冷たく笑う

 

……。

…………。

………………………………はじめてみたときから、

………………………………ずっと、きになっていた、

………………………………めずらしいなまえ、

………………………………どこかひととちがう、たいど、

………………………………けれど、

………………………………あなたのとなりには、

………………………………いつもあのこが、そばにいたから、

 

 部屋の明かりが点けられて、意識がゆっくりと浮き上がってきた。

「先輩」

 呼ばれる声に目が覚める。キャンバスの隣に置いた机から、水葉はどんよりと首をもたげる。頭が重い。頭痛はないが、身体を起こすのが妙に疲れる。寝起きだからだろうか、思考がうまく働かなかった。

「……ほうこういん、くん?」

「寝不足ですか?」

 淡々と尋ねてくる声音。ああ、そうだ。思い出す。彼はモデルをしに来てくれたのだ。突然送られてきた写真。あれで脅すような真似をした自分に、彼は快く応じてくれた。

 優しい子だ、と思う。

 態度からはとてもそうは見えないけれど、根は優しい子なんだと思う。

 それは別に、弱い者を大事にするとか、身を挺して誰かを守るとか、そういう優しさじゃなくて。

 誰にでも笑いかけられること。それがたとえ仮面だとしても、相手と一緒に笑ってあげられること。

 多分それは、優しさと呼ばれるものなのだと思う。

「ごめんね、ありがと。それじゃ座って」

「今からやるんですか?」

 その言葉に、奇妙な響きを覚えないでもなかったが、

「せっかく法光院君が来てくれたんだもん。ちょっと寝過ごしちゃっても、やるよ」

 水葉は笑って、そう言った。

 

………………………………わたしは、きみがすき。

………………………………はじめてみたときから、ずっとずっとすきだった。

………………………………だけど、きみのとなりには、いつもいつもあのこがいたから。

………………………………わたしは、

………………………………ほんのすこしだけでも、きみにちかづきたかった。

 

 部屋の明かりが点けられて、意識がゆっくりと浮き上がってきた。

「先輩」

 呼ばれる声に目が覚める。キャンバスの隣に置いた机から、――はどんよりと首をもたげる。頭が重い。頭痛はないが、身体を起こすのが妙に疲れる。寝起きだからだろうか、思考がうまく働かなかった。

「……ほうこういん、くん?」

 ここまでは、昨日と同じ。

 けれど紫焔は「寝不足ですか?」と尋ねることなく、代わりにこう問うてきた。

「今日が何月何日か、分かりますか?」

 奇妙なことを聞いてくる。紫焔にモデルを頼んだのが五月の二十日。五日目の今日は五月二十四日になる。

「五月の、二十四でしょ?」

 おぼろげな頭で出した答えを、紫焔はきっぱりと否定した。

「――今日はもう、七月の十日です」

 不気味なほど抑揚のないその声に、――の背中に寒気が走った。一瞬で目が覚める。昨日と同じ机。昨日から全く変わっていないキャンバス。紫焔が座っている椅子も昨日と全然違っていないし、大体そんな長い期間の間に顧問が一回も来なかったなどありえない。廃部寸前だとて、自分は一応部員なのだ。

「じょ、冗談はやめてよ……」

 息を吐きながら笑いかける。紫焔もまた、笑う。

 口元だけで。

 怖気を覚えるような笑みを浮かべて、紫焔は口を開く。

「冗談じゃないですよ。今日は七月十日です」

 そう言って見せてくるのは腕時計のカレンダー機能。確かに七月十日を示している。

「……うそ」

 それでも――は信じられず、半笑いのままポケットから携帯電話を取り出した。切ってあった電源を入れる。腕時計は紫焔があらかじめ細工できるのだ。単なる悪戯にしては手が込んでいるが、一眠りした間に一ヶ月以上も経ったという漫画のような話よりはマシだ。

 が、

「……」

 七月十日。

 携帯電話は、確かにその日付を示していた。

「……え?」

――の頭の中に疑問符がいくつも飛び出してくる。どういうこと? 一ヶ月も? 何をやっていたの? 一ヶ月も、どうしてキャンバスは、絵は何も変わっていないの? 一ヶ月あれば色だってつけてとっくに完成しているはずで、いや、それよりも、

 一ヶ月。

 その間の記憶がない。

 一ヶ月の間、私はどこで何をしていたの?

「法光院、君」

 彼なら答えを知っている。そう思った……というより、その場にいる唯一の他人に救いを求めるように、――は紫焔に縋りついた。

 紫焔は口を開く。だが、それは――が期待していたようなものではなかった。

「先輩。ちょっと質問します。答えられるものだけ答えてください」

「え? ま、待って。法光院君、その前に――」

 その前に、今まで何があったのか聞かせて。そう口にしかけた水葉を遮るように、紫焔は問うてきた。

「先輩、自分が誰だか分かりますか?」

「……え?」

 何度も発した問いの言葉を、再度発した。

 私は私だ。私は、私の名前は――

「――?」

 あれ? と思った。

 私は。私の名前は――だ。

 あれ?

 え?

「わ、わた、しは、」

「もう一つ」

――の答えを待たないうちに、答えられないことを知っているかのように、紫焔は次の問いを口にした。

「放課後に俺と別れた後、ちゃんと家に帰ってました?」

「?」

「てゆーか今、帰り道分かります?」

「――!?」

 何を?

 帰り道が分かるかって? そんな馬鹿な話があるかと思う。思うけれど口に出せない。口に出して否定できない。どうして? どうして? 分かっている。分かっているけど認めたくない。

 帰り道が、分からない。

 家までの道順も、学校を出たら右へ行くのか左へ行くのかも、何一つ思い出せない。

「ほうこういん、くん……」

「帰り道。住所。電話番号。親の名前。兄妹の名前。好きだったもの。嫌いだったもの。得意だったもの。苦手だったもの。昔の思い出。将来の夢。……何か一つでも、答えられるものありますか?」

 おかしい。

 何一つ答えられないけれど、それ以上におかしい。

 どうして彼はそんなことを問うてくるのか。どうしてそんなに冷静なのか。――は考える。霞がかかったような意識で、重りがのしかかっているような頭で必死に考える。

 どうして、紫焔は、そんなことを尋ねてくる?

 まるで、何もかも最初から承知していたかのように。

「……最後に」

 弱りきった自分にとどめを刺すように、

「今は午前二時なわけですけど、こんな時間にどうして先輩はここにいて、どうして俺はここにいるんでしょう?」

 冷たい笑いを顔に浮かべて、どうしてそんなことを尋ねるのか。

 答えなど明白だった。何も分からない、考えられない――の頭でも、これだけは確かだった。

 自分をこんな状態にしたのは、目の前にいるこの男。

 あの写真も、モデルを唯々諾々と引き受けたのも、全てはこのため。

 何のために?

「あなた、は……」

「先輩、前に言いましたよね。ひょっとして俺は他の人間とは違う、特別な存在なんじゃないかって」

 理由など考えることはなかった。

 彼は人間とは違う。というより、そもそも人間ではない。全く別の生き物なのだ。

「答え、教えてあげますよ」

 自分をこんな状態にして、何をしようというのか。それは分からない。分からないけれど、確かなことが一つだけある。

 このままではいけないということだ。

 何とかして、逃げなければ。

「俺は――」

「――ッ!」

 椅子を蹴って立ち上がる。ぐらぐら揺れる視界の中、何とか扉までたどり着いた。転がるように廊下に出て、階段を転げ落ちるように下りる。目標は下駄箱。とにかく紫焔から離れることだ。学校の外に出れば人がいる。助けを求めることができる。

 紫焔が追ってくる様子は、なかった。

 

「――俺は、普通の人間ですよ」

 誰もいなくなった美術室で、紫焔は一人呟いた。

「……俺は、ね」

 目に映るのは、水葉が向かっていたキャンバス。

 

 階段を踏み外さなかったのは奇跡に近かった。廊下の白線を頼りに前へと進む。とにかく廊下を歩いて行けば外には出られるのだ。自分のクラスの下駄箱に行くなどという目標を――は持っていなかった。

 待ち望んでいた外の空気に、思わず顔をあげた。

 薄暗闇。街灯と星の光。建物の中の空気とは違う、ひやりとした風。あと少し。あと少し。そう思った直後、――の脇を小さな影が横切った。

 振り返って、そこにいたのは――

「、」

 名前が出てこなくて、

「先輩」

 抑揚のない冷たい声が、口元にだけ浮かべられた、無表情の中の笑顔という不気味な笑みが、

「ごちそうさま」

 そしてその一言が、水葉に残った最後の部分――自我を、打ち砕いた。

 

 御月が美術室に顔を出した。至福の表情を見るに、どうやら綺麗に完食したようである。キャンバスに身体を向け、紫焔は入り口に立つ御月に顔だけ向けて声をかけた。

「美味かったか?」

「はい。とても」

 三ヶ月ぶりの、御月の本来の食事だった。

 人でないのは紫焔ではなく、御月である。俗に悪魔と呼ばれている生命体である彼女の本来の食べ物は人間の魂。その人間を構成する記憶や経験といった全ての要素。それが、御月にとっての“食料”なのだ。

 普通の食品でも身体の維持は可能だが、定期的に魂を食べないと精神的につらいらしい。

「何を見てるんですか?」

「絵」

 初日に出入り禁止を食らった御月だが、部屋の主はもういないので今日は堂々と入ってきた。紫焔の後ろに立って、水葉が描いていた絵を覗き込む。

「上手いですね」

「そりゃ美術部員だからな」

「でもこれ、色をつけなければいけないんでしょう?」

「問題はそこだ」

 キャンバスに鉛筆で描かれている自分の絵を指でなぞる。消した跡こそ残っていないものの、何回も描いては消したという雰囲気が表れている。崩壊していく過程で水葉が執着していた――というより、自身の崩壊から目を背けるために執着せざるを得なかった絵は、長い時間をかけられているだけあって非常に丁寧に描き込まれていた。

「先輩へのせめてもの償いってことで、せめて俺が絵を完成させてやろうって思ったんだけどな」

「けど?」

「……どこから手をつければいいのか分からん」

 きょとんとする御月。

「絵のことなんか何も知らないからな。何をどうすればいいのか見当もつかない。先輩には悪いが、これはこのままにしておいた方が完成度は高いように思う」

「……お好きなように」

 呆れたようにそうコメントする御月。紫焔は一度ため息をついて絵から視線を外し、

「ところで、御月」

 後ろにいる少女を睨みつけた。

「……怖い顔をして、どうしたんですか?」

「先輩に俺を脅すよう仕向けたの、お前だろ」

 何のことだか分からない。そう言いたげに首を傾げる御月を、紫焔は振り返る。

「普通に考えればすぐ分かる。あの場所にいたのは、俺とあのチンピラども以外じゃお前一人だけなんだからな。俺じゃないのは当然として、あれだけボコられた連中がこんな回りくどい復讐をするのもおかしな話だ」

「……。そうとは限りませんよ。たかが写真です。私たちに気づかれないように撮る方法はいくらでもあります」

 心外だとばかりに反論してくる御月を見て、紫焔はため息一つ。

「そうやって墓穴を掘るのは天然か? わざとか? お前ひょっとして、俺をからかって楽しんでるんじゃないのか?」

「?」

「写真で先輩に脅されてるなんて、俺はお前に一言も言ってないぞ」

 虚を突かれたような表情を、御月はしなかった。至って平静。紫焔がこの結論にたどり着くことなど最初から分かっていたとでも言いたげな表情。

「いつ気づきました?」

「写真のことを聞いたときだな」

 ポケットから写真を取り出す。水葉は、封筒の中にはこの写真以外何も入っていなかったと言っていた。

 ピンぼけと暗闇が合わさって、殴っている人物の顔も服装も、その人物を特定する要素は何一つ映っていない。何も知らない第三者が見ても何が何だか分からないであろう状況。映っている人物を紫焔だと断定するには、撮影者本人がその場に居合わせる必要がある。

 水葉はあの場にいなかった。

 この写真を見て紫焔を脅せるわけがないのだ。

「どうしてこんな真似をした?」

「お腹が減っていましたので」

 あくまで淡々と、御月は答える。

 魂を食べるといっても、御月が直接手を伸ばして魂を抜き取ったりするのではない。そんな真似ができるならこんなややこしい事はしない。御月が魂を食べるのには、狙った人間の魂を御月の契約者である人間――紫焔が少しずつ破壊して、食べられる状態にする必要があるのだ。

 紫焔が相手の魂に手を出せる条件は一つ。その対象が紫焔に興味を持ち、自ら接触してくること。

 紫焔の裏の顔をわざと見せて、興味を抱かせたのだ。最初水葉の様子がおかしかったのもそのせいだろう。神話や作り話と違って大した力は持っていない悪魔という種族ではあるが、それでも食料を手に入れるための能力をわずかながら有してはいるのだ。

 言うなればこれは、御月なりの捕食方法。

 だが、

「それだけじゃないだろ?」

「?」

「名前も知らなかったような先輩をわざわざ選んだんだ。何か他にも理由があるんだろ?」

 水葉をわざわざ選んだ理由。紫焔が最後まで分からなかった部分だった。何の繋がりもない上級生の住所を調べるのは、手段はいくらでもあるにしてもそれなりの苦労はしたはず。クラスの適当な奴を見繕えば話は早かったはずなのだ。

「どうしてだ? 怒らないから言ってみろ」

「理由としては、二つほど」

「一つ目は?」

「やり易かったからです」

「は?」

 疑問を口にする紫焔に、御月はやはり淡々と、

「あの人は前々から紫焔さんに興味を持っていました。そういう人の方が食いつきがいいし、紫焔さんもやりやすいだろうし、何より美味しいんです。一石三鳥ってやつです。どうせなら美味しいものを食べたいっていうのは知的生物として当然の欲求かと」

「……もう一つは?」

 知的生物のくだりで一言突っ込みを入れたくなったが、我慢して先を促す。

 と、

「あの人が抱いていた紫焔さんへの興味が、俗に言う恋心に近いものだったからです」

「……?」

 淡々とした声に混じる、ほんの少しの炎の揺らめき。

「紫焔さんは気づかなかったみたいですけど、わたしは何度かあの人の姿を見たことがあります。紫焔さんのことをじっと見つめるあの人を。どうにかして紫焔さんを奪おうと考えているような目を。そういう人をわたしは決して許さない。紫焔さんもそのことは承知していると思いますが」

「……ああ」

 目を伏せて相槌を打つ。不覚にも、少しだけ嬉しくなった。

「……よく分かった。勝手に俺を売るような真似をしたのは許せないが、今度だけは許してやる」

「どうも」

 嬉しくないはずがない。キャンバスに背を向けて、紫焔は御月の細い肩を抱き寄せる。されるがままに頭をあずけてくる少女に、囁くように告げた。

「安心しろ。俺はずっとお前の傍にいる」

「……分かってます」

 嬉しくないはずがないのだ。

 大好きな子がこんなに堂々と、奪われたくないと言ってくれたのだから。

 

 悪魔と、契約した人間。

 古来より語り継がれてきたその関係は、正しくもあれば間違ってもいる。

 悪魔が求めるものは人間の魂ではあるが、それは決して契約者の物とは限らない。

 人間が求めるものは悪魔の力である場合もあるが、別の物を求める場合もないわけではない。

 愛を。肉欲を。友情を。あるいは癒しを。人間が他者に求めるものは、それこそ千差万別だ。

 しかし、現代に生きる悪魔と契約者が互いに求めるものは、

「期末では頑張るって言ったよな?」

「頑張った結果かと」

「四百六十位がか?」

「二十位も上がりました」

「五十歩百歩ってことわざ、知ってるか?」

「そういえばあのことわざには長年抱いている疑問があるのですが」

「あ?」

「五十歩逃げただけじゃまだ射程距離から外れられなくても、百歩逃げれば外れられるかもしれないと思うのですが」

「……。あのな、あのことわざが言いたいのはそういう意味での逃げじゃなくてな」

「冗談です」

「……お前、やっぱり俺をからかって楽しんでるだろ」

「いえ、別に」

 ――求めるものが、何なのか。

 それは、二人だけが知っている。

 

あとがき

えっとですね、色々と言いたいことは山ほどあるのですが、一言にまとめるのなら、

やっつけ仕事じゃないです。

前編と中、後編とで世界が全然違うのは、その間に見た映画(ハイドアンドシーク)の影響が大きかったせいでありまして……えぇと、その、当初の予定である紫焔がただ何となく暴れて何となく御月とイチャイチャするよりも、こっちの方がいいかなって思いまして……。
書き終わってから「どっちも大差ないような……」と思いましたが。

二人の関係が完璧に「悪魔の契約」ですが、あっちの二人とは少し毛色が違うコンビということで。共演させたら面白いかもしれませんね。やりませんが。世界違うし、何より誰も求めていなさそうだし。

それでは。
元祖「悪魔の契約」の方も別に捨てているわけではないので。出来損ないが終わったら……その、ごにょごにょするつもりですので。もうしばらくお待ちください。

 

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