モンスター・ハンター
| 重い。 今日一日分の教科書が入っているのだから、鞄が重くなるのは当たり前である。普通の学生鞄にはとても入りきらないため、舞花はもう一つ、背中にリュックを背負っての登校となった。微妙に目立っている。 「なあ、やっぱり僕が持とうか?」 早くも肩で息をしている舞花を見て、草一が見かねたように声をかけた。隣を歩く身としては、女の子に荷物を持たせているのが何か気まずい、という気持ちもある。 「ううん、大丈夫」 ぜぇーぜぇー言いながら、舞花。一体どこらへんが大丈夫なのか、さっぱり分からない。足はふらふら、常にうなだれ、汗をかきまくっている。この娘、人狼のくせに体力がない。 「て言うか、僕の立場としてはぜひ持たせて欲しいんだけどな……」 道行く人々のさりげない非難の視線に刺されながら、草一が困ったように言う。口に出して言ってくる奴はいないが、目で「持ってやれよ男なんだから」と語っている。自分でもそのへん気にしているのだから余計に気になる。 「でも、悪いよ」 「悪いと思うんなら持たせてくれ、頼むから」 いよいよ鋭さと数を増した非難の剣に、草一はたまらず言う。草一の見ている先、舞花の向こう側。玄関を掃除しているおばちゃんが「近頃の男ときたら……女の子の荷物も持ってあげないのかね、まったく」と『言っている』。呟いている。口の動きでそれが伝わってくる。 「でも……」 「いいから、いいから」 強引に荷物を受け取り、肩にかけ、草一は救われたような表情で歩き出す。舞花が申し訳なさそうに、 「ごめんね」 「いいよ。僕も辛かったから」 「?」 「こっちのこと」 困惑顔の舞花をよそに、草一は軽い足取りで歩いていく。 どういう方法を使えば可能になるのやら、舞花は草一と同じ二年C組の、出席番号十五番として今日から顔を出すことになっていた。顔を見るのは今日が初めてだと言うのに、担任すら怪訝な顔をしない。水穂に催眠術でもかけられたのだろうか。 で、今舞花は、教壇の前で、人狼生最大の難関に立ち向かっていた。 自己紹介である。 今まで五人以上の人の前で喋ったことがない舞花にとっては、他のどんな試練よりも難しいことである。逆に言えば、それだけ何もない日々を送っていた、ということなのだが。 で、当たり前であるが、舞花はがちがちに緊張していた。 「え、え、え、えと……」 えと? 干支のこと? そんな空気がクラス中を駆け巡る。こういう場合にありがちな「とてつもない美少女なんで大騒ぎ」という雰囲気はない。舞花の容姿は、決して悪くはないが大騒ぎするほど優れてもいないのである。 「ま、ままま、舞花、です……神崎、舞花……」 で? そんな雰囲気が教室を支配する。「趣味は……」と呟いて、しまった、と後悔する。趣味に関する設定はない。泣きそうな舞花の目に、教室の一番後ろでノートを見せる草一が映った。救われたような気持ちでそれを見る、視力は良いから不都合はない。 『幼女誘拐』 ずっこけた。教室が騒然となり、担任に助け起こされた舞花が非難の視線を草一に向ける。自然とクラスの視線が集まった先、草一はいつの間にか出していたマンガ雑誌から、何食わぬ顔で「ん?」と顔を上げた。帰ったら水穂に言いつけてやろうと決心する。 それが伝わったのかどうかは分からないが、視線が逸れた後に草一は申し訳なさそうに手を合わせ、またノートに何か書いた。『音楽鑑賞』 「お、音楽鑑賞、です」 かなり間が空いたため、一瞬「え? 何が?」という空気が漂った。すぐに「ああ、趣味か」と納得する。火がつきそうな勢いで顔を紅潮させながら、舞花はもう限界だとばかりに一言、 「よ、よろしくおねがいします」 猛スピードで頭を下げ、同じくらいのスピードで上げた。 「まあ、そういうわけだ。神崎、確かお前の従妹だそうだな」 「そうっすよ〜」 「おぉ」というどよめきが広がる。 「じゃあ分からないこととかあったらあいつに聞くように。席は……玉野の隣が空いてるな。あそこに座りなさい」 指さされた先。ショートヘアの少女が手を小さく振っている。気さくそうなタイプだ。 「よろしくね。あたしは玉野真絵って言うの」 「こ、こちらこそ」 どもった舞花に笑いながら、真絵は握手を求めようとする。何も考えずに舞花はその手を握り返し、突然豹変した真絵の表情に驚いた。 「ど、どうしたの!?」 「……あなた」 「へ?」 呆けた顔の舞花をしばらく見つめ、真絵は軽く笑い、 「ねえ。ちょっと後で付き合ってくれない?」 「え? い、いいけど」 「ありがと……あ、ただし」 後ろの方にいる草一を目で示し、 「あいつ抜きで。トイレとでも言っておけば大丈夫でしょ」 「う、うん」 妙な迫力に押され、舞花は思わず頷いた。 舞花が撃沈した午前の教科が終わり、昼休み。 「うぅ……数学って、足し算引き算だけじゃないんだ……」 この言葉は、舞花が掛け算割り算も出来ないことを示している。家庭教師役の草一がどこまで頑張れるか……。 「英語でさようならは、ニーハオじゃなかったっけぇ……?」 そりゃ中国語だ。しかも「さようなら」ではなく「こんにちは」である。 「『社会』なのになんで歴史やるの〜?」 そんなことは誰も知らない。 「うぅ……」 全てにおいて劣等感を味わった舞花は、今も机に突っ伏して嘆いている。そんな彼女の肩を、誰かがポン、と叩いた。 「あ……」 顔を上げると、真絵だった。 「いい?」 「あ、うん」 席を立って後に続く。草一は、と教室内を見回すが、どこにも姿はない。 「屋上行こうか」 「え? 屋上って確か立ち入り禁止って……」 「大丈夫。合鍵をこっそり作ってあるから」 「……」 色々な意味で、屋上は涼しかった。 屋根の上とも言う。 つまり、誰も来れないのだから柵なんかあるわけがない。当然、ぎりぎりの場所から下を眺めることだってできる。 顔を青くしながら、舞花はできるだけ中央に移動した。真絵が笑う。 「怖い?」 「わたし、高いところ苦手……」 本気で震えだした舞花に苦笑しながら、真絵は言う。 「じゃ、さっさと降りましょうか。でもその前に一つだけ聞かせて」 「な、何?」 真絵は、それまでと全く変わらない調子で、 「あなた、人狼ね?」 ズバリと来た。舞花が別の意味で青くなる。まさか追手だろうか、いくらなんでも早すぎではないのか、でも、確かに草一を連れてくるなと言ったり、どうしよう、どうしよう。 そんな舞花の思考を察したかのように、真絵は慌てて付け加えた。 「ああ、安心して。あたしはあなたを捕まえようなんて思ってないから」 「え?」 「ちょっと気になっただけ。すると、あのバカ、神崎の従妹ってのも嘘よね?」 「う、うん……でもなんで?」 率直な舞花の疑問。そう、分かるはずがないのである。 真絵は微笑みながら、 「あたしも同類だから」 そう言った。 「どう、るい?」 「そ。あたしは妖狐。ほら、この通り」 軽く目を閉じる。直後、真絵の体から光が溢れた。たまらず舞花は目を閉じる。そして、目を開けた後には、 「あ!?」 そこに、舞花がもう一人いた。 「どう? すごいでしょ? これが妖狐の変身能力」 もう一人の舞花、真絵は舞花の顔でにっこり笑う。そして、すぐに姿を戻した。 「狐火も使えないことはないけど、あたしはこっちの方が得意かな。これであたしが妖狐だってことには納得してくれた?」 「うん……話ってそのこと?」 「ううん。こっからが本題」 そう言うと、真絵は舞花に顔を近づけ、囁くように、 「神崎の従妹なんて嘘ついてるってことは、あなたあそこに住んでるの?」 先程とは打って変わった真剣な声に、舞花もつい内緒話をするような口調になる。 「そう、だよ」 真絵が舞花の目を覗きこんだ。思わず後退しようとする舞花の肩を掴んで逃げられないようにし、こう言った。 「悪いことは言わないわ。すぐに逃げなさい。じゃないといずれ研究所行きよ?」 「で、でも」 驚いた舞花が反論する。 「それはデマだって……それに、あんなに良くしてくれてるのに」 「デマだなんて証拠がどこにあるのよ。良くしてくれるって言ったって、普通は騙そうとしている相手を邪険にするはずないでしょ?」 言われてみれば確かに、と思う。硬直した舞花に、真絵は、 「だから、すぐに逃げるの。何ならあたしのトコに来たっていいわ」 「でも、でも……」 まだ信じられない舞花に、真絵はじれたように言う。 「いい? 神埼に騙されちゃだめよ。あいつ、普段はあんなとぼけたことしてるけど、本性は悪魔よ。女の子をさらって皮を剥いだりするの。生きたままよ? そのとき女の子が上げる悲鳴を聞くのが生きがいっていうとんでもない奴で、今まで犠牲になった少女が二十人も、」 そのとき、物凄いバケモノの話をし出した真絵を遮るように、舞花ではない声がした。 「女の子が好きなのは認めるけど、さすがにそんな趣味があるとは僕も自分で知らなかったよ。物知りだなぁ、玉野は」 二人して向いた屋上の入り口。そこに、やや怒った顔でずんずん歩いてくる草一がいた。 「それに、犠牲者二十人? すごい数だよなぁ、僕も自分でびっくりだ。ところで誰と誰と誰と誰と(「誰と」を二十回)誰と誰なのかな? 両親に謝らなきゃいけないからゼヒ教えて欲しいんだけど」 顔はにこやかに笑いながら、どんどん近づいて来る。なんだか怖くなって身を引こうとするが、できない。食らうのは初めてではない。最初逃げようとする舞花を押さえ込んだ、おそらく草一の能力だ。 隣は、と見るとこちらは明らかに逃げようとしている。が、全身を拘束されているかのように、身動き一つ取れないようである。 「全く……嫌な予感がして来てみれば」 「なによー。いいじゃないちょっとくらい遊んだって」 逃げるのは無理だと悟ったのか、真絵は果敢にも反撃に出る。 「この子で遊ぶなって、前に散々言っただろう?」 「だって、遊びやすそうだったんだもん。人の言うことほいほい聞いちゃってさー。これ以上ない玩具だって思わない?」 「それはまあ、確かに」 「ちょ、ちょっと待って」 舞花が横から割って入る。黙って聞いていたら、なんだか妙な話になってきた。 「誰がいい玩具なの?」 「君」 「あなた」 草一と真絵が同時に言う。ごにょごにょ弁解してくれれば何かしら言うこともできただろうが、こうもあっさり言われてはかえって何も言えない。「そんなはっきり言わなくても……」と、舞花は一人暗くなる。 そんな舞花に、草一は今更ながら言った。 「先に言っとくべきだったんだけどさ。もう知ってると思うけど、こいつは妖狐。人を騙すことにかけちゃ天才だから、気をつけて……も無駄だから、覚悟だけはしといて」 「ひどいわね。人を詐欺師みたいに」 「事実じゃないか」 「ま、待って待って」 段々仲間外れにされつつある舞花がまたも割って入る。両者に「ん?」と視線を向けられ、何も言うことを考えていなかった舞花はとっさに、 「し、知ってたの? 妖狐だって」 尋ねる。草一は当然という顔つきで言った。 「そりゃまあ、僕だってモンスターハンターだからね。人と魔物の判別くらいできないと。だからもう分かってると思うけど、こいつがさっき言ったのは全部嘘。本当に捕まえる気ならまずこいつがここにいるわけないし、わざわざ君を騙す理由もない」 「危ないわよ。そう言っていつかは……」 草一の背後から真絵が面白そうに言う。草一が軽く睨むと、真絵は大袈裟な悲鳴を上げて扉に走っていった。出て行く前に一言。 「あ、騙したりしてごめんねー。悪気はないから許してっ それじゃ」 言い残して姿を消す。それをどこか疲れたような目で見送り、草一が舞花を向く。 「ま、あんな奴だけどさ。悪い奴じゃないから」 「分かってる」 「ならいいけど。あ、でも騙されたりする覚悟はしといてね。多分君は格好の標的になってると思うから」 「うぅ……」 昼休み中話し込んでしまったらしく、もうすぐチャイムの鳴る時間だった。「降りよう」という草一の言葉で、舞花はようやく恐怖の場所から脱出した。 「高いトコって苦手なの?」 「梅干しの次にダメ」 心なし青くなった顔で、舞花は呟く。草一は気の毒そうに、 「それしばらくネタにされるよ。多分ジェットコースターとかに乗せられることになると思うけど」 「ジェットコースターって、あの遊園地の?」 「そう。ここらへんそういうのには不自由しないから」 「……」 舞花の顔から更に血の気が引く。想像しただけでこれなのだから、実際に乗ったら間違いなく失神するだろう。 「と、ところでっ」 無理矢理話題を変えようとする。涙ぐましい努力である。 「草一は、ひょっとして超能力みたいなのを使えるの……何?」 自分を変な目で見ていた草一を怪訝そうに見返す。草一はハッとなり、言い訳するように、 「いや。なんか呼び捨てにされると変な気分だなって」 「え? 水穂さんにそう呼べって言われたから……変かな?」 「いや、いいよ。僕としても嬉しいし……ところで何だっけ?」 「だから、超能力みたいなのを持ってるのかなって」 「持ってるよ」 あっさりと答えた。舞花が逆に慌てる。 「ほ、ホントに?」 「うん。瞬間移動と念動力と、あんまり強くないけどテレパシー」 「テレパシー? じゃあ人の心を読んだりできるの?」 「そんなに強力じゃないよ。心を読むって言っても、その人が悲しいのか嬉しいのか、怒ってるのか喜んでるのか、それくらいが分かる程度」 「ふーん」 「僕の中で一番強力なのは瞬間移動だよ。本気になれば北海道から長崎くらいまで飛べると思う」 それは凄い、と思う。なにしろ国内旅行なら移動に金がかからない。 「モンスターハンターなら誰でも持ってるの?」 「いや。多分僕だけだよ」 「へぇ〜」 感心したような声を上げる舞花から、草一は照れたように顔を背ける。 「そんなに凄いもんじゃないよ」 「でも凄いよ。へぇ〜、超能力かぁ」 「僕から見れば、君の身体能力の方がよっぽど凄いけどね。体力はないけど」 「わたしは人間から見れば凄いだろうけど、人狼の中では落ちこぼれだもん。全然凄くないよ」 もちろん落ちこぼれとは例えである。実際にバカにされたこともなければ、劣等感を味わったことも舞花にはない。そもそも両親を除く人狼自体、舞花は片手の指に収まる数しか見たことがない。元々人狼とは個体数の少ない種族なのだ。 「そう言えば、五時間目は体育だったっけ。体操服持ってきた?」 「うん。でもプールじゃないの? わたし水着は持ってきてないけど」 「今工事してるんだよ。だから今年は水泳はないんだ」 「そうなんだ……残念。泳いでみたかったのに」 やや気落ちしたように呟く舞花を見て、草一は意外そうに言う。 「舞花って泳げたの……何その顔は」 「いや、呼び捨てにされると変な気分で」 「従兄なんだから『舞花ちゃん』は不自然でしょ。で、泳げたの?」 「う、うん。下手くそだけど」 「……ひょっとして犬掻き?」 ギクッと舞花が身を強ばらせる。図星らしい。 「言っとくけど、犬掻きじゃダメだよ。クロールかせめて平泳ぎじゃないと」 「そ、そうなの!?」 「……泳ぐ練習もしとこうか」 舞花の課題メニューに、一つ項目が増えた。 「あ〜つ〜い〜」 五時間目の体育である。本日のメニューは、ソフト。ちなみに前の授業は、男子はバスケットで、その前は卓球である。水泳がない? しょうがねぇ、球技でもやらせとけ、とでも考えているのかもしれない。 が、例え球技でなくても舞花にはあまり意味がない。体育で何かやるということ自体が初めてだったからである。 「ねえ。ちなみに聞くけどソフトって何だか分かる?」 という真絵の言葉にも、首を横に振らざるを得ない。 「じゃあ、野球は知ってる?」 「名前だけなら……」 「ルールは?」 「……」 再び首を横に振る。真絵は苦笑混じりの 息を吐いた。男子は相手チームだから当然草一はここにはいない。となれば、誰が舞花の面倒を見るかなど考えなくても明白である。 「とりあえず教える通りにやればいいから。分かった?」 「うん」 実はもう、ゲームは始まってたりする。舞花と真絵のチームは先攻で、今最初のバッターがボックスに向かったところだった。 真絵がピッチャーを指さす。坊主頭のいかにもな男子生徒が立っている。 「今からあの子がボールを投げるから。そしたら、」 バッターに指を移す。やや小柄な眼鏡をかけた女子生徒が立っている。 「あの棒でボールを打つの。打ったら、」 一塁を示す。守っているのはなんと草一だ。 「あそこまで全力で走る。分かった?」 「な、なんとなく」 「とりあえず……待って。あなたって確か人狼だったわよね?」 「え? うん」 「だったらね……でいいわ」 「で、でも」 何か言いかけた舞花に、声がかかった。 「神崎さーん、次、あなたの番だよー」 「ほら。大丈夫だから」 不安そうな舞花を、真絵はやけににやにやしながら送り出す。 ツーアウト、ランナーはなし。つまり二者凡退。それもそのはずで、向こうのピッチャー、実は野球部のエースだったりする。授業だろうが何だろうが全く容赦のない、160キロ台をいとも簡単に叩き出したとか叩き出さなかったとかいう噂まである剛速球に、前二人ともバッドを振ることすらできなかったのである。いいとこ見せたい気持ちも分からないではないが、はっきり言って大人気ない。 よって、一番簡単なのはただ突っ立ってデッドボールだけに注意し、アウトになるのをひたすら待つということである。真絵も当然それを承知している。 が、 真絵は別のことを、舞花に命じた。 「お」 舞花がよたよたとバッターボックスに立ったのを見て、草一は軽い声を漏らした。なんだかビクビクしている。初めてアダルトショップに入った田舎の若者みたいだ。 事前に真絵と何か話し合っていた所は見ていた。真絵のことだから、突っ立ってろとは絶対に言わないだろう。それが一番無難な線であることは承知しているだろうが、だからこそ言わないだろう。 が、いくら人狼でも舞花は女の子である。しかも今は夜ではないし、種族内では落ちこぼれ。かするくらいはするだろうが、まともに打ったりましてやホームランなど夢のまた夢のはずである。真絵が楽しみにするようなことができるとは思えない。 そう思っているうちに、舞花が構えた。右手と左手が逆だ。なんとなくへっぴり腰でもある。あれでは当てるのも難しそうだった。 (心配ない、かな?) ピッチャーが振りかぶる。相変わらず全力で投げるつもりらしい。デッドボールにだけは注意しなければ、と草一は思い、そして、 気持ちのいい音がした。 一瞬目を見張る。が、すぐに気を抜いた。何のことはない、ただのバントだ。当てるだけなら難しくないだろうから、とりあえず出塁するように言われたのだろう。 考えが甘かった。 ピッチャーがボールを拾おうと前へ出たとき、草一の横を凄まじいスピードで何かが駆けて行った。 「!?」 慌てて横を見る、と、蹴り飛ばされた一塁ベースが宙を舞っていた。通り過ぎた何かは既に一塁を通過している。 慌てて二塁に目を向ける、と、たった今舞花が通り過ぎたところだった。二塁ベースも空を飛んでいる。そのままの勢いで三塁を目指している。速い、速過ぎる。 そう言えば、と草一は思う。初めて会ったとき、と言っても昨夜だが、滑りやすい上に狭くてしかも曲がりくねっている廊下を、舞花は相当なスピードで駆け抜けた。大抵の相手なら後を追いかけても捕まえる自信のあった草一が、テレポートを使わざるを得なかったほどに、である。 人狼としては落ちこぼれだと自分では言っていたが、足だけは凄まじく速かったらしい。ほら、そう考えている間にもう三塁へ着こうとしている。 「すご……」 バントで三塁まで行く奴なんて、プロの世界にだっていないだろう。 が、 舞花は三塁も蹴った。行き過ぎである。もうピッチャーの彼はボールを拾って投げる構えを取っている、と書くとピッチャーが鈍いように見えるがそんなことはない。あまりのことにしばらく放心状態だったのだ。 ところが、投げる寸前、ピッチャーは突然「あちっ」と叫んでボールを手放した。ボールが地面に落ちる。その間に舞花は見事ホームベースへ帰還した。 草一は確かに見た。 ピッチャーが投げる寸前、ボールに火がついたのである。一瞬で消えたが、間違いない。じろりと真絵に目を向けると、あからさまに視線を逸らしている。 (狐火を使ったな……あの野郎) この後真絵がたっぷりお説教を食らったのは、言うまでもない。 「すごいね〜 神崎さんってあんなに足速かったんだ」 帰り道のことである。体育の時間、バント一つで一点入れてしまった舞花はもう周囲に受け入れられ始めていた。珍しい奴の周りには自然と人が集まるものなのである。 「そ、そうかな?」 「そうだよ。あんなに速い人見たことないもん」 足が速いなどというレベルではないような気もするが、別に指摘する必要もないので黙っておく。何の躊躇いも抱かずに一緒にいる草一も同意見らしい。どうでもいいがこの男、いくらクラスの女子とは言え、周り全員女の子という状況を平然と受け止めている。神経が綱引きの縄くらいぶっといに違いない。 「ねえ。陸上部とか入らないの?」 「え!?」 「そうそう。あれだけ速いならすぐにエースだよ? 全国だって行けるかも」 彼女らは知らない。舞花が本気になれば全国どころか世界だって相手にならないことを。体育で見せた走りが実は軽いランニング程度だということを。 自分が本気で走ったら、それだけで周囲を傷つけてしまうことを舞花は知っている。衝撃波というやつだ。生身の生物がそんな速度を出せるわけがない、と思うかもしれないが、考えて欲しい。人狼のスペックなど世界のどこでも明らかにされていないのだ。速度が出せないのは、世間一般で確認されている生物だけである。 「わたし、部活には入らないつもりだから……」 にこやかに笑いながら言う。が、内心は冷や汗ものだ。特に緊張するような場面ではないと頭では分かっているのだが、心がそう思ってくれない。ましてや、 「えー!?」 「なんでー!?」 などと叫ばれたとあっては、もう救いようがない。目に見えてたじろぐ舞花。「もったいない」と詰め寄られ、危うく陸上部入りさせられそうになる直前に、 「おーい。僕達はこっちだよー」 という、草一の声がした。なぜか知らないが、その声は地獄に響く仏の声に聞こえた。仏にしてはずいぶんすっとぼけた声だったが、とにかくそう聞こえた。 「ま、また明日ね」 「うん。じゃーねー」 「また明日ー」 逃げるように駆けていく舞花に、苦笑の混じった声がかけられる。何も逃げなくてもいいのに、といった感情がありありとうかがえて、舞花の顔が飽きもせずに赤くなる。たった一日のうちにこれだけ恥ずかしい思いをして、自分はそんなに世間知らずだったのだろうか。 「楽しそうだねぇ」 ニヤニヤ笑いながら、草一。どちらかと言うとこいつの方が楽しそうだ。 「べ、別に好きでやってるわけじゃ……」 「恥ずかしがることないよ。さ、行こ」 「だからわたしだって好きでやってるわけじゃないったら」 「別に照れることない……あ、そうだ」 突然何かを思い出したように立ち止まり、草一は気まずい顔をする。 「姉さんから買い物頼まれてたんだった。悪いけど付き合ってくれない?」 「え? いいけど、何買うの?」 「いろいろ。首輪とか鎖とかドッグフードとか。犬小屋も欲しいかな? あんまり広い部屋だと落ち着かないでしょ?」 「は?」 落ち着かないでしょ? と聞かれても何のことだか分からない。しばらく怪訝な顔をし、数秒後、ようやく自分が犬扱いされていることに気がついた。 「ま、またそういう……っ」 「冗談だよ冗談。中身はともかく君は見た目は人間なんだし、」 「中身も人間!!」 「ああ、はいはい。とにかく犬扱いなんかしたら間違いなく警察行きだからね〜 そういうシチュエーションも嫌いじゃないけど、実際にやろうとは思わないし」 「もしかして、買い物っていうのも……?」 「いや、買い物は本当。えっと、」 制服のポケットからメモを取り出す。 「シャンプーにコーヒー豆、ウーロン茶とそれから新しい鍋つかみ……脈絡ないな。買う方の身にもなれっての……それと、下着」 「下着?」 一瞬聞き流しそうになった単語に反応する。草一が自分の買い物も一緒にしているという可能性ももちろんあるが、そういう場合って普通下着なんて言うだろうか。 「だ、誰の?」 「姉さんと、君の」 大当たりだ……って、ちょっと待てと舞花の頭の中で声がする。今誰と誰のと言った? 「わたしの……?」 「そう書いてある」 本当に買ってるよ、オイ。 横を通ったおばさんにそう言いたくなる衝動を、舞花は懸命に抑えた。シャンプー、コーヒー豆、ウーロン茶に鍋つかみ。脈絡のないそれらの品を一つの袋に収め、最後に下着コーナーへ向かった。これを一番最後に持って行くあたり、わずかながらの羞恥心もあったらしい。まあ、単に売っているのが二階でめんどくさかったからでは? という意見があるのも事実だが。 で、舞花は今、他人のふりをすることに全力をかけていた。なんでかって言えば、 「うーん。触り心地がイマイチ……」 とか、 「個人的に黒はなぁ……」 とか、 「でも姉さんに白はなぁ。らしくないって言うか……」 とかいうことをもっともらしく呟いているからである。やめてくれよ、ってな心境であるが、恥ずかしくてそれすらも言えない。やれることと言ったら精々距離を置くことくらいなのだが…… 「舞花ちゃん? どしたのそんな離れて。自分で選ばないの?」 と、堂々とお声をかけてくださった。 「君にはやっぱり白が似合うかな……あ、でも意外なところで青とかも……ん? なんでそんな怖い顔してんの?」 舞花の怒りが全く通じていないらしく、草一は平気な顔で物色を続ける。無神経もここまで行くと才能だ。あるいは狙ってやっているのかもしれないが、どちらにしても並のひねくれ方ではない。 「もう帰ろうよ……ほら、外も暗いし」 「まだ五時だよ」 「変なおじさんが出るかも……」 「六十人くらいまでなら片手で倒せるから大丈夫」 「百二十人出るかもしれないよ?」 「テレポートで逃げられるよ」 「……」 「それに、適当なの選んで帰ると怖いんだ、姉さんは。大分前にウケ狙いで紐買って帰ったんだけど……さすがに死ぬかと思ったなあ、あの時は」 感慨深げに遠くを見つめる草一。適当なのは選べないと言われると、早く帰ろうとは言いづらい。仕方なく舞花はこう言った。 「んー、じゃわたしが選んであげるから」 「そう? なら頼もうかな」 押しのけるように草一と場所を入れ代わる。色とりどりの下着類。横から渡された水穂のサイズを見ながら選ぶ……わぁ、けっこう大きい。やっぱり大人だなぁ、と思い、己が姿を振り返る。ため息。横から草一が「僕は小さいのも好きだけど」などと言ってくるのを視線で一喝し、気を取り直して目を戻す。 結局、選び終わったときには六時近くになっていた。 「……で、押し入ったときには誰もいなかった、と」 細身なのになぜか力強い印象を与えるその男は、オンボロ屋敷に土足で上がりながら言った。横には痩身の、こちらは見たまんまな感じの男が控えている。部下のようだ。 「床下や天井裏も確認したんだろうな?」 「もちろんです。家中を徹底的に捜索しましたが、人っ子一人いませんでした」 「……ふむ」 他人の家をずかずか踏み荒らしながら、男は問題の部屋へ向かう。報告によれば、目標はそこで消えたらしい。 ふすまは蹴破られ、入り口が開いていた。中に入る。かつては綺麗に整頓されていたのだろうが、今は見る影もなくなっている。もっともこれは、男の仲間が荒らす以前からこれに近い状態だったらしい。 先を越されたのだ。 窓から外に出たのではないことは分かっている。外に出れば数秒と経たずに捕獲されるだろうし、何より窓は閉まっていた。破られてもいなかった。 と言って家の中に隠れているのならば、ほぼ一日を費やした捜索で見つからないはずがない。どこぞの城でもあるまいし、まさか隠し部屋など存在しないだろう。 そうすると、可能性は一つ。 何らかの方法で外へ逃げたのだ。それ以外に考えられない。目標は特殊能力を持ってはいるが、霧になったり瞬間移動したりできるわけではない。目標の他に少年が一人いたと言うから、おそらくはそいつが何かやったのだろう。 同業者ではありえない。同業者であれば、男の邪魔をするなどという命知らずな真似をするはずがない。邪魔をするとすれば、それはただ一人……と言うより、たった一つしか存在しない。 モンスター・ハンター。いけ好かない、他人の邪魔をするのだけはやたらと得意な連中である。同時に、男にとってはこの上なく厄介な敵だ。人間のくせに個々の戦闘能力が高く、横の連携もある上に国という最強の後ろ盾が控えている。どんな大企業よりも大富豪よりも、国というバックほど心強いものはない。 だが、男に諦めるつもりはなかった。 数年がかりでようやく見つけたのである。しかもたった一人。これを逃せば、次はないかもしれない。 しかも女。それもかなり若い。男自身はあまり興味はないが、興味のある連中は腐るほどいる。用済みになっても金になる。悪いことは一つもない。 これが人間であれば躊躇いもしたかもしれないが、男に迷いはなかった。 人狼などという得体の知れない魔物に、男は愛情も何も持っていない。かと言って憎んでもいない。商人は自分の商品に愛情も憎しみも抱かない。それと同じだ。 「おい」 「はっ」 男は、指揮に当たっていた部下を呼び寄せ、凄まじい笑みを浮かべながら言った。 「探せ」 「は……は!?」 部下の男は、裏返った声を出した。 「し、しかしそれでは、モンスターハンターを敵に回すことに……」 「構わん。邪魔するようなら殺せ」 「しかし……」 尚も言い募ろうとする部下を睨みつけ、男は低い声で言った。 「……それとも今ここで俺に殺されるか? ん? お前の代わりくらいいくらでもいるんだぞ?」 部下の男の顔に、明らかな恐怖が浮かんだ。慌てて頷く。 「わ、分かりました。すぐに手配します」 「よし」 満足そうに言って、男は室内を見回した。荒れ果てた部屋の中には、生活用品の類が散らばっている。向こうも時間がなかったのだろう。逃げるのが精一杯だったようだ。 無駄なことを、と、男は小さく呟いた。 どうせすぐに捕まるのに。 |
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