モンスター・ハンター

 

「……本当にいいの?」

「……うん。あの家へ戻ったって、寂しいだけだもん」

「そう」

 それなら……

 

 寝過ごした。

 シンプルかつ定番な理由である。

 で、古き良き体育教師であるところの杉山教諭(推定三十六歳)は、罰として『水入りバケツを持って廊下に立ってろ』を時代も何も考えずに命じた。体罰だ何だとか言われても何のその。その独自の愛を日々生徒に振りまく彼は、百年に一度のツワモノと言っても過言ではないだろう。

 ……まあ、それに躊躇なく従った二人も同じくらいツワモノのような気もするが。

 教室の一体どこにあったのか誰も分からないバケツを持って意気揚揚と出て行く草一と舞花を、真絵は呆れた顔で眺めていた。

 

「馬鹿」

 朝一番の挨拶が、これである。自分は間違いなく温厚な方だと思うが、さすがにこれは少しムッとくる。

「そんな言い方ないんじゃないかな……」

「じゃどんな言い方すればいいのよ」

「……」

 確かにまあ、自分でもこの姿はちょっと間抜けかな、とは思う。

 道行く生徒に爆笑されたり指を指されたり笑いを必死に押し殺されたりしているから、実際は凄まじく間抜けなのかもしれない。

「にしてもさあ、まさかあんた達が遅刻するとは思わなかったわ。残り五分になったって神崎の瞬間移動で一発だと思ってたのに」

「そう言えばそうだよねえ……なんで毎朝走ってるの?」

不思議そうな舞花の問いに、草一は淡々と答える。

「毎朝舞花ちゃんが寝坊するからだよ。朝が弱い人狼ってのも珍しいよねえ」

「そ、それは、て言うか人狼が朝弱くたって別に……じゃなくて今はなんで瞬間移動をしないのかって話でしょっ!?」

 ムキになって反論するが、二人とも白けたような顔をしている。曰く、

「いつも同じ反応だとつまんないよな……」

「もう少し捻りを加えて欲しいトコよね」

 大きなお世話である。

 憮然とした舞花の横で、草一が言った。

「僕はね、日常の生活に超能力なんか使いたくないの。だから遅刻しようが何しようが、よほどのことじゃない限り瞬間移動とかはしない」

 それが僕のポリシーだ、と胸を張る。そんな草一に真絵は一言、

「くっだらないポリシーねぇ。あるんだから使えばいいのに」

「……とにかく嫌なものは嫌なんだよ」

 ふてくされて告げる草一。ふと気になって、舞花は尋ねる。

「そう言えば、草一君」

「ん?」

「怪我、もういいの?」

 怪我、とはもちろん金本にやられた怪我のことである。帰ってきた草一を病院に連行したところ、あばら骨が二本、見事に折れていた。細かいかすり傷や打ち身はほとんど無視していたが、さすがに骨が折れているとなるとシカトもできなかった。

 草一が金本から攻撃らしい攻撃を食らったのは、最初に背後を襲った一回のみ。つまりあばら二本はそのときにイったのだ。

 ……その後痛みもなにも感じずに動き回っていたのだから、悪魔種族というのは凄まじいものがある。

「もうほとんど平気だよ。完璧ってわけじゃないけど」

 骨折当時も同じように顔色を全く変えなかった男は、他人事のように言う。

「じゃバケツなんて持ってていいわけ? 変に負担かけたらまた折れるかもよ?」

「そうそう。体のことなんか分からないけど、無茶しないほうが、」

「あ、それは大丈夫」

 眉をひそめて警告する舞花と真絵を遮り、草一は、

「持ってるわけじゃないから」

 と言って手を離す……が、バケツは宙に浮いたまま。

「……」

「……」

「こんな重いものわざわざ持ってるわけないじゃん。ひょっとしてずっと持ってると思ってた?」

 あっけらかんと言ってまた手を戻す。そんな草一に、二人は一言ずつ、

「ヒキョー者……」

「て言うか、あんた日常生活じゃ能力は使わないんじゃなかったの?」

 草一は聞く耳持たない。鼻歌を歌いながらそっぽを向いている。

 

 カラリ、と窓を開けて、舞花は部屋備え付けのベランダに出た。濡れた髪に秋の夜風が心地よい。手摺にもたれて目を閉じる。

「あー……気持ちいい……」

 正直な感想を口にして、うっすらと目を開ける。今は午後十時。人はまだまだ眠らない。

 もっとも舞花は、そろそろ眠くなってきているのだが。こっちに来てから多少遅くまで起きていられるようになったが、それでも十時以降は常に眠気が付きまとう。

 家にはしばらく帰っていない。前に帰ったときは山田に捕まってしまったし、相当汚れていることだろう。嫌いではないはずの掃除が億劫になるくらいに。

 ここ一ヶ月前後で様々なことが起きた。草一の突然の来訪から始まって、いきなりの人間社会での生活。戸惑うことは多かったが、真絵や草一達のおかげで何とかやってこれた。

 ……一度両親のところへ行ってみようか、と思う。自分の境遇を話して、人間にも色々いるということを教えてあげようか。

 長いこと顔も見せていないし、一度くらい行ってみたほうがいいだろう。今度の日曜にでも。真絵や草一も連れて行こうか。真絵は妖狐だし草一は悪魔だし、何の問題もないと思う。

 そのとき、水穂の声がした。ついたてを挟んだ隣のベランダからだ。どうやら草一と話しているらしい。

 いけないとは思いつつも聞き耳を立ててしまう。と、

「山田が、ここを出るって」

……水穂は確かにそう言った。

 諦めにも似た感情がある。いつかはこうなると思っていた。山田は、最近お許しが出て就職活動をしていたのだ。素人の自分が見ても彼は優秀だと思うから、かなりの高確率で採用されることは分かっていた。

 寂しいとは思うが彼の新たな門出なのだ。心から祝ってあげなくてはならない。

 どうやら草一もそう思ったらしく、

「そりゃめでたいね。就職祝いに寿司でも食べに行こうか」

 と、いつもの口調で言う。

「ええ、おめでたいこと……なんだけどね。私の用はこれじゃないの」

 これは水穂。山田の就職決定という事実以上の用件とは、一体何か。

 耳をそばだてる舞花には、水穂はこう言っているように聞こえた。

 

「舞花ちゃんも、そろそろうちを出て行くべきじゃないかしら」

 

 ……耳を疑った。が、水穂は更に続ける。

「あの子を狙ってた金本のグループは、リーダーと副リーダーが抜けたことで事実上は崩壊。他の組織は、モンスターハンターの息がかかった人狼に手を出すほどの度胸はない。つまり、あの子はもう安全なの」

 自分を狙っている連中が、いなくなった。

 嬉しいことである。これでもう、何に怯えることなく堂々と日々を過ごせる。だが、それは同時にもう一つの事実を示していた。

 ――身の安全が確保された以上、もうこの家にいる理由がない。

 あの家に、帰らなければならない。

 いや、帰らなければならない、というのは間違いだ。帰ることが出来る、というのが正解で、強制ではない。

 だが……

「何で僕に聞くの?」

 舞花の気持ちをよそに、草一が言う。

「あんたが一番あの子に近いからよ。あの子は実質あんたの保護下に入ってるの。だから、まずあんたの意見を聞いておこうと思って」

「……」

 帰るべきだ、と言われたらどうしよう。

 可能性はある。誰だって他人の家より自分の家のほうがいいはずだ……普通の人間であれば、まずそう考えるだろう。

 だが、自分は……

 草一が口を開く気配。舞花の心臓が跳ね上がる。

「……僕はどっちでもいいと思う。どっちがいいか後で聞いてみるよ。起きてたらだけど」

「……はぁ」

 とりあえず、息を漏らした。良かった。まだ首は繋がっている。

「そう」

 短い返事をして、水穂が去っていく足音。窓を閉めて、部屋を出て行く音が微かに聞こえて、

「で、どうなの?」

 寿命が確実に数年縮まった。

 跳ね上がった動悸を抑えて、狂ったように深呼吸する。今のは一体? 自分に問い掛けたのだろうか?

「そこにいるのは分かってるからいないフリしたって無駄だよ。どうするの?」

 間違いなく自分に問い掛けたようだ。いきなりのことで心の準備が出来ず、舞花は焦って焦って、こんなことを聞いた。

「そ、草一君はどうして欲しい?」

 言った後に猛烈に後悔した。自分は馬鹿かと思う。彼は、ついさっき自分に任せると言ったばかりではないか。

 ところが、言い訳を考えてる舞花に草一は、

「そうだなぁ」

 と前置きして、

「どっちかって言えばいて欲しいかな。舞花ちゃんがいると楽しいし」

 顔が真っ赤になった。これって告白ではないかと思う。

 火照る体を意識しつつ、舞花は蚊の鳴くような声で答えた。

「じ、じゃあ、そうする」

 どうやら向こうも自分の言葉が舞花に与えた効果に気づいたらしい。今までより多少慎重になって、問うてくる。

「……本当にいいの?」

「……うん」

 ついたてを挟んで、

 舞花は、自分の中に眠っていた本音を口にする。

「あの家へ戻ったって、寂しいだけだもん」

「……そう」

 それなら、と草一は続けた。

「もうしばらく、ここに住む?」

「……うんっ」

 どうやらまだ、帰らなくてもいいらしい。

 そのことが何故か無性に嬉しくて、舞花は空を見上げた。

 星のない空に、月が浮いている。

 濡れた髪に当たる秋の風が、心地よく吹いている。

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