冷たく笑う
| 図書室というのは静かだと思われがちな場所だが、実際のところ、多数の生徒が雑談しているので割合に騒がしかったりする。当然それだけ人の数も多いが、しかしそれは六人用の机と椅子があるスペースのみであって、分厚い洋書が敢然と並ぶ奥の本棚周辺はイメージ通りの静謐さを保っている。 つまり、奥の方でぼそぼそ話し合うのにはうってつけの場所というわけだ。 「俺は誰にも話を聞かれない場所がいい、と言ったはずですが」 「意外に内緒話には向いてるのよ、ここって」 それに二人っきりになったら、力ずくで襲われるかもしれないし。本気なのか冗談なのか分からない表情で上級生の女生徒は言う。 七瀬水葉。それが、先ほど告げられた彼女の名前だった。 「さて、奇天烈な名前で有名な法光院くん」 「代々続く由緒正しい名字を奇天烈とは失礼な」 「下の方の名前よ」 「親からもらった大切な名前を馬鹿にしないでいただきたい」 「どうでもいいのよそんなことは」 自分から始めた話題を鬱陶しげに一蹴し、水葉は写真を突きつけてくる。 「これ、どういうこと?」 「先輩が合成したわけじゃなければ、見たまんまです」 「……おちょくってる?」 「別に」 不機嫌そうに眉をひそめる水葉が突き出してきている写真。そこには一人の学生が他校の生徒をタコ殴りにしている、昨夜の裏路地で紫焔が繰り広げたのとよく似ている様子が鮮明に映されていた。 「これについて何か思うところは?」 「痛そうですね、この殴られてる奴」 「殴られてるからね。他には?」 「楽しそうですね、この殴ってる奴」 「楽しかったの?」 「割と」 さらりと頷く紫焔。水葉は眉をひそめながら嘆息し、写真を内ポケットにしまう。 「わたしがこれを学校側に公表したら、どうなるかしら?」 「犯人探しが始まるんじゃないでしょうかね」 適当に誤魔化してそう返事をする。水葉は挑戦的な笑みを浮かべて、尋ねてきた。 「そこで私が、犯人は貴方だって言ったらどうなるかしら?」 心底楽しそうな水葉を半眼で眺めながら、紫焔は心中で嘆息する。 わざわざ写真を見せに来た時点で彼女が言いたいことはある程度予想していたが、まさかここまで予想の通りだとは思わなかった。その単純さに呆れればいいのか感心していいのか分からない。小さく息を吐き、尋ね返した。 「何が言いたいんです?」 紫焔の問いに、水葉は不気味なほどいい笑顔を浮かべて、 「私ね、君に興味があるの」 「興味?」 「そ。何となく分かるのよ、君はただの高校生じゃないんだなぁって。もちろん勉強ができるとか、喧嘩が強いとか、そういうのじゃなくて。人とは違う何かがあるなぁって、そう思うの」 輝くような瞳の色。細めた目に宿るのは単なる好奇心ではなく、陶酔しているかのような熱っぽさ。 紫焔は真っ向からそれを受け、目を細める。心の中で小さく笑って、表情は繕いながら問い返した。 「それで? 俺にどうして欲しいんです?」 「私ね、思うんだけど」 片手で写真を弄びながら、水葉は首を傾げる。 「君が本当にただの高校生じゃないなら、選ばれた人とか、特別な存在なら――君は私なんかが普通に声をかけたんじゃ、振り返ってもくれないんじゃないかなって」 「……。要するに?」 「これを学校側に渡されたくないなら、私の言うことを一つ聞いて」 頬に手を当てて水葉は微笑む。優しげに細められた目は相変わらず熱っぽく、全体としてそこはかとなく嬉しげである。ただ、相手の弱みを握っている者特有の優越感に満ちた表情というわけではなかった。普段は見上げるばかりの相手に一歩近づいたような、そんな誇らしげな笑み。 「言うことを聞くって言っても、そんなに大したことじゃないのよ。私のお願いを聞いてほしいなっていうだけ。全然無茶なことじゃないし、だから――」 「分かりました」 返答は短く、簡潔に。 紫焔の言葉を聞いて水葉は一瞬きょとんとし、次いで驚いたように目を見開いた。 「……いいの?」 「いいのって、先輩が言ってきたんでしょう」 「それはそうだけど、だって、こうも簡単に――」 自分で信じられないらしい水葉に、紫焔は小さく息を吐いた。肩をすくめて告げる。 「こんなことで問題起こしたくないですからね。頼みごとくらいなら何でも聞きますよ」 「そう……。まあ、私としてはありがたいのだけれど」 一つ頷いて、水葉は頼みごととやらを口にした。 「今日のコロッケ、どうでしたか?」 教室に帰るなり、御月にそう問いかけられた。 机の上に載っている二つのカップが目に入る。一つは御月が今飲んでいるもの。もう一つは、紫焔が教室に足を踏み入れると同時に御月がカップに注いだものだ。 彼女がそういう性格なのは知っているが、多少呆れる面がないわけでもない。 「美味かったよ。それより……」 差し出されたお茶を啜りながら、紫焔は小声で御月に耳打ちする。 「モデルをやることになった」 「……はい?」 何のことだか分からないという風に、御月は目を見開いて首を傾げる。 要するに水葉の頼みとは、コンクールに出す人物画のモデルをやってくれというものだった。 「こんなもんなら、普通に言ってくれれば引き受けたのに」 「あら、そう?」 モデルということなので、紫焔は椅子に座ってじっと動かない。水葉はちらちらこちらを見ながら、キャンバスに鉛筆を走らせていく。 ちなみに御月は先に帰らせてある。本人は自分もこの部屋にいることを望んだのだが、他人がいると集中力が乱れるという理由で水葉が丁重にお引取りを願い、紫焔がそれを後押しした感じだった。 周囲に人間がいる程度で集中力の乱れも何もないように思われる。が、御月はあろうことか真後ろからじっと水葉の手元を睨みつけていた。集中できるはずもない。この場合は、追い出されても仕方ないといえる。 周囲に他の部員の姿はない。 美術部の部員は現在水葉一人のみで、彼女が来年引退するまでに誰かが入部しなければ、そのまま廃部の運命を辿るらしい。美術部顧問の教師も、既に諦めムードという話だった。 「そう言われてみればそうよね……。何であんな脅すようなことしたのかしら」 先刻の紫焔のコメントに、水葉は自嘲気味に呟いた。 「ああいう写真を黙って持っていられるよりは、こうして駆け引きに使われる方がこっちとしてはありがたいですけどね」 例の写真は今、紫焔のポケットの中に入っている。ネガの類がないことは水葉の言葉を信じるしかないが、そんなものを隠し持つメリットなど特にない。安心していいわ、という彼女の言葉を、とりあえずは信じることにした。 「いきなり呼び出して、写真出して脅すなんて。まるっきり変な人ね、私」 「否定はしませんが、そのことで先輩の人格を疑ったりはしないんでご安心を」 「それは安心していいのかな……? ふふ、まあ、ありがと」 こうして笑う水葉の表情には、昼休みに教室に来たときや、図書室で写真を突きつけたときなどの挑発的な色は微塵もなかった。優しげな微笑みは彼女が控えめな女子生徒であることしか示さない。とてもではないが、相手の弱みを突いて言うことを聞かせようとするような人間には見えない。 昼休みに見せた熱に浮かされたような様子も、今はない。 「ところで法光院君。時間は平気?」 不意にそう尋ねられて、紫焔は意識を表に戻す。時計を見れば、午後四時を少し過ぎたところだった。 「俺はいつまででもいいですよ。ただ、多分下駄箱のところで御月の奴が待ってると思うんで。できれば五時くらいまでには帰してもらいたいです」 「待ってるって……いくらなんでも先に帰ってるでしょ」 「あいつは待ってます」 きっぱりと断言できるのは、以前同じようなことがあったからだ。紫焔が帰るまで御月は決して帰らない。帰れと言っても帰らない。 「そ、そう……じゃあ、五時で終わりにしましょうか」 「お願いします」 紫焔の言葉に水葉は頷いて、再びキャンバスに目を戻す。 集中力が増したのか、そこから先は彼女の口数は少なかった。 御月はやはり、下駄箱のところで待っていた。 「終わりましたか?」 開口一番に御月が発したのは、水葉に向けての問いである。が、どちらかというと紫焔の返答を期待しているような声音だった。本当に待っているとは思わなかったらしく唖然としている水葉の代わりに、紫焔が答える。 「まだ下書きの段階だな。描いては消してを繰り返してる……んですよね、先輩?」 「え? え、ええ、そうなの。ごめんなさいね。もう少しだけ、法光院君を貸してちょうだい」 「いえ」 さりげなく目を逸らして、御月はさっさと自分の靴を取り出す。あまりにも冷え冷えとしたその態度をどう受け取ったのか、水葉が小声で尋ねてきた。 「……ひょっとして、嫌われちゃった?」 「俺以外には誰でもあんな感じなんで、別に気にすることないと思いますよ」 御月は基本的に紫焔以外の人間には興味を示さない。声をかけられても大抵は無視。肩に手を置かれれば鬱陶しそうに払いのけるのが常である。水葉の言葉に声を返しただけでも、彼女にしてはかなりマシな対応をしているとさえ言えるのだ。 「明日も放課後に美術室で?」 「ええ、お願い」 柔らかく微笑んで頷く水葉。小さく別れを告げて、紫焔は若干待ちくたびれた感のある御月の方へと向かう。 「あ、法光院君」 「はい?」 背後からかけられた声に御月が眉をひそめ、紫焔はすぐさま振り返った。 「何か?」 「……あ、ううん。なんでもない」 「そですか。それじゃ」 小さく会釈して、紫焔は御月と並んで歩く。 「……なんだろ」 紫焔と御月の姿が校門から消えていった後も、水葉は一人、下駄箱に立ち尽くしていた。 運動部の掛け声が校庭から響いてくる。午後五時を回ったくらいでは、彼らは声を絶やさない。明るいとは言いがたい、けれど夕闇と言うのも違う、空がオレンジ色に暮れる時間帯。 「……帰らなきゃ、ね」 自分に言い聞かせるようにそう言って、水葉はのろのろと二年生の下駄箱へと足を向ける。 帰り道の途中で売っていたトルコアイスを二人で食べる。 「どんなもんだ?」 コーンごと口に放り込んだバニラ味のアイスを飲み下して、紫焔は尋ねる。 「まだ少ししか食べてはいませんけど、なかなか美味しいです。先が楽しみ」 わずかに弾んだ口調で答える御月の指には、とっくに完食し終えたアイスのコーンの粉末がついている。舌でそれを舐めとりながら歩く御月。みっともないからやめろと思う。 「嬉しそうだな」 「三ヶ月ぶりの食事ですから」 昼休みにはきっちり弁当を食べ、ついさっきアイスを食べたばかりの少女は、ほのかに上気した頬を紫焔に向けてきた。口元が微笑んでいる。よほど嬉しいらしい。 「期待していますよ、紫焔さん」 「任せとけ」 翌日の放課後。 「そういえば、あの写真はどこで撮ったんですか?」 昨日と同じポーズで椅子に座りながら問いかける。昨日と同じ状態でキャンバスに向いている水葉は、目だけをこちらに向けて首を傾げた。 「どこって?」 「いや、あの現場って路地の奥まったところにあるから、写真を撮る場所なんか限られてるはずなんですけどね。入り口は御月の奴が見張ってたし、先輩どこから撮ったんだろうって」 撮られた写真の中身よりも、むしろ撮られたという事実の方が紫焔にとっては意外だった。一つしかない出入り口には御月がいたわけだし、元々現場に居合わせていたというのもこの先輩では考えにくい。 いつ、どこで撮ったのか。自分の弱みを握られた原因を知っておくのは、悪いことではない。 だが、紫焔の問いに水葉は困ったように唸った。 「うーん。実はね、あの写真、私が撮ったものじゃないのよ」 「は?」 思わず間抜けな声が出た。 「昨日の朝、私の家に封筒が来ててね。開けてみたらあの写真が入ってたの。切手が貼ってなかったから、多分直接投函したんだと思うけど……正直私も驚いたわ。法光院君って確かに少し変わったイメージあるけど、まさかあんなことしてるなんて」 「……。写真以外には何もなかった?」 「ええ」 「それでこの写真を見て、俺の弱みを握ったと思った?」 「それについては本当にごめんなさい。自分でもどうかしていたんじゃないかって思うわ。人を脅して言うこと聞かせるなんて」 「いや、弱みには違いないんでそれは別に何とも思ってないんですが……この写真を見て、ね」 ポケットから取り出した写真を眺める。封筒に入れて投函されていたというこの写真。映っている人物が誰であるとも、どんな状況であるかも、映っている物以外には何の情報も水葉には与えられていなかった。 ……とすると、奇妙に思える点が幾つかあった。 「どうして先輩を選んだんですかね」 「え?」 紫焔が口にした疑問に、水葉が首を傾げる。 「別に先輩じゃなくたって良かったでしょう。というか、そもそも他人にこんなものを送りつける理由がない。俺を貶めたいならダイレクトに校長にでも担任にでも送ればいいし、脅すなら自分で使った方がずっと早い。どうして先輩にこれを渡すのかが分からないんです。ちなみにこれを撮った人間の心当たりは?」 「ない、けど……」 「けど?」 「……。ううん、なんでもない」 言いよどむような水葉の声音。そこに若干隠し事めいた気配を感じたものの、紫焔はあえて追求せず写真をポケットに入れた。考える時間はある。こうして座っている間にも。 「何がしたいのか、か……」 「……」 黙りこむ水葉。沈黙の中で紫焔は、しかしおぼろげながら犯人像を見出してはいた。 動機が分からなくても、ただ一つ、犯人を特定するに足る事実が一つあるのだ。 「帰りますよ」 午後五時になると同時に、紫焔がそう言った。水葉は言葉を返さない。鉛筆を手に持ち、キャンバスをぼーっと見つめたままピクリとも動かない。 「先輩」 「……え?」 「帰りますよ、って言ったんです」 「……あ、うん」 嘆息しながら告げられた言葉にも、やはり水葉は上の空で言葉を返す。何だろう。頭がぼーっとしていてうまく働かない。もう時間だ。帰らなきゃいけない。氷室さんは今日も、下駄箱のところで法光院君を待っているだろうから。 もう少し描いていたいけど、帰らなきゃ。 もう少し手を加えたいけれど、帰らなきゃ。 「……うん。ごめんね、すぐ支度するから」 見下ろしてきている紫焔にそう答えて、水葉はいそいそと帰り支度を始める。 翌日。紫焔が美術室に顔を出すと、水葉は既にキャンバスの前に座っていた。 「早いですね」 「ちょっと気になるところがあったから。法光院君が来る前に手直ししておこうと思って」 鉛筆を置いてこちらを向きながら、水葉は小さな笑みを口元に浮かべた。リュックを置き、モデル用の椅子に腰掛けながら紫焔はふと思って問いかける。 「まだ下書きなんですよね」 「ええ。ごめんね、時間かかっちゃって」 「それはいいんですけど、下書きってそんなに時間かかるものですか?」 今日はもう三日目である。絵のことなど全く知らない紫焔だが、別段複雑な風景を描いているわけでもなし。放課後の短い時間ではあるが、人物の下書きくらいなら一日、二日で終わるのではないかという思いがある。 そんな紫焔の問いに、水葉は目線を上に向けながら答えた。 「んー、どうだろうね」 「どうだろうねって……」 「私も人が描いてるところを見たことはあんまりないから。ただ私の場合は、下書きに一週間くらい平気でかけるかなぁ」 一週間。予想もしていなかった答えに紫焔は少々面食らう。鉛筆による下書きで一週間なら、完成までに一体何日かかるのか。 「あ、でも、多分私って下書きにけっこう時間かける方だから」 表情は抑えたつもりだったが、それでも感情が表に出てしまったか。紫焔の顔を見て、水葉が慌てたように取り繕ってきた。 「色をつける方はそれほど時間がかからない……とは言えないけど、そこまで行けば私の場合、残りはすぐに終わるから。それまで付き合って。ね?」 「いつまででも付き合いますよ。どうせ暇ですから」 「先輩?」 帰り支度をした紫焔が入り口で振り返ってくる。 「……」 「先輩? 帰りますよ?」 「……法光院君」 水葉が見ているのはキャンバス。形になりつつある、水葉が描く法光院紫焔。今日もこの段階で帰るのには抵抗があった。帰りたくない。もう少しだけ、納得するまで手をかけていたい。 「悪いけど、先に帰って」 「は?」 「もう少し手を加えたいの。気にしないでね、一人でも大丈夫だから」 鞄を置き、鉛筆を取り出してキャンバスに向かう。頭の中にイメージが膨らんでいく。下駄箱で待っている氷室御月のことなど頭になかった。入り口でこちらを向く紫焔のことも忘れていた。脳裏に蘇るのはモデル。椅子に座って動かない法光院紫焔。 描きたい。 描き続けたい。納得のいくまで。満足するまで。 「……それじゃ、先帰りますけど。あんまり遅くならないうちに帰った方がいいですよ」 「ありがとう。お疲れ様」 紫焔が出て行き、一人残された美術室の中。 「……」 水葉は一心不乱に手を動かす。描いては消し、描いては消し、描いて描いて消して消して、描いて描いて描いて描いて、消して消して消して消して。 分からない。 自分が何を描きたいのか分からない。頭が白くなる。ぼーっとする。熱にでも浮かされているような気分で、水葉はただ腕だけを動かし続ける。 思うままに、動かし続ける。 下駄箱にやって来た紫焔を、御月は黙って見守っていた。 昨日まで後ろにいたはずの先輩がいない。これはひょっとしてひょっとするのではないか。そんな淡い期待と共に、わずかに背の高い紫焔の瞳を見上げる。 「……もういいぞ」 期待に応えるように、紫焔はそう言ってくれた。 口元に笑みが浮かぶのが、自分でもよく分かった。 |
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