勉強なんか全然やったことないですよ!?」

「当分の間は『分かりません』で通しなさい。その間に草一が家庭教師やってくれるから」

「僕!?」

 いきなり指名され、草一が驚く。

「当たり前じゃない。それとも何? 舞花ちゃんの面倒をみるのが嫌だとでも……?」

「い、いや、そんなことは決して……」

「はい決まり。舞花ちゃん、死ぬ気で勉強しなさいね。草一、変なことしたらあの世行きじゃ済まないからね」

 嬉しそうに告げる水穂に、抗うことなど不可能だった。

 

「変なことになっちゃったなぁ」

 ドア越しに草一が話し掛けてくる。

「うぅ……勉強かぁ」

 テレビで日本の受験戦争を目の当たりにしてきた舞花は、呪いの言葉でも口にするかのように言う。夢遊病者のような受験生達、自宅浪人生がナイフを持って……考えるのも恐ろしい。

「まあ、僕たちは関係ないからそんなに緊張しなくていいよ。本格的な受験戦争が始まるのは来年だけど、僕はモンスターハンターになるし、君はここで働けばいいし」

「なるしって……なれるの?」

 世の中そんなに甘いのか? と思い、舞花は脱いだ服を畳みながら聞く。自分は水穂が採用してくれればいいわけだから安心だろうが、草一はそうでもないのではないか。

 が、草一はいとも簡単に、

「なれるよ。だってもうやってるし」

「なにを?」

「モンスターハンターの仕事。助手だから姉さんつきではあるけど、実際に一人で片付けたことも何度かあるよ。免許ないだけで」

「ふーん……」

「モンスターハンターになる奴は皆そうだよ。いきなり一人前になれるだけの訓練を積んでから試験を受ける。落ちるのは大体、ぶっつけ本番で受けるようなバカだけ」

 クローゼットの中に制服があった。夏服である。どこでどうやって調べたのか、サイズはぴったりだった。

 下着の上に直接着ようとしたとき、草一が思い出したように言った。

「下着の上に着ちゃだめだよ」

「そうなの?」

「そんなことするのはエロマンガに出てくる女の子くらいだよ」

 舞花の顔が赤くなる。慌てて制服を脱ぎ、用意してあったシャツを身に着ける。

「入ってもいい?」

「だ、だめっ!!」

「入っちゃうよ?」

「だめだったら!!」

 

 出てきた舞花を見て、草一は小さく息をついた。

「似合う、かな?」

「かなり。まるで18禁エロゲーのヒロインみたいだよ」

「……」

 喜ぶべきなのか悲しむべきなのか、舞花は判断に迷う。

「じゃ、いこっか。あんまりゆっくりしてると走らなきゃならなくなる」

「うん」

 学校。

 高校野球で言う甲子園の意味を持つその言葉に、舞花はわずかに心をはずませた。

前へ戻る 次を読む


よろしければ感想をお願いします。

お名前:

メールアドレス:

評価などありましたら(必須じゃないです):最高 まあまあ 普通 ちょっと…… つまらん

コメント:
   

トップへ戻る